74.伊織、自分を責める要素のない言葉や音の一つひとつが
「痛て! 痛てえって、マキー!」
ダイニングの椅子に腰掛けたキョウが、隣に座って腕の傷口を洗っている牧田に向かい叫んだ。
「引っ張るなーっ!」
「まあまあ、ちょっとよく見せてよ」
牧田は手に持っていたボトルを置くと、キョウの腕をさらに持ち上げ、もう片方の手でメガネを押し上げて、傷口に顔を近づける。
「やーめーろー! 引っ張るなーー!」
「だって、銃創だよ? ここ、日本だよ? 大きな大学病院あたりに勤めてたって、まずお目にかからないよ? もう少し見学させてよ。写真も撮っていい?」
「マキー!」
「いやー。学校の校医やってて、こんな傷を処置することになるとはねえ」
伊織は呆然とソファに座り、背を硬直させて、その光景に目をやっている。というよりも、顔を向けている。
古市の運転するバンに乗ってマンションまで送られた。意識の片隅で、身の周りで交される会話や起こる出来事を認識しながら、伊織の心はひとつの重大な考えに占領されていた。
(俺のせいだ――)
己の分も弁えずに勝手な行動をした結果、キョウが大怪我をした。それも伊織を庇って――。
撃たれた場所がほんの少しでも違えば、命に関わっていたはずだ。そもそもキョウが来てくれなかったら、あの銃弾は自分の体を貫いていたのだ。
放心状態だった倉庫での一幕が過ぎ、安全な場所に戻ってみると、時を追うごとにひしひしと心に圧し掛かってくる恐怖と罪悪感に、伊織は言葉を発することもできずに固まっていた。
牧田が角度を変えるように、少しばかりまたキョウの腕を動かした。
「だからっやめろー!」
「ふうん……」
牧田はメガネの弦に手を添えて、緊張感のない声でつぶやく。
「そうか……やっぱり、さすがのキョウでも泣くほど痛いんだね、銃創ってのは」
「ちっ、がっ! 泣いてねえって! マキがそれ……引っ張るのが痛てえのっ!」
「ああ、ゴメンゴメン。ほら、すぐ済むから泣くな」
「泣いてねえってば!」
キョウの肘を取ったまま、牧田は片手で器用にカバンから道具を取り出した。
「だけど俺、銃創なんて経験ないよ。待ってな、今ネットで調べるから。ハル、パソコン貸してくれるかい?」
「いいよ」キッチンで湯を沸かしていたハルが、軽い調子で答える。「見ながらやるなら、タブレットのほうが便利だね。持ってくるよ」
「そうだね。動画でアップされていると助かるんだけど……あ、マズイかそんな動画。ハハハ」
「藪医者ー!」
「ハハハ、冗談だよ。ちゃんと治してやるから、泣くな」
「だから、泣いてねえよ!」
「よしよし。そうだ、飴あるよ。食べる?」
「……子供じゃねえんだよっ」
「ああ、治療中にうっかり呑み込んじまうといけないからね、後であげるよ」
「だーかーらー」
廊下からパタパタとスリッパを鳴らしてやってきたあおいが、風呂場の椅子と大量のタオルをテーブルに置いた。
「ねえ、こんなんでいい?」
「ああ、いいね、ちょうどいい高さだ。ありがと」
牧田は椅子にビニールを被せると、キョウの腕を載せる。掴まれていた腕を解放されて、キョウはホッとしたように息をついた。
「お湯沸いたの? コーヒーでも入れようかしらね」
「あのね、お嬢、そのお湯は使うから、コーヒーにしちゃ駄目だよ……後でね。それ沸いたらこっちに移して、もう一回沸かしてくれる?」
「そう……あら、でも、銃で撃たれた人はコーヒーなんか飲んでいいのかしら……」
「キョウの分はいいよ」
ハルが答えながら、あおいと入れ違いでダイニングに出てきた。
「なんだよ! 俺にもコーヒー入れろ!」
「駄目だよ、怪我人はカフェインなんか摂っちゃ」
牧田は呆れたような口調で言って、消毒薬を取り出した。
「それより血が増える物を食べないとね。ハル、ちょっと腕を押さえてて」
「了解」
やっと解放された腕をまた取られ、キョウの顔が曇ったが、牧田は構わずに消毒薬を皿にあけ脱脂綿に染み込ませた。
「レバーにしなよ」
「レバーなんか食わねえ」
「レバーね。明日の朝ごはんにしよう」
消毒薬が触れると、キョウは新たな痛みに顔をしかめる。黙って堪えているようだった。
