52.楠見、「ただの楠見林太郎」の、彼らの友人としての意見
なんの前触れもなしに、ドアノブの回る音がする。
ハルが部活に行くと言って部屋を出て行ってから小一時間は経っただろうか。執務机いっぱいに広げた書類を漫然と眺めながら考え事に没頭していた楠見は、そのかすかな音に目を上げた。ノックもせずに理事長室のドアを開けるような不届きな人間は、この学園には一人しかいない。
いつもなら勢いよく入ってくるその不届き者に、「ノックをしろ!」と声を掛けるところだが――。
(……?)
静かにゆっくりと開いたドアに、楠見は喉元まで準備していた言葉を口にするタイミングを逸していた。
ドアの隙間から、キョウが顔を覗かせる。
「楠見」
「……どうした?」
どこか不安げな声色で呼ばれ、思わず聞き返す。
キョウは隙間から体を忍び込ませ後ろ手にパタリとドアを閉めると、その場に立ち止まったまま、
「あのさ」
「うん?」
「俺、上野のこと殴った」
なんの説明もなく唐突に言われ、楠見は眉を上げる。上野? 中傷ビラを撒いた犯人だったか? 伊織のクラスメイトという?
「……そうか」
「……怒らねえの?」
「ん?」
事態が想像できたためにうっかり流してしまいそうになったが、楠見はキョウの上目遣いの視線を真っ直ぐに見返して、キョウのおかしな態度の原因を把握する。
(一般の生徒を殴ってしまったことを、叱られに来たのか)
周りの人間を巻き込むな、一般人を傷つけるな、とは、日ごろから厳しく言っていることだ。キョウに限らず、楠見のもとで仕事をするサイたちに対してである。
もっとも楠見としても、彼らが理由もなく他人を傷つけるなどとは思っていない。「湯を沸かしているヤカンには触れるな」というのと変わらない、一般的な注意事項として通告しているに過ぎない。
しかしキョウは、誰よりも注意し厳格にそれを守ってきたのだ。プロのボクサーがリングの外で一般人を殴ってはいけないのと同じだ。たとえやられたとしても、やり返してはいけないのだ。
だから、罪の告白にやってきたのだろう。状況の報告よりも、今のキョウにはそちらのほうが重要案件らしい。
「……まあ、そりゃ良くないが」
楠見は軽く肩を竦める。それから、しゅんとした表情のキョウに、視線を和らげる。
「だけど――まずは理由を聞こうか。おいで」
そう言って椅子を指し示すと、キョウはやってきて壁際に置いてあったスツールを引き摺って、執務机の隣に腰掛けた。
片手に持っていた紙の束を、執務机の上に投げ出す。先の二件と同じく、A四サイズの紙いっぱいに細かい文字の敷き詰められた新たな「中傷ビラ」を見て、楠見は顔をしかめた。
婉曲的に伊織を攻撃する内容だった前の二件と違い、今度の内容は、はっきりと伊織自身を取材したものだ。
このビラの散布を未然に防いだのは、お手柄と言っていいだろう。
が、キョウの表情は晴れない。
キョウは楠見に問われるままに、上野とのやり取りを報告した。取材方法、裏にいる人間の気配、上野の言い分。あらかた話し終えて、キョウはまた神妙な上目遣いで窺うように楠見を見た。
「けど、上野を殴ったのは仕事じゃなかった」
楠見は首を傾げる。
「どういうことだ?」
「……分かんねえけど……」
キョウは不満げに眉を寄せる。
「だって上野はサイじゃねえし、別に抵抗したわけでもねえし。もうやるなって言えば良かっただけだし……」
「それなのに、殴っちまったのかい?」
「んー……」
キョウは困ったように宙を見つめて考え出した。楠見は椅子の背に深くもたれ、腕を組んでキョウを見守る。
自分の心境を把握する、という作業が、キョウにはとても難しいのだ。
感情を持たないように、彼は育てられたから。
