76.伊織、告白する
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、伊織はガックリと肩を落とした。
一晩中メソメソしていたのが一目瞭然の、腫れた目と浮腫んだ顔。一昨日の喧嘩の傷も、まだ残っている。学校が休みで本当に良かった。とはいえ……家の中にいる数人にさえ、この顔を見せるのは恥ずかしい。
勢いよく顔を洗い、なんとか気持ちだけはシャキッとさせて、もう一度鏡を見て気合を入れた。そこにあるのは、ヤル気を漲らせるにはほど遠い、情けない顔であったけれど――。
ダイニングテーブルに向かって、牧田が、ホームドラマに出てくる「お父さん」みたいに新聞を広げているのがまず目に入る。それから、カウンターの向こうで忙しそうにパタパタと動くハル。キッチンから大きな皿を持って出てきたあおいが、伊織に気づき笑みを向けた。
「あら、おはよう、伊織くん」
「あ、おはよう……」
返すと、牧田が新聞を下ろして目を向ける。ハルもカウンターから顔を出す。二人にもおはようを言ってダイニングに入ると――。
リビングのソファの上にキョウの姿を見つけ、また少しだけ緊張する。奮然と手を握り締め、キョウへと体を向けた。
「キョウ。おはよう」
キョウはソファの上で膝を抱くようにして蹲り、伊織に気づかない様子で目を閉じていたが、声を掛けられてゆっくり目を開けた。
「ん。おはよ」
「あの……起きてて大丈夫なの?」
「ん」
「傷、痛む?」
「大したことねえよ」
薄く目を開け、キョウは伊織を見て無表情に答える。口調は本当に大したことないと言った様子だが、それでも入ってきた時からずっと、右手を左腕の怪我のあたりに当てているのが気になった。
「あのさ……」
「伊織くん」
言いかけたところで、あおいがダイニングから呼ぶ。振り返ると、手招きをしているあおいと目が合った。
「キョウはちょっと集中してるから。それよりごはん食べちゃいましょ」
(集中?)
もう一度見ると。声を掛ける前と同じように、膝を抱え左腕に手を当てて目を閉じているキョウ。その体が、ふいにぼんやりと、薄い、青いような緑色のような膜に包まれたように見えた。
(……え?)
これ、いつかどこかで――記憶を遡って、思い出す。出会ったばかりの頃。学校の中庭で、こんな光景を見た。だけどあれは、目の錯覚か何かだったんじゃ……。
思わず目をこすってまた開けると、キョウの体を覆っていた膜は消えていた。
「ここ、ここ。座って、伊織くん」
ダイニングから呼ばれて我に返ると、あおいが皿をテーブルに置きながら微笑んだ。
「あ……うん」
牧田が新聞を置き、ゆで卵を手にとって殻を剥きながら、
「伊織くん、眠れた?」
「はあ、少しは……」
「お嬢、ちょっとその塩を取ってくれるかい?」
「はあい」
牧田が気軽な口調であおいに言った次の瞬間、伊織は目を疑った。
目の前を、食卓用食塩の小ビンが、ぷかぷかという調子で横切ったのである。呆然と、伊織の視線はその小ビンに釘づけられていた。
「ありがとう」
何気ない調子で牧田は宙を浮いているビンをキャッチして、ゆで卵に塩を掛けた。
「お嬢、そっちの醤油差し、ちょっとこっちにくれる?」
「はあい、ちょっと待って」
伊織の目の前の醤油差しが持ち上がり、またぷかぷかとカウンターの中へ移動していく。
「お嬢、悪い。これ、最後の皿。テーブルに置いて」
「はあ……」
「あ! ちょっ、駄目だよ、ちゃんとこれは手で持って」
あおいは小さく口を尖らせ、歩いていって皿を手に取った。
「落としたりしないのに」
「そう言って、前にコーヒーぶちまけたじゃないか」
「そんなのずーっと前のことでしょ? ハルったら、根に持つんだから」
「俺の一晩の頑張りを無にされたら堪らないもん」
あおいがカウンター越しに受け取った大皿を見て、牧田が目を丸くする。
