60.伊織、想像だにしえない行動。楠見は手ごたえを感じ
喉の奥でクツクツと低い声を立てて笑い続ける中西を、伊織はぼんやりと見つめていた。
「あの……それって……」
「相原、本当に気づいてなかったの? ぜーんぶ上野がやったんだよ、あのビラを作って、学校中にばら撒くのも、商店街に配るのも」
言葉を失って、中西を正面から見つめることしかできなくなってしまった。頭の芯のあたりに、熱いような、冷たいような、痛いような、締め付けられるような感覚がある。
中西は、笑いを引っ込めて、同情するような目つきになった。
「相原、それでアルバイトもクビになっちゃったんだろ? 大変だったな」
「……」
「アルバイト先にあれ持ってったのも、上野だよ。それからさ、本当はあれ、第三号もあったんだ。上野は次の日も、同じようなことをするつもりだったんだよ」
呆然と突っ立っている伊織を覗き込むように、顔を寄せてくる中西。
「第三号のテーマ、なんだと思う?」
頭の芯のあたりの締め付けられるような感覚が、大きくなる。気づけば握り締めた手に、じっとりと汗の感触があった。
「中学時代の相原伊織くんだよ」
伊織は唾を飲み込んだ。
「結構可哀相な中学時代送ってたんだね。俺、同情しちゃった。配ってみんなにも見てもらったらよかったのに。同情してもらえたかもよ」
「あの、それ……中西は、どう、して……」
変なタイミングで息継ぎしたり、唾を飲み込んだりしながら、伊織は声を振り絞った。
「手伝ったんだ。コピーしたり、配ったりするのをね。それだけじゃないよ。上野にその『仕事』させたの、誰だと思う?」
喉の奥で笑い声のような音を立てて、中西はまた唇の端をあげた。
「俺だよ」なんでもないことのように、軽く言う。「知り合いからね、こういう『仕事』してくれそうな人いないかって聞かれたから、上野のこと紹介したんだ。上野、最近のキミの態度に不満を持ってるみたいだったし。新聞部だからちょうどいいって思って」
そうしてますます可笑しそうに、
「上野のやつ、知らないもんだから自分の文章が認められて仕事を頼まれたとか思っちゃってさ。得意になっちゃって。俺に『手伝え』って。もうほんと、ケッサク……!」
呆然と立ち竦んでいる伊織のことなどもう目に入っていないように、楽しそうに語る中西。
「しかもね。コピーしてるところを見つかって、第三号は配れなくなったんだって。三組の男子に邪魔されたらしいよ。殴られたってさ。バッカだよねー」
「……え」
三組の、男子――。ぼんやりと、思い浮かぶ顔があって、頭の中が薄っすらと現実を取り戻す。
「なんて言ったっけ。あの目立つヤツ……神月くんのグループだって、上野、言ってた……」
ふわりとまた、心が軽くなる。ほら、また――。
そんな伊織の心境を、鋭く察したのだろう。中西は、面白くなさそうに顔を歪めた。
「けどさ、そもそも相原はどうして神月くんたちと仲良くなったわけ?」
「えっ? ええっと……なんていうか……」
「俺には言いたくないんだ」
「あの、そういうことでは……」
「ふうん」
中西は再び顔に侮蔑の色をはっきりと浮かべ、路上で管を巻く酔っ払いでも眺めるような視線で伊織を睨んできた。
「やっぱりね。おかしいと思ったんだ。相原が神月くんみたいな凄い人と仲良くしてるなんて」
「え……っと?」
「便利に使われてるだけってわけだ。相原、なんでも言うこと聞きそうだし。ほかに友達いないから、ちょうどいいもんね」
(……それって……)
カチン、と頭のどこかが鳴った。
(ハルたちに対する侮辱だ――)
頭の芯のあたりが、ますます熱くなる。全身の血が体を駆け上がってそこに集中しているみたいに。集中しすぎて行き処のなくなった血が、頭の中でひしめき合ってもみくちゃになるみたいに。目の後ろのあたりがぐるぐる回って。
(彼らのこと、そんな風に言うのは――)
自分が馬鹿にされるのも。罵られるのも。我慢できる。いや、できないかもしれないけれど、仕方ないとは思える。けれど、それは――。
「い、委員長たちは、そんなことしないよ」
言葉にしたら、思いがけず強い口調になった。中西が怪訝そうに眉を顰める。
「はあ? 自分で分かってないだけじゃないの? 対等な関係だとでも思ってるの?」
「……そんな、そんな人じゃないよ、他人のこと見下したり、都合よく使ったりするような人じゃ……」
だって、すごく心配してくれて、親切にしてくれて、伊織のことを守ってくれている。
