65.きみは、そのDVDを見たんだね?
窓に灯りがともっているのを一瞥し、伊織はエレベーターに乗って三階の廊下に降りた。ハルは伊織がいなくなったことに気づいているだろうか。キョウも帰っているかもしれない。黙って出かけてしまった後ろめたさに、緊張しながらドアノブへと手を伸ばした瞬間。唐突に勢いよくドアが開いて、伊織は慌てて一歩さがった。
「伊織くん……」
出迎えたのは、心配そうに眉を寄せたハルだった。
「あ、と……ハル、た、ただいま……」
「どこに行ってたの? 部屋にいるんだとばかり思ってて、俺」
薄く笑って、ハルはドアを開け放って身を引き、伊織を迎え入れる。
「心配したよ」
「ご、ごめん……」
ハルに背中を押されるようにして室内に入ると、リビングの出入り口に立っているキョウと、ソファの前で腕を組んで立っている楠見に迎えられる。
またキョウに叱られるかと身構えたが、キョウはひとつ息をついて何も言わずに身を翻し、リビングに入っていってソファに座った。楠見がそれに軽く目をやり、すぐに伊織に視線を戻して、気遣うように、
「大丈夫かい? いないって言うから、捜しに行こうかと話していたんだ」
「あの……すみません……」
「いいよ、無事なら」気まずい雰囲気を解きほぐすように言ったのは、ハルだった。「ね、それよりさ、学校での伊織くんの武勇伝、話しちゃったよ」
にっこりと言うハル。顔のアザや絆創膏を思い出して、伊織はバツの悪い思いで顔を伏せた。
「ああ。聞いたよ、取っ組み合いの喧嘩だって? やるねえ、きみも」
まだどこか気遣わしげに、けれど苦笑交じりににソファに腰を下ろした楠見。
キョウはすでにこちらのことになど関心がないように、黙って目を逸らしたまま。
出ていったのを叱られることはなくて、それなのに、伊織の胸の内に広がったのは安堵などではなく。
(違うんだ……)
落胆。そのほうが大きくて、重くて。
(そんな風に、気を遣って慰めてもらいたいんじゃないんだ)
心の中に立ち込めだした暗い靄のようなものを振り払いたくて、それで伊織は、ポケットの中から一枚の封筒を取り出した。
「あの……これ」
言いながら、おずおずとそれを楠見に差し出す。
「さっき、学校でその……ちょっとあって……」
説明に困ってハルへと目をやると、全部話したよ、というようにハルが控えめな微笑みで頷いた。
「これは――?」受け取った楠見は訝しげに封筒を開け中身に手を掛ける。
「それでえっと……その時、辻本……先生? から言われたの思い出したんです、『DVDを見ただろう』って」
伊織がそう口にするのと、楠見が封筒から一枚のDVDを取り出すのと、同時だった。
引き出した円盤に視線をやって、楠見が動きを止める。
気づけばハルもキョウも、呆然としたように楠見の手のDVDに目を向けていた。
時間が止まったかと思うような一瞬の沈黙の後。ハルが駆け寄ってソファの後ろから、キョウはテーブルに手をついて、二人で身を乗り出しまだ止まっている楠見の手元のDVDを覗きこんだ。
「これ……!」ハルが慌てたように言って楠見の手からそれを奪い、明りにかざす。「003……これ、あのDVD?」
驚愕の表情で顔を見合わせる三人。
「えっと……?」
想像を大きく上回る反応に、伊織は戸惑う。
「伊織くん!」
「は、はいっ!」
楠見の勢い込んだ声と鋭い視線に、伊織は叱られたようにピンと背を伸ばした。
「これをどこで?」
「え? あの……たぶん従兄弟の忘れ物で、アパートにあって……引っ越してきた最初の日に」三人の視線が集中したので、焦って必死で言葉を継ぐ。「た、たしか本棚の隙間に落ちてて、……えっとそれで、なんのDVDだろうって思って見たんだけど、やっぱり俺のじゃないみたいだったんで、しまって。それきり……」
聞きながらますます三人が目を大きく見開いたので、伊織はやはり何かを責められているような気分になって身を縮めた。
「す、すみません……俺、そんなに重要なことだって思わなかったから、今まで忘れてて……」
「見たのか?」
「……え?」
愕然とした面持ちのキョウに、さらに伊織はおずおずと顔を上げる。
と、キョウは立ちあがって伊織の肩を強く掴んで顔を近づける。
「お前、このDVD再生して、見たのか?」
「み、見た……っていうか……」剣幕に押されて、「最初だけしか覚えてないんだけど……途中で眠っちゃったみたいで、俺……」
