46.労働報酬。そして伊織は再び盗聴器に怯えながら
「……上野?」
聞いたことのあるようなないような名前に、キョウは首を傾げる。
学園事務棟の中庭のベンチで。目の前には、「報告」にやってきた琴子が仏頂面で立っている。
「一年五組の、上野。だったと思う。たしか。内部進学生だし顔くらい知ってるんじゃないの?」
大きくひとつだけ頷いて、琴子は表情を変えずに言う。
どうだったかな、とキョウは少々考える。顔が思い出せない。
「だけど、人が多いからはっきり読めなかった。そんなによく知ってるヤツじゃないし。二人きりとか、もう少し近づいたら分かるかも。やってみる?」
「――いや」
キョウは一度目を伏せて考え、それから顔を上げて琴子と目を合わせた。不機嫌そうな顔はいつもの通りだが、ひとつ仕事を終えた充足感よりも、後味の悪さを感じているのかもしれない。
「そんだけ分かればいいや。んなモン詳しく読んだって、気分悪りぃだけだろ」
「……そうかもね」
「どっちにしろ何か証拠でも押さえるか、問い詰めて白状させるかしねえとならないし」
「そうね。まあ、必要なら呼んで」
「ん。サンキュ。ちょっと待ってな」
そう言ってベンチの上に立つと、キョウは背後の窓を開けて診療所に入る。主の牧田は席を外していた。キョウは勝手に冷蔵庫を開けて勝手に缶コーヒーを二本取り出し、ベンチに戻って一本を琴子に渡す。
「労働報酬」
「安いな……」
琴子は軽く鼻を鳴らしながらも、仕方なさそうに受け取る。
「まあいいけど。大したことしてないし。今回はボランティア」
言いながら隣に座って缶コーヒーのプルタブを開ける琴子に、こいつもこう見えて伊織のことを結構気に入ってるんだろうな、と思う。全く表情には出さないが、心配もしているし、犯人に腹を立ててもいるのだろう。
いや、どちらかと言えば常に腹を立てている表情なのだが。
琴子はコーヒーを一口飲んで、思い出したようにキョウを睨んだ。
「だけど、マキさんのでしょ、これ」
「後で補充しとくから大丈夫」
「……あんたってほんと自由ね」
「んなことねえ。ちゃんと弁えてるよ。キッチンスペースとベッド以外はノータッチだ」
軽く肩を竦めて、琴子はもう一口コーヒーを飲む。
キョウも缶を開けて飲みながら、宙を見上げる。
「あいつのクラスのヤツら、本気にしてんのか?」
琴子は少し考えて、正面を向いたままため息をついた。
「興味津々ね。事件に半分。相原伊織に半分。同情はしてるけど、ホットな話題をありがとうって感じ。ほかのクラスから見に来てるヤツもいた。すぐ行っちゃったけど」
「……そっかー」
「これまで顔と名前くらいしか知らなかったのに、一気にクラスの注目の的。でも誰も、本人に話しかけない。怖がったり気持ち悪がったりしてるんでもない。深く立ち入る気もない。ただ遠巻きにネタにしたいだけ」
「……ふうん」
「堪んない。ああいうの」
腹の底から不快そうに、琴子は目を細めた。
彼女にも似たような経験があるのだ。まだ一人ぼっちで、誰も守ってくれなかった頃に。
しかも、琴子はテレパスだ。自分に対するそういう他人の気持ちが、直接自分の心に流れ込んでくる。その時の体験が、琴子に四六時中こんな不機嫌そうな表情をさせているのだということを、キョウは知っている。
「あいつがテレパスでなくてよかったな」
つぶやくと、琴子は「そうね」と同意しかけて、それから打ち消すように首を横に振った。
「きっと、テレパスじゃなくても分かってる」
「……そだな」
「じゃあ、あたし行く。ごちそうさま」
そう言って、琴子はベンチから立ち上がる。
「ん。またな」
手を上げて見送り、キョウは缶を口に当てたまましばし考える。
「犯人」は、やはりクラスの人間だった。なんのために? ここのところ伊織の身の周りで起きていた事件とは関係なく、単なるクラスメイトの嫌がらせなのか――?
