68.全ての謎を答えに導く鍵。そして、言づて
枕元に置いた携帯電話が、小さく振動している。
ベッドの中でまどろみかけていた伊織は、暗闇の中で光るそれを手に取る。
(……?)
零時三十分。
表示されたのは、「公衆電話」の文字。
(……!)
次の瞬間、伊織は跳ね起きていた。
ひとつ深呼吸をして。震える指で、通話ボタンを押す。バイブレーションが途切れて。通話口の向こうの沈黙が暗い室内に流れ込んでくるような。緊張。
「…………はい」
声を殺して小さく答える。電話の向こうはとても静かだ。
「……あの……?」
相手は答えない。それでも伊織には、電話の主に心当たりがあって。
だから意を決して、もう少しだけ声を大きくして、
「あの……伊織です」
電話の向こうで、相手がそれまで止めていた息を吐き出したような気配がした。そして――。
『……伊織? 伊織か?』
声を潜めるようにして、慎重に名前を呼ぶ。
声は、記憶の中にある哲也のものだった。
「そうです。あの、書置きを見てくれたんですよね……?」
やはり哲也は、伊織の部屋に来ていたのだ。どうやって中に入ったのか、それは分からないけれど――テレポーテーションができると、そういえば「夢」の中で哲也は言っていた。
『伊織……無事なんだな? 今どこにいるんだ?』
哲也の声は、安堵と緊張とが混ざった複雑な色をしていた。
「先週から、友達の家に泊めてもらってるんです。今もそこにいます」
『そう、か……すまない……』
そう言ったきり、哲也は少しの間押し黙る。伊織が自宅を離れている理由を想像しているのかもしれない。
哲也の謝罪がどの部分についてのことなのかは分からず、伊織は曖昧に「いえ……」と答える。
自宅を燃やしたことか。保護者となっている伯父夫婦を亡き者にしたことか。刑事が訪ねてきた件か。中傷ビラの内容か。盗聴器の仕掛けられている家に伊織を住まわせたことか。何者かに追われている件か。いや、そもそも伊織をサイ組織の件に巻き込んで、緑楠高校に入学させたことか?
今さらながら、伊織は「哲也に謝られる」必然性に気づいて、可笑しくなった。一連の出来事が誰のせいなのかなどと考えたことがなかったが、謝られて改めて考えてみれば、なるほど、元凶は全てこの従兄弟だ。
それでも。伊織は哲也を責めようという気分にはなれず、ベッドに座りなおしながら首を横に振った。
「俺は大丈夫です。あの……心強い味方がいるんです」
『……味方?』
「はい」
きっと、哲也さんのことも助けてくれます。そんな言葉を用意していた伊織だが、しかし、
『それは、本当に信用できる人間か?』
哲也の冷ややかな声に、その言葉は口から出てくる機会を失う。
「え? ……はい」
『緑楠の人間か?』
「はい――」
大丈夫、緑楠学園の副理事長と、サイを助けることを仕事にしている同級生たちです――。だから哲也さん、姿を見せて、彼らと会ってください。
そんな説明を重ねようとして、伊織も黙った。言ってはいけない。それは、本能的な直感だった。哲也の口調に、強い不信を感じ取ったのだ。
(何か――重要なことを、俺は、忘れている……?)
