54.切り札、揺さぶり、そしてアリバイ
「あの事件の後で、哲也くんと会ったんじゃないのかい?」
隙のない目で伊織を見つめながら、白塚は聞く。
その視線に射すくめられた伊織は、聞かれている内容よりも、質問されたことそれ自体に脅えたように少しばかり身を縮めた。
「そんなことがあれば、すぐにお話ししていますよ」
すかさず口を挟んだのは楠見だった。こちらも白塚に負けず、山崎が「ただ者じゃない」と感じた険しい目を向けている。
白塚はしかし、余裕の表情で楠見を睨み返した。
切り札を出すのだろう――山崎は察する。
「いえね、あの火事の後でね。相原くんの家の近くで、哲也くんの姿を見たっていう人がいるんですよ」
これには伊織も、そして楠見もかなり驚いたようだ。
「……なんですって?」
白塚は、おい、という調子でまた山崎に説明を預ける。山崎は手帳をめくり引き継いだ。
「――日曜日の朝六時ごろです。犬の散歩をしていた近所の人が、哲也くんらしい男の姿をアパートのすぐ近くで目撃しています」
この二、三日、哲也の元住居――現在伊織が住んでいるアパートの近くで行った聞き込みの成果だ。
「哲也くんがあのアパートに住んでいた頃でしょう、会話を交わしたことはないけれど何度か道で会ったことがある男だったので間違いない、と」
「哲也くんは、きみに何か伝えに来たんじゃないかと思うんだけど、どうかね?」
「お、僕は――会っていません。その……伝えるって言ってたことも……」
戸惑ったように答える伊織に目をやりつつ、山崎はわずかな違和感に気づいた。伊織は先ほどから、ほとんど楠見に目をやっていない。先日話を聞きに来たときは、何かというと助けを求めるように視線を楠見に向けていた。それが、今日はない。
相原伊織は楠見に、何か隠しているのではないか――?
白塚も、それに気づいたのかもしれない。楠見のほうには目を向けずに、伊織を注視している。そして、伊織にだけ向けて言う。
「金曜の朝もね、事件の直後、このあたりに来たって可能性もあるわけだ」
「……八王子行きの電車に乗ったんでしょう?」
楠見が声を上げた。が、白塚の余裕の表情は変わらない。
「ああ、だが京王線や中央線に乗り換えれば、来られるでしょう。普通に考えりゃ少々遠回りでしょうがね、早朝のことで乗り継ぎが悪くて、たまたま来た電車に乗ったって可能性だってある」
「こじつけにしか聞こえませんね」
「まあ、可能性をひとつずつ当たっていかんとならんのですわ」
そう言って、白塚はにやりと笑った。
「相原くん、ちなみにきみは、木曜の夜から金曜の朝にかけて、どこでどうしていたか覚えているかな?」
楠見は白塚を厳しく睨んだが、白塚はその視線を受け流して伊織を真っ直ぐに見つめている。伊織はここで初めて、楠見に伺いを立てるような視線を送った。楠見はそれに答えるように、小さく頷く。
「友人の家に、泊まっていました」
「……なんだって?」
これには白塚が、拍子抜けしたような声を出す。伊織は一人暮らしだ。当然、夜から朝にかけてのアリバイなどあるはずがないと思っていたのである。アリバイのないことが決め手になるわけではないが、次の揺さぶりを掛ける布石にはなると考えていたのだ。
「えっと……」
白塚の次の質問が続かないことに、伊織は戸惑ったように目を上げて白塚と山崎を見比べる。
そこで、ドアをノックする音がした。楠見が答えると、湯飲みを載せた盆を持って高校生が姿を現す。先日の高校生の一人。
「失礼します。刑事さん、こんにちは。副理事長先生、お茶を持ってきました」
利発そうな瞳を山崎と白塚に交互に向けて、品の良い口調でそう言う高校生に、白塚は呆気に取られたように会釈を返す。楠見は「ありがとう」と答えて、給仕を始めた高校生を手で指し示した。
「先日もお会いになったと思いますが、一年の神月悠くん。伊織くんと同じクラスの友人です」
紹介されて、全員の前に湯飲みを置き終えた神月悠は感じよく微笑んだ。
「ちょうど良かった。神月くん、こちらの刑事さんたちが、伊織くんの木曜日の夜から金曜日の朝にかけての行動を知りたいと仰っている」
神月悠は、まさにこの話題のためにあつらえたような控えめな笑顔で、二人の刑事向きなおり、