楠見が出会った頃のキョウは、いくつかの種類の感情が、明らかに欠落していた。自分の身に起きる不幸や、他人から向けられる害意や悪意。それらから自分の心身を守る手段を知らず、有形無形の攻撃を退けることも避けることもできない子供だった。
傍から見るとそれは「恐ろしく我慢強い」という評価になるのだが、本人にしてみれば自分が傷ついているのだと気づくことすらできなかったのだ。
あの頃に比べれば、彼は感情豊かになった。好悪を分けるようにもなったし、自分の気持ちを話すようにもなった。腹を立てたり不平不満を口にしたりもする。それに。
(友達のために怒って、衝動的に人を殴ったりもするようになった、か――)
楠見は内心で苦笑する。
「腹が立ったんだ……」
「うん」
「伊織は飯も食えないくらい傷ついてんのに、上野は楽しそうで、それ見たら、つい……」
キョウはまた当惑気味に首を傾げる。
「ほかのヤツらも、面白がってんだ。そんで上野はますます調子に乗ってて。それがすげえ、なんか汚く見えて」
「うん」
「言ってることはよく分かんねえし」
「うん」
「仕事のこと忘れて、感情的になった」
「……」
「怒るか?」
楠見は腕を組んだまま、慎重な上目遣いで問いかけるキョウを見つめる。キョウとしては楠見に叱られないといけないらしい。あるいはこれまでに抱いたことのなかった感情を持て余して、楠見の何らかの処断を待っているのか。
「……だけど、仕事じゃないんだろ? だったらイチ高校生同士の個人的な喧嘩だ。お前がサイだってことも関係ない。仕事上の責任はない」
キョウはまた困ったように目を伏せる。望んでいる解決ではないらしい。
「……『保護者』として言えばなあ」
幾分険しい表情を作って言うと、キョウは慎重に目を上げた。
「やっぱり殴ったのはマズいな。暴力は良くない」
「ん」
神妙に反省している様子には、楠見の「正しい叱責」にかすかにホッとしたような雰囲気が混じっている。
「けどな、友達を傷つける人間を見過ごすのは、もっと良くない。上野に対して腹を立てるのは当然だ」
「……」
「それからな、いいか?」言いながら腕組みを解き、片肘を机について身を乗り出して。「これはな、副理事長ではない『ただの楠見林太郎』の、お前や伊織くんの友人としての意見だ。ほかの先生方には言うなよ?」
念を押すと、「内緒話」の気配を察して同じように身を乗り出したキョウの頭を、撫でるように軽く叩く。
「よくやった。お前は間違ってない。俺は気分がいい」
そう言ってキョウの頭に手を置いたまま笑う。
「だけどもう、暴力は駄目だぞ」
「ん」
キョウは唇を引き結んで、楠見の目を見て頷いた。
「よし、それじゃこのビラの件だ」
机に置かれた紙の束を、人差し指の爪で弾くように叩いてそう言うと、キョウもわずかに姿勢を正す。
「上野はこれで、もうやめるかな?」
そう聞くと、キョウは少々答えに迷う。腕を組んで首を傾げる。
「やらねえとは思うけど、どうかな。あんまり悪いことしてるって思ってなさそうだったからな。バレても開き直るかも」
「ハルから釘を刺してもらおうか?」
ハルは彼らのクラスの委員長なのだから、この問題に関与しても不自然ではないだろう。当然の策と思って口にしたのだが、キョウは難しそうに眉根を寄せて首を捻る。
「んー……もう俺やハルは、あんまり伊織のことに表立って関わらねえほうがいいかも」
「そうなのか?」
「ん。俺たちとばっかいると、クラスに伊織の居場所がなくなるみたいなんだ」
「……お前やハルたちといるんじゃ駄目なのか?」
キョウはやはり、困ったような顔をする。
「だけど、俺たちは仕事だから……解決したら、離れるだろ?」
「離れなきゃいいじゃないか。普通の友達として付き合えばいいだろう?」
「駄目だよ。住んでる世界が違うんだ」