無意識に、額を押さえていた。何か……何か思い出さなければならないことがある。
昼間――あれは、一年八組の教室で――
――奴らは緑楠を、サイ組織の拠点にしようとしている――
あれは、哲也の言葉だったのではないか? いや、まさか。どうしてあの教室で? 否定しつつも、直感は頭から離れず、伊織は次の言葉を見つけられずに固まった。
そんな伊織の予感の通り、哲也は辺りを窺うような間を取って、それからさらに声を落とし、しかし強い口調で言った。
『緑楠の人間を信用するな』
「……え……」
『お前の『能力』を利用しようとしている人間がいる。そいつらは、緑楠学園と関わりを持っている。そして、俺もそいつらに狙われている』
「えっと、……それは……」
哲也は誤解をしている。そう、伊織は思う。
哲也の関わっている組織、そして伊織を追っている組織。それは緑楠学園と関わりがあるのかもしれないが、楠見たちはそれとは別だ。少なくとも、哲也がこんな風に警戒する必要のある存在ではない。哲也を助ける側の人たちだ。
伊織にはもう、それを疑う気持ちはない。
(だけど――)
自分に説明できるだろうか。哲也を説得すべき言葉を、伊織は持たない。入学からこれまでに自分の身に起きたこと、楠見たちから聞かされたことを、一から順に説明できたら……。頭の中を、言葉が渦巻いて、それを上手く取り出せないもどかしさに苛立つ。
『伊織――』哲也は電話の向こうで静かな声を上げた。『俺も、会って話がしたい』
声を潜めつつ。しかしはっきりとした口調で。
「あ、あの、はい……」
慌てて答えた。哲也の心が変わらないうちに、約束を取り付けなければならないと。会って話すことができれば。じっくり説明することができれば――。哲也はさらに声を落として続ける。
『お前一人で、来てほしい』
「あ、えっと……」
戸惑う伊織を説得する必要を感じたのか、哲也は言を継いだ。
『学校で、変なビラが配られただろう? 事件のことや、俺の中学の時のことを書いた……』
「……はい」
『迷惑かけて悪かったな。嫌な思いさせただろ?』
「えっと、いえ……」
伊織にしてみれば「嫌な思い」どころの話ではないのだが、ここで咎めるような言葉も出てこず、曖昧な相槌を打つ。
『あれは――本当のことだ。俺にはちょっと変わった能力がある。それに、お前にも……』
「……」
『全て話す。俺の能力も。お前の能力のことも、俺が知っていることは全部』
知りたい。と、伊織は強く思った。だから一言、答える。
「分かりました」
自然と、携帯電話にもう片手を添えている。この機械が、全ての謎を答えに導く大切な鍵でもあるかのように。
哲也は電話の向こうで一瞬押し黙り、それから小さなため息が聞こえた。そして。
『時間と場所を連絡する。そこへ一人で来てくれ』
哲也は念を押して、それから『気をつけろよ』と言葉を残し、通話を切った。
伊織は答えへの繋がりを断ち切られたその機械を、それでも両手で大事に持ち、しばらく座り込んだまま放心していた。
「まさか――俺のことを全部話したんじゃないだろうな」
例によって深夜になって裕介の部屋に現れた哲也は、緑楠学園の副理事長が哲也の行方を尋ねてやってきたと話した裕介に、これまで見せたことのない不信感を露わにした形相でそう言った。
哲也さんのことを助けてくれそうな人が現れたんだ――そう言うつもりで話し出した裕介は、哲也の険しい視線に、続く言葉を呑み込んだ。
「え、いや――」
「緑楠学園の人間を信用なんかするな」
「……だけど、哲也さんの言っているような悪い人たちには見えなかったよ。哲也さんと同じで、その、DVD? の、被害を止めようとしているんだ」
「そんなもんは方便かもしれないだろう!」
家人を気にして押し殺した声ではあるが、冷たい叱責の口調に、裕介は肩を震わせた。
が、そんな信用できない学園に裕介を入れたことも、今こうして招かれざる客として裕介に迷惑を掛けていることも、どの面から見ても哲也は裕介を怒鳴り散らしたりできる立場ではない。それに気づいたのか、哲也はすぐに気まずげに目を伏せた。
