47.伊織、反省しキョウに缶コーヒーを奢る
「伊織!」
暗くなった住宅街で、突然声を掛けられて足を止めた。
振り返ると、キョウが走り寄ってくる。
「キョウ……どうしたの?」
伊織の目の前にたどり着くと、キョウは腰を折って両膝に手をつき、肩で息をしながら喘ぎ喘ぎ声を上げる。
「おまっ……どう、じゃねえっ……たく、どこ……探……っ!」
「……大丈夫?」
「だい、じょ、ぶ、じゃ……ねえ!」
キョウは息を切らしながらやっとそれだけ言う。
「えっと……ごめん」
とりあえず謝って待っていると、少しだけ息が落ち着いてきたキョウが、膝に手をついたまま顔だけ上げた。
「こんのっ馬鹿! ……どこっ歩き回って……たくもうー! あーっ! どんだけっ心配っ……」
「……ごめんなさい」
血相を変えて言葉を発するキョウに、言いたいことは分かったので、今度は素直に心から謝る。
コンビニから消えた伊織を、心配して走り回って探してくれたのだ。学校であんなことがあった後で伊織の心境も気にしてくれていただろうし、それでなくても伊織を追ってくる何者かの正体もまだ分かっていないのである。そんな状況で黙って消えたことに、今さら思い至り反省する。
「ったくー……」
呻くように言うと、キョウはその場にへたり込んでしまった。いつも飄々としているキョウの見たことのない様相に、伊織は本気で心配になる。
「あの、大丈夫? えっと……」
「……大丈夫? じゃねえよ、こっちのセリフだ馬鹿野郎!」
まだ息を切らしながら、下から怒鳴りつけられた。
「もうなあほんとになあ……お前。電車に飛び込んでんじゃねえかとか、駐輪場で首吊ってんじゃねえかとか、なあ……あと、スガワラに捕まって解剖されてんじゃねえかとかもうどっか売り飛ばされてんじゃねえかとか、なあ……」
「えっと……スガワラって人は、マッドサイエンティストなの?」
「知らねえ、けど、なあ……ああーっもう!」
キョウはしゃがみ込んだまま、大きく息をつく。
「……すっげえ、走った。ちっと休ませろ」
「あ、うん、ええっと……」
きょろきょろと見回すと、公園が目に入る。たしか先日、アルバイトの帰りにあおいと寄った公園だ。ベンチも、近くに自販機もあったな、と思う。
「公園、行こうか。ベンチあるし」
「……んー」
とりあえずキョウの腕を引き上げて立たせ、公園に引っ張っていくことにする。そうしながら、そういえばキョウに腕を引かれたり肩を押されたりされたことはあったが、引いたのは初めてだな、と思う。そもそも誰かの手を引いてどこかに連れて行くなどということを、自分はしたことがあっただろうか?
ベンチに座らせて、様子を窺うように覗き込むと、背もたれに深くもたれた体勢でキョウが目を上げた。
「お前、ほんとに無事?」
「……無事だよ。この通り。キョウのほうが無事じゃなさそうだよ」
十人もの大男と喧嘩しても息ひとつ切らしていなかったキョウが、いったいどれだけ走り回ってくれたのだろうと思うと、精神的に参っていたとはいえ自分の浅はかさが本当に心苦しい。
「飲み物買ってこようか?」
「ん。サンキュ」
「心配させたお詫びに奢るよ。何がいい?」
「なんかコーヒー」
分かった、と頷いて自販機に向かいながら、ハルや楠見がキョウに世話を焼く気持ちが少し分かったような気がした。助けられてばかりだったので、頼りになる一面しか見ていなかったが、藤倉卓が「みんなの弟キャラ」と言っていたのも納得する。何かしてあげたくなるのだ。
そして、他人に対して「何かしてあげたい」と思っている自分に、伊織は新鮮な驚きを感じていた。
戻って缶コーヒーを手渡し、伊織も隣に腰掛ける。
各々缶を開けてしばらく黙って飲んでいたが、伊織は視線を前方のブランコに向けたままぽつりと声を出した。
「アルバイト、クビになっちゃった。あ、てゆーか、俺がやめたのかな、この場合って……」
「ん。聞いた」
「それで、なんとなく気持ちがぐちゃぐちゃしてて、ちょっと一人になりたいなって思ってさ。なんかいろんなこと頭から抜け落ちてた。ほんとゴメン」
「まあ、いいよ。もう。無事だったんだし」
「それと、ありがとう」
伊織は頭を下げる。心配してもらったのは、本当に嬉しかったのだ。
「別に……」
キョウは特に気のないような返事をして、コーヒーをまた一口飲んだ。
