69.裕介は自分に問いかけながら。楠見はキョウに「物事の順序」を諭す
教室の廊下側の窓から、峰尾裕介はさり気なく一年五組のクラス内部を見渡した。
教室に出入りする生徒たちで賑わう、昼休み後半の廊下。階段に近い五組の前は、いろんなクラスの生徒が通るので、見慣れない八組の生徒が一人佇んでいても気に留める者はない。
それでも裕介の心の中は、後ろめたいような気まずいような居心地の悪さでいっぱいで、息が詰まった。
ぐるりと一周見回したところで、目指す人物の姿を見つけ、見つけてしまったことに心臓が高鳴る。
目的の人物――相原伊織は、窓際の一番前の席を立ちあがり、廊下に向かって歩いてこようとしていた。
週の初めに配られた中傷ビラに載っていた写真でしか、彼の顔を知らない。かすかに哲也に似た面差しに見えなくもないが、どことなく気難しそうで屈託を背負ったような印象の哲也とは違い、こちらは見るからに善良そうな、害のなさそうな顔立ち。だが――その雰囲気にはそぐわない目の横の小さなアザと口もとの絆創膏が、妙なギャップを作っていて目を引いた。
ドアに向かってくる伊織から逃げるようにして、一度、階段のほうへと身を引っ込める。
誰も自分に目を向けていないことを確認し、ポケットから紙切れを取り出して、開いてこっそり見る。昨日の夜から何度も開いては見て、さして多くもないその内容はしっかりと頭に染み付いてしまった。
「五時に待つ。哲也」それだけの文と、待ち合わせ場所の住所。哲也が「待つ」としているのは、ここからでは電車を乗り継がなくてはたどり着けない、東京都に近い神奈川県の端だ。そして下半分には、駅からの道筋を示す簡単な地図。
ポケットから紙切れを取り出したままもう一度一年五組の教室をうかがい見ると、伊織は廊下に並べられたロッカーのひとつを開けて、数冊の本を取り出していた。
声を掛けるなら、チャンスだった。
「ほかの人間に気づかれないように」と、哲也から言い付かっている。呼び出しは駄目だし、呼びとめる声を人に聞かれてもならない。相原伊織に直接声を掛けなければ。
(だけど、本当にいいのか――?)
相原伊織という人間に危険はないか? 哲也は伊織と会えた後、どうするのか? 哲也のことで何かあれば知らせると、楠見にした約束は……?
決断をまとめ切れずに、紙を持った手をポケットに入れ、ポケットの中でその紙を閉じたり開いたりしながら立ち尽くす。そのうちに、相原伊織はロッカーの扉を閉じ教室へと体を向けた。思わず、体が動いた。
(本当に、いいのか――?)
相原伊織は両腕に数冊の本を抱えドアのところまでやってきて、行く手を阻む形で目の前に立った裕介をチラリと一瞥する。裕介は考えをまとめる間もなく、
「あ、相原――」
(いいのか――?)
