67.伊織、もしも拒まれているのではないのなら
ベッドの上でごろごろと寝返りを打ちながら考え事に耽っていた伊織は、喉の渇きを感じて起き上がった。水でももらってこようか。
リビングに顔を出すと、椅子に座ってダイニングテーブルに向かいせっせと手仕事をしていたハルが目を上げた。なんだかいいにおいがする。
ハルは伊織の姿を見ると、思い出したように「あ!」と声を上げた。
「夕ごはん! 忘れてた。伊織くん、お腹すいたんじゃない? 準備するからちょっと待ってて」
「あ! いや、いいよ、その……」
夕食を急かしに来たみたいな感じになってしまい、伊織は慌てる。時刻は十一時を回っている。楠見を交えての話し合いの後、なんとなく食欲がわかず、伊織も今まで忘れていたのだ。
「コレだしさ……」
伊織は牧田に絆創膏を貼ってもらった口の端を指差した。口の中も切れていて、あまり物が食べたい状態でもない。
ハルはすぐに察して苦笑しながら立ち上がった。
「軽く夜食でも作ろうか。キョウも寝ちゃったみたいだし。お蕎麦とかでもいい? 冷たいほうが良さそうだね」
「あ、ありがとう。あの、何か手伝う?」
鍋を火に掛けだしたハルに問いながら、ダイニングテーブルに寄る。テーブルの上に、綺麗な形をした餃子が整然と並べられ積み上げられている。すでに大量にできているが、大きなボウルにはまだタネがたっぷり入っていた。
「凄い量だね。餃子……」
「うん。作り置き。一度に大量に消費するからね。時間のあるときにいっぱい作っておくんだ」
ハルはマメだ。伊織としては、尊敬以外の気持ちを感じない。
「あの、続き、手伝おうか? 下手だと思うけど」
仕事を中断させてしまった申し訳なさと、夜食ができるまでの手持無沙汰に、そう申し出る。ただ座って待つのは、――先ほどの一件からの流れもあって、少々気まずかったのだ。
「助かるよ。物凄い量だから」
そこまで察してかどうか、カウンターの中で手を動かしながらハルは微笑んだ。
手を洗ってきて椅子に腰掛け、ハルの簡単な指示を受けつつ餃子包みに挑戦する。大きさも形も綺麗に揃っているハルの餃子とははっきり区別の付く、イビツな出来になった。
そうしている間にハルは蕎麦を茹で上げ、冷まして皿に盛ってテーブルに出す。盛り蕎麦というより、薬味のバイキングとでも言ったほうが良さそうな豪華な「夜食」だった。
「ハルは本当に凄いな」
凄い、と思わせる要素はこれまでにも多々あったが、伊織は今までの中で一番深い感心を込めて、思わずそうつぶやいていた。
「何が?」
ハルは向かいの席に着いて、蕎麦を蕎麦猪口に取りながら不思議そうに首を傾げる。
「……なんて言うか……その餃子とかさ、この薬味とかさ、朝ごはんもだし……料理とか……ううん、考えてみると、家事全般、凄いよね。男子高校生なのにさ……」
チリひとつない床やピカピカに磨き上げられたキッチンを見回しながら、伊織は心から思う。
「ああ――まあ、もう何年もやってるから慣れてるし、キョウと二人だけだからね。伊織くんだって、一人暮らしなんだもん、そのうちこれくらいやるようになるよ」
軽い調子でハルは笑うが、伊織には自分も何年か一人暮らしをすればそうなれるようには、とても思えない。本業の主婦にしたって、みんながみんなここまでやっているわけではないだろう。少なくとも、伯母はここまでマメではなかった。やらなければやらないでも済んでしまうようなことがほとんどだ。
「あ、でも、むしろ……」
蕎麦を持ち上げたまま箸を止めて、ハルは上目遣いに考えながら口を開いた。
「一人だったらやらないかもね。二人だからかも」
そう言われても、埃だらけの部屋で洗濯物やゴミと同居しながらカップラーメンを啜るハルなどは想像できず、伊織は曖昧に首を捻る。
「……そういうもん?」
「うん。俺はキョウに『良い暮らし』をさせるんだ」
にっこり笑ってそう言うと、ハルは端然とした動きで蕎麦を啜った。
「良い暮らし……」
薬味のたっぷり入った蕎麦猪口に目を落としながら、伊織はぼんやりと繰り返す。
「うん。食べたいものがお腹いっぱい食べられて、なんの心配もなく帰ってこられる家があって、安全にぐっすり眠れるベッドがある。それってね、凄いことだよね」
こちらもどこかぼんやりとした口調で、ハルが静かに言った。
彼らの過去に、何があったんだろう。唐突に、伊織は思った。
ハルの言う「良い暮らし」が、何か切実なものに感じられたからだ。
普通の人間が当然のように持っているそれらを、彼らはきっと辛苦の末に手に入れたのだ。そしてそれは、当たり前に永遠に続くものではなく、しっかり掴んで努力して守っていかなければならないものなのだ。
何か根拠のある想像ではない。しかし、ハルの口ぶりから、そんな想像をする。
彼らの両親はどうしているのだろう。「二人で暮らし始めたのは『こちら』に来てから――」そんなことを、以前ハルは言っていた。それまでは? それに、どうしてそういうことになったのか?
