72.再会、告白、追っ手、そして
「……哲也さん、いますか? ……伊織です」
空間の中ほどまで来て、ぐるりと辺りを見回す。頭上に回廊が巡らされ、ドアがいくつもある。そのどこかに哲也はいるのだろうか? それとも、まだ来ていないのだろうか――。携帯電話を取り出して、電源を入れた。五時五分前。
左右の上層に設えられた窓と、天窓からの明かりは、どうにか足元に落ちているガラクタに躓かずに歩ける程度のもので、弱々しい。もう少ししたら、何も見えなくなってしまうかもしれない。
懐中電灯を持っていればよかったのに、と一瞬思ったが、学校から直行した伊織はそもそも制服のポケットの中の財布と携帯電話以外には何も持っていなかった。
「哲也さん……いませんか?」
進みながら、もう一度だけ呼んでみる。と――。
「伊織か?」
囁くような、それでもはっきりと聞こえる声で名を呼ばれ、それは期待していたものだったにも関わらず、伊織は心臓を思い切り握られでもしたかのように息を止めた。
無理やり唾を飲み込んで喉の渇きをごまかし、声のしたと思われるほうへと体を向ける。
「……俺です、伊織です、哲也さん――」
倉庫スペースの奥にある扉から、人影が覗いた。心臓がさらに激しく鳴る。
「伊織、無事なんだな?」
かすかに安堵の混じる声に、伊織もホッと息をつく。通り抜けられる程度に開けた扉から、哲也が姿を現した。
幻覚なのではないかと疑った。記憶にある哲也よりも、少々やつれたように見えるその姿は、「夢」や昨日見た「残像」そのままに見えて。けれどそれらが楠見の言うような伊織の特殊な能力が見せたものなのだとは、いまだに信じ切れなくて。
「夢」や「残像」で見た哲也と同じで、だからやはりいま目の前にいる哲也も、現実にはそこにいないのではないかと。
けれど、哲也は消えなかった。哲也の視線は、くっきりと伊織を捉えていた。そうして、声を掛けてきた。
伊織のことを心配し、無事に会えたことに安心している様子の哲也に、伊織は強張っていた心がほんの少し緩むのを感じた。
けれどわずかに緊張を解いた直後。背後で金属製の大きなものが床に落ちる派手な音。息が止まりそうになって思わず後ろを振り返ろうとしたところで、哲也が小さく声を掛ける。
「こっちだ」
哲也は伊織を導き入れるように扉をもう少し開け、扉の奥に姿を消した。
一瞬でも一人になるのが心細くて、背中を追い立てられるように小走りに駆けドアノブに取り付いた。薄暗い廊下の少し先で哲也が待っている。追いつくと、階段の上を目線で示し、哲也は先に立って上りだした。後に続いて二階へと上がり、階段脇の小さな部屋へ入る。埃の溜まった床に、ブラインドの隙間から差し込む西日が縞模様の影を作っている。会議室でもあったのだろうか。部屋の片隅に、ネジがはずれ盤面の傾いた可動式のホワイトボードが打ち捨てられていた。
伊織を室内へと招き入れ、部屋のドアを閉めると、哲也はしばらくの間ドアの前に立ち外の様子を窺っていた。
何から話せば――いや、哲也の話を聞くのが先か。聞きたいことは山ほどある。話の取っ掛かりに迷う伊織にチラリと目を向けたきり、哲也はしかし、外への警戒を解く様子を見せない。
「あの――哲也さん……?」
ホワイトボードを背に立ったまま、伊織はまた不安に襲われる。哲也は何を気にしているのか――?