突然呼びとめられて、驚いたように目を見開いた伊織。わずかに緊張した様子で、本を抱えていた腕に力が入ったのが分かった。
(いいんだ――俺は、この件から早く解放されたいんだ)
「その……ちょっと、いいかな……」
(この紙を渡せば、後は哲也さんとこの伊織って奴の問題だ。俺は取り次ぐだけだ。もともと大して関係なんかない問題に巻き込まれていただけで――)
「あ、相原哲也さんから、その……伝言を預かっていて……」
口の中でボソボソとした調子で言うと、相原伊織はさらに目を見張り、裕介へと体を向けた。
「ESPメソッド?」
焼きそばパンの袋を引き裂きながら、ハルが訝しげに繰り返した。
「んだホレ……ハイおホレーリング?」
クリームパンを頬張って、もごもごとキョウが聞く。
「……お前はまず食い終わってから、日本語を喋れ」楠見はキョウへと苦い視線を送って、ハルへと目を戻しながら。「ESPメソッドって呼んでるらしいがな、要はゼナーカード――ESPカードを使った、よくある透視やテレパスのテストみたいなやつだと思う」
「それを、その学習塾でやってるの? サイでもなく、一般の生徒たちに?」
峰尾裕介や相原哲也が通っていたという、学習塾である。前日中に秘書の影山に調べてもらった情報と、今日の午前中の調査で、昼休みまでに大まかな輪郭が見えてきた。と言っても、おおかた予想していたことがぼんやりと裏づけられた程度には過ぎないが。
「ああ。ほかにもいろいろやってるらしいが、例として公開している情報はこの程度だ。そういった、サイのテストやトレーニングと似たようなコトをな、『集中力を養う訓練』『能力を伸ばす訓練』として毎回の授業の前に一定時間行っている」
「集中力を養ってるって見せかけておいて、実際にはサイテストのデータを取っているってこと?」
楠見の説明する合間に要領よく焼きそばパンを食べ終えて、ハルはコーヒーカップを口もとに持っていきながら眉を顰めた。
「そんで、塾に通ってるヤツらん中からサイを見つけんのか?」
キョウはそう言って、次のコロッケパンに取り掛かる。
「そうだな。さらには毎日トレーニングすることで、能力を持っている者は少しずつそれを引き上げられていく。個人差は大きいが、この方法がピタリと嵌る者がいれば、潜在から顕在くらいまで伸びるだろうな」
「ひららいあいらりは?」
「……だから、食ってから喋れ。日本語を」
「つまり、本人が自分でも知らない間に、サイの能力を開発されているってこと?」
「そうだろうな。本人への『告知』が行われているかどうかは知らんが、大概の生徒は知らずにやっているんだろう」
ソファにもたれ、腕を組んで楠見は深く頷いた。
「それって、いいの? 詐欺にならない?」
ハルはますます眉間のシワを深くして、チョコチップメロンパンを手に取る。
「詐欺にはならないさ。短時間に集中して行えば、実際に集中力は上がる。同じような効果を狙っていろいろやってる塾や学校はたくさんある。簡単な計算問題だとか、裁縫、囲碁、短文暗唱、写経でも書き取りでもいい。それがたまたま、サイのトレーニングに使うみたいなモノを使ってるってだけだ。そのテスト結果を別の用途に利用してるのは問題だが、塾内でデータを取るだけなら表沙汰にもならない。それにな――」
ソファから背を起こして、楠見は腿に両肘を置き前傾姿勢になった。
「『あなたのお子さんには特別な才能があります』なんて言われたら、悪い気分になる親もそういないだろう。むしろ、このトレーニングには意味があるって思いたがって、プラスに受け止めるだろうな」
そのままカップを取り上げて、コーヒーを一口飲む。
「そもそもここの学習塾は、小・中・高校までの受験指導……メインの生徒層は幼稚園児から中学生までの子供たちだ」
テーブルに置いた資料を示すと、ハルとキョウの目は同時にその紙に落ちた。ホームページをプリントアウトしたものだ。神奈川にある本校――相原哲也の家からそれほど離れていない場所だった――の、白壁の校舎の写真が大写しに載っている。
私立、国公立一貫校受験を目標とした、早期教育に主眼を置いた学習塾のようだった。大学受験の勉強をする高校生も在学するようだが、小中学校から通っている生徒が引き続き自習スペースのような感覚で利用する程度らしい。
