61.伊織、この動悸の意味するところは艶めいた気持ちではなく
三階の予備教室らしい小さな部屋に、伊織はその女性教師に連れられて入った。
三十前後に見える。長い髪を後ろでひとつにまとめて、地味なデザインのダークグレイのスーツに身を固めたその外見は、高校教師というイメージにぴったりだが、少々目じりの下がった大きな瞳と左目の下の泣きぼくろがカタい雰囲気を打ち消している。
歩いている途中で三年の数学担当だと名乗った女性。伊織の担任や生徒指導の教師を呼ばれるのかと思ったが、そんな気配はない。
(まあ、誰にしたって、これから怒られるんだってことは確かなんだろうけど……)
伊織は小さく目を上げて窺い、こっそりとため息をついてまた俯いた。
夢中になって中西に掴みかかった時、取っ組み合って転がりまわっていた時のあの感情は、そっくりそのまま一年八組の教室に置いてきてしまったらしい。どうしてそんなことになったのか、そもそも自分がそんなことを本当にしたのか、わけが分からないまま気持ちはすっかり落ち着いていて、ただ体のあちこちに鈍い痛みがあった。
『ひとりずつ、話を聞きます』
教室内を睨み渡して事態を素早く把握したらしい女性教師は、騒ぎの元凶たる二人の男子高校生をねめつけるように見下ろしながら静かにそうのたまった。
いつの間にか教室内には十人ほどの生徒がいて、伊織たちを取り囲むように立っていたが、教師が教室内に踏み込んだ瞬間に波が引くように人垣が崩れ、伊織と中西と、伊織の肩を支えてくれているあおいを残して教室の外周に散った。
『きみ』床に手をついて座り込んでいる伊織を感情のこもっていない目で見下ろして、教師は呼んだ。『きみから。ついてきなさい』
怪我の程度で量ったのか、どちらが先に手を出したのか分かってしまったのか。先に指名されて、おずおずと立ち上がる。
『そちらのきみは、その間に保健室に行ってきなさい』
『伊織くん――』
しゃがんだままのあおいに心配そうな瞳で見上げられた。どうにか笑顔を作って――作れていたかどうかはわからないが、頷いて、教室を出た。中西の顔は見なかった。
伊織たちの教室の半分くらいの広さしかない、小さな部屋。整然と並べられたいくつかの机。そのひとつを挟み、向かい合って椅子に座った。そうして腕を組んで、机の向こう側からわずかに身を乗り出す。
「きみね」
「はい……すみません」
先に謝っておくことにする。相手はわずかに表情を緩めて、ひとつため息をついた。
「酷い顔をしている」
「……はあ」
自覚はある。
「喧嘩のきっかけを聞いてもいいかな」
あまり、よくない。伊織は口ごもる。と、女性教師は小さくため息をついて、伊織が答える代わりに言葉を発した。
「あの、月曜と火曜に撒かれた記事……あれに関係あるの?」
「……」
伊織は俯く。この先生も、自分と事件のことを知っているんだ――と。また胸が締め付けられるような痛みがあった。
それを彼女は、肯定と捉えたらしい。再度ため息をついて、また少し身を乗り出して。
「さっきの彼は、あの事件に関わっていたのかな」
これもどう答えたらいいのか分からずに、黙る。戸惑ったり腹を立てたりはしたが、一連の感情の渦が去ってみれば、中西や上野への憤りは消えはしないまでも、ここで彼らの悪行をぶちまけるのは告げ口するようで気分が悪い。考えていると、これも彼女は肯定と捉えたらしい。出てきたのは伊織には意外な言葉だった。
「いろいろと問題が重なって。本当に、大変だったね」
「え、あ、はい……あの、いえ……」
心配そうな瞳で真正面から見つめられ、伊織はあたふたと妙な受け答えをしてしまった。ここでそのような言葉を掛けられるとは、想像していなかった。これからお説教が始まるのかと思いきや。
「今とても、困っているでしょう?」
「はあ」
(なんだろう、この会話……)
お説教はまだなのだろうか。伊織の可哀相な境遇に免じて、先ほどの大騒ぎは不問となるのだろうか? しかし――妙な違和感がある。
