63.伊織、全速力で走る。楠見は正義の組織のボスになる
「シバタが? うん、――うん、――そう……それじゃ、もう少しかかるね。――分かった、やっておく。気をつけて」
家に着くなり楠見からの電話を受けていたハルが、眉を顰めながらそう言って通話を切った。携帯電話をテーブルに置くと、リビングの戸棚から書類を取り出しながら、
「伊織くん、ちょっとすぐにやらなきゃならない仕事ができたんだ。夕食の支度、少し遅くなるけど、いい?」
「あ、うん、もちろん」
答える伊織に申し訳なさそうに小さく笑って、ハルは書類をテーブルに並べ、椅子に座って電話を掛けだした。
聞き耳を立てるのも良くないかと、伊織はリビングを後にして部屋に引っ込む。
復習でもしようかと数学の教科書を取りだして、かなり長いことそこにある数字やら記号やらに漫然と目をやっていたが、頭には先ほど来の出来事や会話が浮かんでくるばかりで教科書の文字は全く入ってこない。
中西との会話。そして、辻本という女の「誘い」。
『きみには、彼を捜し出すことができるかもしれない。手伝って――』
俺が、哲也さんを捜し出す? どうやって? 楠見たちが捜していて見つからないというのに、自分にそんなことができるとは到底思えない。辻本から、その方法だけでも聞き出せばよかった。
それとも――。彼女の誘いに乗った振りをして、哲也を捜すことだけするというのは可能だろうか? 哲也を捜し出して――けれど彼女にそれを悟られてはいけない。彼女らの手に渡れば、哲也は殺されてしまうのだから――そうして哲也を楠見に合わせれば……。
(いやいやいやいや……)
なんて大それたことを考えたんだろう。自分で恥ずかしくなって、慌てて首を横に振った。他人を欺き利用するなど、そんな高度な芸当が、伊織なんかにできるはずないではないか。
(だけど)
何か、あるのだ。あの女とその仲間にも、楠見たちにもできない、伊織にしかできない哲也を捜し出す方法が。
(考えろ――)
伊織は目をぎゅっと閉じて、懸命に頭を働かせる。こうしている間にも、哲也の身は危うくなっていくのだ。
あの女の所属する一味に捕まってはならない。彼が逃げているのは警察からだけではなかった。警察に捕まるよりも、もっと恐ろしく深刻な――。
あの女たちに捕まってはいけないということ。そして、楠見という人物が力になろうとしてくれていることを、哲也に伝えなければならない。そう、それに哲也にも、伊織に伝えたいということが――哲也から聞きたいことが伊織にもたくさんあって――
(……あれ?)
ふと思い出したことがあって、伊織は目を開けた。
哲也は伊織に伝えたいことがあって、アパートの近くまでやってきていたと。昨日、神奈川県警の刑事たちは、たしかそう言った。
伊織は事件以来ほとんど家に帰っていないし、哲也も追われている身でおいそれと学校などを訪ねることはできないだろう。連絡を取る方法がなくて困っているのは、哲也のほうも同じなのではないのか。
哲也が伊織に伝えたいこと。伊織には――あの「夢」が本当にあったことなのだとすれば――それは見当が付いていた。けれどもあの「夢」だけでは足りない。哲也は伊織の知りたいことを、全て知っている。彼から話を聞くことができれば、伊織の問題が解決するばかりでなく、楠見たちの仕事も進展するかもしれない。
哲也さんを、見つければ――見つけられるか?
気持ちばかりが逸って、息苦しくなる。
いても立ってもいられず、伊織は教科書を放り出して、上着の袖に腕を通しながら部屋を出た。
リビングのハルはまだ電話を掛けているらしく、閉められたドアの向こうから小さな話し声が聞こえる。そっと玄関の扉を開け、音を立てずに閉め外に出ると、伊織はすでに暗くなっている住宅街の道を全速力で走りだしていた。
「うわあああ! やめろよ、近づくな! 嫌だ、嫌だよおおおぉ!」
廊下の向こうから、裏返った叫び声が聞こえる。控えめな明かりを点した廊下を歩きながら、楠見は隣を歩くキョウと顔を見合わせた。
「嫌だってばあ! 僕なんにも悪いことしてない! 助けてよおぉ!」
二人を案内して先を行く船津刑事が、困った顔で振り返る。
「保護されてからずっとあの調子なんです。何を聞いても泣き叫ぶだけで、会話にならなくて」
「……交番には、自分の足でやってきたんですか?」
「いえ、路上で暴れているところを保護されたんです」
ドア越しに絶叫が漏れてくる部屋の前で立ち止まり、船津は説明した。
シバタが保護されたのは、今日の午後。川崎市内の、私鉄の駅にほど近い小さな商店街だった。シバタは何かに追われるように、南北に店の連なるその商店街を全力で走っていたという。そして、交差点で自動車に接触しそうになって転がり、事故かと心配して近寄ってきた目の前の米屋の主人を突き飛ばすと、突然タガが外れたように泣き叫び出した。