「大学受験となると『勉強』になるがな、小・中学校受験の準備はどちらかといえば『知育トレーニング』に近い。狙いが『集中力』とか『知能』、『創造性』、『社会性』とか、そういう漠然としたものならな、なおのこと、目新しく個性的で『原理はよく分からないけれどなんとなく効果がありそうなもの』ってのが受ける。サイの能力を鍛えるのも集中力や知能を育てるのも根幹は同じと考えれば、サイ・トレーニングはサイの能力を持っていない子供の成長にも悪い影響は与えない。まあ、最初から『超能力のトレーニングをします』って言ったら、いかがわしいなと思われるだろうがな」
「そうやって、哲也くんたちを『発掘』したわけだ」
目を細めて、資料に載っている学習塾の校舎を睨むハル。
「ああ。船津さんを通して聞いてもらったが、シバタもアキヤマも、この塾を利用していた。水島理恵子は体験講座に出たことがあるそうだ。もっとも、本人たちはこのトレーニングにそんな意味があるなんて知らなかったようだが」
小さく息をつく。サイに限らず、広い意味での「能力」を鍛えられた者もいるだろう。このメソッドを採用している一点において、件の学習塾を非難することはできない。また、サイの能力を早い段階で発見し、正しい使い方を教え導くことができるならば、それもまた間違ったこととは言えない。
現に峰尾裕介は――本人がどの程度事情を知っていたかは分からないが――、おそらく塾で能力を見出され、指導者を得ることができたために、大きなトラブルも苦労もなく正しく能力を身につけることができた。
相原哲也にしても、中学時代の「事件」はあったものの、今回のことさえなければサイとして理想的な道を歩んでいけたのかもしれない。
(ただな――)
楠見は再び腕を組み、テーブルに置かれた資料を睨む。この学習塾で得たサイのデータが、能力開発の実験台を得るために使われた。結果、本人には知らされずに実験は行われ、将来のある若者に犯罪を起こさせることになってしまった。これは、許されることではない。
「けどさ」
コロッケパンに続き、カスタードフルーツパイを二口ほどで食べてしまったキョウが、次のピザトーストの袋を開けながら声を上げる。どうでもいいが、楠見は気になった。
「……お前なあ、食べる順序を少し考えたらどうだ。どうしておかずパンとおやつパンを交互に食べる。普通はおかずパンからだろう。それで、デザートにそのホイップとかカスタードとかチョコとかが入ったヤツをだな……」
「ん? なんか手に取ったから……」
「物事には適切な順序というものがあるんだ。フルーツは後のほうだと俺は思うぞ。それで? 『けど』、なんだ?」
「あんおはへいほんらほほひへんら?」
しまった――。楠見は心の中で頭を抱えた。貴重なキョウがマトモに喋れる時間を、どうでもいい小言に費やしてしまった。
「悪かった。少し待つから、それ食い終わってから言ってくれ」
「つまりね、その学習塾は何のためにそんなことをしているのかって言うことがキョウは聞きたいんだ。ね?」
「ほうら」
ピザトーストをくわえたまま、キョウはこくりと頷いた。ハルは楠見に向き直って、首を傾げる。
「六年前――哲也くんや水島理恵子さんの頃は、緑楠学園にスカウトするサイを見つけるためだったとして……」
言いながらカスタードアンパンを手に取って、袋を開けずに手で弄びながら視線をさまよわせて。
「――楠見が『本店』を離れてからは、緑楠をサイの訓練校にできなくなった。なのに、今でもサイを集め続けているわけでしょ?」
「ああ。シバタがその塾にいたのは中学二、三年の頃だっていうから、俺が『本店』を離れた後だな。それ以降も、学習塾は塾内にサイをプールしているのかもしれない」
「緑楠の代わりに、その学習塾をサイの訓練校にしようとしたのかな……芽のあるサイを見つけたら、緑楠に行かせるのをやめて、ダイレクトに『本店』や……あるいは静楠学園に入れるとか……?」
「昨日の辻本という女性、それにスガワラ、そして哲也くん。彼らが繋がっているんだとしたら、この学習塾と『本店』は無関係じゃないってことなんだろうが――しかし、俺はこの塾のことは何も聞かされていなかったがな」
「ふふいあひららいほろばっはりゃれーは」
ピザトーストの最後の大きな一口を口に押し込んだキョウが、何を言っているのかよく分からないが、なんとなくあまり良い内容ではなさそうなのでスルーすることにした。が、ハルがご丁寧に訳す。
「『楠見は知らないことばっかじゃねえか』ってさ」