「そのうち楠見が顔出すよね。レバーを買ってきてくれるように頼んでおこう」
「遅くなるんじゃないのかい?」
「遅くまでやってるスーパーがあるから大丈夫。車なら何箇所か回れるし」
「副理事長をパシりに使うんだね」
「そういえば、牛乳と醤油もなくなりそうなんだよな。一緒に買ってきてもらおう」
「それじゃ、薬局に寄れたら、俺も買い物頼もうかな」
「俺、レバー嫌だよ……」
キョウのつぶやきは、黙殺された。
「お嬢、ちょっとそこのタオル取って」
「これ? はい」
「ハル、その袋開けてくれる?」
「うん。お嬢、鋏」
「はーい」
そんなやり取りが続いて、あおいがふいに、キッチンから伊織に声を掛ける。
「伊織くんも、コーヒーでいい?」
「…………えっ?」
顔を上げると、ハルも伊織を振り向いた。
「伊織くん、部屋に行っててもいいよ? 見てても痛いだけだし」
「あ、いや、俺……」
続く言葉は出てこず、伊織は両手を膝の上で握り締めて俯いた。
倉庫で助けられ、車でここまで送られ、今に至るまで、誰からも伊織を責めるような言葉は発せられなかった。
(俺のせいなのに……)
非難の言葉が一切ないのが、なおさら心に痛い。
黙っていると、ハルは小さくため息をついてキッチンに目をやった。
「お嬢、伊織くんには牛乳だ。ホットミルクひとつ。いや、キョウもミルクだ。二つ」
「えっ、牛乳? 足りないんじゃないの?」
「まだあるよ。後で楠見が買ってきてくれるし」
「俺、温っためた牛乳、嫌だよ……」
「ハル、ちょっとそのタオル濡らして、絞ってくれるかい?」
「うん」
冷蔵庫を開ける音。濡らしたタオルから水の滴る音。みんなの会話。伊織を責め立てる要素の一切ない、それらの言葉や音が、胸に刺さる。恐る恐る目を上げ、キョウの腕の傷を見て、また目を伏せた。
「あの……ごめんなさい」
顔を上げられずに、小さな声でそれだけ言う。ハルが振り返り、あおいがキッチンから顔を上げた。牧田は治療の手を止めず、キョウは相変わらず顔をしかめたままだったが、わずかに伊織のほうに意識を向けたのが分かった。
「……俺……ごめんなさい」
反省の言葉を継ごうとするが、やはり言葉にならず、繰り返す。
「……別に、お前のせいじゃねえよ」
キョウはそっぽを向いたまま、仏頂面で言った。
「そうだよ、伊織くん。伊織くんのせいじゃないよ?」
ハルも、少しだけ頬を緩める。
「それに、キョウはしょっちゅう怪我してるんだ。このくらい、キョウには蚊に刺されたようなモンだから気にしなくていいよ」
「……蚊ぁ?」
キョウは不満そうな声を上げたが、牧田は治療を続けながら笑い声を上げた。
「ハッハッハッ、でっかい蚊がいるんだねえ」
「お前ら、酷でえ……」
力なく抗議するキョウに、手を動かしながら牧田は少々真面目な顔になる。
「酷くて結構。自分の体を大事にしない奴に、優しくしてあげる人なんかいませんねー」
「……好きで撃たれたわけじゃねえ……」
「どうだかね。まったく、何度治してやっても怪我してくるんだから。次やったら、思いっきり痛くしてやるからな」
「マキー……」
呆れた口調で言う牧田を、キョウは困ったように見上げる。
「そうだよ、マキ、痛くしてやって」
「ハルー……」
「そういうわけなんだよ、伊織くん。こいつは、いつもいつもいっつも、こんななんだ。伊織くんが気に病む必要ないからね。お嬢、お湯沸いてる。ポットこっちに回してくれる?」
「オッケー」
「次、ヤカンのお湯コーヒーにしていいから。鍋のほうはお湯沸かしといて」
「オッケー」
なんとなく、この場違いな軽いやり取りは伊織に気を遣わせないためのものなのかもしれないと察して、さらに申し訳ない気持ちになる。座っているだけで何もできないのも、心苦しい。それでも。この場を見届けずに一人で部屋に逃げ込むのは、それはもっと無責任なような気がして、伊織は動くことができなかった。
(それに――)
言わなければならないことがたくさんあった。謝罪だけではない。哲也のことを彼らに伝えなければならない。そう気持ちは焦るのだが、記憶を取り出そうとしても頭が回らず何も言い出すことができずにいる。
