71.ハルはキョウの腕を掴んだまま。伊織は暗がりに目を凝らす
「ハル!」
弓道場の外からキョウに大声で呼ばれ、ハルは手にしていた弓を隣の男子部員にひょいっと渡して入り口に駆け寄った。
「悪い、部活中」
「いいよ。どうしたの?」
「伊織がいない」
「……え?」
「診療所に、いない」
「……え?」
「マキに聞いたら、来てねえって」
青ざめた顔で、キョウが言う。
「事務棟にも、高校の校舎にも、いない。電話も出ない。お嬢がいま家のほう見に行ってる。あと、琴子が学校ん中探してる」
「……荷物は?」
「荷物?」
「六時限目のクラス移動の時、カバン持って行かなかったよ。だから授業が終わったら教室に戻ってくると思ったんだ。伊織くんのカバンは、まだ教室?」
「……見てくる」
「あっ、キョウ――」
すぐに去ろうとしたキョウを、止める。
「ここで待ってて。俺も着替えてすぐ行く。絶対に待ってろよ? 一人で行くなよ?」
「……分かった」
「すぐだからね。三十秒で着替えるからね? 絶対絶対、先に行っちゃだめだからね?」
「……分かった」
頷くキョウに、さらにしつこく「絶対だからね?」と念を押して、ハルは弓道場の脇の更衣室へと走った。
キョウとともに一年五組の教室に行くと、無人になった教室内に伊織のカバンはそのまま取り残されていた。すぐにあおいから電話が来て、家にもいないことが知らされる。
学校中を走り回っていたらしい琴子が、かすかに顔を上気させながら教室にやってきた。
「いない。多分、校舎にはいないと思う。気配がないもの」
「くっそー、あいつ、どこ……」
「電話は? 出ないの? 電源切ってるの?」
「すぐに留守録になる」
「――っ?」
唐突に、勢いよく琴子が教室の入り口を振り返った。
つられて振り返ると、廊下に一人の男子生徒が立っていた。
「……峰尾?」
キョウが不審げに目を細める。
「あ……な、成宮? ……あの」
キョウの目を一瞬だけ見て目を逸らし、言い出しにくそうに足元に目を落とした男子生徒。それを見て、琴子が息を呑み口に手を当てた。
「相原哲也の伝言を取り次いだの?」
机を蹴って、キョウが入り口へと駆ける。一瞬だった。峰尾という生徒の胸倉を掴み、教室内へと引き入れると壁に押さえつける。
「てめえ……」
「キョウ! 落ち着いて――」
ハルは慌てて追いつき、峰尾を締め上げているキョウの手を後ろから引き剥がすと、そのままヘナヘナと壁伝いに腰を落とした峰尾に中腰になって視線を合わせた。
「えっと、峰尾、くん――?」
「お、俺……手紙を、哲也さんから、ただ……」
「伊織は哲也に会いに行ったのかよ! どこだ!」
「キョウ、ちょっと落ち着けって――峰尾くん、そうなの? 伊織くんは哲也くんに会いに行ったの?」
「お、おれ……俺は、……手紙を、渡しただけで……」
目を合わせようとするが、見下ろしているキョウの視線に脅えて峰尾は上手く口がきけない。ハルは峰尾の肩に手を載せて、ゆっくり訊ねる。
「哲也くんから手紙を預かって、伊織くんに渡したんだね?」
「そ、そう……」
「手紙を預かったのは、いつ?」
「き、きの……の、夜中に……」
「伊織くんに渡したのは?」
「ひる……昼休み……」
ハルは大きくため息をついた。それでは昼休みの終わりに声を掛けた時、伊織はもう哲也に会いに行くつもりでいたのだ。
「……学校を抜け出して、会いに行っちゃったんだ……言ってくれれば良かったのに……」
額に手を当てやるせない気持ちで言うと、峰尾は少しばかり我を取り戻したように申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「……あいつ一人で来てくれって、……誰にも知らせずにって、言われたんだ……」
「それで本当に一人で行かせたのかよ! 哲也は危ねえって分かってんだろ!」
声を荒げたキョウに、また峰尾は大きく身震いして脅えた目を向けた。
「あ、あ、あいつも、その、そのつもりだったんだ……」
「だからって!」
「キョウ! ちょっと黙ってろって。峰尾くん、気になって報せに来てくれたんだろ? ありがとう。助かったよ」