それは彼らの仕事だからかもしれないし、伊織に特別な感情を持っているわけではないかもしれない。けれど、彼らが伊織を守っていることに関して、伊織に対して恩を着せたり見返りを求めたりしたことはなかった。
(それなのに、俺――)
はっと思いだす。
(彼らに酷いことを言って……拗ねて……)
いつだって。本人以上に、伊織のことに真剣になって。
――気にしないで。俺たちでどうにかするから。
そう言って、ハルやキョウは本当に「どうにか」してくれたんだ。伊織が落ち込んだり不貞腐れたりしている間に、犯人を捜して、見つけ出して、さらなる攻撃から伊織を守ってくれて。
何も言わずに。
なのに俺は――。
(知らなかったから……)
苦い後悔が、こみ上げる。
俯く伊織に、中西は別の想像をしたらしい。
「気づいた? 自分の役割り。分かってなかったんだ、やっぱり。神月くんだって、キミのこと友達だなんて思ってないよ。引き立て役? 奴隷? 相原なんか、神月くんとは住んでる世界が違うんだよ――」
「――!」
頭の中でまたカチンという音がして、それから伊織の取った行動は、自分でも予想だにしえないものだった。何かに体を動かされたのだとしか思えない。気づけば横にあった机を弾き飛ばして、中西に掴みかかっていた。
「うわっ、なっ……!」
いくつかの椅子と机を巻き添えにして、中西は背中から床に倒れこんだ。伊織は中西に馬乗りになって、必死で頬を一発殴る。
自分でも、どちらかといえば怒りを感じにくい性格だと思っていた。何かに激しく腹を立てたりした記憶もないし、ましてや他人に殴りかかったりしたこともない。喧嘩の仕方だって知らない。だから、どうして自分がこんな行動に出ているのか分からない。分からないが、許せない。
(いや……許せないのは)
もしかしたら。
「な……っに、すんだよ!」
一発殴られたところで中西は、馬乗りになっていた伊織の胸を突き飛ばし、仰け反った伊織の胸倉を掴む。押されまいとして、伊織も両手で中西の胸の辺りを掴み返してしばし押し合い、引き合いになり、横にあった机をまたいくつか弾き飛ばして二人して転がった。
大きな音を立てて、椅子と机が床を滑り、あるいは倒れる。
「キャーッ」と廊下で声が上がった。何人かがこちらに向かって走ってくるような足音を聞いたような気がするが、気にしている余裕はない。
転がりながら、何発か殴ったような気がするし、殴られたような気がする。
頭の中が空っぽになって、無我夢中で組み合っているところで、掴んでいた中西がクレーンで引っ張り上げられるように伊織の体から離れた。直後に両肩を後ろから押さえられる。
「伊織くんっ」
両肩を掴んでいる人物に耳元で強い声で呼ばれ、ハッと我に返る。
「あ、お、お嬢……」
振り返ると、不安そうに眉根を寄せているあおいと目が合った。
向き直れば、中西が同じように見覚えのない男子に肩を押さえられ、荒い呼吸をしながら立っている。
「何をしているの、あなたたち――!」
教室の入り口のあたりで、厳しい声がする。ぼんやりと目をやると、教師らしい風体の女性がドアに手を掛けて立ち、険しい目でこちらを睨んでいた。
『キョンキチは腕白だなあ! はっはっはっ』
高台の上からおそらく双眼鏡を構えて一部始終を見ていた古市の、電話を受けての第一声は、そんなものだった。
『腕白小僧の手綱を握るのも、楽じゃないやなあ』
「不徳の致すところです……」
楠見はため息をつく。
「それで? 周囲に変化はありませんか?」
さり気なく周りを窺いながら、楠見は声を潜めて聞く。
『ああ。峰尾家の例の部屋も、静かなもんだよ。もっとも楠見ちゃんが言うみたいに、哲也が部屋の中に直接現れるんなら、分かんねえけどもなあ。とりあえず、人の気配はしねえ』
裕介が哲也を匿っている可能性を考えて、わざわざ学校内で声を掛けずに町田の自宅まで来てみたが、その気配はないか――。
「分かりました、もうしばらくお願いします。峰尾くんは何か知っています。これから聞きます」
『おいよっ。見張りは任しとけ』
胸でも叩いていそうな口調の古市に、よろしくお願いしますと言って通話を切り、楠見は裕介が座っているベンチへと向かう。
そこは峰尾家から数十メートル離れて路地をひとつ曲がった、公園というよりはポケットパークと言ったほうが良さそうな小さなスペースだった。隣家の屋根の高さに届く立派なサルスベリの木と、ベンチが二つ。道との間を隔てる花壇には色とりどりのパンジーが隙間なく植えられ、手入れが行き届いている。
