64.伊織、根拠のない確信。楠見は正義ための証言を求める
日の暮れた道を走って、十分と掛からずにアパートに着いた。念のため足を緩め、周囲を確認しながら玄関に近づき鍵を開ける。万一追ってくる者やここを見張っている者がいれば、伊織ごときの警戒でその目を掻い潜れるとも思えなかったが、多少の恐怖心があってすぐにアパートの部屋に飛び込むのはためらわれたのだ。
ひっそりとした室内に入ると、途端に押し込めていた緊張感と恐怖が噴き出して、伊織は大きく息をついた。
暗い室内をぐるりと見渡す。明かりをつけていいものかどうかと少し迷い、結局カーテンを少しだけ開けた。外の照明がわずかばかりに差し込んで、目が慣れてくるとどうにか物の場所を把握する程度の視界が開けた。変わったところは何もない。
当然の結果に、安堵と失意が一度に襲ってくる。何ごとも起きていない。なんの手掛かりもない。
『あの火事の後でね。相原くんの家の近くで、哲也くんの姿を見たっていう人がいるんですよ』
刑事の言葉を思い出す。日曜日の朝、と。たしか。
『哲也くんは、きみに何か伝えにきたんじゃないかと――』
けれど……。
(いるはずないじゃないか……)
自分の浅はかさを自嘲する。追われ、世の中から隠れている身で、哲也がこの近くに何時間も滞在するはずがないのだ。たまたま来た時に彼が居合わせるなど、そんな偶然がそうそう起きようはずがない。ましてや部屋の中に変わったことがないかなんて。部屋には鍵も掛かっているというのに。
どうしたらいい? 暗い室内に立って、必死に考える。
ハルに黙って出てきてしまったから、長い時間ここで哲也を待つことはできない。
どうしたら……?
『きみには、彼を捜し出すことができるかもしれない』
どうやって?
『あなたの能力を世の中のために使う――』
俺の能力?
『その能力を、私たちに貸して欲しいの』
だから――なんなんだよ、それって!
込み上げる苛立ちに、地団太を踏みたいような気持ちになって。
『『サイコメトリー』って聞いたことあるかな』
楠見の言葉――。
『人ではなくて、物や場所から、その物や場所が持っている記憶を読む』
まさか。自分にそんなことができるなんて、とても思えない。
『きみがその種類の能力を持っているんじゃないかと――』
そんなことが俺に、できるわけが……けれど……哲也さんの起こした事件のことを知っていた――刑事の話はあの『夢』のとおりだった――けれど……。
まさか。これまでにそんなことは……。
『それが、きみの本来の能力』
本来の、能力?
『きみのその能力は何かの力で封じられているってことだから――』
封じられて……?
『DVDを見たでしょう?』
「……え!」
伊織は思わず顔を上げ、盗聴器のことを忘れ声をあげていた。
(DVD――?)
唐突に思い出す。あれは、そう……そうだ、ここに引っ越してきたあの日――。
夢中で机に飛びつくと、引き出しを開ける。
そこに、一枚のDVDが。
入れた時と同じように、重ねて寝かせたノートや書類の上に。
唐突に、先ほど女との会話の最中に頭をかすめたことを思い出した。
ベルツリーで、あれはたしか。ハルと楠見たちは、これと似たようなDVDを囲んでいたのではなかったか? これが、彼らの仕事に何か関係があるのだろうか。そして、俺にも――?
恐る恐る手を伸ばし、それに触れると――
「――!」
軽い痺れ。静電気に触れたような。そして、
――もっと――
(あの時と同じだ)伊織は頭のどこか片隅で、それを思い出していた。
――ちからを、もっと――サイの、能力を――
(この声……哲也さん……?)
