45.月曜日の衝撃
茶碗にたっぷり盛られた白いご飯と、彩り豊かな数種類の漬物。大皿にてんこ盛りのから揚げ。ジャガイモを荒く潰したポテトサラダ。野菜がいっぱいの味噌汁。
月曜の朝、テーブルに並べられた豪華な食事を見て、伊織は息を呑んだ。
ハルの作る朝食は、ボリュームが凄い。「朝からしっかり食べないと気がすまない」とハルは言っていたが、世の「しっかり」の域をだいぶ越えているのではないか。
伯父の家にいた頃から朝はパンと牛乳で簡単に済ませていた伊織は、初めての朝、軽いカルチャーショックを受けた。
半分以上眠っているキョウなど、こんな大量の肉や揚げ物を体が受け付けるのだろうかと心配になるが、寝ぼけながらもしっかり食べてご飯のお代わりまでしている。
土日と、朝食は少々控え目だった。連日帰りが遅くて買い物に行く時間が取れなかったという。二人はいくつかの仕事を抱えているようだが、そのひとつが伊織に関するものであることは明白で、具のない味噌汁を前に叱られた子犬のような顔をしたキョウを見ると申し訳なさに胸が痛んだ。
だから、三日ぶりの豪華な朝食にはっきりと覚醒し、嬉々として箸を手に取るキョウの笑顔が嬉しい。美味しそうに食べる彼の様子は素直に微笑ましい。だが――。
「伊織くん、食欲ないの? 大丈夫?」
茶碗を片手にハルが目ざとく聞いてきた。箸を止め、心配そうに眉を寄せ伊織を見つめている。キョウもから揚げを立て続けに三つほど頬張りながら目を上げた。
「あ、ううん、そういうわけじゃないんだけど……あんまり眠れなかったもんで、すっきりしないっていうか……」
「気分悪いんじゃない?」
「大丈夫。ありがとう」
そう言って笑ってみせるが、ハルはますます心配そうに首を傾げた。
「そう?」
「から揚げ美味いよ?」
キョウも遠慮がちな上目遣いで、から揚げを指す。
「こらキョウ、箸で食べ物を指すんじゃないの。あのね、無理して食べなくていいよ。余ってもみんなキョウが片付けるから。あ、何かサラッと食べられるもの作ろうか?」
椅子を引きかけたハルに、伊織は慌てて、
「い、いや! いいよ、これで十分!」
「ポテト美味いよ?」
「うん、ホント、美味しい」
ハルは食事を進めつつもしばらく気遣わしげな顔をしていたが、やがて空になっているキョウの茶碗に目を留めた。
「キョウ、ご飯もっと食べる?」
「んー……もういいや」
「そう? だけどまだ三杯しか食べてないよ?」
楽しい朝食のテンションを下げてしまっただろうかと気になったが、大量の揚げ物を受け付ける自信はなく、ハルの言葉に甘えて軽く済ませた。
(あんな夢を見たから……)
火事の知らせを聞いてから。いや、焼け跡を見たときからだろうか。妙な夢にうなされて。けれどその内容を口にすることはためらわれて。
心の中に屈託を抱えた伊織に追い討ちをかけるような事件は、登校後すぐに発生した。
再生を終えたDVDをパソコンから取り出しながら、楠見は軽く眉間を揉んだ。
また一睡もしないまま、朝だ。
一日かけて入手した五枚のDVDを立て続けに再生すること約八時間。
どれも同じ内容。見続けてもほとんど進展のない画面に飽きがきて、後半は簡単な書類仕事をこなしながらの流し見となったが、繰り返し聞いた音楽を覚えてしまった。
誰にやらせてもいいような簡単な確認作業だが、潜在的というレベルでもサイの能力を持つ人間が見れば妙な「副作用」を誘発しかねない、いわく付きのDVDだ。おいそれと他人に託すわけにもいかない。
日曜日の一日をかけて、二手に分かれて三都県を回り、九名の卒業生の現在地を訪ねた。卒業後、両親の家に戻っていた者、別の場所で一人暮らしをしていた者もいたが、古市の調査は完璧で、夜までに全員と会うことができた。