楠見は裕介の隣に座り、缶コーヒーを二本手に持ったまま少し待った。そうしながら、背後の細い道へと注意を配る。道行く人は少ない。
少し離れたサルスベリの木の下で、キョウは木の幹に寄りかかってこちらを窺いながら缶コーヒーに口をつけている。
財布と買ってきた缶コーヒーとを渡し、楠見の意を汲んですぐに裕介の視界から姿を消し距離を取った点は評価する。が、そもそもお前が話しづらい雰囲気にしたんだぞ、という件に関しては後で苦言を呈したい。
そう思いながらキョウに目をやると、キョウは缶を口につけたまま決まり悪そうに顔を逸らした。裕介に抵抗の気配がないのを見て、やりすぎたことを反省しているのかもしれない。まあ、いい。小言は後だ。
「――峰尾くん」
隣に座っている裕介が小さく息をついたのを見て、声を掛ける。ワンテンポ遅れて裕介が顔を上げる。楠見は缶コーヒーを一本渡し、自分の缶のプルタブを開けた。裕介は、受け取った缶に目を落とし、また楠見の顔を見る。「どうぞ」というように軽く頷くと、裕介も缶を開けて、だがそのまま口には運ばず缶をぼんやりと見つめたまま動きを止めている。
「ちょっと話していいかな」
楠見はできるだけ優しい口調で問い掛けた。また少し遅れて、裕介は楠見に目を上げる。
「……はい……?」
「何も話さなくていいから、まずは話を聞くだけ聞いて欲しいんだ」
不用意に裕介の口を開かせてはいけない。楠見を完全に信用する前に質問をしては、彼は本当のことを答わないだろう。知らない、違う、俺は関係ない――保身から嘘をつかせ、その上に嘘を重ねさせてしまうようなことがあれば、後から真実を聞き出すのは難しい。臆病で気の弱そうな裕介の横顔から、楠見はそう判断する。
刀を突きつけられたからだけではない。彼は、いま直面している問題全体に脅えているのだ。
「さっき言ったように、俺は緑楠学園の副理事長なんだけど――」
楠見は名刺を取り出し、裕介に渡す。裕介は缶を持っていないほうの手でそれを受け取り、しげしげと眺め出した。読み上げるのに時間が必要なほどの情報量はそこにはないので、楠見はすぐに話を続ける。
「同時にもうひとつの仕事をしている。副業って言っていいかな」
「……はあ」
「サイを助けるのが、俺のもうひとつの仕事でね」
キョウが警戒するレベルの能力者だ。自分がそうだと気づいていないはずはない。「超能力って本当にあるの?」という類の話は省略していいだろう。
裕介は、名刺を持つ手を膝に置いて、わずかに首を傾げた。
「助ける……って?」
「うん。サイの業界での『よろず相談事承り』って感じかな。サイ絡みのトラブルの相談に乗ったり、問題を解決したり」
かすかに目を見開く少年。その小さな変化を目に留めつつ、楠見は言葉を継ぐ。
「おかげさまで、その世界じゃ少しは名が知れていてね、何かサイに関する問題が生じると、知っている伝手を辿って相談を受けるんだ。そこに行って解決するのが俺たちの仕事だよ」
釈然としない面持ちではあるが、裕介は小さく頷いた。
「彼は――」
キョウのほうを目で示す。裕介は恐る恐るといった様子で、振り返ってキョウに目をやる。キョウは小さく目を上げたが、すぐにそっぽを向いた。声は聞こえているはずだが、話には入らないことにしたらしい。賢明だ。
「きみと同じ緑楠高校の一年の生徒で、サイなんだ。さっききみを脅かしてしまったのは、彼の特殊能力だよ。彼にはその能力を使って仕事を手伝ってもらっている」
「その……サイを、助ける……?」
「うん」楠見は頷いて、苦笑気味に頬を緩めた。「仕事柄、危険な相手と渡り合うことも多くてね。こちらもきみのことは名前くらいしか知らなかったから、ちょっと警戒心を働かせ過ぎて、あんな行動に出てしまった。驚かせて悪かったね」
裕介は楠見のほうに向き直り、口の中で「いえ……」というようなことをつぶやいた。あんな目に会わされて、「それじゃ仕方ないですね」とはとても言えないだろう。余計なことを考え出す前に、話を進めることだ。
上着の内ポケットから紙を取り出し、折り畳んであったそれを広げる。例の名簿だ。
「二週間ほど前になるがね。こんなものが俺のところに、FAXで送られてきた」
「至急保護」の文字と、そしてリストの中に哲也の名前を見つけて裕介が目を見張るのを確認して、楠見は紙を畳む。