「伯父さんと伯母さんのお葬式の日取りは決まったのかな」
「いえ……」
「今後のことは、どうなるのかな」
女性教師は真剣な顔で聞く。
「あの……いま、考えているところです。いろいろと」
「どうする」と聞かれても、実際に答えられることはなかった。そのことに、伊織は改めて戸惑う。
考えてみると、あの事件以来、楠見たち以外の人間とこんな風な話をする機会がなかった。楠見たちと話せば、必ず「サイ」や「哲也」の問題がついてくる。そちらを解決しなければ、伊織自身がこれからどうするかという問題にまでは手を伸ばすことができないような気がしていた。
だが――。初めて伊織は焦りを感じた。保留すべき問題が一切ない、ただの「事件で保護者を失った高校一年生」として見れば、事件から一週間も経つのに「今後のこと」について何ひとつ具体的な方針を持っていないというのはまずいのではないか。
このまま漫然と過ごし、次の学費納入期限を迎えて追われるように学校を去らなければならない自分の姿が思い浮かんで、伊織は身を縮めた。
本当に間が抜けている。どうすればいい? 奨学金について調べてみるか。目の前の先生に相談すればいいのだろうか。それとも学校を辞めることを考えるか。転校は可能だろうか。けれど。
――お前のことも楠見がどうにかしてくれるから、心配いらねえ。
哲也が見つかって問題が解決したら。
もしも伊織が本当にサイなのだとしたら。
(駄目だ……)
伊織は小さく首を振る。楠見たちのことを取り除いてこれからについて考えることは、できない。
彼らの存在は、伊織の中でもはや外しては考えることのできないほどの重さと厚みを持っていた。
「ねえ、お金はあるの? 次の学費は――」
女性教師は伊織の顔を覗き込むようにしながら声を掛けてきた。
「アテは……ないです、けど……一生懸命アルバイトをしたら、もしかしたらって思うけど……」
「もしかして、転校を考えている?」
「場合によっては、それも考えないとならないかな、と……」
「そう。……それも一つの手かもしれないね」
「え? えっと、はい……」
「この学校にもいにくいでしょうし」
「え……」
唐突に、今の自分の発言を後悔する。嫌だよ、転校なんて……だって――。
「新しい学校に行ってやり直せれば、そのほうがきみも勉強や高校生活に打ち込めるかもね」
しかし教師は伊織の反応など気に留めず、話を進める。
「それならね」
と、突然、彼女が顔を寄せてきた。息の掛かるような距離に口を近づけて――
「あのね」
耳に注ぎ込まれた息と言葉に、心臓が跳ね上がる。伊織とて、年頃の少年である。年上の女性にこのような行動を取られて不快になろうはずもない。が、この動悸の意味するところは、そのような艶めいた気持ちではない、ような気がする――。
(なんだか怖い)
直感的に、伊織は竦み上がった。なぜかは分からないが、本能が危険を予知している。これは、そう――スクールバスと電車を乗り継いで、アルバイトの面接に行ったあの日に感じたのと、同じような種類の――。
「私は力になれるかもしれない」
耳元で言われ、伊織はぎこちなく首を三十度だけ彼女のほうに向けた。
「え……っと?」
「あなたを助けられる」
やはり耳元で、ささやくように言われる。
「別の学校に移って、学費も生活費も心配なく暮らす方法があるの」
「……えっと?」
「『DVD』を見たでしょう?」
「えっ? DVD?」
(DVD……DVD……?)
何か頭を過ぎったものがあって、懸命に掘り起こそうと頭を動かす。けれど女性教師の顔がものすごく近くにあって、緊張のあまり思考回路がうまく働かない。
(DVDって……なんだっけ……たしか――)
「あれを見てから、不思議なことがなかった?」
「えっと……え?」
「それが、きみの本来の能力」
「……」
「その能力を、私たちに貸して欲しいの。一緒に来て、私たちと働かない?」
「は、はたら……?」
「そう。学費や生活費も、すべて保証する」
「……って、何を……俺?」
(アルバイトの勧誘か何かだろうか?)