いずれも皆、サイとは無関係の――少なくとも本人はそう認識している――元生徒たち。緑楠高校に入った経緯も、大学に進学しなかった理由も、水島理恵子と似たり寄ったりの証言をした。
謎のDVDに関しては、記憶にないという者が一人だけいたが、ほか八名に送られていた。そのうちで、見たが何も起こらなかったという者が二名。それ以外の人間は、見ていないか封すら開けずにいた。
差出人不明の郵便物なのだ。見ないほうが賢明と言えるだろう。
そうして現物を押さえられたのが、五名分だった。
リストに載っていたのは、DVDを送り付けられた者――そう見ていいだろうか。
だとすれば、「至急保護せよ」という依頼に関しては、相原哲也の件以外は一区切りついたと言える。少なくとも会えた九名に関しては、謎のDVDが送りつけられてきたこと以外に身辺に不審な事件の起きている様子の者はいなかったし、可能な限りでの問題のDVDの回収は済んだ。
万一DVDの送り主が接触してきた場合のことを考え、継続して様子を見る必要はあるが、現段階でこちらから出来ることはほとんどない。
だが――。
(問題は、DVDを送り付けられたのが、リストに載っていた者だけではないってことだ――)
執務机に肘を突き、もう一度、眉間を揉む。
武蔵野のアキヤマ、新宿のシバタは、緑楠学園とは縁のない者だった。DVDを送ってきた人間が手にしているサイの名簿は、「緑楠学園の生徒」とは別の集合から抜粋されたものなのだ。リストの十四名は、その一部だろう。
ディスクの盤面に記されたナンバーから推測すると、緑楠高校の卒業生に配られたものは、五、六十番台。そして一番数字の大きいものは、アキヤマが見たという、092。連番で全ての数字の物が配られたとすれば、少なくとも百枚近くが出回っているということか? 誰に宛てて――?
楠見に最初にFAXを送ってきた人物は、DVDを散布した者の目的とその相手を完全に近い形で把握していたに違いない。その目論見を阻止すべく動いているのだろう。そして、その内の緑楠学園に関わる十四名の保護を、楠見に「割り振った」。
しかし。アキヤマやシバタが誰にも阻害されることなく犯行を重ねていた事実から考えると、その人物の「保護」の手は、彼らに届いていないのだ。
散布されたDVDを全て回収し、それを手にした潜在的サイたちの安否を確認するというのは途方もない作業に思われ、その複雑さにひとつため息をついて執務机の上のスケジュール帳を取り上げた。
ひとまず一日の予定を確認し。午前中の会合までに、二時間ほど仮眠を取ることができるだろうか? そう思って席を立ちかけたところで、机の上の電話が鳴った。
学校に足を踏み入れるなり、伊織はなんとも言えない違和感を感じた。
誰かがこちらを見て、自分に関する噂をしているような気配。見渡しても原因は分からず、内心で首を捻る。
階段を上った先で、左手の教室に向かうキョウと分かれ、少しだけ遅れてやってきた衣川あおいが追いついて。
「おはよう!」
そう爽やかに笑顔で声を掛けてきたあおいに挨拶を返し、教室のドアに手を掛けたとき。
一斉に自分に向けられたクラスメイトの視線に、伊織は一瞬足を止めた。
午前八時前。始業までまだ二十分ほどの時間がある教室内は、早めに来た生徒がまばらに席に着いているのみの静けさ。
それでも伊織は、先週までとはちょっと違う空気を肌で感じ取る。
ハルの反応は早かった。伊織が入り口で、正体不明の違和感に立ち竦んでいる間に、わずかばかりに表情を引き締めて教室に入っていきホワイトボードの前に立つ。
神奈川放火殺人事件、犯人はコイツ!
