49.海沿いの街の悪夢
『テレポーテーションだよ』
哲也は口の端を大きく吊り上げて、可笑しそうに言う。大きく見開かれた目は、不気味な色を湛えている。
『なんだって……?』
『凄いだろ? 何十キロ飛んだと思う? 凄いだろ――俺、こんなことまでできるようになったんだよ』
『哲也……あんた、何を言って……』
母親はソファの横に膝をつき肘掛に手を載せて、顔いっぱいに不安を浮かべながら息子と夫の顔を見比べる。
『そうだ、できるようになったんだ。組織の訓練と、『能力開発プログラム』のおかげだよ。発火もできるようになった。火をつけるんだ。家を一軒だって丸ごと燃やせる。凄いだろ? なあ!』
両親は不安げに、もう一度視線を交わした。
『家をね、燃やしたよ。丸ごと。気持ちいいくらいに燃えるんだ。一瞬だよ。消防車が来る前に燃え尽きちまう』
『お前、何を……』
『大きな能力が欲しかったんだ。前から言ってただろ? それが叶った。なあ、凄いだろ? なあ!』
両親は言葉を失い、じっと息子の顔を見守る。哲也は一息に捲くし立てた後、少しの間、息を整え――その顔から笑いが消えて。苦しげに歪み、そして泣き出しそうなほどに崩れる。
『だけど――』絞り出すようにそう言って、哲也は隣に座っている父親の両腕に縋りついた。『苦しいんだ、凄く……能力を使っていないと気が狂いそうで堪らなくなる。火をつけて何か燃やせば落ち着くけれど、その後は苦しくて――』
哲也は父親の腕を揺するようにして。
『俺、きっともうすぐ死んじまうよ!』
『哲也……』
『そんなヤツがほかにもいる。能力を使わないと苦しくて、あちこちに放火してるんだ』
『お前も、……放火なんかしたのか? その……家を一軒丸ごとってのは……』
『したよ! したさ! しないと本当に苦しいんだ。体がバラバラになって、もっと大きな能力を爆発させちまいそうになるんだ! 俺……どうしよう、どうしたらいい?』
『哲也……お前……』
哲也は縋っている父親の腕を、子供みたいに揺さぶりながら訴える。
『組織の『能力開発プログラム』だよ。組織は俺たちを実験台にしたんだ。俺たちは失敗して、こんな風になっちまったんだ。苦しいよ、苦しいよ、苦しい――』
そう言って父親の体に顔を埋めるようにして、呻くように『苦しい』と言い続ける。
父親は言葉もなく哲也の背中をさする。伏した息子の背中に、母親の手も置かれる。
少しの間、沈黙が落ちた。
『哲也、大丈夫か?』
わずかな時間の後に、父親が、そう声を掛ける。
『――俺』哲也はゆっくりと顔を上げて、父親の目を覗き込んだ。『俺、組織を辞めるよ』
『……なんだって?』
『あの組織を辞める。あそこにいたら殺される』
『馬鹿な』
哲也は体を起こして、真っ直ぐに父親の顔を見た。
『本当だ。俺たちは使い捨ての実験台なんだ。しかも失敗したから、組織はもう俺には用がない。殺されるよ』
『まさか、そんな……だってまともな組織だって言ってたじゃないか……』
哲也は首を横に振る。
『そう思ってたよ。いや、そうだったんだ。だけど違った。伊織も――』
突然名前を出されて、傍観している伊織はビクッと姿勢を正した。
『伊織にも伝えて、辞めさせないと……いや、まだあいつは組織に捕まっていないんだ。だから注意しろって――捕まるなって伝えないと』
(俺が、『組織』に捕まる――?)
入学後からの一連の事件を思い返す。哲也の所属していた「組織」が、俺を追いかけている……?
哲也は父親の腕に縋りさらに顔を寄せると、声を潜めて。
『あの学校にいるのも危ない』
『なんだって? だってお前が、それがいいって――』
『ああ、一度消えたあの話が、改めて浮上したからって……そう聞いて……伊織のほかにも何人か緑楠を勧めたんだ。けど、奴らがやろうとしているのはまともな方法じゃない。『楠見』の組織も、学校の連中も、それを黙認している。もともとサイをひとりの人間だなんて思っていないんだ、奴らは。いくらでも替えの効く、ただの駒なんだよ!』
(……楠見、さん……? が、なんだって?)