「その日なら、伊織くんはうちに泊まっていきました。外部から入学したばかりで勉強がちょっと難しいって言うので、それならうちで一緒に勉強しようって」
「彼は学年トップで、伊織くんのクラスの委員長です」
楠見が注釈を加える。
「金曜の朝も、一緒に学校に来ましたよ。それから――ああ、刑事さんたちは知っていると思うけど、金曜の夜もうちに来て……」
そこを突かれると少々痛い。二人の刑事がそれを感じたのを確認するかのように言葉を切って、神月悠はさらに笑みを大きくする。
「一旦、伊織くんの家に帰りました。お二人とも見ていたと思うけど――」
柔らかい笑みを浮かべているが、瞳は抜け目なく光った。
「それから、着替えを取ってまたうちに戻りました。翌朝――土曜日の朝ですが、楠見副理事長先生に神奈川の伊織くんの家まで連れていってもらうので、朝早いからうちに泊まってもらったんです。あ、ついでに土曜日も。焼け跡を見てショックな様子だったから、一人でいないほうがいいかなと思って、泊まっていくように勧めました。日曜日はそのままアルバイトに行ったんだよね」
そう伊織に笑いかけると、伊織もおずおずと頷いた。
「そういうことですから、木曜日から日曜日にかけて、伊織くんはほとんど彼と一緒に行動していました。哲也くんが来たとしても、彼は会っていませんよ」
そこまで言って、楠見は挑むような目線で白塚を睨みつける。
「彼の証言では、証拠能力はありませんか?」
「……いや、そんなことはありませんがね……」
白塚は苦々しげにそれだけ答えた。
そんなに都合よくアリバイが用意されているというのは、それはそれで怪しい。口裏を合わせているのではないか、と言いたげな様子だが、神月悠の証言を否定する根拠もない。
白塚がそれ以上疑いの言葉を続けないのを見て、楠見は小さく息をつき、神月悠に「ありがとう、もういいよ」と声を掛けて彼を下がらせる。神月悠は優等生らしい落ち着いた眼差しでにっこり笑って、「失礼します」と一礼して部屋を出ていった。
「それで、ほかにお聞きになりたいことというのは――?」
楠見が腕を組んで、正面の白塚を睨む。
しばし考え込んでいる様子の白塚だったが、その視線を受けて身を乗り出し、楠見を睨み返した。
「――誰かがね、おそらく哲也くんを匿っているんですわ。哲也くんが転がり込んだってだけじゃない。その人物は、彼が事件に関わっていることを知っていて、彼の身柄を隠している」
「それが伊織くんだって言うんですか? どういう根拠があって? 事件発生以降、伊織くんと哲也くんの接点がないというのは、お分かりになったでしょう?」
「だが、完全にないと証明されたわけじゃない。現時点でほかに考えられないんですよ。現場で名前が出ていたってことから考えてもね、相原くんが無関係だとは思えんでしょう」
「ほかの哲也くんの知人を探しきれていないだけでしょう。それで手近にいただけの伊織くんに疑いを向けられたんじゃ、堪ったもんじゃありませんよ。もっとしっかり探してください」
厳しい口調で冷たく言う楠見に、白塚はやや不機嫌そうな顔をしたが、ここで引くような刑事ではない。
「ほかの人物も探しているところですがね――でも一人ひとり探っていかにゃならんもんでね。不愉快かもしれませんが、もう少し聞かせてもらいますよ。伊織くんが潔白なら、正直に答えてもらえばいいだけのことだ」
言いながら白塚は伊織に目を向ける。
「質問を変えるよ。この間、きみに、『きみは本当は相原夫妻とあんまり仲が良くなかったんじゃないか』って聞いたけれど――」
「白塚さん」楠見がまた言葉を割り込ませる。「そのことなら先日お話ししたはずですが――」
「ああ、副理事長は申し訳ないですがちょっと黙っててくださいな。これは相原くんに直接聞きたいんですわ」
「『仲』云々まで、事件と関係があるんですか?」
「あるかもしれないから聞いているつもりなんですがね」
一瞬楠見と視線を対峙させ、白塚が強い口調で言う。そして、伊織に目を向け、険しく睨む。
「きみは、哲也くんが犯行を起こすことも知っていたんじゃないのかい?」
「何を言っているんですか。そもそも放火だって決まったわけでもないんでしょう? それをさっきから――」
