66.伊織の選ぶべき問題、キョウの説明するべき懸念
「伊織くん、最初に言っておく」
楠見は組んだ両手の上に顎を載せて、視線だけ伊織に上げた。
「きみの能力を封印した人間が誰なのかは分からないが、その人は、きみにとってその能力がないほうがいいと思ってそうしたのかもしれない。俺たちはサイの――特に超感覚という能力を持っている人間の大変さをよく知っているからね」
楠見はわずかにハルとキョウへと視線を動かす。ハルは伊織のほうを見て軽く頷いたが、キョウは不服そうに目を逸らしたままだ。
「使いこなすことができなければ、大変なことになる。――焼け跡で、伯父さんや伯母さんの身に起きた出来事を見たね。たとえばそういうことが頻繁に起きるとしたら、きみの心は耐えられる?」
伊織は唾を飲み込んだ。小さくひとつ頷いて、楠見は続ける。
「封印を解いてみないと、きみの能力がどんな種類でどの程度のものかは分からない。今とそれほど変わらない可能性だってある。けれど、きみの意思とは関係なしに、そこらへんで過去に起きた出来事だとか、他人の記憶だとか、そういうものがきみの頭に入り込んできてしまう危険もある。たまにかもしれないし、四六時中かもしれない。いずれにしても、封印を解けばきみには大きなリスクが生じる」
そこで楠見は間を置いた。伊織は楠見の話を咀嚼するように、言われた言葉をゆっくりと心で繰り返す。言葉の一切れ一切れを、裏返したり透かしたりするみたいにじっくりと検討し、頭の中に畳みこんでひとつ頷いた。
そして恐る恐る、尋ねる。
「……封印? を、……その、解くっていうことが、できるんですか?」
「たぶん、できる。そもそもその封印とやらは、すでに解けかかっているようだしね」
楠見は頷いて、視線だけキョウへと向ける。
「一番手っ取り早くて確実だと思われる方法は、キョウのタイマだ。きみの能力を封じているのは、おそらく誰かのサイの能力。それを消失させることができれば、きみの能力が開放される」
(俺の、能力を――解放……?)
彼らと同じになれるのだろうか? 彼らと同じものを見ることが、自分にもできるのだろうか。そうして輪の中に、入ることが――。けれど、
「駄目だ!」
キョウが楠見に向かって抗議の声を上げる。楠見はキョウに真剣な眼差しを向けた。
「キョウ、お前の意見は後で聞く」
「楠見……」
「ああ。異論はあるだろう。けれどこれは、伊織くんが選ぶべき問題だ。いろんな可能性と危険性を理解した上でな。伊織くん――」
厳しい口調できっぱりと言い切って、キョウの睨むような視線を振り払い、楠見は改めて伊織に向き直った。
「慎重に考えてもらいたいんだ。きみがその能力に耐え切れずに壊れてしまうようなことがあっては困る」
「俺は……」
伊織は様々な思いが脳裏を激しく行き交うのをぼんやりと認識しながら、その中で一番手に取りやすい言葉を掴んで口にした。
「もしも――俺が何かの役に立てるんだったら……何かしたいです。何ができるか分からないけど……何もできないかもしれないけど……でも、助けてもらうだけじゃなくて、みんなと一緒に、その……もしも俺に特別な能力があるんだったら」
決意と言うには頼りない、戸惑いを含んだ伊織の言葉を受け止めて、楠見は頷いた。
選択の余地があるのなら――。伊織は考える。伊織の「選択」はもう決まっている。
もしも本当に、自分の特別な能力を開放できるのなら。その能力を、誰かのために役立てることができるなら。――いや、自分がその能力によって自分を認めることができるようになるならば。
これまでと違う場所に行けるのならば、そこに居場所を見つけることができるならば、どんな困難にだって立ち向かえる、と、今の伊織なら思える。
しかし。
「俺、やらない」
唐突に、キョウが低い声で言い切った。
「伊織の封印解くの、俺やらない。タイマは使わない」
楠見に向けて言い放ち、それから伊織を一瞥して、そっぽを向く。
「キョウ?」
ハルが、気遣わしげに顔を曇らせて、声を掛ける。キョウは、視線を逸らしたまま。その瞳は冷たくて、感情が読めない。
「けどな」楠見がキョウへと体を向けた。「ほかのことはともかくとしてな、キョウ。哲也くんを見つけ出すことだけは、急がないとならないんだ。もしも伊織くんの力を借りることができるんだったら――」
「必要ない」
キョウは感情の窺えない声で、冷ややかに。しかしきっぱりと。
「……えっと」
伊織はキョウの横顔をに目をやったまま、次の言葉も動きも失った。
これまでとは違う自分になるんだと。そんな明るい予感のようなものに膨らみかけていた心が、みるみる萎んでいくのを感じた。胸の奥に風船でもあるように、それは、現実的な重さや大きさや、痛みをともなって。苦しくなる。
「お前は」キョウは顔を上げ、伊織の目を見据えて、「事件に巻き込まれてるだけなんだ。お前にやってもらうようなことはない。哲也のことも、お前のこと追ってる奴らのことも、俺たちでどうにかする。お前は普通にしてて、カタが付くの待ってりゃいい。これは――」
怒っているような口調でもない。静かな瞳で、ただ、突き放される。
「俺たちの仕事だ」
伊織の思考も、会話の糸口も断ち切るように、キョウは伊織の目を正面から見てそう言い切った。
拒絶、なのだろうか。自分たちの世界に入ってくるな、と。お前は仲間ではないのだ、これ以上踏み込んでは来るなと。
舌の奥に、苦くて冷たいものを感じていた。
そうして後悔が。背中に、肩に重く圧し掛かる。
昨日、彼らにあんな言葉を投げつけたから。
そうだよ、あんな伊織を仲間にしたいなんて、彼らが――キョウが思うはずがないだろう?