「あ、ああ……」
肩に手を置いたままそう言うと、峰尾はわずかに安心したように頷いた。大きなため息に載せて怒りを吐き出し、キョウはその場から数歩離れる。
「場所は分かる?」
「ああ、……じゅ、住所が……」
「教えてくれるかな」
「相模原市……」
「神奈川の、相模原市?」
峰尾の言う住所を、背後でキョウがスマートフォンを取り出し検索している。横で睨むような目つきで見守っている琴子に目を合わせると、小さく頷いた。
「待ち合わせの時間は? 分かる?」
「五時……」
「くっそ、間に合わねえ……」
背後で苦い声を上げるキョウ。危険を感じて立ち上がり、ハルはその腕を掴んだ。拘束しておかないと、早まって一人で飛び出しかねない。それはまずいのだ。
「峰尾くん、このあと時間ある?」
「え、ああ……」
「琴子、峰尾くんと一緒に校内で待機していてくれる? 俺たちはこの場所に行く」
「分かった」
峰尾と一緒にいて、知っていることを全て聞き出せ――あるいは読み出せ――そういう依頼まで、琴子は読み取っただろう。
「後で連絡する。キョウ、行こう」
「ああ」
キョウの腕を掴んだまま、教室の外へと掛け出す。
ここからその場所ならば、バスや電車を待って乗り継ぐよりも車のほうが断然早いだろう。しかし、楠見は外出すると言っていた――。タイミングの悪さに唇を噛みつつ、正門を出て大通りに向う。そこで運よく見つかったタクシーに乗り込む。
戻ってくる途中のあおいに電話で指示をして拾い、三人は相模原市に向かった。
胸の内ポケットで携帯電話が振動し、着信を告げる。楠見は両隣に座っている緑楠大学の学部長と教務理事を気にしつつ、携帯を引き出し表示を確認した。正面に座っていた面談の相手は、今は席を外している。
同席者に小さく「失礼」と告げて、楠見は通路に出た。
市役所の上層階の会議室だった。通路に出て電話を受けながら何気なく歩いていくと、突き当たりの窓から遠くに都下の山並みが見える。
「ハル、どうした?」
「楠見……いま大丈夫?」
「ああ、会議中だが、小休止だ」
「楠見」
緊迫した声に、楠見は一瞬辺りを気にして携帯を握り直し、口もとを手で押さえる。
「どうした?」
「伊織くんがいなくなった。哲也くんに呼び出されて、会いにいったらしい」
「……何?」
「峰尾くんが哲也くんから取次ぎを頼まれて、待ち合わせ場所を伊織くんに知らせたんだ。それで、伊織くんは学校を抜け出して……」
楠見は内心で悪態をつく。また、先を越されたのだ――。
「……それで……場所は分かっているのか?」
「峰尾くんが報せてくれた。相模原市だよ。JRの駅のほうだね。俺たちはタクシーで向かってる」
「そうか……キョウは一緒か?」
「うん。捕まえてる」
本当に服でも腕でも捕まえていそうな、深刻な口ぶりでハルは言った。
「お嬢も一緒。琴子と峰尾くんには学校で待機してもらってる」
「こっちもすぐに出られりゃいいんだが……」
背後を気にし、室内にいるはずの同席者を思い浮かべる。
「車があったほうがいいだろう? どうにか切り上げて、体が空きしだい向かうよ。場所を教えてくれ」
そう言いながら、ペンと紙が要るな……とポケットを探ったところで、背後からメモ帳とボールペンがすっと出された。振り返ると、会議中ずっと壁際に控えていた秘書の影山がいつの間にか無表情に立っていた。
目線で礼を述べ、聞いた住所を影山に書き取らせて電話を切る。
「ありがとうございます」
礼を言いながらメモを受け取ろうと手を出すと、影山はやはり無表情に小さく頭を下げ、メモを掲げてまったく表情を変えずに正面から楠見を見た。
「お急ぎのご様子でしたが――」
「ええ……だけど、抜け出しづらい局面だな……。早めに重要事項だけまとめて、中座したいが……」
「よろしければ、先行いたしましょうか?」
提案に、楠見はわずかに目を見張る。
「場所から行けば、副理事長のお車よりわたくしのほうが早く参れます。古市も町田におりますから、向かわせましょう」
「助かります。お願いします」