だがそれにしては、この動きの速さは異常だ。楠見や自分たちでさえ、事件を知ったのは金曜の午後だった。土日の実質二日間であの記事を書き上げることが、事件の渦中にいるわけでもない一介の高校生に可能だろうか。
とりあえず、上野の顔を確認して行動を追う必要がある。
そう考えたところで、携帯が鳴り出した。
「……お嬢?」
『キョウ! ごめんなさい、あたし……伊織くんが……!』
通話ボタンを押すと、すぐに緊迫したあおいの声が耳に飛び込み、キョウは眉を顰めた。
なんとなく、一人になりたくて。どこをどのように歩いたのか覚えていない。気づいたら伊織は、自分のアパートの前にいた。
カバンを漁って鍵を取り出し、三日ぶりに室内に足を踏み入れる。
ドアポストから入れられた郵便物やチラシが玄関に散乱していて、何気なく取って大して確認もせずに靴箱の上に無造作に置いた。
部屋には盗聴器が仕掛けられている。話さなければいいのだと自分に言い聞かせて部屋の真ん中に座ったが、剥き出しになっている機器類を目にするとやはり漠然とした恐怖に襲われた。
幼い頃に両親が亡くなってから、伊織には自分の家がなかった。どこへ行っても伊織は居候で、あてがわれた部屋は借り物で、しかも長くはいられなかった。その家でやっていいこととよくないことは、常にその家の主によって明確に線引きされていた。クラスの友達を、「うちに来て」と誘うこともできなかった。なんの屈託もなく無邪気に「うち」と呼べる場所さえも、なかった。
この部屋は、賃貸アパートとはいえ初めての伊織の部屋だ。伊織だけの居場所だ。誰にも気兼ねせずに好きなことができるし、好きなだけここにいていい。
嬉しかった。ここでの生活を想像して胸を躍らせてから、たかだか十日ほどしか経っていない。それなのに――。
(どうしてこういうことになっちゃったんだろうなあ……)
ちゃぶ台を押しのけて畳に寝そべり、天井を見上げる。
『こんな紙がポストに投げ込まれていたんだよ』
そう言ってアルバイト先の店主が伊織の目の前に突き出したのは、今朝、学校で見たのとほとんど同じ紙だった。「神奈川放火殺人事件、犯人はコイツ!」の文字と、新聞の切り抜き、哲也と伊織の写真。
けれども違う部分があった。
伊織の写真の下に、「アルバイトしながらガンバってます!」という吹き出し。隣に、手書きらしい太く赤い文字で、伊織の働いているコンビニの名前が書かれていたのだ。
紙面から迸る、正体も分からぬ誰かの自分に対する悪意に、伊織は身震いした。
『聞いたら近所中に撒かれてるみたいなんだよ、このビラが。うちも客商売だからねえ、困っちゃうんだよねえ……』
店に入ると同時に手招きされて入ったバックヤードで、店主は眉を八の字にして伊織を見た。実際、心底困っているのだろう。人の好い店主なのだ。伊織に非はないと思いつつ、それでも店に出すわけにも行かず、だがそう告げるのも気が咎めて困惑しているのだ。
伊織は店主のそんな気遣いに申し訳なさを感じて、戸惑いつつも「すみません……」と口の中でつぶやいた。店主はその言葉を拾って、慌てて手を振る。
『ああ、いや、きみが悪いってわけじゃないんだよ。きみも被害者の親族なんだしね。気の毒なことをしたよね。知らなかったから、ごめんね。いま大変だろう?』
取ってつけたように、慰めの言葉を掛けられた。言外に、「そんな大事なことをなぜ早く言わないのか」という本音が滲んでいて、伊織はそれも反省した。変に詮索も同情もされたくはなかったし、勤務初日にどう打ち明けたらいいのか分からずに、そのまま言い出すきっかけを失ってしまったのだ。
『だけど本当に悪いのは、こんな中傷ビラを撒くヤツだよねえ。学校でもあったんだって? 緑楠高校に通ってるバイトの子がさっき来て言ってたよ。三年の教室にも貼られてたって。けど、ねえ』
店主は言いにくそうに、声を低くして少々顔を寄せる。
『ここに書いてあるのって、本当なの? その、きみの従兄弟って……』
伊織は表情を固まらせた。「目の前が真っ暗になる」という言葉があるけれど、これって本当に真っ暗になるものなんだな、比喩じゃなしに……などと、どうでもいいことに感心した。
『わ、分かりません。まだ、火事の原因を調べているところだって……』
『だけど、行方が分からないのは本当なんでしょ?』
『はあ……だけど、お……僕は、その……まさかって……』
ふうむ、という風に店主は鼻を鳴らした。
『それで、ね……』と店主はさらに言いにくそうに言葉を切り、横目で伊織を窺う。『言った通り、客商売でしょ? きみに非はないってのは分かってるんだけど、でも店に立たせるのもねえ……さっきから、きみのこと窺いに来るみたいな人が多くてちょっと難儀しててね』
『はい……』
と、伊織はやっと一言だけ絞り出した。