「ほうら」
楠見は大きなため息をついた。
「まったくだよ。俺、『本店』を離れる前からあんまり信用されていなかったのかな……」
少々落ち込んでしまった楠見の様子に、ハルとキョウは顔を見合わせる。
「まあ、な……『本店』と縁を切ったのは六年前だが、それより前は、俺は日本にすらいなかったんだよ。前にも言っただろうが、俺が『本店』を直接知ってるのは、神戸にいた中学一年の頃までだ。その頃は子供だからって知らされていないこともあっただろうし、離れている間にもいろいろあったんだろうな。そして、日本に戻ってきて『本店』の仕事をしようとしていた矢先に事件があって。その『いろいろ』を聞かされる前に、俺が『本店』を出ちまったんだな……」
決別したことに悔いはないが、一切の事情を引き継ぐ前に背を向けてしまったのは早まったと思う。知っていれば、後々こんな問題が起きることもなかったかもしれない。
「……若かったよな、俺……」
ハルとキョウがまた顔を見合わせるのを、視界の端に引っ掛けつつ、楠見はもう一度大きなため息をついて両手で顔をこすった。
「ともかくな、この塾でどういうことをしていたのか、どのくらいの期間それが行われていたのか、そうだな……峰尾くんあたりから、ちょっと詳しく話が聞きたいな」
「そうだね、それに……」
ハルがまた目を細めて、拳を顎に当てながら、
「中西くんにも、もう少し話を聞いたほうがいいかもしれないね」
「昨日話していた、クラスメイトって子だよな? 伊織くんの喧嘩相手っていう」
「うん。そのESPメソッドってのはさ、潜在的なサイも検出できるってわけでしょ?」
「ああ。実際に『発掘』されるサイのほとんどは、潜在的なものだと思うよ。能力を発現しているサイが、そうそこらにいるもんじゃない。『本店』みたいな大きな組織じゃ、潜在レベルのサイを見つけて育てるんだ」
「だとしたら、中西くんもそうじゃないとは言い切れない。潜在レベルなら俺にも分からないし。伊織くんや……ううん、それより峰尾くんって人と同じように、塾関係者を通して勧められて、サイとしてこの学校に入れられたってことはないかな」
「あり得るな」
腕を組んで、ひとつ唸る。
「それってさ」次のパンをテーブルから取り上げながら、キョウも眉根を寄せた。「峰尾や中西ってヤツのほかにも、その塾からこの学校にサイが入れられてるってことかな」
楠見はキョウの手に取ったうぐいすパンに目をやりながら、もうひとつ唸った。
「……あり得るな」
「うひゃー」棒読みに嘆き声を上げてハルは首を仰け反らせ、宙を仰ぐ。「全一年生の中から、辻本センセイの組織が接触してくる可能性のあるサイを見つけなきゃなんないってこと? しかも潜在レベルの? いや、一年生だけとは限らないよね。途方もないね」
ハルと、うぐいすパンをくわえてハルにつられるようにして宙を見上げたキョウを交互に見ながら、楠見は嘆息交じりに、
「ゆくゆくそれもしなくちゃならないってことだがな、それよりまずは、哲也くん、それに伊織くんだ。哲也くんが全て話してくれれば、その後の作業もだいぶ楽になるだろうしな。それに――」
少しばかり声色を険しくした楠見に、二人の視線が戻ってくる。
「学校の中にまで入り込んで伊織くんと接触を試みたり、シバタを脅すのに拳銃を持ち出したり……相手もかなり焦りだしたな。焦ってボロを出してくれるんなら願ったり叶ったりなんだが、これ以上に危険な方法に出てこられちゃ困る」
楠見の知る「本店」ならば。ことを急ぐとしても、あからさまに法を逸脱する行為を働いたり、組織外の一般社会や一般人に対して強硬な手段に出ることはない。感性は合わなくとも、その理念を分かち合えなくとも、それでも常識の通用しない組織ではない。だが、どうもこの件に関わる連中からは、そんなスマートさが感じられない。
自分たちの目的を達するために、「良識的な」手段が通用しないとなれば、どういう方法に出てくるか。どうにも険呑な予感がした。
「ともかく、哲也くんを見つけることだけは、何を置いても急がないとな」
コーヒーを飲み干して、楠見は立ち上がった。
「すぐできることは、峰尾くんへの詳しい事情聴取か。それに――週末の動きを打ち合わせておきたいんだが、俺はこの後は外出なんだ。また夜にでも連絡するよ」
時計を一瞥し、そろそろ高校の昼休みが終わりそうなのを見て楠見は締め括ることにした。




