51.キョウは怒り、そして困惑する
目的の人物がコンビニに入ったのを確認し、キョウはさり気なく少し後から店内に入る。放課後の学校近くのコンビニは人の出入りも多く、同じ学生服の生徒もちらほらいて、特に他人の目に留まることはない。今のキョウにとっては好都合だ。そして、二回に渡って自分たちを出し抜き「犯行」を成功させた、「犯人」にとっても。
犯人は、数軒のコンビニを回って少量ずつ印刷しているらしい。一軒目では二十枚ほどのコピーをしただろうか。少々時間は掛かったが、他人の気を引くほどではなかった。傍からは、プリントやノートをコピーする普通の生徒にしか見えないだろう。
二軒目のコンビニで、彼は先ほどコピーした中の一枚を取り出してガラスの上に載せた。内容を見せないように小さく周囲を確認しながらの作業。商品の棚を隔て、コインベンダーに小銭が入りコピーボタンが押されたのを確認してキョウは足を踏み出した。
「よお、上野じゃん」
後ろから、そう声を掛ける。
音を立てて作動するコピー機の前で、上野の肩が飛び跳ねた。恐る恐る肩越しに振り返り、驚愕に固まる。
「成宮……」
「なに。宿題でもコピーしてんの?」
言いながらコピー機に近寄り、さり気なく蓋に腕を置いて、上野の顔を覗き込む。
上野は、旧知の人物を見止めて挨拶を交す時の笑顔を作ろうとして、失敗したように引きつった表情になる。
「あ、いや、まあ……ちょっとな……」
上野はボソボソとそんな意味のない言葉を繋ぐ。
「悪りぃなあ、宿題くらい自分でやれよ」
ちょっと見苦しいほどに狼狽している上野を呆れた目で見やりつつ、キョウはコピー機の蓋に肘を載せて寄り掛かり、そう声を掛けた。
「うん、まあな、いろいろとな……」
そこで、コピーが終わる。上野はあからさまにホッとした顔をして、出てきたコピー用紙を素早い動きで取り出すと内容を見せないようさっとカバンに突っ込み、また引きつったような笑顔を浮かべた。
「お、終わったわ。じゃあな、また……」
そう言ってキョウに背を向け、上野は出入り口に向かって歩き出す。
上野がコピー機から十分に離れたところで、キョウは寄り掛かっていたコピー機から起き上がってその背中に声を掛けた。
「上野、忘れもん。原本置いてったけど?」
コピー機の蓋を開けて、ガラス板の上に置かれた紙を取り出し。その紙を見て、目を細める。
振り返って一度動きを停止させた上野が、背中を突かれたような動きで駆け戻ってきた。コピー原本を取り戻そうと出してきた上野の手をかわし、紙を持っていないほうの手でその腕を掴んで、傍目には分からないよう最小限の動きで拘束する。
「ちょっと話が聞きてえんだけど。そこまで付き合えよ」
耳元に口を寄せて冷ややかな小声でそう言うと、上野は観念したように、脅えた顔でこくこくと首を小刻みに頷かせた。
キョウは上野の腕を軽く、それでも絶対に振り払って逃げるなどできないように拘束しつつ、コンビニに近い東の通用門から緑楠学園キャンパスの教職員駐車場に入った。
高校校舎からも大学キャンパスからも背を向けられている形になるこの空間は、高校校舎からは木立に阻まれ、大学から見ると体育館や運動施設の裏手に当たり、朝夕に駐車場を利用する教職員が通りがかるほかはひと気は少ない。
プール棟の壁の前までやってきて、上野を壁のほうに押しやるようにして腕を放す。
「放せ」とか「何するんだよ」とか「引っ張るなよ」とか、そんな単語を口の中でごにょごにょとつぶやきながら引き摺られるようにして連れてこられた上野は、乱暴に突き放されて心外そうに眉を顰めたが、しかし拘束を解かれたことに安堵の息を漏らす。
脅えと警戒を顔に浮かべつつも、どこか開き直ったような表情で「ふう」と大げさに息をつき、掴まれていた腕をさすりながらキョウを睨んだ。
「……何するんだよ。ら、乱暴はやめろよな……」
強がりのような言葉を吐きつつ、上野は体勢を立てなおして低く身を構える。一般的にこの姿勢は、今にも相手に殴りかかろうとしている人間がよく取る体勢にも見えるが、そんな逃げ腰で俺が殴れるか、とキョウは思う。そもそもこいつは、他人に「乱暴するな」などと頼めるような立場だと思っているのか?