ぞわりと、両腕の肌が泡立つのを感じて思わずDVDから手を離し腕を掻き抱く。
耳から聞こえる声ではない。ここには伊織しかいない。頭の中に、直接響く――
――もっと、強く――強くなって――
頭の中に直接――ここには伊織しかいない――耳から入ってくるのではない――ここにはだって、自分しか――恐ろしくなって伊織は振り返る。そして、驚愕に固まる。
伊織の背後。狭い六畳間の真ん中。薄暗がりの中に立っている、哲也――
(て、て、てて……)
「哲也、さん?」
からからに乾いた舌が上手く動かず、言葉は口の中で転がった。
哲也は伊織を見てはいなかった。気づいてすらいないようだった。途方に暮れたような眼差しで室内を見渡し、重いため息をつく。やつれた頬。青白い顔。疲れ切ったような。そうして――
消える。
こんな光景を、昨日も見た。伊織は思い出す。このアパートの外で。
額のあたりがツキンと痛む。
無意識に額に手を当てて。背筋に悪寒を感じているのに、体の芯は熱くて。身震いがした。
哲也じゃない。哲也はいない。いや、哲也だ。哲也の……幻覚? 違う。
(哲也さんは、本当にここに来ているんだ)
伊織に会いに。何かを伝えに。
それは、根拠のない確信。けれど、伊織には分かった。
刹那――。
意識の底で疼くような痛みを感じていた額が、唐突に、何かで内側から思い切り殴られたように。
――――なさい……
――その時は、――それを解きなさい……
遠くから、諭すような、宥めるような優しい声が聞こえる。なんと言っているのかはっきり聞き取れない。誰が話しているのかも分からない。しかし聞いたことのある声。
(また……?)
これは、今朝の夢の続き……?
何かに突き動かされるように机を振り返り、引き出しのDVDを適当な封筒に入れてポケットにしまうと、その下にあったノートを取り出して、白いページを開く。机の上のペン立てから油性マジックを抜く。蓋を取って少し考え、そしてページいっぱいの大きな文字で書き付ける。
『哲也さん、伊織です。
会って話がしたいです。
連絡を待ってます。』
そして少し考え――意を決して、書き加えた。
伊織の携帯電話の番号を。
額の痛みはいつの間にか治まっていた。
ノートを開いてちゃぶ台の上に置くと、伊織はそっと震える息をついてペンを戻し、よろめくようにしてゆっくりと戸口に向かった。
「きみを追ってきたっていう、『悪の組織』の人は、何人だった?」
「一人だったよ」
楠見の質問に、シバタは目を輝かせながら積極的に答える。これは「正義のための証言」なのだ。
シバタの受け答えは思った以上にしっかりしていて、状況を詳細に記憶していた。前後不覚に泣き喚いていた様子と妄想じみた発言に、刑事たちは「話にならない」と判断したようだが、なかなかどうして彼は正気で冷静だ。
「どんな人? 黒い服を着てたって言ったね。何歳くらいかな?」
「うーん……三十歳くらいかなあ。顔はよく分からなかったよ」
「拳銃を突きつけられたっていうのは、本当?」
「うん」
「きみは拳銃を見たのかい?」
「うん。最初は背中に突きつけられて、何かと思ったんだ。それで、振り返ったら、腕にかけた上着に、こう……隠してね。銃口が見えてたよ」
「そう。その……質問をしたほかに、何か言っていた?」
「ほかには何も。僕、怖くてすぐに逃げ出しちゃったから……」
「ふむ……」
(シバタに接触してきたのは、スガワラか、その仲間のうちの誰かか?)