伊織は自嘲気味にため息をついた。
「またアルバイト探さなくちゃな。せっかく楠見さんに保証人になってもらったのに、なんだか悪いなあ」
「いいよ楠見のことは。名前書いて判子押すのがあいつの本業なんだ」
「そんな、乱暴な解釈って……」
「だから何百枚でも履歴書持って来いよ」
「どんだけ面接落とさせる気だよ……」
苦笑を浮かべつつ、伊織はまた小さくため息をついた。
「けどさあ、俺、不器用で自分でも参っちゃうんだよね。コンビニだってさ、俺がいきなり凄く使えるヤツだったら、こんなことでクビにならなかったと思うんだよなあ。なんか、見込みがないから辞めさせるいいきっかけだったのかもって気もしてきた……」
「そっかあ?」
「そうだよ。俺ホント、要領悪いんだよ……」
「んなことねえだろ」
キョウのその否定は、社交辞令というより伊織の自己評価に純粋に驚いているようで、伊織は少しだけ目を上げる。
「お嬢を撒けるとかお前、大したもんだよ!」
「……え、それ?」
「ああ。そうだ、尾行から逃げる仕事だったらお前きっといい線行くよ。だいぶ練習したし」
「どういう仕事だよ。っていうか嫌だよ、そんな仕事」
「大丈夫。練習付き合うし。作ってもらえ、楠見に。そういう仕事」
「ねえ、適当に慰めてる?」
「んなことねえよ」
決まり悪そうに横目で睨むキョウ。なんだか伊織は可笑しくなった。他人に「適当に慰めてるだろう」だなんて。そういう突っ込みが、伊織は苦手なのだ。他人との距離の取り方が分からなくて、どうも下らないことで相手に遠慮してしまう性格は自覚している。
だから自分で思いもかけず自然に口にしていた言葉に、知らず知らずに少しだけ笑っていた。
「だいたいさあ。何百枚も履歴書にサインさせられたり、妙な仕事作らされたり……楠見さんも……」
苦笑しながらそう言いかけて、しかし途中で言葉を切る。胃のあたりに、なんだか重苦しいものを感じた。
突然言葉を止めた伊織に、キョウが不思議そうな視線を向ける。
「楠見も?」
「ああ、えっと……楠見さんも……大変だよなって」
真っ直ぐにこちらを見つめてくるキョウの視線から逃れるように目を逸らし、それだけ言って曖昧に笑う。
キョウはそのまましばらく不思議そうに、次の言葉を待つように――あるいは伊織の真意を見透かそうとするかのように、黙ってこちらを見つめていたが、やがて、
「ん。けどさ――」そう言って至極真面目な顔で頷いた。「お前のこと、楠見がいろいろどうにかしてくれるから、心配いらねえ」
「……え」
「事件も解決するし、元の生活に戻れるようにする」
「うん……ありがとう」
言い切るキョウに感謝しながらも、俺って現金だな、と自分に呆れる。他人からの同情や慰めの言葉に、都合よく反発したり喜んだりしている。それのどれが本物なのか、どうやったら見分けられる? キョウや楠見は信じていいのか――?
いいんだ。そう思いたい。けれど。
俺は、彼らに隠していることがある。
そして、もしかしたら。彼らも俺に、何か――。
「どした?」
急に黙り込んだ伊織の顔を、キョウが、心配そうに目を細めて覗き込んでいる。
「うん、いや……」
曖昧に濁そうとして、でもキョウの目を見たら、疑問が口から勝手に出てきた。
「どうして俺のこと、そんなに助けてくれるの?」
「……ん?」
「キョウもさ、ハルも、楠見さんも。俺のことなんて助けたって別になんの得にもならないのに、なんでそんなに心配したり励ましたり、一生懸命解決しようとしてくれんのかなって思って」
「そりゃあ――」
キョウは一瞬変なことを聞かれたというように目を見張り、当然のことだとばかりに答える。
「サイを助けるのが、楠見と俺たちの仕事だ」
「だけど、俺はサイじゃないよ」
「お前は――」
言いかけて、キョウは口ごもる。
「それでも、サイの問題に関わっている。それが解決すれば、お前も普通の生活に戻れる」
「仕事だから?」
「――そうだ」
わずかな沈黙の後に、それでもきっぱりと頷かれて、伊織は複雑な気持ちになる。
そうして。先ほどから胃のあたりに立ち込めている重苦しい空気を吐き出すように、ひとつ大きく息を吐き出すと、キョウに向けて小さな笑顔を作る。
「凄いね」
「……何が?」
キョウが首を傾げる。