戸惑いつつ、すぐ横にある女性の顔へと恐る恐る視線を向けると。伊織が興味を示したと受け取ったのだろうか。女性はさらに顔を耳元に寄せて。
「そう、まずは――相原哲也を探すのを手伝って欲しいの」
思わず椅子を引いて、伊織は飛び退くように立ちあがっていた。椅子が音を立てて転がる。
「て、哲也さん、を……?」
女性教師は、前屈みになっていた身を起して、机に肘を置くと小さく息をついた。
「そう。知っているでしょう? 彼は危険な能力を持っていて、その能力を使って家を焼き両親を殺し、そして逃げ回っている。探して早く『処理』しないと、大変なことになる」
どうして彼女がそんなことを知っている? そんな疑問が頭をかすめたが、それよりも今、伊織は彼女の言葉に引っ掛かっていた。それは、どことなく不吉な響きを持つ言葉だった。
「しょ、『処理』って……?」
「きみにお願いしたいのは、彼を探し出すところまで。その後で彼をどうするかは、私やきみの決めることではないし、知ることでもない」
「て、哲也さんは、どうなるんですか?」
「彼は自分の能力をコントロールできないし、自由にさせておくのは世の中に害をもたらすだけ。だから捕まえて外に出られないようにするか……ただし彼の能力は強大すぎるから。閉じ込めておくこともできないなら、その場合は――」
じっと伊織を見つめて、彼女は目を細める。
「えと……まさか……」
背筋に冷たいものを感じながら、唾を飲み込む。
目の前の女は、静かに大きなため息をつく。そして、わずかに間を置くと、ゆっくりと首を横に振った。
「私たちだって、彼を失うのは辛い。けれどこうなってはもう、仕方ない。彼を生かしておくことは難しい」
愕然と、伊織は凍りついた。
哲也さんは、見つかったら殺されてしまう――?
「それにね。大きすぎる能力を持って、彼の体ももうあまり長くはもたない。彼を楽にしてあげるにはこの方法しかない」
決然と言う女を、信じられない気持で眺める。が、彼女はそんな伊織の心内を斟酌する様子はなく、伊織にとってもこれが最善の結論なのだとだと言わんばかりに、
「きみには、彼を捜し出すことができるかもしれない。手伝って。そして私たちと一緒に、あなたの能力を世の中のために使うの」
そこで机に手を置き勢いよく立ちあがった女に、思わず伊織は後ずさる。
「な、なに言って……そんなの……だ、だ、」
不審げに眉を寄せる女。どうして伊織が拒絶の言葉を発しようとしているのか、まったく理解できないという様子で。
伊織は勇気を振り絞って、次の言葉を手繰った。
「だめに、決まってるでしょ」唾を飲み込んで、「哲也さんを、こ、こ、殺……? そんなことに、協力できるわけが……」
「けれど、サイの世界ではそれは決まっていることなの。彼もそのことは理解しているはず」
「ささささ、サイの、世界で決まってても……だって、従兄弟なんですよ?」
「従兄弟だろうと兄弟だろうと、能力をコントロールできずに人を殺してしまったサイを放っておくことはできない。そうでしょう?」
「けど、けど……」
目の前にいる女が、何か別の世界の別の生き物に見えてきて、伊織はあらためて恐怖を感じた。
この人と分かりあうことはできない。そんな感覚。
「お、俺……無理ですっ、失礼しますっ」
「待って――」
女は追う気配を見せたが、止められる前に伊織はドアを開ける。と――。
「あ! 伊織くん! いたいた!」
「……お、お嬢……?」
開け放ったドアの向こうにあおいが立っていて、満面の笑みを作って嬉しそうな声を上げる。
「帰ろう!」
音符でも飛んでいそうな朗らかな口調で、室内の伊織に声を掛ける。
「センセイ、伊織くんとの話、もう終わったんですか?」
あおいの肩越しに顔を出すようにして、ハルが、屈託のない笑顔で問い掛ける。
「もう帰ってもいいですか?」
「だ、駄目よ」