「違わないよ。同じ学校の同じ学年の生徒だ」
「……それでも、違う」
「伊織くんはたぶん、そう思っていない。キョウたちと友達になりたがっているよ」
「あいつは何も知らねえからだ」
楠見は小さくため息をついた。暴力は駄目だと言いつつも、「友達のために腹を立てて他人を殴る」などこれまでのキョウからしたら進歩だと楠見は思うのだが、ここから先はやはり簡単には越えられないのだろうか。
「だけど、上野は伊織くんに対してこんなことをしているんだろう?」
楠見はもう一度、紙の束を爪で弾きながら言う。
「お前は伊織くんが、伊織くんのことを真剣に守ろうとしているお前やハルよりも、傷つけようとしている上野と一緒にいたほうがいいと思うのか?」
「……そうじゃねえけど……」
キョウは声を小さくして言いよどんだが、すぐに目を上げた。
「でも、上野のこと、伊織に言わねえよ?」
「伊織くんに忠告しなくていいのかい?」
「上野がもうやらなきゃいいだけだろ? これから一年間同じクラスにいるんだし、知ったってお互い気まずいだけだろ」
「そうかな……」
「そうだよ」
きっぱりと言いながらもどこか寂しそうに目を伏せているキョウを、楠見はじっと見つめる。たしかに知らないほうがいいこともある。上野のやったことも。楠見やキョウや、サイに関する、キョウが「伊織は何も知らない」と言っている部分も。知らずに通り過ぎてしまえば、これ以上は誰も傷つかない。
しかし――それでは伊織には、正しい選択ができない。
伊織にキョウやハルと友人でいるという選択肢を与えてはいけないのか? 踏み込めば、本当にお互い傷つくだけなのだろうか……?
先週来ずっと楠見の心の奥底で小さく鳴り続けている警鐘が、ほんの少し音を高める。だが、警鐘を無視し、危険を冒してでも突破するべき問題だって、あるのではないか?
「でもな。……選ぶのは、伊織くんだ」
楠見はキョウの目を見てそっと告げる。
キョウは、若干のわだかまりが拭い去れない表情で、それでも小さく頷いた。
診療所へ伊織の様子を見に行ってくるようキョウに命じ、それから楠見は机上の電話の受話器を取る。
押したボタンは、高校の校長室に繋がる内線番号。
上野は誰にも見つからずにビラを撒いたと思っているかもしれないが、校舎内には生徒が考えている以上に防犯カメラや人の出入りをチェックするシステムが多いのだ。遅かれ早かれ、高校教師たちは犯人を見つけるだろう。
その時に、余計な次のトラブルに発展しないよう配慮してもらう必要がある。
校長は楠見の報告に声を曇らせつつも依頼自体は快く請け負い、それから少々声を潜めるようにして別の話を始めた。
『ちょうどそちらにお電話をしようと思っていたところなんですが――』
「ええ、何かありましたか?」
『神奈川署の刑事たちが、また相原くんに話を聞きたいと言って、つい今しがた連絡をしてきましたよ。可能なら、明日の授業後くらいに学校にやってくる、と言ってるんですが、受けますかな?』
来たか。と楠見は思う。「受けない」という選択肢はないだろう。わざわざ前日にアポイントを取ってくるだけでもいいほうだ。
「分かりました。相原くんに確認してみますが、それで差し支えなければ明日の高校の放課後、ここで――」
言いながら、楠見はスケジュール帳をめくる。多少予定をずらせば二時間ほどは空けられるとすぐに判断し、だが同時に前回の対談の様子を思い浮かべ、心が重くなるのを感じた。
スケジュール帳を置いて視線をやった先。
キョウが持ち帰った、上野が作ったという伊織への中傷ビラの見出しが目に入る。
『両親は交通事故死。通行人の幼い子供が巻き添えに――』
相原伊織という少年も、相当に難儀な人生を歩んでいるらしい。