「すまない……けどな、ああいった能力開発やトレーニングや、そのためのプログラム研究は、組織じゃ昔っから行われていたことなんだ。組織内部の人間がそれをやめさせようとしているなんて、考えられない。お前を信用させるために、話を合わせたようにしか、俺には思えない」
「だけど、サイを助けたり、サイ犯罪を防いだりするのが仕事なんだって……」
「それが、俺のいた組織の仕事なんだ。本来はな。俺もそんな仕事にこの能力を役立てたくて組織に入ったし、能力を持っている人間がそういう仕事につければいいと思って、お前やほかのサイをスカウトしていた。ついこないだまでな……」
哲也は苦々しげに顔を背けた。
「だけど、今回のことで裏切られた……いや、元からそんな清く正しい組織じゃなかったって、知ったんだ」
「……」
「サイを助ける? サイ犯罪を防ぐ? そうだよ、やっている仕事のほとんどは、実際にそういうものだ。けどな、そんなのは表向きのことで、実際にはサイをいいように利用し金にしているだけだ。都合よく金になるサイを育成して、その課程で、今回の『人体実験』みたいなことをやって、失敗したサイは見殺しにされるんだ」
抑えた口調ながらも憤りを押し込め切れない哲也。それに言葉を差し挟めずにいる裕介を冷たく見下ろして、哲也は言う。
「楠見って名乗ったって言ったな。『楠見』はその組織のトップの家だ。お前に会いに来たって奴が、その家の誰かは知らないが、間違いなく中心人物だよ。――俺の命を狙っている、な」
「……そん、な……」
それが本当だとすれば、裕介はとんでもないことを喋ってしまったことになる。いや、実際に哲也のことで裕介の知っていることは多くはない。具体的な情報は何ひとつ話していなかったとは思うが、相手の知りたかった情報を気づかないうちに上手く引き出されていないとは言い切れない。
楠見に話した内容をひとつひとつ思い返し、心の中で検討する。
そうして思い返せば思い返すほど――あの学園副理事長と名乗った楠見という男に、哲也の言うような黒い部分があるとは考えられなかった。
(だって、助けてくれるって言ったんだ――)
哲也のことも。哲也の問題に巻き込まれる形になっている、自分のことも。
哲也が正しいことをしているにしても、その行動によって誰が助かるにしたっても、裕介にはなんの利益も恩恵もなくただ迷惑を被っているだけの立場なのだ。親を気にして哲也に気を遣って心を砕き、さらにはとばっちりで見も知らない組織から狙われる恐れもあるという。
そんな裕介を、哲也が助けてくれるか――?
楠見は裕介の立場と気持ちを理解し、手を差し伸べてくれた。そう、裕介は思った。これが信用できないというのなら、ほかにもう縋れるものはない。
「それじゃあ――」裕介は、次第に波立ってくる感情を抑えながら、言葉を絞り出した。「それじゃ、どうしろって言うんだよ。どうするんだよ、これから。哲也さんはどうなるんだよ。俺は、どうなるんだよ」
「裕介……」
「やっと……やっと、助けてくれるって人が現れて……どうにかなるかもしれないって思ったのに……」
言いながら、裕介は鼻の奥にツンとくるものを感じた。頭の中が熱くなってきた。
「ずっとこのままなのかよ。親にだって、そのうちバレちまうよ。哲也さんだって、いつまで逃げ回ってなきゃならないんだよ。何か解決する方法、見当ついてんのかよ」
一息に言う裕介に、哲也は押し黙る。
一連の問題を解決させる具体的な方法を哲也が持っていないことは、分かっていた。追ってくるという組織の目を逃れ続けるしか、哲也にはできない。組織の目の届かない遠くまで逃げてしまえばいいのかもしれないが、仲間だという人間や、自分のスカウトしたというサイの安全を確保できないうちに、それを全て振り捨てて逃げてしまうこともできないのだろう。
哲也にとってはそれは誠意であり、正義なのかもしれないが、どんどん危うくなっていく裕介の立場はどうなる?