『哲也、落ち着け』
『そうよ哲也、落ち着いてよく考えて? ね?』
『早まるな。きっと何かの間違いだ。組織の人と冷静に話し合って――』
哲也は跳ね起きて父親から体を引き剥がし、身を引くようにして距離を取る。宥めようとして優しく声を掛けだした両親に、
『もう遅いよ!』叫ぶ。
『俺はもう組織を離れたんだ。同じような『能力開発プログラム』の実験台にされそうになっている連中に警告をして回っている。そしたら奴ら、どうしたと思う?』
『……』
『殺そうとしたんだ、俺を! 一緒に組織を抜けて同じようにみんなに警告して回ってた人がいるんだけど、連絡が取れない。もう殺されたのかもしれない。俺も――こんな能力を身につけちまって。しかも奴らのやり方に反対して……組織にはもう邪魔者なんだ。組織は俺を殺そうとしているんだ!』
どういうことだ? 楠見さんの組織が? 夢の中であるにも関わらず、困惑に息が苦しくなる。冷や汗が首筋を伝うような感覚がした。
(楠見さんは、哲也さんの味方じゃないのか? だって――)
(違う……楠見さんは『本店』を離れたって言っていたよな――)
(だけど、『学校の連中も』って――?)
身に起きている出来事。楠見たちから聞いた話。そして今、目の前で語られる哲也の告白。それらがパズルの小さなピースのように、頭の中に散りばめられて渦巻いて。伊織は完全に混乱していた。
酷く難易度の高いパズル。どこから形作ればいいのかさえ判断が付かず、全体像は一向に見えてこない。
ただそれらが間違った形に組み合わさって、不快な気配を見せるのみ。
ほんのわずかの間、哲也も両親も言葉を失い沈黙がその場を支配した。
『哲也』
静かに父親が声を上げる。
『お前、組織を裏切ったのか?』
呆然と聞いた父親の一言に、哲也は愕然と目を見開いた。
『裏切っただって……?』
苦しげに、哲也は声を絞り出す。そして、怒りを露わにする。
『裏切られたのは俺だ!』
『哲也……』
『信じてたのに! 信じて訓練してたんだ! この能力を活かして正しい仕事ができるって思ったんだ!』
激しい口調で叩き付けるように言う哲也に、両親は息を呑んで黙り込んだ。
『伊織にだって、そのほうがいいと思ったから勧めたんだ。そうだろ? だけどあいつはまだ知らないんだろ?』
(俺は、知らない――? 何を――?)
『なあ、殺されんだよ! 追われてんだよ! 部屋を盗聴までされていたんだ! まともなヤツらじゃない! 伊織にも早く伝えないと!』
『でも、お前――スガワラさんに、なんて言ったら……』
『そんなこと……!』
『なあ、考え直さないか? 何か誤解があるんだよ。朝になったらスガワラさんに電話してみて――』
『なんで反対するんだよ! これだけ言っても分からないのか?』
『だってお前、あんなに良くしてもらって……金だって、どれだけもらったと思ってるんだ……』
バッと飛びずさるようにして、哲也は立ち上がった。
『金のことかよ……! あんたたち、まだ金が欲しいのか!』
『そうじゃない。そうじゃないよ』
『そうだろう? これから金がもらえなくなるのが怖いんだ――!』
『落ち着けよ、哲也』
『そうよ、落ち着いて。そんなはずないじゃないの』
哲也はゆっくりと後ずさる。
『なあ、お前だっていろんな危険のあることは分かっていて進んだんだろう。能力を使って金が稼げるって、喜んでたじゃないか』
『そうだよ! 馬鹿だったよ! だから変な能力をつけさせられて、命を狙われてる。だけどあんたたちはなんだよ! 俺たち金で売って……息子がこんなになってても、まだ金が欲しいのか?』
『哲也――』
じわじわと後退を続けていた哲也の腕が、大型の液晶テレビに当たった。
哲也は腕に触れたそのテレビに、憎々しげな目を向ける。そして、その目をカッと見開き――
『俺や伊織を売った金で買ったんだろう!』
液晶テレビが音を立てて弾け飛んだ。
『きゃああああ――!』
母親が、両手で顔を覆って絶叫する。床にペタリと座り込み、ガタガタと震えだした。父親がその肩に手を置きながら、ゆっくりと立ち上がる。
『哲也、落ち着け……』
父親は、妻の肩から手を離し、その手を息子に差し伸べながらゆっくりと足を前に出す。
『来るなあ!』
(――――!)