慌てたような声を上げる女性教師に、ハルは不思議そうに首を傾げた。
「まだ何かあるんですか?」
「相原くんは、このあと私と少し出かけます」
「だって、このあと中西くんと話すんでしょう? 中西くん、連れてきました」
そう言ってハルは、誰かの腕を引く。引かれてドアから顔を覗かせたのは、顔に絆創膏を貼った中西。何かに怯えるような様子で、きょときょとと視線をさまよわせ一瞬だけ伊織に目をやって、すぐに逸らす。
「はい。中西くん、頑張ってね」
また朗らかな笑顔を作って、ハルは中西を部屋に押し入れると伊織に顔を向けた。
「待って、まだ彼との話が終わっていません」
「まだ? なんの話があるんですか?」
「あなたたちには関係ないでしょう」
きっぱりと言われて、ハルはわずかに眉を寄せる。
「関係ないことありません。俺たち伊織くんの友達なんだし。ね?」
「うん」
振られたあおいが、これもやはり無邪気な笑みで答え、入り口で突っ立っている中西の脇をすり抜けるようにして室内に入ってきた。
「あ、あなた!」
呼びかけを無視して、あおいは立ちつくしていた伊織の腕を取る。今度こそ、正真正銘、ドキっとした。これは高校一年男子として正しい心臓の跳ね上がり方だ。
「行きましょ、伊織くん。あーあ、頬っぺた腫れてる。手当てしてもらお」
真顔で覗き込んでくるあおいの顔が近くて、伊織は心臓の音を抑えきれない。
あおいの腕に従って、ドアへと向かう。伊織とあおいを外に出して、ハルはまた女に目を上げた。
「それで、伊織くんを、どこへ連れて行かれるつもりだったんですか?」すっと笑顔を畳んで、「創湘学館の、辻本センセイ」
その一言で、女は目を大きく見開いた。
「あ、あなたたちは――」
中西に一度鋭い視線を送り、それから警戒を滲ませた顔で、一歩、踵を引く。わずかに姿勢を低くし、両の拳を握ってハルを睨みつける。
ハルはそれに冷たい視線を返しながら、
「やめたほうがいい。あなたの力じゃ勝負にならない。学校の中だし、ほら、中西くんも見てる」
ちらりと中西を目で示して。
「どうしてもって言うなら――相手になるけど?」
瞬間。両者の間の空気が一瞬密度を増したような気がした。総毛立つほどの圧迫感。見たことのないハルの冷たい視線に、伊織は身を縮めた。直後に女は壁際ぎりぎりまで飛びずさる。
壁を背に驚愕の表情を浮かべる女に、ハルは腕を組んで二、三歩踏み寄る。
「その場合は、俺たちがもっとじっくり話を聞かせてもらうようになりますけどね」
悔しげにハルを睨んで、女はさっと身を翻すとまだ突っ立っている中西を突き飛ばすようにしてドアの外へと飛び出した。
駆けていく女を、腕組みのままハルは見送り、
「俺としては、『もっとじっくり』でも良かったんだけどねえ」
険しい表情はすでに消え去って、伊織とあおいに向かってふわりと微笑んで肩を竦めた。
「そうよ、ハルってば。捕まえちゃえばいいのに」あおいは口を尖らせる。
「あのねえ、お嬢? そもそもお嬢が伊織くんの傍を離れたりするからなんだよ? しかも、知らない女に連れられて行くのを黙って見送った? なにやってんのもうー」
「あら、だって学校の中なんだもの。ハルだってそう言ったじゃない」
「でもさあ普通止めるよね? まずいかなって思ったら」
「だからすぐに呼びに行ったでしょ?」
しれっと言うあおいに、ハルは大きなため息をついた。
何やら自分のせいで気まずい雰囲気になっているのを察し、伊織は慌てて割り込む。
「あ、あの……なんかまた助けてもらって、すみません」
ハルとあおいを見比べるようにしながら小さく頭を下げると、二人は揃って小さく息をついた。
そうしてハルは、女に突き飛ばされて呆然と尻をついている中西の腕を取って引き起こす。
「中西くん、良かったね。お説教はナシみたいだよ」
にっこりと笑いかけるが、腕を取られた中西はなぜだか酷く恐ろしげに体を震わせた。