いつか――もう少し親しくなって、打ち解けて、お互いに自分のことを話すようになって……そういう時がきたら、聞いてみるかもしれない。あるいは自分から話し出すかもしれない。
薄っすらと、そんな期待をしていたが、その時は来るのだろうか。
他人に対して、こういう種類の興味を持ったことはなかった。目の前で何を考えているのかだとか、自分の行動が相手を不快にさせていないかだとか、そんなレベルの関心しか他人に抱いてこなかったような気がする。
「生い立ち」だとか、「生活環境」だとかに裏打ちされた相手の内面にまで、踏み込もうとしたことはなかった。知りたいと思う相手がいなかったし、誰かのことをそう思う隙すらなかった。
――友達いなかったでしょ。
そう聞いた中西の言葉が、今さら改めて心を抉る。これまでに、他人とどんな人間関係も築いてこなかった――一緒に暮らしていた親戚とさえも――ことに、取り返しの付かない虚無感を感じた。
(彼らのことは、もっと知りたい……)
そして今、切実にそう思う。もっと知れるのではないか。近づけるのではないか。そう、たしかに感じた瞬間もあったはずだ。
初めて人の輪の中に入るという経験をした。ほんのわずかな時間ではあるが、そこは、とても居心地が良くて温かい場所だった。もっと入っていられたら、――自分もその輪の一部になれたら。そうなれるかもしれないような、おこがましい期待をしていたのだ。
だけど――。さっきのキョウの言葉は、拒絶だった。自分たちの世界に入ってくるな。線を越えるな。お前はそちら側から動くなと。
(一緒にいられたらいいって、思ったんだけどな――)
そして、その中で、本当の自分の能力を発揮する。
(本当の自分の能力だって?)
何を考えているんだ、伊織、お前らしくもない。お前は不器用で、要領が悪くて、なんのとりえもない平凡以下の人間なんだぞ? 忘れるな、分を弁えろ。拒まれているんだ。これ以上縋れば、見下げられるだけだ。
そんなもう一人の自分の声が、頭の中で毒々しい渦を巻く。
「ゴメン」
不意に、ハルがつぶやくように言う。
顔を上げると、心配そうに見ているハルと目が合った。
「え! 何が?」
「俺、伊織くんをモヤモヤさせちゃうようなこと言っちゃったかなと思って」
「……え? いや、違うよ、その……」伊織は慌てて、「ちょっと、考えちゃって……」
するとハルは、控えめに笑顔を作った。
「ゴメンね。伊織くんも、すぐに安心して家に帰ってぐっすり寝られるようになるよ」
ああ、と得心する。「なんの心配もなく帰ってこられる家」だとか「安全にぐっすり眠れるベッド」だとか。それらを「お預け」にされている伊織に気を遣ってくれたのだろう。
けれど、それは違うんだ。伊織の望む「良い暮らし」は、きっと人の輪の中にいることなのだ。いや、多分ハルやキョウも。家がピカピカに片付いているからじゃない。ふかふかのベッドがあるからじゃない。この家に帰りたいと思うのは、お互いがいるからだ。
「違うんだ……」
口にすべき言葉をまとめる間もなく、つぶやく。
ハルは目を少しだけ見開いて、物問いたげにわずかに首を傾げる。続きを促されているような気がして、やはりまとまらないままに吐き出していた。
「これが早く解決して欲しい、とか……早く家に帰りたいとか……じゃなくてさ。ああ、もちろん解決はして欲しいけど、解決しても、みんなの輪の中にいたいって思ったんだ」
「……輪の中?」
「うん。もしかして俺にもみんなみたいな『能力』があれば、これからもこの中にいられる資格ができるかなって思ったんだけどさ……」
「……」
「でも、俺、キョウに嫌われちゃったね」
ハルは目を瞬かせた。
「昨日……『サイなんか信じられない、馬鹿みたい』って言っちゃっただろ? それで怒らせちゃったのかな」