なにやら申し訳ないような気持ちになって、最後のほうは小さな声になる。
「火は……つけられるようになってねえな」
「え、火……?」
首を捻ると、キョウは伊織の肩から手を離し、力が抜けたようにソファに戻る。その隣に、ディスクを楠見に返してハルが座る。顔から微笑みを消し去り、瞳は深刻そうな色をたたえて楠見に向けていた。
楠見はハルの手から戻ってきたディスクを目の前のテーブルに置き、腕を組んで大きくため息をつく。
伊織はわけが分からないまま、その重苦しい雰囲気に呑まれてうろうろと視線をさまよわせた。ちょっとした土産くらいになるかと思って持ち帰ったものが、思いがけず大きな反応を引き起こしていることに、困惑を隠せない。
「あのぅ……」
声をあげると、
「伊織くん」
腕を組んだまま片手を顎に当てて、楠見が目をあげた。
「はい」
「座って」
「あ、はい」
足下にあったオットマンに、すとんと腰を落とす。
「きみは、見たんだね? そのDVDを」
「えっと……はい、最初だけですけど」
「何が映っていた?」
「え? ええっと」
視線を宙に上げて、伊織は考える。見たのは二週間も前で、しかもあれからいろいろなことがありすぎて……正直、見たことすら忘れていた程度のものなのである。
「たしか……最初は風景で……どこかの海だったかな、外国の海みたいで、綺麗な……それからえっと」
やはり三人の視線は伊織に集中していて、伊織は大勢の前で発表でもさせられているみたいに緊張する。
「山とか、草原みたいなところとか……よく覚えていないんですけど……その、とてものどかな感じで。そこから先は、あんまり……」
「途中で意識を失ってしまったの?」
深刻な口調のハル。
もちろん伊織としては、それほどのことという認識はない。
「え? や、……ていうか、すごく早起きだったから、たしか。……のんびりした映像見てたら眠くなっちゃって……」
「それから後は? ほかに覚えていることはあるかな。あるいは見た後で、何か変わったことがなかったかい?」
「はあ、その……気づいたらもう朝、だったかのな? DVDは引き出しにしまって、それっきり……あ、それから」
思い出しながら、伊織は上目遣いに三人の顔を窺った。こんなことを話したら、おかしなヤツだと思われる、普通は。けれど、彼らには――言ったほうがいい、のか? 恐る恐る、
「触ると、ちょっと痺れるみたいな感じがしたんです。その、最初に見たときと、それからさっきも。それで……」
もう一度、三人を窺って、少し声を落とす。
「声が聞こえる気がして。『能力を、もっと』って……哲也さんの声に似てたような……」
黙り込んで視線を交わしあう三人。馬鹿なことを言ってしまったかと慌てかけた伊織だが、しかし三人の顔に浮かんだのは、訝しんだり馬鹿にしたりするような気配ではなく。むしろ何かに納得したかのような面持ちで。
数秒ほど伊織の顔を見つめて、楠見はまた小さく息をついた。
「封印が解けかかっていた原因は、このDVDだったのか……俺はてっきり、焼け跡で衝撃的な何かがあったからだと思って」
「これもDVDの効果ってこと?」
「調べてみなきゃなんとも言えんが、そう考えたほうがしっくり来るな。封印が解けかかっていたから、焼け跡で何かを見ることができたんだ」
「全く別の症状になってるヤツもいるかもって言ってた、あれか?」
「そうだ。発火能力を得た者、何も起きなかった者、そして伊織くんのように」
そこで三人の視線がまた伊織に戻ってくる。
「押し込められていた能力が、解放された」
「つまり、本来の能力が高まったってことなのかな?」
「能力開発ソフトの、正しい効能かもしれんな」
「それ知ってたってことは、その連中が、伊織にこれ見せたってことか? 部屋に置いといて?」
眉を顰めて楠見とハルを見比べるキョウ。
「いや、どうだろう」拳を顎に当てて、視線を斜め下に落としハルが返す。「伊織くんの部屋には盗聴器が仕掛けられている。連中がそれを聞けば、伊織くんがDVDを見たことも分かるんじゃないかな」
「ああ。哲也くんもこのDVDを回収していたって話だから、集めた中の一枚を取りこぼしたという可能性もある。どちらとも言えないな」
「あ、あの、あの……?」