「伊織……ここに来ることは、誰にも言ってないだろうな……?」
「え? はい、……あの……?」
じわりと、さらなる緊張が背中を駆け上がる。
「時間がない――」
哲也がドアの外に険しい視線を向けたまま、焦燥を滲ませた声で言った。
「追われているんだ。ここにも、もしかしたら、もう……」
「えっと……?」
「だから、手短に言わせてもらう」
伊織の戸惑いを無視するように、哲也は伊織のほうは見ずに言葉を続ける。
「学校で配られたビラを見ただろう? 俺は、サイコキネシス――手を触れずに物を動かす能力を持っている」
「……」
「中学生の時に、その能力を利用して働かないかと勧誘されて、俺は緑楠高校に入った。学校を拠点に、こういう能力を持った人間――サイの組織を作るのだと説明された。けど――」
哲也はためらいがちにドアから視線を外し、伊織のほうに顔を向けた。
「学校に入った後で、少し事情が変わった。学校の中に組織を作るという話が、一旦棚上げになったんだ。詳しい理由は知らされていない。俺は学校外の組織に所属しながら活動を――サイを集める仕事をしていたんだが、去年になって、また学校を利用する話が動き出したと聞かされた」
そこで、哲也はかすかに済まなそうに目を伏せる。
「それで……伊織、お前に緑楠高校の受験を勧めたんだ。従兄弟がサイの能力を持っていると組織に言ったら、学費や入学後のいろんな面で、組織がお前の面倒を見てくれると約束してくれた。父さんも母さんも、その話に乗って……お前にだけ知らせずにいて、済まない。こんなことにならなければ、入学後に全て話すつもりだったんだ……」
それは、丁寧な説明とは言い難いものだった。哲也の焦りは伝わってきたが、伊織にはひとつひとつの言葉を追うだけで手いっぱいで、思考の整理が追いつかない。
言わんとすることが上手く理解できず、どう受け答えていいのか分からない伊織に、哲也はさらに言い訳めいた口調で言葉を継ぐ。
「お前にとっても、それがいいと本当に思っていたんだ……。言いにくいが、父さんも母さんも、お前に対してあまり好意的じゃなかっただろ? そういう家にいて、あの人たちの顔色窺ってさ、進学や普段の生活のことにもあまり構ってもらえないよりも……緑楠はレベルの高い学校だし、その気になれば大学にもそのまま進学できる。組織にいる限り、学費の心配も要らないし、仕事をすれば給料だって出る。何よりも、お前の本来持っている能力を活かせる。だから――」
「あの……」
堪らずに、伊織は言葉を挟んだ。
「あの、本来持っている能力って、どうして……? 俺、そんな、特別な能力があるなんてことは……」
その話を聞きたかったのだが――訊ねると、哲也は少々意外そうな顔をした。
「お前、本当に何も知らないのか?」
「……え?」
「『封印』の話は本当だったんだな。……そこまで完璧にされていたとは……」
「……あの……?」
哲也はわずかに目を細め、考えるような色を浮かべながら伊織の顔を見ていた。
峰尾裕介から聞いた、哲也の指示した待ち合わせ場所まであと数百メートルというところで、ハルとキョウとあおいはタクシーを降りた。
車のほうが早いという読みは正しく、学校から一時間も経たずに目的地にたどり着いた。
片方の手は、タクシーの料金を払うために財布を出した時以外はずっとキョウの腕を掴んでいる。大人しく腕を掴まれながらも半歩先に立って早足に歩いていたキョウが、唐突に足を止めた。視線の先に、くすんだ灰色っぽい壁の四角い大きな建物が見えた。
「ハル、あの建物だ……けど……」
「……誰かいるね」
ハルも目を凝らす。目指す倉庫の塀の外に、人の姿があった。三人がそれを視認すると同時に、人影は門から倉庫の敷地内にすっと入る。ちょうど差し掛かった倉庫手前の角に、三人は素早く身を隠した。
「哲也くんじゃないね」
「違う……それに、一人じゃねえな……」
「追っ手かな……」
「どっちの追っ手なのよ……」
あおいが不満げに聞くが、ハルにもキョウにも答えられるはずはない。ここにいると考えられる伊織と哲也、その両方が、それぞれに別の目的で、だがおそらく同じ組織に追われているのだ。
そのまま塀に沿って、建物の裏手に回る。
「たぶん、倉庫と同じ建物に、事務スペースが入ってるね。部屋がいくつもありそうだし、厄介だな。内部の構造が分かりにくい」
「……だな」
「ひとまず……外を回って入り口を確認しよう。外周に誰もいなければ突入する。お嬢は入り口の見張りを頼む」
「分かったわ」
「キョウ、一人で先に行くなよ?」
「……分かってるよ」
ずっと掴んでいたキョウの腕を解放し、三人は頭の高さを越える塀に飛び上がった。
「相原の家には、時々俺みたいな能力を持った人間が生まれるんだ」
哲也は淡々とした口調で言った。
「俺の両親にはなかった。だから理解も薄かった。が、叔父さん――お前の父さんは俺と似たような能力を持っていたと聞いている。そして、その能力を使って仕事をしていた。叔母さんとも、それで知り合ったって――お前の母さんも、特殊な能力を持っていたんだよ」
「……え」
「俺も詳しい話は知らない。俺の両親から聞かされたんだが、二人もそれほど詳細には知らなかったみたいなんだ。父さんは、自分にはない妙な能力を持った厄介な人間って思って、叔父さんとも距離を取っていたみたいだったからな」
「……」
「お前がまだ、小学校に上がる前だったと思うが……俺の能力が発現しだした頃だ。一度だけ、お前の両親がうちを訪ねてきたことがあった。今から思えば、俺に能力があるって分かって、うちの親が呼んだのかもしれないし、お前の両親のほうで何か察してやってきたのかもしれない。ちょうどそんな時期だったからな。叔父さんと叔母さんは、伊織、お前もおそらく特別な能力を持っていて、だけど、それが発現しないように『封じる』ことにしたって言っていたんだ」
――きみの能力を何かが封じているらしい。
自分には、本当にサイの能力があったのか? それは楠見たちの言う「サイコメトリー」の能力なのか? そして、「封じた」というのは、父さんと母さん――?