「うわあ、本当にハンバーグにしたんだね。凄いな。しかもこの量……」
「いっぱい食べてね。お嬢、ありがと。もういいよ」
ハルが醤油とソースを持ってキッチンから出てくるが、伊織は椅子に座ったまま、呆然と目を見張ったまま動けずにいた。そんな伊織を、テーブルに醤油とソースを置いたハルが覗きこむ。
「どうしたの? 伊織くん。具合でも悪い?」
「いや、あの……今、塩とか醤油とかが飛んでいたような気がして……」
「ああ」そんなこと、と言わんばかりの気軽な調子で微笑むハル。「お嬢の能力だよ。PKの一種でね、テレキネシスって俺たちは呼んでるけど。あれ? 見たことないっけ?」
そういえば、前にベルツリーで包丁が飛んだことがあった。
「あ、いや……実際に動いてるのを見るのは初めてかな……」
「便利でしょ。でもね、あんまりアテにしちゃ駄目だよ。食べ物の載った皿とかは頼まないほうがいい」
「ハルったら、ホント根に持つんだから」
あおいの苦情をスルーして、ハルはリビングに目を向けた。
「キョウも、ちょっと休憩にして。一緒に食べちゃえば?」
声を掛けられ、キョウはゆっくり目を開き、ダイニングへとやってきた。ハルが椅子を引いてやる。
キョウが席に着くと、代わりに牧田は手に持っていたゆで卵を皿に置いて立ち上がった。
「キョウ、ちょっと待ってな、お前は左腕吊っておけ」
「いいよ……もうすぐ治る」
「駄目だよ、すぐに動かすんだから」
「……食べ終わってからでもいいだろ?」
「だーめーだ。食べてる途中で使おうとするだろ?」
不満げなキョウには構わず、牧田は手早く三角巾でキョウの左腕を吊る。
全員が席に着き、テーブルに隙間なく並べられた皿を前に、朝食が始まった。食欲など感じられなかったが、デミグラスソースの濃厚な匂いを漂わせるハンバーグには、食指が動いた。
朝食は、やはり和やかに進められた。昨日のあの事件などなかったように――キョウの腕を吊っている三角巾を除いては――。
食べながらも、つい伊織の目はキョウの腕に行ってしまう。何度目かのその視線に、キョウが目を上げた。なに? というように、小さく首を傾げるキョウから、伊織は慌てて目を逸らした。
「――ああ、頼むよ――うん、午前中には終わらせる」
短い会話で電話を切って、楠見は椅子から立ち上がる。
執務机の背後の窓に向いて、小さく伸びをした。
ドアをノックする音が聞こえ、答えると秘書の影山が顔を出す。
「本日の予定、全て調整がつきました」
「ありがとう。会議の欠席は一件ですね」
「はい。元々臨席のみの予定でしたから、ご指示の通りそのまま執り行うよう伝えました。そのほかは、来週以降に振り替えてあります。後ほどご確認いただければ」
「分かりました。――もうすぐハルと琴子が来ます。交代で、今日は帰って休んでください。長々とすみませんでしたね」
「いいえ。わたくしのことでしたら、お気遣いなく」
影山はスケジュール表を執務机の上に置くと、礼をして部屋を出ていった。今日明日を空ける分、「表」の仕事を後に回したしわ寄せが来そうだが、仕方ない。緊急事態だ。
腕を組んで机に寄りかかり、もう一度、背後の窓に向く。
写真でしか見たことのない相原哲也の顔を思い出そうとして、別の人物の顔が重なった。
(ナオ――)
向かいの校舎越しに、わずかに青い空が姿を覗かせていた。
(奴らの思い通りにはさせない)
ネクタイを締めなおし、椅子の背に引っかけてあった背広を着ながら隣室のドアを開ける。
ソファでくつろいだ体勢になっていた古市が身を起こし、別のソファに座らされた男を目で示して肩を竦めた。
男は後ろ手に拘束されながらも真っ直ぐに背を伸ばして座り、楠見に敵意のこもった視線を送ってくる。
「少しは休めましたか? ――安斉さん」
笑いかけるが、男――安斉は微動だにせずに視線だけをさらに険しくした。