「一度学校まで、車をお借りしても? 『足』を取りに参りますので」
「ええ。送らせます」
窓の下に見えている駐車場を目で示して頷き、表情を引き締めた。
「気をつけてください。相手は――彼が予想通りに現れるなら、かなり強力なサイです。後方に徹するように、古市さんにも伝えてください」
「かしこまりました」
影山は、頬を一ミリも動かさずに、綺麗に三十度の礼をした。
電車を乗り継いでメモに記された駅に着いた時には、時刻は四時半近くなっていた。
伊織は一度、ぐるりと自分の周囲を見回す。電車を降りて駅から出てくる人の数は、多くはなかった。その小さな波が過ぎ去り、駅前に停まっていたバスも出て行ってしまうと、辺りには車を停めて外で漫然とタバコを吹かすタクシードライバーと、植木に水をやっている果物屋の店員のほかには誰の姿もなくなる。自信はないが、誰かにつけられているような様子はない。
駅前のロータリーに近隣の地図を見つけ、駆け寄って哲也の手書きの地図と照らし合わせた。
倉庫や工場の並ぶ地域らしい。
距離は少しあるが、道筋は単純だ。五時には余裕で間に合うだろう。安心して、今度は携帯電話をポケットから取り出す。念のため電源を切っていることを確認し、少し迷い、そのままポケットにしまった。
目的の場所はすぐに見つかった。
門の脇にある看板は塗りつぶされているが、哲也の地図に載っている会社の名前が薄っすらと読み取れる。所々草の生え出ている駐車場に足を踏み入れる前に、伊織は一度、建物の全景を眺めた。
前の持ち主は移転したのか廃業したのか、何年も使われていないらしい廃倉庫。密会の場所にはおあつらえ向きだ。ドラマでも見ているようで、実感が湧かない。
小学生の頃一度だけ、当時一緒に暮らしていた祖父に遊園地に連れていってもらったことがある。その中で、有名な童話の主人公になり切って、物語に出てくる場面を模した空間を辿りながら主人公の冒険を追体験するという施設があった。ジェットコースターの高さと乗客の悲鳴に恐れをなして背を向けた伊織と祖父は、この施設が気に入って、一日の間に三回も出入りした。
あの時のことを思い出して、不謹慎にも苦笑が漏れそうになった。
けれども――と、伊織は姿勢を正す。
これからこの中で会うのは、海賊の服を着せられた人形でもないし、水先案内人としてメルヘンチックな衣装を身に纏った子供好きの無害な女性でもない。
自分自身にもコントロールできないほどの強大な、不思議な力を持った、そしてその力で家を燃やし人を殺し、警察や組織や社会の目から逃げている人間。
(それでも、哲也さんだ――)
伊織は、両の拳を握りしめた。相手は、血の繋がった従兄弟なのだ。犯罪者だと言われても、両親を――伊織にとっても恩のある夫婦を焼き殺してしまったのだとしても。見捨ててはおけないし、助けたい。そして何よりも、自分の身の回りに起きている出来事を、解決させたい。
周囲を窺いながら慎重な足取りで駐車場を横切って、建物にたどり着いた。壁面にいくつかの錆び付いたシャッターが並んでいるが、どれもぴたりと閉じられている。壁に沿って少し歩くと、数段程度の階段の先に鉄のドアがあり、ほんの少しだけ隙間が開いている。押してみると、重い手ごたえで動いた。
暗がりに目が慣れるまでに、少しばかりの時間があって。徐々に、視界がモノクロの建物内部を認識し始める。誰もいない。左右には、狭い間隔でドアが並んでいるようだった。突き当たりには自動ドアだったらしい出入り口があり、奥へと続いている。
暗い通路を、足場を探るようにゆっくり歩きながら、突き当たりの自動ドアに達する。もちろんそれは、自動では開かなかった。力任せにドアを動かす。さほどの気合いも腕力も必要とせずに、それはゆっくりと右にスライドする。恐る恐る顔を覗かせると、広い空間が目の前に広がっていた。
「……哲也さん……?」
試しに小さな声で呼んでみる。返事はない。広い空間は倉庫スペースのようだが、誰の姿もない。もう少し声を上げる。
「哲也さん……」
呼びながら、倉庫スペースの内部へ足を踏み入れた。