呆れたようにひとつため息をついて、コンビニからずっと片手に持ってきたコピー用紙に目をやる。
『放火殺人犯・相原哲也の従兄弟、相原伊織 その人物像に迫る』
そんな大見出しの下に、昨日、今日と配られたものと同じ体裁で細々と文字が綴られている。一見して、伊織の中学時代のことを取材したものらしい。相原家の居候だとか、伯父夫婦との仲だとか、子供のころに亡くなった両親のこと、中学のクラスでの孤立と言った、うんざりするような言葉を並べた見出しが連なっていて、それ以上見る気にもなれず、キョウはまたため息をついた。
「おい、コピーしたヤツ出せ」
低く言って手を出すと、上野は怯んだようにキョウの目を見返しながらおずおずとカバンに手をやり、紙の束を出す。キョウは引っ手繰るようにしてそれを取り上げる。十数枚の薄い束だ。一軒目のコンビニでもっとコピーしているはずだと思い、さらに上野を睨みつける。
「全部だっ!」
怒鳴るとビクっと肩を震わせて、上野はもう一度カバンから紙の束を取り出した。今度はかなり分厚い。一軒目のコンビニの前に、部室かどこかで隠れて印刷していたのだろうか。
「元データもあんのか?」
そう言って再び手の平を差し出すと、上野はポケットを探ってUSBメモリを取り出してキョウの手に載せる。
拒まれるかと思ったのだが、意外とあっさり渡してきた。ほかにバックアップがあるな、と想像するが、さすがに上野の行動範囲にあるコンピューター全てを調べるわけにもいかず、キョウは不満に思いつつUSBメモリをポケットに収めた。
「……それ、どうする気だよ……」
上野が少々上ずった声で聞いてくる。
「どうもしねえよ。処分すんだ」
「はあ? 冗談だろ? せっかくここまで作ったのに!」
突然気色ばんで声を荒げる上野に、キョウは驚いて目を見張る。「せっかく作った」だと? 何言ってんだ、コイツ?
「……お前……自分で何やってるか分かってんのか?」
「分かってるさ。『報道』だよ。よく調べてあんだろ? 俺、将来ジャーナリストになりたいんだよ。新聞部にも入ってるしさ。今回はまあ、個人練習だな」
「……なんだ、それ」
「けっこう大変だったんだぜ、それ調べんの。土日で神奈川まで行ってさ、話聞いて、文章まとめて」
まるで手柄でもあるかのように、悦に入ったように捲くし立てる上野に、キョウは顔をしかめる。
「みんな喜んでくれてんじゃん。評判いいんだぜ?」
「人傷つけといて、なにが評判だよ」
「だって、それが『報道』だろ?」
自信満々の様子で上野が言い切る。冗談ではない。キョウは伊織の傷ついた顔を見ているのだ。それでなくてもショックな出来事ばかりが続く時に、追い討ちをかけるように精神をずたずたに引き裂かれているのだ。
「本人がどういう思いしてんのか、考えたのかよ」
苦々しくそれだけ口にすると、上野は驚いたように目を見開いた。
「なんだよ、成宮。お前には関係ねえだろ?」
(関係ない?)
キョウはふと眉を寄せる。自分は伊織を守る仕事をしているのだ。サイの組織から。伊織はサイなのだから。
でも、上野はサイの問題とは関係ない? これは伊織が自分で解決すべき問題であって、自分の仕事とは関係ないのか?