そもそも哲也が裕介やほかのサイのことをどんなに気にしてくれているにしたって、哲也一人にそれを守り切る力があるのだろうか? 元々の哲也の能力は、裕介の持つ能力よりも小さなものだった。組織に入ってコントロールを身につけたとは言うが、それでも誰かと「戦う」ほどの能力だとは思えない。
さらには――哲也の語った内容を信じるならば――能力開発によって身につけた大きな能力は、だが、コントロールは効かず、感情に任せて暴発し親を焼き殺し、自身の体をも蝕み続けている。
「もう、いい加減にしてくれよ」
そう口にした言葉は、狙った以上に冷ややかなものとなって、哲也は痛みの走った顔をした。
言った裕介のほうが、堪らずに目を逸らす。それでも、言葉を続ける。
「学校を信用するな? その学校にこれから少なくとも三年間通う俺はどうなるんだよ……。あんなビラ撒かれて学校中から浮いちまってるあんたの従兄弟はどうなるんだよ……哲也さん、それ助けられんのかよ」
目に涙すら浮かんできた。情けない。高校生にもなって他人の前で泣き出してしまいそうな自分も、他人に頼るしか思い浮かばない自分も、哲也に手を貸してやるどころか責め立てるしかできない自分も――だけど、もう限界だ。
どうにか突っ張って裕介の心を支えていた細い棒切れは、たわんで折れかけていた。ギリギリのところで「もう大丈夫だ」という言葉を投げかけてもらったのだ。これからもう一度この脆弱な棒切れで自分を支え直すことなど、できないと思った。
「誰かに助けてもらうしかないんじゃないの? なあ、哲也さんのこと助けてくれるって言ってたよ。俺のことも、多分あんたの従兄弟のこともさ……会ってみなよ。話だけでもさあ……」
「……裕介……」
「テレポーテーションできるんだろ? 危ない奴だったら、その時に逃げればいいじゃん。なあ? 学校の副理事長なんだよ? いくらなんでもそんな変なことはしないよ。それで本当に助けてもらえたら、ラッキーじゃん」
哲也は困惑を浮かべた眼差しで裕介を見つめていた。けれどもう、哲也の気持ちなんかに構う余裕はなかった。楠見から預かった名刺を、哲也に押し付ける。
「その、仲間って人のことだってさ、結局は誰かに聞いたり調べてもらったりしなけりゃ分からないんだろ? 副理事長先生ならさ、本当に組織の中心っていうんなら、そのあたりのことも知ってるかもしれないじゃん。こっちからも探りを入れてみなよ」
心のどこかで、今の自分が傍から見たらどんな風に見えるのかを想像して。それはひどく醜く、薄汚いものなのだろうと漠然と自覚していたが、そんな自分に戸惑ったような視線を向けている哲也の心情を忖度する余裕などもうなかった。
な? そうしなよ? 必死で説得を続ける裕介と、楠見の名刺を、哲也は黙って見比べていたが、やがて、
「分かった」
そう一言だけ答えた。
「会ってくれるの?」
「……だけどその前に、従兄弟と……伊織と話がしたいんだ」
哲也はそう言って、自嘲めいた笑顔を作る。
「もしもその副理事長が俺の命を狙っている奴だったら、会った瞬間に俺はおしまいかもしれないからな。その前に、どうしても伊織に伝えなきゃならないことがある。それだけ済んだら、その副理事長って人のところに行ってみるよ」
「……おしまいって……そんな……」
「取り次いでくれないか?」
哲也は力なく微笑んで、メモ用紙とペンを要求した。手早く紙に、従兄弟への伝達を書き付ける。
「これを渡してくれ。明日の放課後、あいつが一人だけで会いに来るように……」
メモを折りたたみ、裕介の手に握らせる。
「明日? ……一人だけでって、それ……」
「ああ。……そうだな、昼休みか午後の休み時間か……できるだけギリギリに訪ねていって……伊織もな、学校に何か頼っている人間がいるみたいなんだ。でも、俺からしたら本当にそれが信用できる人間かどうか分からない。そいつらに気づかれないように、どうにか一人で来て欲しいんだ」
お前と同じで、危険も知らずに学園の奴らに丸め込まれちまってる――そんな風にでも言いたげに、諦めの混じった面持ちで哲也が言う。駄々をこねる子供を慰めて聞かせるような、何も知らず無茶な道理を訴える相手をいなすような、そんな瞳で。
自分がそんな理不尽な主張をしているのだとは思えなくて、あるいは思いたくなくて、裕介は言葉を捜したが、上手く見つけられずに口ごもる。
「だけど……」
「大丈夫だ。伊織に話したいことがあるだけだ。それに、組織の奴らは伊織の能力を利用したがっているんだ。万一俺といて見つかるようなことがあっても、あいつは危害を加えられたりすることはないだろう」
正面から裕介の目を見て、ふっと眼差しを緩めた。
「悪かったな。迷惑かけて。これで最後だ。頼んだぞ?」
自分が説得したのに――そしてその説得が聞き入れられたのに、胸に残る重苦しいものはなんだろう? 手に握らされたメモに、裕介は憮然と目を落とす。哲也はもう一度、頼んだぞ、と念を押して、ゆらりと体を持ち上げ、そして――消えた。