(俺、何様のつもりだったんだろう……)
哲也から情報を得て、哲也を説得する自分を想像していた。そうして楠見たちと会わせるのだと。どれも果たせずに、みんなを無駄に危険に晒しただけ。せめてほんの少しでも、何かヒントになりそうな情報を話さなければならないはずなのに、頭が飽和状態で言葉にならない。
ハルもキョウも、分かっているのだろう。聞きたいことが山ほどあるはずなのに、触れてこない。
悄然と俯いて、外に聞こえないように小さく長いため息をついた。息は震えていた。
「よし、いいよ。終わり」キョウの腕に綺麗に巻いた包帯を一度確認して、牧田は笑顔を作った。それからポケットを探る。「よしよし、頑張った。ほら、ご褒美だよ」
「……だから、子供じゃねえんだから……」
抗議の声を上げつつも、キョウは目の前に差し出された袋入りの飴を、渋々受け取った。
「キョウ、飴は明日だ。もう寝るから歯磨きしてきな」
キョウは飴の袋の端を持って一瞬しょんぼりとした表情になったが、ハルに支えられ素直に席を立って、洗面所に行った。ハルはそれを見送って、牧田の片付けを手伝いながら、
「マキ、ありがと」
「いいよ。それより、熱を出すかもね。俺、一晩様子を見ていこうか」
「いいの?」
「うん。朝になって大丈夫そうなら学校に行くかな。今夜はその辺でゴロゴロさせてもらえればいいよ」
「助かるよ。ホント、毎度ゴメン」
困ったように小さく笑ったハルに、牧田は苦笑を向けた。
「構わないよ。あの二十四時間営業男の楠見に校医に誘われた時にね、ああ俺の人生にはもう『規則正しい生活』はないな、って覚悟したんだ。ま、医者なんてそんなもんだけどね」
「ねえ! コーヒー入ったけど……それとミルク……あら? キョウは?」
キッチンからあおいの声と、カップにコーヒーを注ぐ音が聞こえ、すぐにトレイにカップを載せたあおいが出てきた。ハルはあおいに「ありがとう」とつぶやいて、携帯電話を取り上げた。
「キョウのは置いといて。ちょっと楠見に発注済ませちゃうね」
「ハル、コーヒー用のクリームももうない」
「ああ、そうか。俺もキョウも使わないから忘れてた。買ってきてもらおうか。あと、ひき肉とトマトと……そうだ、お米も頼もう。重いし。マキは? 何が要る?」
「いっそ清々しいまでの使いっぷりだね」
治療道具をすべてカバンに収めた牧田が、コーヒーカップを取り上げ目を細めて笑い、注文品を挙げる。
この人たちの、いつもの光景に見えた。
さっきまでの出来事など、なかったみたいに……。
あおいが自分のコーヒーと伊織のミルクを持って、ソファにやってくる。
「伊織くん、飲んで?」
「あ、……ありがとう……」
自動的にそう答えて、カップを受け取っていた。
「ねえ、元気出して?」
隣に座っているあおいが、腰を屈めるようにして、俯いている伊織を下から覗き込む。
「伊織くん、本当に心配いらないよ」ハルも携帯電話を持ったまま、控えめな微笑みを作って言う。「それより、もう休めば? 疲れたでしょ」
優しく言われて、耐えられなくなって顔を伏せたまま頷いた。ここにいたら、みんなの前で泣きだしてしまいそうだった。
「お嬢……」
ハルの視線に頷いて、あおいがカップを置いて立ち上がる。
「伊織くん、行きましょ」
あおいは元気に言って、伊織の腕を掴んでソファから引き上げた。
「ね、大丈夫よ。びっくりしたと思うけど」
部屋のドアを後ろ手に閉めて、あおいは慰めるように言う。
「『しょっちゅう』はさすがに大袈裟だけど、こういうこともあるわ。分かっててやってるの。怪我をするのは自分のミスだって、キョウも思ってる。伊織くんがそんなに気にしたり責任を感じたりすることじゃない」
「そんな……」
伊織は思わず反論しかけて、顔を上げ、だがあおいの切なそうな瞳に言葉も勢いも失う。あおいはその瞳で、真っ直ぐに伊織を見ていた。そして、ふわりと小さな微笑を作る。
「仕方ないのよ。そういう世界にいるんだもん」
守る側と、守られる側。その間にある壁を、伊織は改めて思い知る。でも、それでも――そんなのはおかしいだろう? 同じ高校生なのに……?