「なあ、だからそれ、返してくれよ。みんなだって続報楽しみに待ってんだろ?」
(けど――)
卑屈な笑みを浮かべて手を差し出す上野に、キョウはこれまでに感じたことのない種類の嫌悪感を覚える。こいつは能力を犯罪行為に使うサイでも、サイを利用しようとしている悪人でもない、ただの高校生なのに――。
まとまりのつかない思考に動きを止めているキョウを、抵抗しないと見たのか、上野がキョウの持つ紙の束に自分の手を伸ばしてきた。その顔は愉悦に歪んでいる。
なんの能力も持たない、ただの高校生なのだが――。
(汚ねえ――)
そう、キョウは思った。
上野の手が紙の束に触れた、その時。
衝動的な反応だった。紙の束が、重苦しい内容には不釣合いに軽い音を立てて、地面に落ちた。
キョウは上野の胸倉を掴み、その頬を力いっぱい殴りつけていた。
「――っ!」
上野は吹っ飛び、壁に背中を打ち付けてズルズルとへたり込む。頬を押さえて呆然とした顔でキョウを見上げる。訳が分からない、という表情をしたのは一瞬のこと。すぐにその顔が、恐怖に曇る。
「な、なにす……っ」
震えるように絞り出そうとした抗議の声は、しかし、キョウの怒りを湛えた瞳に射竦められて弱々しく消える。
だが、そんな上野を睨み据えながらキョウも、思いがけない自分の行動に困惑していた。上野はサイではないし、物理的な攻撃力も危険性もない、一般の生徒だ。それを殴りつけてしまった――しかも、感情で動いた。
(まずいな……)
内心で戸惑いつつ、それを表には出さずに一歩踏み寄ると、上野は殴られた頬を押さえながらもう一方の手を上げた。
「ま、待てよ、違うんだ……」
言い訳がましい行動にますます嫌悪感が膨れ上がり、キョウは上野を睨み下ろす。震え上がり、さらに慌てて言葉を繋ぐ上野。
「違うんだよ、俺も人から頼まれたんだ」
「……頼まれた?」
キョウは眉を顰める。上野は小刻みに首を縦に振った。
「そうだ、そうだよ。相原の従兄弟の事件のことで記事を書いて校内に撒いたら、金をやるって言われたんだ」
「……誰に?」
「知らねえ――いや、見たことのねえヤツだよ。大人だ。多分、学校の人間じゃない」
何を言い出すのだ? 知らない大人に頼まれた? そんな言い訳が通用すると思っているのか――そう詰め寄りかけて、しかし、ひとつの可能性に思い当たる。
「男か?」
「いや、女だったよ。三十前後に見えたな」
「……」
「金曜日の放課後にさ、事件のこと教えてもらって。月曜日までにやったら金をくれるって言われて、資料を押し付けられたんだ」
「資料……?」
「ああ。事件の詳細とか、相原と従兄弟の中学時代の同級生の名簿とか――そいつらに話を聞けっつって……」
訝しさを満面に表し、眉を寄せて黙って聞いていると、それでキョウを説得でもしようとするかのように上野は言い訳を続ける。
「それで、毎日続けてやったら一日三万円……ああ、コピー代や取材費込みだぜ? だからいくらももらってねえけど……」
「……受け取ったのか?」
「昨日の分はな。成功したら振り込むから口座を教えろって言われて、放課後に見たら本当に三万入ってた。今日の分はまだ確認してねえけど……」
「そいつと次、どっかで会う約束してんのか?」
「いや、金曜に会ってそれっきりだ。向こうの名前も連絡先も聞いてねえ」
だからもう許してくれと言わんばかりに、上野は媚びるような笑みを浮かべてキョウを見上げ、ゆっくりと壁に寄り掛かりながら立ち上がった。そのまま隙を見て逃げ去ろうという魂胆を察し、キョウはもう一度上野の胸倉を掴む。
「おい、嘘は言ってねえだろうな」
低く冷ややかにそう聞くと、上野はひとつ身震いをして、大きく頷いた。
「嘘じゃねえよ。俺はそいつのこと、ほんとに全然知らねえんだ」