騒ぎに呼ばれてやってきた警官が一旦交番に引き取ったものの、「追われているんだ」「逃げなくちゃ」といった言葉を繰り返すのみで話も通じず、薬物の使用やさらに大きな事件との関りを懸念した警官が、警察署に連れてきたのだという。
切れ切れに叫ぶ言葉から推測すると、シバタは何者かに命を狙われ、拳銃を向けられ、追われ、命からがら追っ手を逃れて商店街を走っていたらしい。それが本当の話なのか、妄想なのかは別として、であるが。
警察官が本人の同意を得て――と見做して――持ち物をあらためたところ、「柴田周一」の保険証と、別の名前の免許証が出てきた。この免許証こそが、シバタが新宿のインターネットカフェの会員証を作るために利用した、他人の落し物の免許証であった。
先週の金曜未明に相原哲也に連れ去られた後、事前に琴子が読み取っていた「川崎か横浜あたりに住んでいる」という情報を元に、その二つの名前がすでに神奈川県警に伝えられていたため、警視庁の船津に連絡が来たのだという。
「お呼び立てしてすみません。本来なら、後はこちらで対処するべきなんですが、どうも様子がおかしいので……」
恐縮しながら、船津がドアノブを握る。開けると、正面に座っているシバタの叫び声が一層音量を上げた。
「ぎゃあああ! やめろ! 助けてよおおぉ! うわああぁん――!」
テーブルを挟んでシバタの向かいに座った二人の神奈川県警の刑事が、振り返って呆れ果てたように肩を竦めた。
「ああ、船津さん。相変わらずですよ。よく声が嗄れないもんです」
船津は頬を歪めて「仕方ないですね」という顔で返し、それから楠見とキョウを手で示す。
「こちら、お話ししていた楠見先生と、成宮くんです」
言われて頭を下げ――ついでにキョウの肩を小突いて頭を下げさせながら、船津が自分のことをどういう風に説明したのか聞いておくべきだったと思った。本当のことを話したわけでもないだろう。船津も説明を怠ったことに気づいた様子で、小さく目配せしてきたが、それだけで分かるはずもない。当たり障りのない挨拶を述べようとした時。
それまで絶叫を続けていたシバタがピタリと黙った。
二人の刑事の興味も楠見たちから離れ、突然静かになったシバタに視線が向けられる。
シバタは頬を真っ赤に腫らしたまま、涙の浮かんだ目を見開いて、真っ直ぐにこちらを――楠見の隣に立っている、詰襟の制服姿の少年を見ていた。
「きみは、あの時の……」
無表情にシバタに目を向けていたキョウが、シバタの反応に当惑したようにわずかに目を見開いて、ちらりと楠見を見上げる。とりあえず、楠見はキョウの背を押して室内へ入れた。
「……助けに、来てくれたの?」
二人の刑事も顔を見合わせて、キョウを振り返った。肩越しに楠見へ振り向き、「どうする?」というように首を傾げるキョウ。「話を合わせて、何か聞きだせ」という意思を込めて楠見は頷いた。伝わったのかどうかは分からないが、キョウはシバタに目を戻してさらに一歩室内へと踏み込む。
「また、僕のこと助けてくれるの?」
「……ん」
キョウが頷くと、シバタの顔はパッと輝いた。腫れた頬と目をごしごしとこすって、テーブルに身を乗り出すシバタ。その様子を見て、刑事の一人がやや釈然としない様子ながら立ち上がり、黙ってキョウに椅子を譲る。
「僕ね、あれからとっても体が軽くなったんだよ。火をつけることはできなくなっちゃったけど、つけなくても気分は悪くない」
「ん」
「きみのおかげだよ。あの夜のことは不思議だったけど。ねえ、どんな能力を使ったの?」
「ん? ……ん」
「火をつけられるようになる前よりも、とっても気分が良くてね、ずっと家の中にいなくても平気になったんだ。きみにお礼を言いたかったんだよ」
「……ん。……いいよ」
「だけど、凄いね。あんな能力を持っていて、仕事をしているなんて」
シバタはそれまで刑事たちに見せていた醜態など忘れたように、目を輝かせた。
「きみもどこかの組織に入っているの? それは、正義の組織なんでしょう?」
「んー……」
二人の刑事が不思議そうに顔を見合わせた。キョウがまた、困惑気味に楠見を振り返る。楠見は腕組みをしてドアの横に立ったまま、もう一度「何か聞きだせ」と念を込めてキョウに頷き返す。
「なあ、……なんで逃げてたの?」
キョウが訊ねると、シバタは思い出したようにビクッと肩を震わせ、目の前のテーブルにさらに身を乗り出してひそひそ話といった口調で答えた。
「悪い組織のヤツらに、脅されたんだ」
「脅された?」
首を傾げるキョウ。シバタは眉を寄せ、大仰に頷いた。
「コンビニに行こうと思ったんだよ。『少年チャンプ』の発売日なんだ。きみも読んでる?」
「ん? ……んー……」
「僕はね、ヤエガキ・ワタル先生の大ファンなんだよ。『サイキック・ケンヤ』、最高だよね! きみも能力者なんだから、もちろん読んでるだろ?」