(謝らなくちゃ)
慌てて言葉を探す。まずはそのことを謝って、それから自分も何かしたいのだということを――。
「キョウ……あの、昨日はその……あの後で俺、考えて……」
押し潰されそうになりながら辛うじて絞り出された言葉は、しかし、キョウのやはり感情の窺えない鋭い視線によって遮られた。
「お前がどんだけ考えたって、分かんねえだろ」
「……」
「サイになるってのがどういうことか、分かんねえだろ。どういう風になんのか、何がどう大変なのか。お前、耐えられんのか? その前に、何に耐えなきゃなんねえのかも分かんねえんだぞ?」
伊織はまたも、言葉を失う。
場を取り成すように、楠見が両手を上げた。
「伊織くん――」
「……はい」
「キョウの言うことも正しい。俺たちにはきみの負うリスクを説明し切れない。俺たちが全力で守ろうとしたって、きみが傷つくことは避けられないかもしれない」
楠見はそして、三人の高校生を順に見ながら、締め括る。
「一旦、この話は保留にしよう。少し時間を置いて考えたほうがいい。伊織くんも。キョウ、お前もな」
一様に重苦しいため息をつき、リビングに沈黙が立ちこめる。いつもはこの辺でフォローを入れて空気を変えるハルまでが、腕を組んで目を伏せ何事か考え込んでいる。
なんとなく自分が原因なのだと察して、伊織は席を立つことにした。
(今回は、まったく――)
ハルは内心でため息をついた。
居たたまれなくなったようにしょんぼりと部屋に引き揚げていく伊織の背中を、見るともなく見送って。
(レア中のレアケースだ)
最初にキョウが伊織を受け入れたのも意外だったが、彼がサイだと分かった上でこちら側に来ようとするのを拒むというのも、想定外だ。
能力を発現してもいない伊織をサイの世界に引き込む必要はないと、そこへキョウの思考が行き着くのはよく分かる。
しかし、本人の希望を突っぱねたり楠見の依頼を拒否したりしてまでというのは、これまでのキョウからは考えられない。だいたいにおいて自分の意見を押し通すということを、キョウはしないのだ。軽い我がままを言ったり反抗したりすることはあっても、未来への展望に基づいた自分の意見というのを、キョウは基本的に持っていない。
(「能力を奪う」んじゃなく、「与える」なんて、有り得なかったもんな……)
他人をサイにするということに、そこまで強い抵抗を感じるものなのだろうか。キョウに聞いたってまともな答えが出てくるはずもない。本人にも多分、よく分からないのだ。キョウの心理の解読は、キョウ・ウォッチャーたるハルの仕事だ。
隣に座っている同い年の弟の複雑な横顔を、ハルはちらりと窺った。
「――そういや、夕めしがまだだったな。腹減らないか?」
なんとはなしに重くなっていた空気を破るように、唐突に楠見が場違いなことを言い出した。
ハルは目を上げたが、隣のキョウはそっぽを向いたまま黙り込んでいる。
「……ピザでもどうだ?」
宅配ピザのチラシは取ってあっただろうか、と考えてハルはソファから腰を浮かせかけたが、
「いらねえ」
キョウの一言で、また腰を下ろした。
「ラーメンはどうだ?」
楠見は食い下がる。が、キョウは視線も動かさない。
「いらねえ。もう寝るし」
楠見が助けを求めるような目をハルに向ける。キョウを不機嫌なまま放っておくのはハルとしても本意ではないので、仕方なく協力することにする。
「キョウ、明日の朝ごはんはめかぶの味噌汁だよ」
「ん」
駄目だ。重症だ。
楠見は少し黙って考え込んだ後に、「そうだ」というように笑顔で身を乗り出した。
「おい、スプーン曲げの練習はどうなった。学校のほうもちょっと落ち着いてきたんだ。いつでも多摩川に連れてってやるぞ」
ハルはまた、心の中で大きなため息をついた。案の定キョウはそっぽを向いたままで、さらに不機嫌そうに声を低める。
「スプーン曲げは、もういい」
「……どうして?」
一生懸命に脳内検索して見つけ出した「キョウが機嫌を直しそうなネタ」をあっさりと却下されて、楠見は本気で疑問に思ったようだ。
「いいっつったらいいんだよ」
楠見は不審気に眉を寄せ、またハルに視線で救いを求める。