置いてけぼりになって、伊織は思わず声をあげた。
「ああ、すまない。伊織くん」
「はいっ」
呼ばれてまた、姿勢を正す。楠見も姿勢を正し、膝に両手を置いて正面から伊織を見つめた。
「これまで俺たちも正しく事態を把握できていない状態で、話してもきみを混乱させるだけだと思ってね。きみにはもう少し状況が見えてきたら説明しようと思っていたんだが――」
そうして楠見はハルとキョウに短く視線を送る。ハルは神妙な面持ちで小さく頷き、キョウはなぜだか、少々不満そうに眉根を寄せた。
「このDVDは」テーブルの上のディスクを指さして。「サイの能力開発用に作られたものらしいんだ」
「は、はあ」
「サイの組織やその能力を仕事に使う者は、多かれ少なかれ何かしらの訓練をする。『能力を確実にコントロールできるように』であったり、『さらに伸ばすため』であったり。その一環で、こういった自己啓発映像みたいなものを使うこともある」
「はあ」
「きみの能力は、この二人によると――」
言いながら、またハルとキョウを視線で示し、
「誰か別のサイの、何かの能力で封じられている状態らしいんだ。それが誰の、どういった能力なのかが分からないんだが。けれどことによると、そのDVDを見たことがきっかけで、きみの本来の能力が高まって、封印を破ろうとしているのかもしれない」
本来の能力?
封印?
――その時が来たら――封印は――
頭の片隅によみがえる声があって、伊織は思わず片手を額に当てていた。
「どうした?」そんな伊織の行動に目をとめ、楠見が聞く。
「あ、いえ……」
自分でも自分の行動に説明が付かず、額を押さえたまま伊織は目を逸らした。
楠見は少しの間こちらを見つめていたようだったが、伊織の答えがないと見るとやがて、「ただし――」と言葉を続けた。
「ただしこのDVDは、どうやら失敗作らしい。見た者が、妙な能力を身につけてしまう、問題のソフトなんだ。これを見た人間が突然、発火能力に目覚めてしまう……そんなケースが少なくとも4件続いている。俺たちの推測が正しくて、きみの能力がこれを見たことによって強化されたんだったら、きみはこのプログラムの初めての成功例かもな」
「はあ、……あ!」
――組織は俺たちを実験台にしたんだ。俺たちは失敗して、こんな風になっちまったんだ――
「夢」の中で哲也の言っていた言葉を、薄っすらと思い出していた。
『無理な能力開発によって、本来彼が持っている以上の能力を手に入れてしまったんだ。そうしてコントロールが難しい状態になっている』
楠見も昨日、哲也のことをそんな風に言っていたか……。
「て、哲也さんも、それで――?」
「そう」楠見は伊織の目を見て、ゆっくりと頷いた。「発火能力。それも、元々自分の持っていた能力を大きく超える、強大な力だ。伊織くん、大きな能力を完全に制御できるようになるには、相応の訓練と時間が必要なんだ。ハルも、キョウも――」
真面目な顔で聞いているハルと、どこか不機嫌そうに目を伏せているキョウを視線で示し、
「物心も付かないうちから、それなりの訓練を積んできた。そうやって今、自分の意思のままにその能力を操れるようになっている。けれどそれをなしに、ある日、突然そんな大きな能力を得たら。どうなると思う?」
「えっと……」
上手く想像はできなかったが、必死に思いを巡らす。
伊織の思考が追い付いているのを確認するように、楠見はゆっくりと、
「能力に負けて、コントロールし切れずに意図した以上の能力を発現させてしまったり、感情の動きで抑えきれずに暴走させてしまったりする。伯父さんたちの家の火事は、そのせいで起きた『事故』だったんじゃないかと俺たちは思っている」
楠見の言葉を頭の中でじっくり咀嚼して、伊織は頷いた。
「だから、さっきの辻本……先生の? 哲也さんを捜して、その……『処理』? するって……」
「辻本センセイが、そう言ったの? さっき?」
ハルが首を傾げた。
「う、うん。それで、哲也さんを捜すのを手伝えって……俺に、その……哲也さんを捜し出すことができるかもしれないって……」
次第に小声になっていく伊織の言葉に、伊織を除く三人はまた顔を見合わせた。
「あ、あの……あの人たちに見つかったら、哲也さんどうなっちゃうんですか? こっ、……その」
意を決して、伊織は楠見に問いかける。膝の上で、両手の拳を握っていた。
