77.伊織、わがままだけれど主張しなければならないこと
『これがなんだか分かりますか?』
茶色の液状剤の入っているような小さなビンを目の前にかざして、モニターの中で楠見が不敵な笑いを浮かべた。
『あなた方には見慣れたものなんじゃないかな』
テーブル越しに近付いてくるビンから、両手を拘束されソファに座らされた男は不快げに顔を背けた。
『これの効果も、あなた方のほうがよくご存知でしょう。楠見製薬と組織の共同研究所ですか……あそこもまったく、妙な新薬をいろいろ開発してくれる』
言いながら、楠見はビンを目の前のローテーブルの上に置き、ソファに深く背を持たせる。
『眠っている間に試させてもらいましたよ。そろそろ効き目が現れる頃じゃないかな……』
足を組み、しばし目の前の男の様子を窺うように口を閉ざす楠見。
「ハルっちよぉ……」
背後に立っていたフジに、不気味な声色で声を掛けられ、ハルは首をめぐらせ少しだけ顔を後ろに向ける。
「なあ、あれ、自白剤とかそういうのかな……」
「みたいだね」
「げー、んなもんマジに使ってんの?」
顔を歪めたフジに、ハルは苦笑する。
「まさか。ハッタリでしょ」
隣に座ってじっとモニターを見つめている琴子に目を向けると、琴子はモニターを睨んだまま小さく頷いた。
「うん。動揺してる。もう少しで『ロック』が外れそう」
ね、とフジに目を戻すと、ホッとしたようにフジは顔を仰け反らせた。
「なんだー。そういうことかよ……びっくらしたぜ。俺もいつの間にか盛られてたりしてって」
「フジはそんな危険な秘密を隠し持ってるわけ?」
「ちゃうちゃう。ないない」
慌てたように首と手を同時に振るフジを、「怪しいなあ」と笑って、ハルはモニターに視線を戻した。
モニターの中で、相手の男は楠見の視線を逃れるように目を斜め下に向けている。表面には見てとれないが、内心は混乱を来たし始めていることだろう。組織の「自白剤」とやらの効果を、よく知っているのだ。
男――安斉と言った――は、「本店」の人間だ。楠見も顔見知りらしい。訓練されたサイ。意識は「ロック」され、優秀なテレパスでも読み取ることは難しい。どれだけ拷問されようと、自分たちの秘密を話すことはないだろう。もっとも楠見がそこまで無法な手段に出ることもないだろうが。
「話すまで解放しない」と言ってはいるが、楠見とて安斉が何か話すとは思っていない。安斉が、「効果の高い自白剤を打たれた」ことに動揺して意図せず「ロック」を緩めてしまうようにするのが狙いに違いない。
(それでも……)
ハルは思う。読み取れることは多くはないだろう。この男が組織の中でどのくらいのレベルの人物なのか分からないが、楠見の組織に所属するサイがこんな脅しぐらいでテレパスに心中を読み取れるほどに持ち崩すとは思えない。
動揺、反発、拒否感。そんなわずかな反応を、琴子に拾わせる程度しかできないと、楠見も分かっているはずだ。
楠見の中では、この一連の事件のストーリーはほぼ分かっているのだろうか。これは、単なる確認作業。安斉のかすかな反応から、楠見の考えているストーリーを裏付ける作業にしか過ぎないのかもしれない。
「……琴子。掴めることからでいいよ。男の名前は安斉。そうだね?」
「アンザイ――ヒロ、……ヒロフミ――『本店』のサイ――」
琴子は安斉の映っているモニターに向かって、目を細めた。
「楠見とは顔見知りだね」
「昔の楠見さんを知ってる――中学生? 小学生くらいかな……直接の関わりはないかも……印象が漠然としているから……待って? ううん、楠見さんは」
「うん?」
「『本店』を……裏切った――? とか、……安斉は、そんな感じに思ってるのかな。何か反発みたいなのを感じる」
やはりはっきりと意思を読むまではいかないようで、琴子も自信なさげに首を捻った。
(『本店』を裏切った、か……)
腕を組んで、ハルもソファの背にもたれる。
「詳しいことは、今は分からない」
「それでいいよ。スガワラとも知り合いだよね」
「スガワラ――知っている――仲間がほかにもいる。五、六人? ……十人近いかもしれない」
「十人?」
おかしいな、と思う。「本店」ならば、組織に所属するサイは十人くらいではきかないはずだ。「本店」を離れて別に行動しているのか――?