楠見が抗議するが、白塚はそれを黙殺し、いささか早口になって、
「相原家の近所の人からいろいろ話を聞いたんですわ。相原夫妻は、――ああ、伯母さんのほうだがね、きみのことを近所の人に多少話していたみたいでね。どうも彼女、きみのことをあまりよく思っていなかったみたいだね」
宙を見つめて固まっていた伊織の眼差しが、かすかに震えた。
「親戚の子を預かることになっちまったんだが、少々困っている、という話を聞いた人がいましたよ。具体的な理由は分からないがね、ちょっと気味が悪そうにしていたとか、迷惑そうだったとか、怖がっているような感じがしたとか――」
「白塚さん、そんな話を今――」
楠見が怒りを湛えた低い声を上げたが、白塚はそれも構わない。
「きみもそれは感じていたんだろう? 伯母さんに対して、何か思うところがあったんじゃないかい?」
真っ直ぐに見つめられて困惑しきったように俯く伊織に、楠見は目をやる。が、伊織の視線が応えないと見ると、白塚に再び抗議の視線を送った。
「質問の意図が分かりませんね。何を想定していらっしゃるんです?」
「相原くん、伯母さんはきみを邪魔者にしていた。きみもそんな伯母さんのことを――いや、あの相原夫婦のことを良く思っていなかった。そうじゃないかい?」
「勝手な想像だ――」
「それに哲也くんも、両親に対して殺意を抱いていた」
「まさか、どこにそんな根拠があるっていうんですか」
「二人でそんな会話を交わしたことはないのかね? そして――」
「白塚さん!」
楠見が怒りを露わにして立ち上がる。
「いろんな可能性を検討されるのは結構ですが、そんなあやふやな憶測でこれ以上彼を追い詰めるようなことを仰るようでしたら――」
押し殺した、しかし威圧感を込めた声で楠見は抗議するが、白塚は片手を上げてそれを制した。
視線は伊織に向けたまま。
「根拠、と言われましたがねえ」伊織が十分に混乱し困惑しているのを見てとると、白塚はそのまま言葉を繋いだ。「もうひとつ、哲也くんが言っていた言葉があるんですよ」
「伊織くん、聞かなくていい」
冷たい目で白塚を睨み据えながら、楠見が伊織に言う。
伊織はその声を聞いているのかいないのか、ぼんやりとした視線を白塚に向ける。
「火の上がる、ほんの直前のことです。『俺や伊織を売った』って、そう両親に言ったそうなんですよ」
立ち上がったまま、楠見は愕然と目を見張った。
伊織は表情のない目で白塚の顔を見ている。
それを確認し、白塚はゆっくりと言い聞かせるように、その言葉を発した。
「『俺や伊織を売った金で買ったんだろう』と、ね。その言葉と爆発音の間に、何か物が壊れるような音を聞いた、と。これがなんなのか、出火と関係あるのかどうかは分からんのですが――」
獲物を睨み据える、熟練の刑事の視線。
伊織はそれに捕まったように、しばし放心した様子で目を白塚へと向けていたが、やがてゆっくりと瞬きをして。
「――テレビ、です……」
不意に、ぽつりとつぶやく。
楠見は言葉を失ったまま、伊織に視線を落とした。
脈絡が分からず、山崎と白塚も伊織の顔を見つめる。テレビ――?
「テレビって……」
山崎が恐る恐る聞くと、伊織は山崎に目を向けた。その目は山崎に向いてはいるが、映してはいない。どこか遠くを見ているように。かすかに揺れていた。
「だから。従兄弟や俺を売った金で、買ったんだそうです。大きな。液晶テレビを」
「伊織くん……?」
楠見がソファに座り、伊織の表情を覗き込む。しかし伊織の視線は応えない。伊織は山崎のほうに目を向けたまま、どこか曖昧な調子で続ける。
「それで、従兄弟は怒って、テレビを壊したんです。火が出たのはその後だし、テレビが壊れたのとは直接関係ないと思います」
「……どういうことだい?」
白塚が、これもどこかぼんやりしたような口調で聞く。伊織はゆっくりと白塚に視線を向けたが、何を聞かれているのか分からない、といった様子で小さく首を傾げる。
「きみは、どうしてそんなことを?」
そう聞く白塚の声にも、戸惑いが滲んでいた。
そして伊織は白塚へと目をやったまま。
「だって。見ましたから」
曖昧な表情で。どこか焦点の定まらない瞳で。しかし、はっきりとした口調で、相原伊織はそう言った。