「だけど……」
伊織は必死で言葉を探す。
「だって、…………俺のせいで……」
「伊織くんのせいじゃないし、キョウのことだもん、明日になったらきっと、ケロッとしてるわ」
「そんな……いくらなんでも……キョウは凄いけど……でも、同んなじ人間だろ? 痛いだろ?」
世界が違うと言われても、特別な能力を持っていても、「裏側」の仕事をしていても。同じ歳で、同じ学校に通って同じ授業を受けている。他人の痛みも分かるし、傷ついた人間に優しくできるし、友人のために怒るし、困っている誰かを助けようとする。同じ、心を持った人間だ。
「……そんなのいいわけないだろ? どうして……? ……怖く、ないの?」
あおいは小さな微笑を引っ込めて、少しだけ困った顔になった。
「キョウはね、そうしていないと、いられないのよ」
「……え?」
あおいはかすかに目を伏せる。
「怖くたって、傷ついたって、そうしてないといられない」
「……どういうこと?」
繰り返したあおいに、説明を求めるように訊ねるが、あおいは「ううん」とひとつ首を横に振って目を上げた。
「そうね。そんなのはおかしいし、いいわけはないのよ。だから――」
あおいは伊織の目を見て、また切なげな、小さな微笑を浮かべる。
「伊織くんみたいな人が、必要なんだわ。そんなのはおかしいし、よくないし、怖いし痛いだろって言ってくれる人が……ハルも楠見さんもマキさんも、きっとそう思ってるんだわ」
理解は、できなかった。けれども、頭で考えるよりも先に、心に突き刺さってくるものがあった。もやもやとする伊織の気持ちに、それは一点の光の差し込む穴を開ける。理解はできなくとも。痛みの種類も場所も違っていたとしても。
(同じ、人間だろう?)
伊織はもう一度、そう思った。
「痛くない? あんまり動かすなよ」
椅子に座らせて着替えを手伝ってやりながら、ハルはキョウの顔を窺った。
「平気だよ」
「嘘付け」
「で!」
ボタンを留めてやったついでに、腕を軽くはたくと、キョウは思い切り顔をしかめた。
「なにすんだ……」
「ほら。もう痛い顔してもいいよ。伊織くんもいない」
キョウの頭を乱暴にぐしゃぐしゃとかき回す。
気にさせてはいけないと思って、大したことないような顔をして我慢していたんだろう。キョウは恐ろしく我慢強いのだ。我慢強すぎて時々、本当に痛みを認識していないこともあるくらいなのだが――。
キョウは顔を背けた。
「平気だって言ってんだろ。蚊に刺されたようなモンだよ」
根に持っているらしい。
「……悪かったよ。ごめん。だけどさ、あんまり伊織くんがしょんぼりしてるから……可哀相じゃないか。昨日まで、拳銃なんかテレビの中にしか存在しないと思ってたような人なんだよ?」
キョウはバツが悪そうな上目遣いになる。
「ハル……怒ってんのか?」
「怒ってるよ」
ベッドを整えてやりながら、ハルは少々ぶっきらぼうに答える。
「なんでわざわざ撃たれたりするかな。怒るよ、そりゃ」
「わざわざなワケねえだろっ」
「じゃなんで撃たれたりしたんだよ」
「避けようとしたじゃん!」
「引き金を引かせないようにだってできただろう?」
「どうすんだよ! 難しいこと言うな」
「いーや。できたはずだ」
ムスッと目を逸らしたキョウを振り返り、枕を両手で持ってふかふかさせながら睨みつける。
「伊織くん、めちゃくちゃ自分のこと責めてるよ」
「それは……失敗なんだ……」
「なんだよ、失敗って」
「……伊織、あいつさあ」
「うん?」
「なんか、緊張感ねえし、危ねえの分かってねえし、どんだけ言っても一人でどっか行くし。俺たちのことも……あんまり怖いとか危ないとかって思ってねえし」
「……」
「ちょっと怖い思いしといたほうがよくねえ? って……」
ハルは、枕を両手で持ったまま手を止め、
「それで……」
思わず目を見張った。
「撃たれてやったの? 伊織くんに緊張感を持たせるために?」
「だからー。撃たれるつもりはなかったの。避けられると思ったの」
「発砲させたかったってのか?」
「させたかったってほどじゃねえよ……」
上目遣いにハルを見上げるキョウに、ハルは大きくため息をついた。
「あっきれたー!」
「……」
「信っじらんないっ!」
ハルは、枕をふかふかさせるのを再開した。先ほどまでよりだいぶ乱暴に。
「だからって! あえて撃たれたりする?」