『ちょっとほとぼりが冷めるまで、自宅待機ってことにしといてもらえると有難いんだけどね……ああ、って言っても生活のこともあるだろうから、もしもその間にほかの仕事が見つかるようなら、そっちに移ってもらっても、まあ仕方ないけれど』
慎重な様子で言うが、本当に言いたいのは後半のことなのだろう、と伊織は察する。本人に問題があるわけではない以上、「クビにする」とは言いづらく、フェイドアウトしてくれと言っているのだ。
いや、本人に問題があるのだ。記事に書かれている内容は伊織になんの罪科もないことだったとしても、伊織はそこに関わっている人間だ。それだけではない。悪意を持った人間に、これだけ周到に中傷ビラなどを撒かれたりするような、厄介な人間なのだ。そして、それを面白がられ、晒し者になる存在。
伊織を解雇したいのだとしたら、その最たる理由は「仕事ができないから」でも「問題を起こしたから」でもない。「関わり合いになりたくないから」だ。
『分かりました……』
何がどう分かったのかは説明せずに、それだけ言った。
今はとりあえず、このまま帰ればいい。それだけで、この人の好さそうな店主を安心させることができる。その後のことは、それから考えよう。
店主は案の定、あからさまにホッとした顔をした。
『すまないね。ああ、昨日までの分の給料はちゃんと振り込んでおくから――今日の分も付けておくよ。それから、もしよければ、コンビニ店主連中にきみのこと紹介してみるよ。みんな一時の噂なんかすぐに忘れるし、少し離れた別の店なら問題ないだろうしね。きみは真面目で頑張り屋さんだって、売り込んでおくからさ』
『……どうも……ありがとうございます』
最後にそう言って頭を下げたところで、伊織は店主のことを初めて、「ずるいな」と思った。
自分は悪者にならずに厄介者を切って捨てて、さらに恩着せがましくとどめを刺す。上辺だけの善意が伊織の心を切り刻んでいることを知らずに、あるいは知っていても見ない振りで、いいことをした気分になっている。
(みんな、そうだ――)
伊織は畳の上に転がったまま、教室の雰囲気を思い出す。
ハルやあおいが動いて配られた紙を処分してくれたが、回収し切れなかった紙が後から後から出てきて、一日中教室内を静かに行き来していた。誰かがこちらを見て何かを話している気配を、ずっと背中に感じていた。
同情と義憤の下に隠された、好奇心。傍観しながら意見を述べ合う優越感。問題に巻き込まれ、中傷を受けてなすすべもなく立ち竦んでいる伊織への侮蔑と嘲笑。
それらに伊織自身が気づかないとでも思っているのだろうか。
それとも本人たちも、そんな暗い愉悦を自覚していないのだろうか。
中傷ビラを撒きはっきりと悪意を露出してきた人間と、それを娯楽にして他人の心を踏みにじる人間とでは、何が違う――?
(いや、違う――)
寝返りを打って体を横向きにすると、ちゃぶ台の脚が額に触れた。その冷たさに、少し冷静になる。
――本当の善意だってあるはずだ。本当に心配してくれている人だっているはずだ。それを見抜けずに、世の中みんなが敵であるような気分になって、可哀相な自分を言い訳にしている伊織が一番ずるい。
コンビニの店主に「もっと働かせてください」と言えなかったのは、自分に自信がなかったからだ。こんな中傷ビラ一枚で厄介者になってしまう人間でしかなかったからだ。それ以上に、自分のことをその程度の人間だとしか思えなかったからだ。
ハルは? キョウは? あおいや琴子や楠見は? 伊織のことを心配して、助けてくれようとしている人たち。そんな人たちを積極的に信用して自分から助けを乞うこともできない。何をしてもらっても返せるほどの人間ではないと思っているからだ。
だけど、どうしたらいい?
あの夢の話をしようか?
(あんな夢を見ちゃったから……)
自分は無関係な被害者なのだとか、従兄弟が事件と関わっているはずがないだとか、大声で正々堂々と言える気がしない。
寝転がってちゃぶ台の脚に額をつけたまま、伊織はぼんやりと考える。
(いや、だけど――)
そうだよ。俺が見た夢になんか、なんの意味がある?
意味のない、妄想だろう?
(あんな夢を見たからって……)
――――あなたの能力は――
――その時が来たら――封印は――
(――っ?)
ちゃぶ台の脚に触れている額に、突然痛みが走った。
冷たい場所に触れていたはずなのに、熱を持ったような痛みが少しの間続き、一瞬意識が遠のきかける。
しばらくそのまま動きを止めていると、痛みは次第に治まり、辺りが薄暗闇に包まれていることに気づいた。
(……なんだ、今の?)
伊織は体を起こす。
俺、いま何を考えていたんだっけ……?
窓の外は日が暮れかけていて、採光のあまり良くない一階の部屋は、辛うじて周囲が見渡せる程度の暗さになっていた。