「ああ、不便ですみませんね。こちらの用事が済んだら解放しますから、もう少しだけ我慢してください」
「……私をどうするおつもりか」
「ですから、聞きたいことがあるだけです。それが済んだら帰ってもらって構いませんよ」
「……私が何か話すとお思いか?」
「さあ、どうでしょうね――手強そうだ」
楠見は腕を組んで、小さな笑いを浮かべながら首を傾げた。
「ただ、あなたはうちの大事なサイを傷つけた。礼はさせてもらいます。何も残さずに帰れるとは思わないでください」
牧田が学校へ行き、あおいも一旦家に帰るのだと言って去って、さらに朝食の後片付けを手早く済ませたハルが慌しく出かけていくと。伊織はキョウとともに、静けさの戻ったマンションに取り残された。
朝ごはんを食べ終わるとすぐに、キョウはリビングに行って朝はじめに見た時と同じ体勢に戻った。
それきり黙って目を閉じ、左腕に手を当てているキョウを、伊織は向かいのソファに所在なく座ってぼんやりと眺めている。
綺麗だな、と思う。さっき見えたような気がした薄い色つきの膜はもう見えない。それでも、あおい曰く「集中している」という状態の、瞑想なのか放心なのか、無我の境地というものなのか、何かこの世の奥底に入り込んでいるような様子のキョウは、とても清浄で美しいものに見えた。中庭のベンチで会った時と同じように。
そうして何をするでもなく向かい合って座って、一時間は過ぎただろうか。
ふっと、キョウが目を開けた。
まともに視線がぶつかって、伊織は少々たじろぐ。
「……なんか飲む?」
特段なんの感情も表に出さずに、キョウが聞く。
「あ、いや、俺は……」
「コーヒーでも入れっかな」
立ち上がって、キッチンへと入っていくキョウ。キッチンで立てられるいくつかの音を聞いた後で、伊織はハッと立ち上がった。
「俺、やるよ」
キッチンを覗くと、案の定、「動かさないように」と言って牧田に左腕を三角巾で固定され、片手でやりにくそうにお湯を汲んでいるキョウが目に入る。
「ん、サンキュ」
唇の端をわずかに上げて、キョウが答えた。
キョウはペーパードリップのコーヒーを用意していたようだが、伊織には入れ方が分からず、インスタントで妥協してもらう。そのままローテーブルを挟んでまたソファに座り向かい合い、お互い黙ってコーヒーを飲む。
沈黙を、少しだけ気まずく思う。考えてみると、キョウとはここ数日、挨拶や必要最小限の会話しか交していない。その前は、どんなことを話していたっけ。
上野やクラスメイトたちの会話を思い返してみた。好きな漫画やテレビ番組、アイドルの話。クラスメイトや教師の話題。授業や宿題、学校行事、部活動のこと、家や家族の話……そのどれも、キョウの口から聞いたことはないような気がする。
俺はキョウのことを、何も知らない――改めて、伊織はそう思った。それでも、分かっていることもある。キョウは伊織を守り、本気で心配し、叱り、励まし、伊織のために喜んだり悩んだり怒ったり傷ついたりしてくれる。
「……あのさ、キョウ」
コーヒーカップを置いて、呼びかける。キョウはカップに口をつけながら目を上げた。
「……あの……ごめんなさい」
軽く頭を下げてまた上げると、カップに口をつけたまま伊織をじっと見ているキョウと目が合う。キョウはしばらく考えるような間を取って、
「だから……お前のせいじゃねえって。これは俺が――」
「違うんだ。いや、……その怪我のこともだけど……それよりも前のことから、ごめんなさい」
もう一度頭を下げると、キョウは無表情に首を傾げた。
「サイなんて信じられない、馬鹿みたいって……そう言ったのも……」
苦い気持ちで、あの時口にしてしまった言葉を繰り返す。
「本当に、ゴメン」
「……んなもん、気にしてねえよ」
キョウは心持ち視線を斜め下にやって、言葉を継ぐ。