モニターの中の楠見が、安斉に悟られぬようわずかにカメラへと視線を向けた。
それまでぼんやりとした視線をモニターに向けていた琴子の目に、しっかりとした意識が戻る。チューニングを終えたというように、琴子はハルに向けて頷いた。
『あなたを拘束したことで――』肘掛に右肘を置いて頬杖をつくようにして、楠見は足を組んだまま雑談のような調子で口を開いた。『組織からなんらかの交渉や、あるいはあなたの仲間の力尽くの奪還があるかと思ったんですが』
男は楠見をじっと見据えていた。表面には、どのような感情も読み取れない。
『けれど、どちらもない。それで、考えた……いや、漠然と想像していたことに、確信が持てたと言ったほうがいいかな』
対する楠見のほうも、特段の感情を窺わせない淡々とした口調で。
『これで、不思議に思っていた点がだいたい解消されるんですが……安斉さん』
つかの間、視線を対峙させて。
『あなた方のこの行動は、『組織の意志』ではない。あなたやスガワラさんは、組織とは別に動いているんですね? 組織に直結する静楠学園でもなく、この緑楠学園でもなく、『創湘学館』という学習塾を利用して』
モニターを食い入るように見つめていた琴子が、わずかに目を細めた。
楠見は肘を肘掛に置いたまま、手を組み合わせる。目の前の男を、真正面から見つめて。
『あなたやスガワラを動かしているのは、誰だ?』
安斉は当然、答えない。
けれど楠見はさらなる質問を重ねることはせず、そのまま安斉へと視線を向けたまま口をつぐんだ。
たっぷりとした沈黙の時間を置いて。楠見はやがて、『残念です、安斉さん――』ゆっくりとため息をつきながら言う。
『あなたやスガワラさんと言えば、組織でも有数の能力者だったはず。十数年ぶりに会う俺でさえ、あなた方のことは覚えています。組織の内情は知らないが、何百人といるサイたちの中でも中枢となる人材でしょう。管理する側になっていていい頃では?』
対峙する男に、やはり目に見えた変化はない。
『そのあなた方が『組織の意志』に背くとは。ああ、組織内部のことにとやかく言うつもりはありませんよ。彼らが指折りの逸材を失うことになったとしても、離れた俺には特に惜しい気持ちも同情もありません。ただ純粋に驚いているだけです。なるほど――』
顔にかすかな笑みを浮かべる楠見。
『組織を裏切って行動していたとなると……その動きが知れるのは不味いでしょうね。相原哲也を必死で追っているのは、口止めのためか。強大な能力を持って罪を犯してしまったから、というのは口実で。彼が組織の手に渡り、あなた方のしようとしていることがバレるのを避けるため、ですか』
安斉は身じろぎもせず顔色も変えなかったが、琴子はモニターに向けてほんのわずかばかり体を乗り出した。
「反発……してる?」
「反発?」
ハルは琴子へと目をやる。琴子はその視線には応えずに、モニターを凝視している。
「うん。はっきり読めないけれど、今の楠見さんの発言には抗議したい感じ」
『ですけどね、安斉さん』笑みをしまい、楠見は仕方ないといった調子でまた小さくため息をついた。『組織に背いて行ったことの口封じに相原哲也を始末しようなんて、さすがにそれは許されませんよ。組織はサイの問題に関して無茶なところはあっても、そこまで無法な集団ではなかったでしょう。それとも――』
ふっと、楠見はその表情に険を浮かべた。
『その能力に驕って、善悪の判断も付かない組織になり果てたか?』
『あなたに、何が分かる』
そこで、それまでひたすら沈黙を通していた安斉が、口を開いた。低く。しかし、感情の読みとれない淡白な口調で。
『組織を裏切り、我々組織のサイを見捨てたあなたに――』
楠見も無表情に、ただ黙って目の前の男を見つめる。
『あなたが出ていきさえされなければ――』
苦言を続けるかに見えて、けれど安斉はそこで言葉を切った。