伊織を追ってきたという人間と風体が似ているが、その時はスガワラを含め四人だったという。キョウのタイマにより、うち二人は能力を失ったわけだが、拳銃を突きつけて脅したなら能力の有無は分からない。
哲也を追っている人間と、伊織を追っている人間は、同じなのか? ――どちらも「本店」のやっていることなのだろうか。そして、先ほど峰尾裕介の語った「創湘学館」は、「本店」と繋がっているのか。
考え込んでいる楠見の腕を、隣に座っているキョウが軽く突いた。目を合わせると、キョウは視線で船津を示す。
船津は背後の神奈川県警の刑事を意識するように小さく目配せしてきた。質問が具体的になりすぎて、二人の刑事に不信感を持たせてしまっているだろうか。楠見は「シバタを大人しくさせるために『妄想』に付き合っている」のだ。意味のある質問だと悟られては具合が悪い。
「……彼らは、悪の組織にきみを勧誘しようという素振りはなかっただろうね」
「え! ま、まさか……」
シバタは目をうろうろとさせ出した。
「でも……もしかしたら……僕が正義の組織に入る前に、自分たちの組織に入れてしまおうとしていたのかな……より優れた人材の奪い合いだものね」
「そうだろうね……」
「『ブラック・エンジェル』にも、悪の組織に入れられそうになった能力者が何人もいるんだ。ケンヤも最初は狙われていたし、実際に悪の組織で働いていた人間もいる」
よしよし。
「リュウジはね、その能力を悪の組織に利用されていたんだよ。もちろん更正して、今は正義のために戦っている」
「そう」
「リュウジの能力は、ケンヤやほかの『ブラック・エンジェル』のメンバーの中では一番大きいからね。悪用なんかされたら大変だよ」
「……」
「だから、いろんな組織がリュウジの能力を狙っている」
「……」
「悪の組織はリュウジを暗殺者として育てたんだ。それでね、ムラサキさんが……ああ、『ブラック・エンジェル』の幹部だよ、きみは知ってるよね?」
シバタは突然キョウに話を振った。
「……んっ?」
「ムラサキさんが、悪の組織に戦いを挑んで……」
「ともかく……きみが悪の手から無事に逃れられて良かったよ」
狙った以上の暴走を始めたシバタを止めようと言葉を挟むと、そこでシバタはためらいがちに目を伏せる。
「あの……戦うつもりはあったんだよ? だけど、僕は今、能力を失っているでしょ? だから、悔しいけれどあの時は逃げるしかなかったんだ……」
「いや、正しい判断だったと思うよ」
言い訳のように言葉を継ぐシバタに、楠見は笑顔を向けた。
「もちろん、正義の組織に入れてもらえたら、頑張るつもりだよ」
「そうだね」
「だけど、僕の能力はどうしたら元に戻るの?」
楠見とキョウを交互に見ながら、シバタが聞く。キョウがちらりと楠見を見た。
「ねえ、能力が戻ったら、あなたたちの組織に、僕を入れてくれる?」
「……ううん……うちは『組織』というほど大きなものではないし、特にメンバーの募集もしていないからね……」
「そうなの?」
シバタは不満そうに眉を寄せたが、特に食い下がるわけではなく、また改めて目を輝かせた。
「でも、『ブラック・エンジェル』みたいな組織もあるんでしょう? 僕、能力が戻ったら正義のために戦うんだ。ケンヤやリュウジやレイカみたいにね。あ、レイカは『ブラック・エンジェル』の中では能力が高いほうじゃないんだけれど、僕の能力の性質はレイカに似ていると思うんだ。きみもそう思うでしょ?」
シバタはまたキョウに振るが、その曖昧な反応に特に構う様子はなく上機嫌で続けた。
「前からそう思っていたんだけれどね、実際に火がつけられるようになった時は、だから本当に嬉しかったんだ。レイカは火を操るんだよ。それで悪いヤツらと戦うんだ。正義の炎だよ? だから、僕の能力は組織の役に立つと思うよ。早く能力が戻るといいんだけれど」
「そうだね、でも、その前に」
楠見は微笑んで、後ろの刑事たちを示す。
「この刑事さんたちは悪の組織とは関係ない、信用できる人たちだ。協力して、質問に答えてもらえるかな? それから、新宿できみがやっていたことに関して、そちらの刑事さんも話を聞きたいそうなんだ。もしかしたら新宿の警察署にも顔を見せてもらうことになるかもしれないけれど……」