「んな怪しい話、なんで受けんだよ」
「そりゃ、だってさ……」
上野は一度、自分の胸倉を掴んでいるキョウの手を見下ろし、それからキョウの顔を見る。
「そいつ、俺のこと新聞部で活躍してるって知ってて、それを見込んで頼みがあるって言うから……俺の『文章を買ってくれる』って言うんだし……」
こんな状況で卑屈な笑みの中にもどこか自尊心を滲ませる上野に、キョウは、こいつは全く反省してねえな、と思う。上野の服を握っている手に力を入れて、思い切り睨みつける。
「てめえがその何万か、どんだけ欲しかったか知らねえけどな、そのせいであいつは生活費も稼げなくなってんだぞ」
上野はそこで初めて、悪事を責められている人間の顔をした。しかしそこに浮かんでいるのは、反省などではなく、説教をされて鼻白んだような不快そうな表情だ。
「んなもん、知るかよ」
「知るかよって……お前はあいつの友達じゃねえのかよ」
「はあ?」
大げさに眉を寄せて、上野は信じられないという表情を作る。
「友達? ああまあ、友達だよ。友達ってことにしてやってもいいと思ったんだ。けどあいつ、生意気じゃん」
「……なに?」
「クラスん中で浮いてるからさ、声掛けてやったのに――」
「……」
「いつの間にかお前や神月とか衣川とかと仲良くなったら、こっちのこと無視しやがって……」
「……そんなことで……」
思いがけない上野の言葉に、キョウは思わず上野の服を掴んでいた手の力を抜いた。上野はその瞬間を機敏に察してキョウの手を振り解くと、すぐに二、三歩離れる。
「そんなこと? そんなことじゃねえよ。トモダチできねえから仕方なく俺たちに擦り寄ってて、神月たちと仲良くなったらそっちのほうがいいってか? 神月あたりと付き合ってりゃ、そりゃ得することも多いだろうな。優等生様の下僕にでもなったのかよ。それで俺ら庶民のことは無視かよ! 何様だよ!」
言っていることがよく分からないが、勢いを得た上野が吐き出す汚い言葉に、想像に、圧倒される。
「だいたいあんな地味で暗くて面白くもねえぼんやりしたヤツが、なんでお前らみたいな目立つヤツらの中にいるんだ? おかしいじゃんか。連れ回していいようにパシらせてんじゃねえのかよ。お前らのほうが俺よりもよっぽど悪質なんじゃねえの?」
上野は、相手を攻撃しやすいポイントを敏感に掴む。その内容が的を射ていようといまいと、弱く見える部分に絶妙な有効打を与える。そういう種類の人間がいるのだ。その天才的と言っていいほどの勘で、伊織を的確に傷つけた。
そして今――上野の考えはキョウからすれば全くの見当違いだが、それでもその暴言は上野をこれ以上責め立てる気力を奪うには十分なものであった。
(俺たちといることで、あいつクラスから浮いてんのか?)
キョウは自分から少しずつ距離を取ろうとする上野に目をやりながら、もう一度掴みかかる気にはなれずに口をつぐむ。上野はさらに数歩離れると、キョウの足元に落ちている紙の束を名残惜しげに一瞥し、しかしすぐにそこから視線を引き剥がして身を翻し高校校舎のほうに走っていった。
キョウは。しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。自分たちの仕事は、伊織をサイの問題から守り、元の場所に戻すことだ。上野のやったことはキョウには許せないが、上野は伊織にとっては戻るべき「元の場所」のひとつなのだ。ならば、離れるべきなのはキョウたちのほうだ。でも――
(でも、なんだ――?)
心の中に暗い澱のようなものが立ち込めてくるのを感じる。そのわけも、それが覆い隠そうとしている小さな光の正体も掴めずに、キョウは途方に暮れて目を伏せた。