長い、そして重苦しいため息。それは、安斉が初めて見せた「感情らしきもの」だった。
そうしてまた沈黙があり、安斉は感情をしまって再び正面から楠見に目を向けた。
『組織は純然と、サイの治安を守るべく動いていいます。そして我々の行動は、組織や『会長』の意志に背くものではない。あなたの目にどう映ろうと、我々は組織の理念に従って正しい行動をしています』
「友達になってください!」
腰を折り曲げて頭を下げた状態で、しばしの間、息を止めていた。
「……は?」
拍子抜けしたような声に頭を上げると、びっくりした顔のキョウとまともに目が合う。心がくじけないうちに、伊織は言葉を手繰った。
「今の問題が解決したらそれで終わりの関係じゃなくって。助けてもらうだけじゃなくて。キョウやハルや、みんなのこと、もっとよく知りたいんだ」
呆気に取られたように見つめ返される。それでも怯まずに、ほとんど挑むような視線で訴える伊織に、キョウは戸惑ったように「あのさ」と口を挟んだ。
「それ別に、今までどおりでいいんじゃん? これが終わったらどっか行っちまうわけじゃねえんだし。ハルやお嬢は同じクラスだし、俺も琴子も同じ学校ん中にいるんだしさ、いつでも会える。楠見だって、これからのこと必要ならいろいろ力んなってくれるよ」
最大限の譲歩――それは、伊織に対してなのか、キョウ自身に対してなのか――今までどおり。いつでも会える――けれど、それは違うのだ。
キョウの言う「今までどおり」の未来では、伊織は単なる彼らの同級生で。休みの日に学校の外で彼らと会うこともない。理事長室に行くことも、ベルツリーでコーヒーを飲むこともない。怪我をしたら診療所ではなく高校の保健室に行くし、ハルが学校を休んでもそれが「仕事に行くためだ」なんて知らされることはない。
これまでの伊織が世の中の全ての人にとってそうであったように、ただそこにいるだけの、他人。時間が経てば名前も忘れてしまうような。そもそも名前など、なくてもいいような。
そうして遠くに彼らを見ながら、伊織は高校一年生の最初の二、三週間を、ハルとキョウという少年の家で過ごしたことを懐かしく思う。
(そんなの嫌だよ)
納得の行っていない様子の伊織を見て、キョウは困ったように目を逸らした。
「なんか時間かかっちまってるけどさ、問題を解決して、お前を元の場所に戻す。そしたら」
「――戻りたい『元の場所』なんて、ないんだ」
そう、キョウの言葉を遮っていた。
「前に住んでた伯父さんの家にも、通ってた中学にも、どこにも……俺の居場所なんて元々なくて……だけど、みんなの中にいられて、楽しかった。この部屋も、理事長室も、診療所も、ベルツリーも……どこも暖かくって……ううん、違うんだ、そこにいる人たちの中に、いたいんだ。それで――」
いつの間にか、拳をギュッと握りしめていた。
「考えて……俺にも哲也さんを捜す手助けができたらみんなに認めてもらえるかもしれない、みたいな不純な動機で哲也さんに会いに行ったけど、俺、足手まといにしかならなかったし。もしかして俺もサイの能力があれば仲間に入れてもらえるかも……なんて思ったんだけど、そうなるのにさえキョウの力を借りないと能力を解放できないなんて情けないよね。そう思ったの自体、甘えてたと思うんだ。他人任せでさ。キョウがそんな仕事やりたくないって思ったって当然だよ」
勢いに呑まれたように、キョウは瞬きをした。
「そもそもキョウたちと友達でいるのに、俺にも特別な能力が必要なんだって思ったところからして、甘えてた。そんな切符をもらわないと、誰かと一緒にいられないなんてことないじゃないか。俺はキョウたちのことが、凄い能力を持っているからっていう理由で好きなんじゃないもんね。そりゃあ凄いないいなって思うけど、でも能力なんか関係なくて、友達でいたいって思ったんだもん。『仲間に入るための切符』をもらうんじゃなくて、自分で誰かから好きになってもらえるように努力しなきゃならなかったんだ」