「殺されちゃうんでしょうか。あの人、『サイの世界ではそれは決まっていることだ』って……」
楠見はわずかに考えるような間を置いた後で、伊織の瞳を正面から見つめ返して、
「彼らがそういう『処理』をしようとしている恐れは、ある。その危険は、哲也くんも認識していると思う。だから、姿を現さずに隠れ続けているんだが――」
そこで言葉を切って、小さくため息をつく楠見。そうして、膝に両肘を置いて手を組み合わせ、
「けれど、それに捕まらなければ話が済むというものでもない。たしかに辻本というその女の言っているとおり、このまま能力をコントロールできない状態でいれば、いずれ次の事件を起こしてしまう危険がある。それに、もうひとつ」
楠見の深刻そうな顔に、伊織は唾を飲み込んだ。
「人の持てる力を超える、大きなサイの能力はね、体に多大な負担を与える。元々持っていた能力以上のものならなおさら。しかも制御もできていない状態で使い続ければ、命に関わる。早く見つけて助けないと、彼の体がもたない」
面やつれしたような哲也の青白い顔を思い出して、伊織は震える息をついた。
あの女の組織から逃げおおせても、哲也は――。
「伊織くん。哲也くんは、罪を犯して逃げ回っているだけの人間ではないよ。おそらく、自分の所属していた組織の過ちを正そうと動いているんだ。その過程で」
痛ましげに、かすかに眉を寄せ、
「不幸な事故を起こしてしまった。彼は、被害者でもある」
「夢」の内容をぼんやりと思い出しながら。伊織は楠見の語る言葉と、あの「夢」で哲也が語った言葉をつなぎ合わせていた。それが上手い具合に重なって、ひとつのストーリーが漠然と見えてきた時。少し、ほんの少しではあるが、伊織の心に明かりが差しこむ。
「だから」と楠見は体を起して、伊織を再び正面から見つめた。「早く、哲也くんを捜して助けなければならない」
「あ、あの……!」
堪らなくなって、伊織は考える間もなく声を上げていた。
「哲也さんを、本当に、助けてくれるんですよね? あの、辻本先生の言ってたみたいな方法じゃなくて、本当に」
「ああ」
深く、楠見は頷く。
それを確認して、伊織は唾を飲み込んだ。
「あの、それ……俺にも何か、やらせてもらえませんか?」
一大決心を伝えたつもりなのに、上ずって変な口調になった。それでも。どうにか必死に言葉を手繰る。
「俺……何か、したいです。哲也さんのためにも。それに――その……」
哲也のため? 違う、そんなんじゃない。言った傍から、頭のどこかでもう一人の自分がそれを否定する。それは伊織自身のためだろう? これから今までとは違う自分になるための。彼らと同じ場所に立って、同じものを見て――。
これから先もずっと、彼らの中にいるための。だけど。
「だけど。俺は……俺に何か、できること、あるんじゃないかって、その……あんまりないとは思うけど……」
楠見は真っ直ぐに伊織を見つめていた。ハルも顔をあげて、真剣な目で。その隣で、視線だけ伊織に向けて――感情の窺えない、キョウの瞳。
「けど、俺に哲也さんを捜すことができるかもしれないって、さっき……」
さっき。あの女が、そう――それがどんな方法なのか、伊織には分からないけれど。けれど楠見や、ハルやキョウなら、もしかしたら知っているかもしれない。
「ふむ……」楠見は顎に手をやって、少し考えるようにして、それから小さくつぶやいた。「たしかに、きみの能力が本物ならば、きみには哲也くんを捜す力があるのかもしれない……だが」
そうして伊織へと向けられた楠見の目を、伊織は必死の思いで見つめ返していた。
「俺の力……? って……俺にできること、ありますか?」
「もしも『封印』を解くことができて、きみの能力を上手く発現させることができるなら」
「楠見!」
遮るように身を乗り出したキョウを、ハルが肩を掴んで止める。不満をいっぱいにして何か言いかけるキョウ。ハルは真剣な顔で首を横に振って、それを止めた。
楠見はそんな二人に軽く目をやって、組んだ両手の上に顎を載せ、静かに言う。
「その能力を使えば、俺たちがまだ知らない何かを、知ることができるかもしれない」
そうして自分に戻ってきた視線を、真っ直ぐに受け止めて。
――「サイコメトリー」って聞いたことあるかな
昨日の楠見の言葉を、伊織はまたぼんやりと思い出していた。