シバタは不安を顔に浮かべたが、
「正義のためだよ」
そう言うと、「うん」と力強く頷いた。
先に部屋を出て廊下で少し待っていると、数分して船津が一人で楠見とキョウの元にやってきた。
「びっくりするほど素直に話し出しましたよ。ここの刑事たちが逆に戸惑ってます。まあ、内容がアレなんですが」
苦笑混じりに船津が言う。
「ご協力どうもありがとうございました」
「いえ。これからどうなりますか?」
軽く頭を下げられて、楠見も返しながら聞く。
「ここで聞くことはそんなにないでしょう。念のため薬物検査もしているようですが、たぶんシロです。こちらで事件を起こしたわけでもないし、落ち着いてもう大丈夫と見たら解放されると思います。家族に連絡を取っているところだと聞きました」
「ええ」
「それから新宿の連続放火の件ですね。俺は一旦署に戻って報告します。ただ、放火に関しては――」
船津はそこで一旦言葉を切って、少しばかり言いにくそうな様子を見せ、言葉を続けた。
「証拠不十分で起訴できないでしょう。他人の身分証を流用したことについては言い逃れできませんが、未成年ですし、あの調子では責任能力があると判断されるかどうか」
「……そうですね」楠見も頷く。
シバタは、正気だ。が、シバタの中で「正しい」と考えている言動を繰り返す限り、一般の社会から受け入れられることはないだろう。そうかと言って、本当に「裏側」にやってくるほどの能力も覚悟もおそらく彼にはない。
どちら側から見ても微妙なラインに立っている存在。けれどシバタにとっては、一般社会よりも今いる微妙な場所が心地よいのだ。
しかし。元々何かに「使える」ような能力ではなかったと見られるが、その能力さえも失った今となっては、まかり間違ってもどこかの組織からオファーが来ることはない。シバタの「期待」は宙に浮くわけだが、彼がその現実を受け入れられるかどうか――。
「いずれにしても、シバタを署に呼ぶか……まあ、微罪ですからね、在宅での聴取になるかもしれません」
「できれば彼の身柄を警察で拘束しておいてもらえると有り難い。一連の事件にさほど重要な関りを持っているようには見えませんが、拳銃を持った人間が接触してきたとなると、放っておくのは少し不安が……」
「そうですね、やってみましょう」
「お願いします。……また、シバタのことで困ったことがあったら、ご連絡ください」
船津も心得たように苦笑を浮かべ頷いた。
「すみません。相談させてもらうことがあるかもしれません」
「ええ。こちらからも、例のDVDと相原哲也くんの件に絡んでいくつかシバタに確認していただきたいことがあります。ほかの刑事さんのいる前では少々差し障りが……」
「分かりました、またご連絡します」
船津はそこで、楠見の隣でじっとやりとりを見守っているキョウに目を向けた。
「キョウくんも、どうもありがとう。今回も助かったよ。明日も学校だろう? わざわざ来てもらって悪かったね」
「ん。いいよ」
特段なんの表情も見せずに、キョウは答えて頷いた。
「行こう」
ひとこと言って、楠見はキョウの後頭部を掴んで軽く押すように歩き出す。キョウは「放せー」と恨めしげに抗議の声を上げた。
警察署の駐車場で、送りに出た船津と別れ、帰途に着く。
助手席に座り、窓枠に腕を乗せ頬杖をついて車窓に目をやっているキョウに、楠見は小さく視線を送り声を掛けた。
「キョウ……」
「ん?」
「気にするなよ?」
キョウは頬杖のまま、顔を少しだけ楠見のほうに向ける。
「……何を?」
「シバタのことだ」
道路灯のオレンジ色の光が、一定間隔ごとに助手席の少年の顔を浮かび上がらせる。前方に注意を向けつつ、その表情を窺いながら、楠見は言葉を続けた。
「彼が自分の変化に折り合いをつけられるか、今後どうするかは、彼やその周りにいる人たちの問題だ。お前にはなんの責任もない」
キョウはまた車窓に顔を向け、
「別に、気にしてねえよ」
無感情な口調で答える。
「……ならいいんだけどな」
楠見はそんなキョウの横顔を一瞥して、少しだけ考え、それから言葉を足した。
「お前は、正しいことをしているんだ」
断定するように、楠見は隣の少年に言い聞かせる。キョウは答えずに、なんの変化も訪れない暗い車窓に目をやっていた。