「キョウはそんなことで怒らないよ」
ハルはかすかに苦笑するような表情で、伊織を慰める。それが一層、後悔を煽る。
「でも、それで……だから、きっと、俺の封印は解かないって……俺、弱音を吐いて八つ当たりみたいなこと言っちゃってさ、俺の覚悟がないの、見抜いちゃったんじゃないかな」
「うーん……」一声唸りながら、ハルは蕎麦猪口と箸を置く。「キョウはね、純粋に……すごく純粋に、伊織くんのことを心配しているんだよ」
「え……」
「サイの大変さをよく知っているからね。それに、超感覚を持っている人は特に。……辛いよ」
真摯な目で、ハルは伊織を覗き込む。
「どうにも耐えられなくて、『こんな能力ないほうがいい』って、そう言って苦しんでいる人をたくさん見てきた。そういう人の能力を、キョウは斬ってきた」
「だけど、必ず悪いことになるって決まってるわけじゃないんだろ?」
「うん、でも――」控えめに笑って、「サイになるっていうことをね、キョウはそうポジティブに考えられないんだよ。伊織くんのこと怒っているだとか、嫌いだとか、そういうことじゃない。……伊織くん、上野のことね」
話がそこに飛んで、伊織は姿勢を正した。ハルもわずかに身を乗り出す。
「あいつ、殴っちゃったんだって」
「……」
「初めてだよ。あいつが仕事でもなくて感情的に人を殴るなんて」
苦笑しながら、ハルは続ける。
「言わないでいて、ごめん。伊織くんを元の生活に戻すためにね、同じクラスの、しかも多少は親しく話すような関係のクラスメイトと、お互いに気まずくなっちゃマズイだろってあいつは思ったんだ。隠し事なんかしないで全部話すのと……どっちが正解なのかは分からないけれど、まあバレちゃった今となっては、やっぱりごめん」
テーブルに両手をついて、ハルは軽く頭を下げた。
上野に対するわだかまりは、キョウやハルの気遣いに触れた温かさで、しばし見えない場所に押し流される。伊織は勢いよく首を横に振った。
「あ、謝らないで。あの……気を遣ってもらって、ありがとう」
「キョウはね」そう言って、ハルは片手で頬杖をついて伊織を正面から見た。「きみのこと、好きなんだよ」
意外な一言に、伊織は目を見張った。
「だから、自分と一緒にいちゃいけないって思ってるんだ。傷ついて欲しくないし、辛い目に合わせたくない」
「……いられない、のかな。一緒に。俺は弱いから……? 入れてもらえないのかな」
勇気を出して食い下がると、ハルは仕方なさそうに笑った。
「伊織くんは、ひとつ誤解をしているよ」
「……誤解?」
「うん。俺たちは、選ぶ側の人間じゃない」
意味を掴み損ねて、ハルの顔をまじまじと見てしまった。ハルは笑いをしまって、少しだけ寂しげに息をつく。
「伊織くん、俺たちは『裏側』の人間だよ。『表』の世界にいられる人を、わざわざこっちに引っ張り込むことはできない」
突き放すような言葉を選びながら、しかし、ハルの口調と表情は、決して冷たいものではなかった。以前――もうだいぶ前のことのような気がするが、いつだったか――そうだ、あれはキョウだった。同じように、突き放しながらも、こちらから歩み寄ろうと思えば進んでいける道を作ってくれていた。
引っ張り込むことはできない。
でも、もしも伊織がそこへ行きたいと思えば。手を伸ばせば。受け入れてくれるのだろうか。
傷ついたりしない。泣き言なんか言わない。もしも辛くても、もっと大きなものをそこで得られる。彼らと一緒なら。そう、覚悟を決めれば――?
本当に拒まれているわけではないのだとしたら。伊織の覚悟を示すことができるのならば。
哲也や伊織の今の問題を解決するためだけではなく、伊織の本当の居場所を手に入れるために……。
それきり感情を窺わせないごく小さな微笑を浮かべているハルと、もう一度目を合わせて、伊織は心を決めた。