「…………ん」
「『ブラック・エンジェル』がなんといってもカッコいいよね。僕もああいう組織に入りたいって思って、練習してたんだよ。僕の能力は、せいぜい小さなものを少し動かせる程度だけどね、『ケンヤ』も最初はそのくらいの能力しか持ってなかったでしょ。訓練をして、大きな能力を身につけた。だから、僕も頑張ったらあれくらいになれるかなと思って」
「………………ん」
「ねえ、僕の能力も、なかなかのモンだったでしょ?」
「ん」
「本も漫画もいろいろ読んで勉強したよ。だから、きみが現れたときは、すぐにピンと来た。ああ、組織が僕のことを迎えに来てくれたんだって!」
目をキラキラさせながら語るシバタに、また二人の刑事が顔を見合わせ、首を捻り合った。
いいぞ、と楠見は思う。「こいつは妄想しか語れない。話が通じない」と、刑事たちに思わせるんだ。その上で、楠見たちは「真実」を聞き出す。刑事たちは、どうせ戯言だと思って真面目に取り合わないだろう。
キョウがまた困惑を浮かべた顔で、背後の楠見を見上げたので、適当に微笑んで頷いた。怪訝な顔をして、キョウはシバタに向き直る。
ふと、キョウの視線を追って楠見に目を向けていたシバタと目が合った。が、キョウが口を開いたため、シバタの関心はすぐに楠見から引き剥がされる。
「あー、そんでさ、漫画買って、どうした?」
「ああ、そうそう。漫画とお弁当を買ったんだ」
「ん」
「お弁当はね、カルビ丼だよ」
「……美味そうだな」
「うん。あれ? だけど僕、お弁当どこにやったんだろう……」
シバタは急に勢いを失って、視線をうろうろさせ出した。
「その辺にあんだろ」
「そうかな……だけど、あいつらに追われてから、どこに行ったのか……」
「あいつらって?」
「あのね、コンビニを出たところで突然、黒い服の男に後ろから拳銃を突きつけられたんだよ」
「……」
「多分、悪の組織の連中だと思う。すぐに分かったよ。僕には、分かる」
大真面目な顔で頷いたシバタに、刑事の一人が小さくため息を落とす。
「僕が能力を失っていて不安な状態だから、この隙に始末してしまおうと思ったのかな」
「……ん、そんで逃げてたの?」
「うん。もう少しで逃げ切れるって思ったときにね、危険な自動車が現れて。きっと組織の手先だね。お巡りさんが来たけど、それだって分からない。悪の組織のヤツらは、いろんな人物になりすますからね。恐ろしかったよ……」
ぶるりと丸っこい身を震わすシバタに、今度は刑事が二人揃ってため息をついたが、シバタは少しも気にしない。
「だけど、こういう場面では必ず正義の組織の人が助けに来てくれるんだ。そうだろ? そう信じていたら、本当に来てくれた」
「……その。悪の組織のヤツは、なんて?」
キョウが聞くと、シバタは大真面目な顔で、少々声を潜めてゆっくりと言った。
「テツヤくんの居場所を教えろって、言われたんだ。僕、あの後テツヤくんとは一度も会っていないから、知らないって答えたんだけど」
(まずい……)
楠見は内心ヒヤリとした。ここは神奈川県警だ。テツヤという名が出たからと言ってすぐさまあの火事の件に話が繋がることはないだろうが、この後でシバタが何を語るか分からない。相原哲也と結び付けられることがあっては具合が悪い。
キョウもまずいと思ったのだろう。ちらりと楠見をまた振り返る。
すると、キョウがたびたび振り返る背後の人物に、シバタは興味を持ったらしい。視線を追って楠見の顔を見て、真面目な表情で口を開いた。
「ねえ、その人は、誰?」
「ん? 楠見」
キョウの答えにシバタは軽く首を傾げたが、その表情に不審な様子はないのを見て、楠見は一歩前へ出た。
「僕は、彼の保護者でね。楠見と言います。よろしく」
「……はい……」
「彼にきみを助けに行くように指示をしたのは、僕なんだ」
シバタのキョウへの信頼に乗っからせてもらうことにする。キョウはかすかに眉を寄せて楠見を見たが、まんざら嘘でもないと思ったのかそれ以上の反応は示さない。抗議があれば後で聞こう。
微笑んで見せると、シバタは細い目を精一杯見開き、まじまじと楠見を見た。
「本当なの?」
キョウに向けて確認する。
「ん? ……ん。そうだよ」
「もしかして……正義の組織のボスなの?」
「ん? んー……。…………ん」
楠見は口の前に人差し指を立て、わずかに声を落とし、
「シッ! シバタくん、僕の立場は世の中には秘密なんだ。どこで悪の組織のヤツらが聞いているか分からないからね……」
シバタは「いけない!」と言うように、肩をそびやかして辺りをキョロキョロと窺った。その真剣な様子に、立っていたほうの刑事は「やってられない」というように首を仰け反らせ、座っていた刑事が立ち上がって楠見に席を替わった。軽く会釈をして座る時、後ろのドアの横で笑いを噛み殺している様子の船津と目が合った。