楠見の馬鹿、鈍感、デリカシーなし。ハルは罵倒を込めた視線を送るが、楠見はキョウが伊織を喜ばせようと思ってスプーン曲げの練習などを始めた経緯を知らないのだ。ハルの顔まで険しくなっているのを見て、困った顔をしている。
「哲也が見つかれば――」
視線を向こうへやったまま、キョウがぽつりと言葉を落とした。
「伊織の封印を解く必要はなくなるだろ?」
「どうかな――」楠見は顎に手を当てた。「伊織くんは、そのこととは関係なしに、本来の能力を解放したいって思ってるかもしれないしな。それでもお前はやらないって言うのか?」
キョウはむすっと黙っている。
「封印が解けかけているって、お前も言っていただろう? 放っておいてもそのうち能力を取り戻すんじゃないか? 中途半端な状態が続くんじゃ彼も不安だろうし、それに突然能力を発現させて彼が対処に困る前に、どうにかしたほうがいいように俺は思うがな」
「あの時は、たまたまだろ?」
「だけど、そういうことが一度だけでなく時々あるわけだ。その上、『あのDVDを見たから』って理由なら、これから先こういうことが増えないとも限らない」
「……あいつがサイコメトリーの能力を使えたら、仕事させんのか?」
楠見は意外そうに、キョウを見つめた。
「彼が希望するならそれも考えるが……仕事に使えるほどのものかどうか、まだ分からないよ。だけどな……」
そう言って、楠見は腿に肘を置いて身を乗り出した。低い視線からキョウを覗き込む。
「彼は――『本来の能力』と一緒に、『本当の自分』みたいなのを封じられているような気がするんだ。自分に自信が持てないのも、どこか遠慮がちで何かにつけて及び腰なのも――そんな気がしないかい?」
「……」
「そんな彼が、初めて『自分の能力を役に立てたい』と自分から言ってきた。もしも能力を使って彼にしかできない仕事をこなすことができれば、伊織くんは人間としても解放されるのかもしれないよ?」
キョウが答えないと見ると、楠見はまた少し体を起こして、
「どちらにしても、見えている問題が解決したらすぐに放り出すってわけにもいかないだろう。彼はサイなんだ。今、彼を狙っている人間を見つけ出せたとしても、それで完全に終わりと言えるかどうか分からない。今後も様子を見守る必要はある。だったら近くにいてもらったほうがいいと思うけどね」
「伊織、仲間にすんのか?」
「お前は伊織くんを仲間にしたくないのか?」
「ない」
目を逸らしながらもきっぱりと言うキョウに、ハルと楠見は一度、顔を見合わせた。
「お前は……伊織くんのことが嫌いか?」
「……そうじゃねえ」
「だったらどうして、彼を拒むんだ?」
キョウはしばらく考えているようだったが、やがて顔を上げた。
「だって……あいつには……あいつの元の生活とか、期待してたこととか、あんだ。そこに戻すんだろ? それが……俺たちの仕事だろ?」
「もちろん、彼が仕事なんかしたくないと言えばそれでいいし、仕事をしながらでもほかにもやりたいことがあればそちらを優先させてもらうさ。お前やほかのみんなにも、最初からそう言っているだろう?」
「けど、それでも、能力を解放したらあいつずっとサイと繋がってなきゃならねえじゃん」
「現に彼自身がサイなんだ。仕方ないだろう」
「サイのことは、あいつの考えてた『これからの生活』の中に入ってなかった。それ、こっちに引き込んだら、『元に戻す』ってことになんねえじゃん」
キョウにしては、頑張っている。明日の朝ごはんのめかぶを増量してあげよう、とハルは思った。
そこは楠見も同感のようで、説得の姿勢を保ちつつも表情を和らげる。
「そりゃあ――彼はサイのことなんか、これまで全く縁がなかったんだから、考えたことはなかっただろう。……でも、聞いたらそれもいいなって思わないとも限らないさ。お前だって、今週の予定に『焼肉の食べ放題に行く』は入ってないだろうけど、いま俺が『行くかい』って誘ったら検討くらいするだろう?」
焼肉の食べ放題、という言葉に、キョウはピクッと反応した。
「……行くのか? 焼肉……」
「だけど、予定に入ってなかっただろう?」