爆発が起きたようだった。突然、空気中に火が燃え広がり、一瞬で家を巻き尽くす。
カーテンを燃やし、壁を伝って天井を這い、床に広がって家具を焼く。
『哲也!』母親が震える声で叫ぶ。
『これは……! おい、てつ――』
父親が、驚愕に目を見開きながら息子の名前を呼ぼうとして、そこで炎に包まれた。
『あああああ! あなたあああ――!』
恐怖に泣き喚きだすかに見えた母親の体も、炎に覆われる。
炎の向こうに、愕然と目を見開き肩で息をしている哲也が見える。
ほんの、数秒の間の出来事だった。
伊織は小さく身を震わせながら。煙と炎のにおいと、熱を感じていた。
(燃える――燃やされる――俺も――)
(熱い、熱い、熱い――)
(早く、ここから出ないと――! どうやって――?)
「伊織くん、伊織くん!」
体を揺さぶられて、伊織は目を開けた。
「あ、れ……ハル……?」
心配そうな表情で覗き込んでいるハルと目が合い、伊織は体を起こす。キョウの部屋のベッドだ。
「伊織くん、大丈夫? 気分悪くない?」
「うん……え?」
「ゴメンね、前を通りかかったらドアが少し開いてて――なんだか物凄くうなされてるみたいだったから」
「あっと……夢、見てたのかな……」
額に手を当てて、ふう、と息をつく。
「具合悪いんじゃない? また頭痛い?」
「いや、大丈夫……」
大丈夫、なのかな、と自分でも思いつつ、それでも特に気分も悪くないし痛いところもなく、ハルに心配させて申し訳なく思う。ふと顔を上げると、入り口にキョウも立って不安げにこちらを見ている。
「水飲む? キョウ、水持ってきてくれる?」
「ん」
頷いて、キョウは廊下に姿を消した。
「ごめん、心配させて。でももう平気だから。変な夢見てただけで……」
「あのさ……」
言いにくそうに眉を顰めながら、ハルが首を傾げた。
「火事の後からだよね……ずっとよく眠れてないんじゃないの? 本当に大丈夫?」
「うん……」
夢の内容を口にすることはできず、伊織は気まずく目を伏せる。ハルはしばらく黙って伊織の顔を見ていたが、やがて小さく肩を竦めた。
「悩んでることがあるんだったら、いつでも言ってね?」
軽い口調には、今ここで無理に聞き出そうとする様子はなく、伊織は感謝しつつ安堵し、そして安堵していることに後ろめたさを感じた。
「お、チャイロじゃん。久しぶり」
キッチンに向かう廊下の先に、茶トラの猫の姿を見つけてキョウは小さく声を上げた。猫はキョウを見止めて、長い尻尾を立てて足に擦り寄ってきた。何日も姿を消したりするくせに、会うと甘えてくるのである。
ドアを開けたのはコイツだな、と思う。おおかたキョウのベッドの下にでも潜り込んでいて、伊織が入ってきたので出られなくなり、眠った頃を見計らいどうにかして出てきたのだろう。
キョウは両手で猫を抱き上げて、目線の高さに持ち上げ、顔を合わせる。
「お前、いいことした。伊織が能力に食われちまうとこだったぞ?」
片手で持ったままもう片方の手で頭を撫でると、猫は口を開けずに、「にゅー」という感じの声を上げた。
「マタタビやる。ちょっと待ってな」
リビングのソファに猫を置いて、キッチンに行き水を汲む。
(あの焼け跡で、何か見たかな――)
だとすれば、伊織の能力というのは――。
伊織が話すのを待つか、どうにか聞き出すか。待ったほうがいいだろう。けれど、伊織はもしかしたら哲也を探し出す能力を持っているかもしれない。
(いや……)
伊織の不安定な能力に頼って無理をさせることはできない。「封印」が解けたりすれば、伊織がどうなるか分からないのだ。キョウたちの仕事は彼を助けることだ。安全な状態にして「元の場所」に戻すことなのだ。
軽く頭を振って、水道を止め、欠伸をひとつする。
それからソファの上に座っている猫に「そこにいろよ」と念を押して部屋へ戻った。