「送ってきた相手も、その理由も、分からない。が、調べているうちに、ここに載っているのが六年前の緑楠高校の一、二年生で、しかも彼らがサイか、あるいは潜在的にサイの能力を持っている者だということが分かった。さらに――」
楠見は紙を懐にしまいながら、裕介の表情を窺う。
「彼らのところに共通して、一枚のDVDが送り付けられていることが分かった。誰かが『能力開発』のためのプログラムとして作り、効果を試すためにこの名簿の人間たちに送ったようなんだ。ただ、このプログラムには厄介な副作用があってね。能力のコントロールが難しくなって抑えきれなくなってしまう者がいるんだってところまで分かった」
無表情に話を聞いている裕介だが、その頭の中で目まぐるしく思考を整理しているのを楠見は見て取る。彼はこの件に関して何かを知っている。楠見の話した内容が、自分の知っている事柄とどのように組み合わさるのかを、必死でまとめているのだろう。ジグソーパズルのピースのはめていくように。
楠見は缶コーヒーで喉を潤す振りをして、少し待つことにした。
「あの、それで……?」
しばらくして、楠見が黙っていることに気づいて少々慌てたように、裕介が切り出す。
「ああ。俺たちはこの名簿に載っている緑楠の卒業生を回って、彼らの安全を確認し、問題のDVDを回収している。大多数の安全は確認できたんだけど、相原哲也くんっていう卒業生だけが、何故だかなかなか見つからなくてね」
楠見はなるべく「相原哲也」がリストのほかの名前と同列に扱われていることをにおわせるよう、さりげなく言ったが、その名前が出るとやはり、裕介は少しだけ表情を硬くして目を逸らした。
「その相原くんの住所――いま見せた名簿に載っていた住所からは、彼はすでに引っ越していたんだよ。それで、彼がその後どこに行ったのかと捜しているうちに、きみの家にたどり着いた」
「あの……ど、どうして、うちに……?」
「相原くんが人に伝えていた『引越し先』というのが、きみの家の住所だったんだ。そこに緑楠高校の――彼の後輩に当たるきみが住んでいると分かり、きみが何かの間違いで危険に巻き込まれたりしていないか、確認しようと思ってね」
「はあ……」と口の中でつぶやき、また何事か考えるように困惑した顔で俯く裕介。
楠見はさらに少し時間を取って、それから笑顔を作った。
「特に問題がなければ、いいんだ。俺たちの取り越し苦労なら、良かった。相原くんの適当に言った住所が、たまたまきみの家だっただけなのかもしれない。変な話を聞かせて悪かったね。忘れてくれるかな」
すると裕介は、取り残されたような不安を顔に浮かべた。無人島に漂着した人間が、自分に気づかずに沖を通り過ぎていく船を見るような。手ごたえを感じ取りながら、楠見は立ち上がる。
「こちらの話はそれだけだ。もしも困ったことがあったら、さっき渡した名刺の電話番号に、いつでも電話を掛けてきてくれていいよ。それと――」
ベンチに腰掛けたまま不安げに見上げる裕介を、楠見は真摯に見つめ返して言葉を継ぐ。
「相原哲也くんは、今、危険な状態にあるかもしれない。俺たちは彼を助けたい。もしもきみが何か思い出したことがあれば、どんなことでもいいから連絡が欲しい。急がなければならないんだ」
それだけ言って「それじゃあ」と裕介に背を向け、サルスベリの木に寄りかかっているキョウに一瞥送る。何も聞き出さずに帰る素振りを見せる楠見に、キョウは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに察したように木から背を離して寄ってきた。
そのまま、キョウを伴って公園を出て行こうとした時だった。
「あの――っ」
背後から、声が掛かる。キョウが楠見を見上げる。その視線にニヤリと笑みを返し、体ごと振り返ると、裕介が悲壮な顔でベンチから立ち上がっていた。
「あの……本当に、哲也さんを助けてくれるんですか――?」
必死な口調で、そう問いかける。
楠見は目を見張って、喜びの表情を作る。
「きみは、哲也くんのことを何か知っているのか?」
「その……」バツが悪そうに、祐介は少しだけ視線を逸らして、「塾の先輩で……たぶん……その、哲也さんっていう人が……」
「塾の?」
「はい……中学の時に通っていた学習塾で……」
繋がりが、見えたか――?
内心の高揚を押し隠しながら、楠見はベンチに戻るべく足を進めた。