「普通の反応だって、言ってんだろ。だいたいみんなそんなこと言うし、慣れてるし、いちいち気にしねえって」
「駄目なんだ!」
自分を叱りつけるように強い口調でそう言うと、キョウは視線を上げた。
「それだったら、なおさら、俺がそんなこと言っちゃ駄目だったんだ」
改めて後悔が込み上げてきて、伊織は俯く。
「俺は……、俺が一番、そんなこと言っちゃいけなかったんだよ」
ギリギリ視界の端で、よく分からない、というようにまた首を傾げるキョウ。
「だって、何度もその能力に助けてもらって、仲間になりたいって思って……俺もその輪の中に……だから、誰がキョウたちのことを信じなくても、俺だけは言っちゃいけないんだ。信じなくてもいいなんて、言ってほしくないんだ。信じろって。分かれって、言ってほしかったのに……」
次第に自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、一度堰を切った言葉は止まらなかった。
キョウは黙ってこちらを見つめている。
「黙って一人で従兄弟に会いに行ったのも……」
後悔を噛み締めたまま、伊織は続ける。言葉を止めたら涙が出てきそうで。
「本当にごめんなさい。俺、自分でも何かしたくて……できると思って……何か役に立ちたいって……」
「別に、いいって」
キョウはカップをテーブルに置いて、小さくため息をついた。
そうしていつもの真っ直ぐな視線を伊織に向ける。
「お前は……巻き込まれてるだけなんだ」
視線がぶつかり、けれど目を逸らしたのはキョウのほうだった。
「サイの事件に。それは俺たちが片付ける問題なんだ。お前にしてもらわなけりゃなんないことなんか、ない」
ぶっきらぼうに、突き放すように。それでいて、言いにくそうに。
「お前はやりたいようにしてていい。行きたきゃ一人で好きなとこ行っていいし、俺たちに合わせたりしなくていい。サイの話も信じたって信じなくたって、どっちだっていい。俺たちが、勝手にお前のこと守ってるだけだ」
「駄目だってば」
また少々強い口調になってしまいった伊織に、キョウの視線が戻ってきた。感情を窺わせないその眼差しに、一瞬口ごもって、それでも勇気を奮い立たせて伊織は続ける。
「だって……叱ってくれたじゃないか。府中に面接に行った時も、アルバイトをクビになって一人でフラフラしてた時も。……あれ、俺、嬉しかったのに……」
「……叱られんの、好きなのか……?」
「……いや……そうじゃなくて。だけどさ、俺のこと、これまで本気で叱ったり心配してくれる人、いなかったんだ。だから、嬉しかったんだ。それなのに、裏切るようなことをしっちゃったり、言っちゃったり……俺……」
口の中が苦くなる。
「もう……見放されちゃったかもしれないけど……でも、ずっと謝らなきゃって思ってて。ごめん」
もう一度、頭を下げる。下げた頭のてっぺんあたりにキョウの視線を感じながら、
「俺さ……」伊織は次の言葉を手繰るべく、声を発した。
「俺、これまで友達らしい友達がいたことなくて、……だから、どうやったら友達になれるのかって、よく分からなくて。こんなこと、言うの変なのかな。本当は友達って、もっと、普通におしゃべりとかしてる間に自然になってるもんだって思ってたんだけど、どうも俺、そういう風にできないみたいで……」
上目遣いに窺う。唐突に伊織が言いだしたことの意味を考えるように、小さく首を傾げたキョウ。
この気持ちを上手く伝える言葉を持っていないのが、自分でももどかしい。
「……それで、その……どうしたらいいのか自分でも考えたんだけど、やっぱり上手く行かなくて……だから可笑しいかもしれないんだけど、お願いがあって……」
真っ直ぐに伊織に向いているキョウの目を、真剣に見つめ返す。
「だから……」
俺は世界一の口下手だ。そう思いながら――。
「友達になってください!」