「だーかーらー! あえてじゃねえってば。ギリギリで避けて、そしたら普通に『あーちょっと怖かったなーこれから気をつけよー』で済んだじゃん」
「そんなに都合よく上手く行くわけないだろ! このくらいで済んだから良かったものの、ちょっとずれてたらどうなると思ってんだよ! 一歩間違ったら伊織くんだって危なかったんだぞ?」
「それは……さすがに大丈夫だって……間違っても最悪、俺がもうちょっと痛いくらいかなって……」
「お、ま、え、は……ほん、っとに……! ……もう!」
枕を定位置に投げ付けるように戻すと、キョウは神妙にうな垂れた。
「そんな怒んな……」
「怒るに決まってるだろっ!」
ついでに言葉も叩き付けたが、振り向いてしょげ返っている様子のキョウが目に入ると、膨れ上がっていた怒りが急激に萎む。ここで許してしまうから、いけないのだ。楠見といい自分といい、キョウに甘すぎる。そう思いつつ……。
しばらく見つめ、残った怒りの欠けらを追い払うように息をつくと、もう一度枕を整えて布団をめくる。
「ほら、入んな」
キョウはしょんぼりと立ち上がり、ベッドに移動する。
代わりにハルは、椅子を引き寄せてベッドの脇に座った。
「伊織くんにはさ……」
ハルは机に頬杖をついて、ため息混じりに言う。
「効果はあったと思うよ。刺激強すぎで可哀相だけど。まあ、ね……」
キョウはベッドに体を起こしたまま、動きを止めた。布団に入れた膝の辺りに目を落として、つぶやく。
「あいつ、これで離れるかな……」
怖がらせて離れさせるつもりだったのだろうに、本当に効き目があったと思ったらこの落ち込み様だ。
何事か一生懸命に考えている様子のキョウを少しの間見守っていたが、やがてハルは訊ねる。
「キョウは、どうしてそんなに伊織くんの封印を解きたくないの?」
「だって、きっと傷つくよ」
「今だって彼はいっぱい傷ついてるよ。どうなるのが一番辛いかなんて、本人じゃないと分からないじゃない」
「でも、そんなもんじゃないだろ。サイコメトリーだぞ? よく知らねえけど……ヤなもんいっぱい見るかもしんないし、コントロールできねえかもしれねえし、そうなったら壊れるよ」
「うん……心配はあるけれど、その能力を解放したら上手くいかないとは限らない」
「……上手くいかなかったらどうすんだよ」
「それは、その時はその時だよ。そうなったら――」
言いかけて、ふと言葉を止める。
(ああ、そうか……)
分かった。
黙って見つめる。キョウは、ハルが言葉を切ったのも気に留めていない様子で、やはり何事か考え込んでいる。
ハルは、机に肘をついていた手で、額をこする。
そうして少し考えて、立ち上がり。
「分かったよ。今日はもう寝な」
キョウはふっと我に返ったように一度ハルに目を向けて、それからもぞもぞと布団に身を沈めた。ベッドの横に膝をついて、布団を掛けてやる。
「大丈夫だよ。たぶん、伊織くんはそんなに弱くない。だから、心配するな」
呪文のように言い聞かせて額に手を載せる。やっぱり少し熱っぽいな、と思う。
「きっとみんな、上手く行くよ」
キョウは大人しく目を閉じかけて、少々だるそうにハルを見上げた。
「……けどさ、明日の朝、レバーなんだろ……?」
「うん。楠見にお願いしといたからね」
ハルは優しく微笑む。
「……楠見、忙しいから来ないんじゃねえかな」
「来るよ。夜中の三時でも来る人だからね」
本人が聞いたら一言クレームがありそうだが、今夜は恐らくハルも眠っていないだろうと踏んで、何時になろうと来るだろう。
「……レバー、売り切れてんじゃないかな……」
「大丈夫だよ。ハンバーグにしてあげるから。それなら食べられるだろ?」
「ハンバーグ」
「うん。ちゃんとひき肉も一緒に買ってきてもらうように頼んだから」
「ひき肉、売り切れてないかな……」
「売り切れてても、きっと何軒でも回って買ってくるよ。持ってなかったら家に入れない」
「そっか」
「ほら、もう余計なこと考えないで寝な。ここにいてやるから」
「ん……」
ホッとしたように、キョウは目を閉じた。
「痛くなったらすぐに言いなよ? マキに薬もらうから」
「……いいよ。どうせ虫刺されの薬だろ」
「悪かったってば」
「それよりさ、ハル。力、貸して」
「うん、いいよ」
微笑んでハルは床に座り込むと、キョウの左手を布団から引っ張り出して、怪我をした場所に手を載せる。
ほわりと、ハルの手を置いたあたりがかすかに青白く光り出す。
(綺麗だな)
と、ハルは思った。