「だってさ。キョウは……そんな風に、『これが自分の仕事だから』って言えるような仕事があってさ。凄いよ」
キョウはすると、少々困ったように、気まずそうに目を逸らした。
「凄いって言われるようなことじゃねえ」
「だって、凄いよ」
「けどたぶん、お前が思っているようなことじゃない」
「……そう?」
「うん。俺は、だって、これやってないとならないから」
「どうして?」
「どうしても」
それ以上どう聞いたらいいのか分からずに。しかし、つぐもうとしたはずの口から、それでもまだ本音がこぼれ出る。それは羨望、なのだろう。
「自分にしかできないっていうような仕事をさ、俺もできるようになりたいよ。俺、やってる人から『誰でもやってる』って言われるようなアルバイトですら、できなかったんだよ?」
「お前は、何がしたいの?」
逆に尋ねられて、伊織は少し戸惑った。
「えっと……俺は物を書くのが好きだから、そういう仕事に就きたいなあ……子供の頃から空想するのも好きでさ――」
語るつもりなんかじゃなかったのに、滑り出した口は止まらなかった。誰かに自分の夢を語るということすら、新鮮な経験だ。今日は新しい体験が多い。
「子供の頃にね。物とか場所とかにさ、物語を感じちゃうことがよくあって。勝手に空想をしだすと止まらなかったりしてさ。妙な癖なんだけど。ほら、例えばこの公園なんかにいると……」
言いながら広場の対角にあるベンチが目に入り、ふと思い出したことがあった。
そういえばここは、引っ越した翌日の朝、学校に行く前に寄った公園ではなかったか?
そう思うのと同時に、よみがえってくるひとつの記憶があった。
あの時。小さな女の子が車にはねられたような、そんな。幻覚みたいなものを見た。
夢だったんだと、後から自分にそう言い聞かせたけれど。
(あれも、『妙な癖』の再発だったのかなあ……)
「どうした?」
またも唐突に黙り込んだ伊織を、キョウが訝しげな顔で覗き込んでいた。
「え! えっと……」濁りのない瞳にじっと見つめられて、伊織は慌てる。「いや、こんな話すると、変なヤツだって思われちゃって」
「そっか?」
キョウはますます不可解そうに首を傾げる。
「うん。妄想癖って言うの? 友達からも気味悪がられて、大人からはそんな話やめろって言われるし……」
焦って言葉を継いでいた。
(危ない危ない)
そう、こんな話をすると、他人から嫌われちゃうんだ。
(そうだ、もしかして、あの夢も――?)
神奈川の焼け跡に行ってから見るようになった、夢。あれももしかしたら、伊織の勝手な妄想なのかもしれない。
(ああ、そうか……)
「あっと。それで、その。本読んでる時間も多かったからなあ。だから、小説家とか、ルポライターとか、そういうのになりたい……かな」
取ってつけたように話を戻したが、キョウは特に不審に感じた様子もなく「へえ」と目を見張った。
「そっちのほうが凄げえっぽいじゃん」
「え! いや……改めて言葉にしてみると、なんだか恥ずかしいな」
「そっかあ?」
「うん……だってさ、もっともっと勉強しないとならないから、先は長いよ。こんな夢、語ってるレベルじゃないんだ」
「そっか」
そう言ってキョウは、小さく笑顔を浮かべる。その笑顔に、どこか寂しそうな気配を感じたのは、伊織の気のせいだろうか。
以前この同じ場所で、「眩しい」と言っていたあおいの表情が重なって。何かを諦めたような――そんな表情は、伊織から見て物凄い仕事をしているキョウには似つかわしくないように思えて、伊織はそれに気づかない振りをした。
と――。不意にキョウが身を起こし、ポケットに手を当てる。
「うわ、やべ……っ! 電話忘れてた……」
ポケットから携帯を取り出した。そうして思いっきり苦い顔を伊織に向け、小声で「お嬢だ……」とつぶやき。
「あー、お嬢? ああ、見つかったー。――悪りぃ悪りぃ、いま見つけたとこ。――ああ、うん……大丈夫。――うん、そうしろ――ああ。じゃあ、またな」
電話を耳から離し、眉を顰めて視線を伊織に向ける。
「心配してる……早めに帰らねえと、また締め上げられんぞ……」
「うわぁ、それは……」
伊織も戦慄を覚えつつ、ベンチから立ち上がる。
とっぷり日の暮れた公園を後にして、伊織はキョウと共に、足を速めて「家路」に着いていた。