恨めしげな目で睨むキョウ。楠見はキョウが食べ物の話に乗ってきたことに安堵したように、小さく苦笑して、
「いいよ。連れてってやるよ、焼肉」
「焼肉食ったって、伊織の封印は解かない」
「そんな交換条件は持ちかけないよ」
苦笑を続けつつ、「だけど――」と繋げる。
「『元の生活』とか『期待していること』とか、そういうのを考えあわせた上で、伊織くん自身が自分の能力を解放したいって思っているんなら、それはお前が否定する筋のものじゃないだろう? どうしたいかはまず、伊織くんが決めなければならない。お前が彼の封印を解きたいか解きたくないかは、その次の話だ。少なくともその前に、伊織くんの選択を聞いてあげるべきだと俺は思うぞ」
「あいつはどうなるか分かんなくて、その気になってんだ。きっと後悔する」
「そんなこと、誰だって何事だって、やってみなくちゃ分からないさ。お前も伊織くんの意見をしっかり検討した上で、それでも反対するんだったらその理由をお前から彼にしっかり説明するべきじゃないか? 理屈抜きで『封印は解かない』『仲間には入れない』じゃなくてさ」
キョウには難しい注文だ。けれど、――いい機会だと、楠見も思っているのかもしれない。
「そうでなきゃ、伊織くんは理由も分からず拒絶されてると思って傷つくよ。自分が嫌われているんだと思うかもな」
少しの間があって、しかしキョウは、伊織を心配している人間のものとは思えない冷ややかな口調で言った。
「そう思わせといたほうがいいだろ」
「どうして?」
驚いたような声を上げた楠見。ハルも思わずキョウを見る。
「だって、あいつ、俺たちのこと誤解してる。だから心配なこと話したって、きっとそれでもいいって言うよ」
「誤解って?」
「特別な能力を使って、凄い仕事をしてて、いいなって思ってるよ」
「……それは、誤解なのか?」
キョウはもどかしげに目を伏せた。
「誤解だよ」
「特殊な能力を使って、凄い仕事をしてるんじゃないのか?」
「違うよ」
もう一度、楠見はハルと顔を見合わせた。
そうしてまた、そっとため息をついて。
「なあ、キョウ。俺はな、お前に楽しい仕事をさせてるとは思ってないよ。そこらへんの他人に胸を張って語れることはないだろうし、仕事を成し遂げてもまともに感謝されることは少ないだろう。けどな――」
楠見は卵から孵ったばかりのヒヨコにでも話しかけるように、柔らかく言葉を継ぐ。
「――お前はこの仕事が嫌いか?」
「そうじゃねえよ」
かすかに慌てたように、キョウは楠見に目を向けて否定する。
「それなら、お前の今いる場所は、そんなに嫌な場所か? 周りのみんなのことが嫌いか?」
「そんなんじゃねえけど……」
キョウの声は弱々しくなった。楠見に向けていた目を、気まずげに伏せる。
「仲間に入りたいっていう人間を引き止めて、ここはよくないからやめとけって警告しなけりゃならないほど、酷いかな。お前の今の『居場所』は」
「……」
「お前たちは、ほかの誰も持っていない素晴らしい能力を持っていて、誰にもできない仕事をしている。表立って言えやしないだろうが、誇りに思ったっていい。俺はそう思ってるよ」
「……」
「けど……お前がまだそう思えないなら、それは俺の力不足ってことだな」
声を低めてそう言うと、キョウはまた困ったように眉を寄せて楠見に顔を向けた。何か言いたげではあるが、抗議も反論も、しかし言葉にはならないようだ。
楠見はそんなキョウを、優しく見つめて。
「お前との『約束』を果たすには、まだ時間が掛かるな」
そう言ってソファから立ち上がる。
「帰るの?」
「ああ。遅くまで悪かったな。例の学習塾――創湘学館のこと……それはまた明日、話そう。明日になれば資料が揃うだろう」
「了解。昼休みに行くよ」
「ああ、頼む」
見送りに立ち上がったハルの隣で、まだ不機嫌そうに――あるいは悲しそうに目を伏せているキョウ。楠見はそれを一度振り返って、
「キョウ。それでもな、伊織くんは、サイだ。サイを守るのが、俺たちの仕事だろう?」
キョウは、視線だけ楠見へと上げた。
「今ある問題からだけでなく、これからも、な。お前には、彼を守ってあげることができるだろう?」