記憶にはほとんど残っていない。伊織の両親は、伊織が小学校に上がる前に二人一緒に亡くなった。交通事故だったと聞いている。
二人に特殊な能力があったなどという話は聞いたことがなかった。もちろん自分自身にも。
「俺の能力はまだ偶然みたいな感じで発現しただけで、どういう風になるか分からなかった。だから、困ったらまた声を掛けてくれというようなことを、お前の父さんと母さんは言っていた。でも、それから間もなく亡くなってしまって、その話はそれきりになっちまったんだけどな――」
痛ましげな表情を見せて、哲也は言葉を切り、また小さくドアの外に目を向けた。
「俺もだから、お前の能力のことを詳しくは知らないんだ。悪いな。叔父さんと叔母さんは、お前には特殊なものを見る能力がある、というようなことを言っていた。具体的なことは聞いていないんだが……」
伊織がそれを知りたがっているのを察したのだろう。哲也は申し訳なさそうにそれだけ言って、またドアの外に素早く意識を向ける。
かすかにどこかで、鉄がぶつかるような音が鳴った。
哲也の両目が強張ったように見開かれ、息を呑むのが分かった。
「哲也さん――?」
「誰か来た……」
「え……?」
ゆっくりと、見開いたままの瞳を伊織へと向ける。驚愕と絶望の色の浮かぶその目と視線が合って、伊織も身を竦めた。胸が、激しく鼓動する。
「入り口のドアに仕掛けをしておいたんだ。誰か入ってきたら分かるように……お前は本当に、誰にもここに来ることを言ってないんだな?」
「え……はい」
哲也は伊織の表情を読むようにほんの数秒ほど見つめ、視線を離してドアノブに手を掛けた。
「詳しく説明する暇はないが、俺は組織を離れて、命を狙われている。追っ手がやってきたのかもしれない」
「……」
「部屋に盗聴器が仕掛けられていたのに気づいたか?」
「……はい、あの……」
「俺を狙っていたんだ。気づかれてないと思ったんだが、組織はかなり前から俺のことを疑っていたらしい。俺はそのことを、お前に部屋を譲った後で知った。悪かった」
「いえ……」
伊織の部屋で剥き出しのまま転がされている盗聴器を見て、伊織が部屋を出た理由を推測していたのかもしれない。ドアノブに置いた手に目をやって、哲也は悄然と謝罪の言葉を口にした。
盗聴器だけではない。哲也を責める要素はいくらでもあったはずなのに、この世の終わりのような表情を浮かべる哲也の様子に、伊織はそれらの引き出し口を失った。
「火事のことも――」目を逸らしたまま、苦しげに哲也は吐き出す。「本当に、すまない」
「あの……あの火事は、哲也さんが……?」
「俺だ。けどな、わざとじゃなかったんだ。能力を抑えることができなかった。本当だ。信じちゃもらえないかもしれないけどな……」
「いえ、それは……あの、哲也さん」
責めるよりも先に、まず哲也に伝えなければならないことがある。楠見たちは敵ではないこと。哲也を今の状態から救い出せるはずだということを――。
火事のことを哲也本人の口から聞いた、そのショックを振り払うように、一度頭を振って伊織は哲也に視線を据える。が――
「ここで待っていろ」
ドアノブを回し、ゆっくりとドアを開けながら、哲也は背後の伊織に命じる。
冷ややかな口調に、心臓の拍動がまた少し、速く、大きくなったような気がした。
「見てくる。お前は……万一見つかっても、危害を加えられることはないだろう。能力のことなんか知らない、自分はサイなんかじゃないって、言い張るんだ。いいな?」
「……あの? ……あ! 哲也さん……!」
哲也は自分が通り抜けるだけの幅にドアを開けると、引き止める間もなく部屋を出た。
追おうとした鼻先でドアが閉まり、伊織は一人、小さな部屋に取り残される。
(どうしよう……)
ドアに両手をついて立ち尽くす。しかし……。
(待ってろって言われたって……)
緊張と不安に、動悸が激しくなる。誰に「見つかる」って? 伊織は危害を加えられることはないって――哲也さんはどうなるんだ? ここにやってくるかもしれない人間を想像し、そしてその時に哲也はどうなっているのかを想像し、心臓が口から飛び出してきそうなほどの圧迫感を持って鳴る。
その時。
空を引き裂くような、それは、鋭い音だった。
(これって――)
銃声?
「哲也さん!」
堪らずに、後先も忘れて伊織は暗い通路に飛び出していた。階段を転がるように駆け下り、先ほど通ってきたドアを開け倉庫スペースに踊り出る。そして、ドアを開け放ったまま愕然と立ち竦んだ。
正面の壁に据え付けられた回廊の上層で、スーツ姿の男がこちらに体を向けて立っていた。その手に、拳銃が握られ――銃口は、伊織に真っ直ぐに向けられていた。
(……え?)
引き金に掛けられた男の指が動くのが、スローモーションのように見えた。