決然と――言葉はだいぶ怪しいが――キョウの目を見る。
「だからその、あの、俺も覚悟決める。俺が自分で頑張って、みんなの中にいられるような人間になる。傷つくかもしれないとか、怖いことや危険なことがあるかもしれないとか、分かったよ。だけどそんなことがあっても誰かのせいにしたりしない。そんな心配、跳ねっ返せるようになる。だから俺、キョウやハルや、みんなと一緒にいたい」
我がままだけど。
彼らの中に入れるような伊織じゃなからとか、他人に認めてもらえるような人間じゃないからとか、そんな言い訳はもうやめだ。
見苦しくったって。馬鹿みたいに見えたって。
伊織は自分から、線を越えなければならないのだ。勇気を出して歩み寄らなければならないのだ。
「元に戻りたいなんて、思わない。みんなの中に、俺の居場所が欲しいんだよ」
かすかにキョウが首を傾げた時だった。
ツキン、と。
額に、鈍い痛みを感じた。じわりと締め付けられるように。額が熱を持つ。
「あ、れ……?」
無意識に、右手で額を押さえる。
「……伊織?」
目の前にいるはずのキョウの呼ぶ声が、どこか遠い。
額が疼く。熱を持って――まるで伊織の体の中でその一部だけが別の意思に支配されてしまったかのように、何事か頭の中に直接語りかけてくる、言葉。
――いつか――あなたの居場所を見つけたら――その時は――
(その時は……?)
額を押さえる手に力を込めた。大事な、何か重要な言葉がそこにあるような気がして……この感覚、前にもたしか……。
痛い、痛い、痛い
「伊織、おい……?」
キョウが立ち上がったようだったが、伊織の瞳はその姿を追うことができない。
痛みは次第に、錐を刺しこまれるような鋭いものに変わっていった。目の前に、光が広がる。何も見えない。眩しい――
「う……わっ!」
がくんと前のめりに体を倒し、伊織は両手で額を押さえていた。眩しさと、熱さと、痛みの中で、何か大事なものを掴み取らなければならないと――それはそこまで来ているはずなのだと――必死に探る。
「おいっ! 伊織――」
肩を支えられ体勢を保ったものの、すぐ目の前にあるはずのキョウの姿が見えていなかった。
汗が流れ落ちる。首筋を伝う冷たい感触すらも、鬱陶しい。ジャマするな。俺は、聞かなければならないんだ。その言葉を。
いつか、あなたの居場所を見つけたら、その時は、
――この封印を、解きなさい。
光の中に、薄っすらと浮かぶ人影。そう、あれは――
(お母さん?)
「伊織、こっち見ろ」
意識のどこか遠い部分からやってきた言葉を、頭が処理する前に無意識に顔を上げていた。
キョウが、対真刀を出現させる。
右手に刀を持ち、水平に構えている。その刀身が、青白く光を放っていた。伊織の鼓動に、あるいは額の痛みに共鳴するのか、それはわずかに震えるように光度を変える。
伊織の目の前で刀を垂直に、切っ先を下にして、キョウはその刀身を伊織の額に静かに寄せる。
大きな衝撃の近づいてくる予感に、伊織は身を硬くする。
「大丈夫、痛くねえよ」
(――!)
炎の燃え上がるような、何かが目の前で爆発したような、重い衝撃。
次の瞬間。
(解放)
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
それまで感じていた痛みが、目に見える形を伴って四散するように額の前から離れていき、ふわりと体が軽くなる。その重力の変化のようなものに耐えられず、伊織は糸の切れた操り人形のようにソファに深く沈みこんだ。
(お母さん……)
顔もよく覚えていないはずの母親の姿が、目の前にはっきりと見えていた。母親がこちらを振り返り、ゆっくりと微笑みかける。
――居場所を、見つけた
暖かいような、くすぐったいような、不思議な感触が頬を伝う。
それは、涙、なのだろうと。頭の片隅で認識していた。