黒のマーカーで大書された太い文字。文字の下に矢印が引かれ、その矢の先には大きな一枚の写真と、拡大コピーされた新聞の切り抜きが貼られていた。写真に写るのは、見たことのある顔。
相原哲也――従兄弟のものだ。
伊織の知る哲也よりも少し幼い、高校時代の写真。詰襟の学生服に身を包み、真面目な顔でカメラに視線を向けている。
ハルはその写真をホワイトボードから剥がし、
「なんだ、これ――?」
誰にともなくつぶやく。
一番前の席に座っていた生徒が、答える代わりにおずおずとA四サイズの紙を差し出した。
「学校に来たら、この紙が机に入ってたんだけど……」
ハルは、渡されたその紙を見て、動きを止めた。一瞬その紙に見入り、それからそれをクシャクシャに丸める。
伊織も自分の席に着いて、教科書類をカバンから机の中に移そうとしたところで手を止めた。机の中に入れた手に、一枚の紙が触れたのだ。引き出して見て。
呆然と目を見張っていた。
――神奈川の放火殺人事件。犯人はコイツ! 一年五組 相原伊織の従兄弟、両親を焼き殺す――
太いゴシック体の文字が躍る、一枚の紙。相原家の火事を報じる新聞の切抜きと、ホワイトボードに貼られているのと同じ、大きな写真。その下に、こまごまとした文字が新聞の紙面のような体裁で並んでいる。事件の詳細や、哲也のプロフィールなどが事細かに記されているようだった。
そして、紙面の左下には、伊織自身の写真。
――事件の犯人・相原哲也の従兄弟 本校一年生の相原伊織――
「下らない悪戯だよ。こんなのマトモに受けたら駄目だよ?」
困ったような小さな笑顔を浮かべて、ハルが紙を差し出してきた一番前の席の生徒に言う。あおいも席に着き、机の中から一枚の紙を取り出して大仰に肩を竦めた。
「あたしのとこにも。いやねえ、こういうの」
そう言って、紙を縦に裂く。
ハルはホワイトボードに書かれた文字を消し、席に戻る途中で、紙に呆然と見入っている伊織に気づいて歩み寄る。
「伊織くん、気にしないで。俺たちでどうにかするから」
肩に手を置いて小声でそう言うと、ハルは伊織の手からその紙を取り上げて自分の席に荷物を下ろし、それから何かに気づいたように教室を出ていった。
あおいが斜め後ろの席に着いて、心配そうに伊織の顔を見る。
「伊織くん、ほんと、気にしちゃ駄目よ?」
「あ、うん……ありがとう」
上の空でそう答える。
――気にしない、など。できるはずはなかった。
(哲也さんが、家に火をつけて伯父さんと伯母さんを焼き殺した――?)
嫌な夢の切れ端。哲也について執拗に聞いてきた、二人の刑事の言葉。たったいま見せられた文字たち。それらがごちゃごちゃと頭の中に渦を巻いて。伊織は慌てて記憶に蓋をする。そうして。
(また、こうなるんだ――)
まとまらない頭の片隅で、ぼんやりとそう思った。
気配を感じて廊下に出たハルは、少し離れたところに立っているキョウと目を合わせた。
「ハル、これ」
そう言って差し出されたのは、ハルの教室内で配られていたものと同じ、相原哲也の「記事」だ。
「そっちにも配られてるのか」
「こっちも? だよな、そりゃ……」
キョウは困ったように視線を横に振る。
「ほかのクラスもだ。通ってきたとこ、ホワイトボードにでっかく貼り紙してあった」
「これは? 机の中に?」
「いや。クラスのヤツが見てたから、奪ってきた」
「そう……ともかくみんなが登校する前に、手分けしてホワイトボードだけでも消して回ろう」
「ん、分かった」
キョウは頷いて、階の一番端にある教室に向かう。ハルは反対の端に向かおうとして、途中、教室の外からあおいを目で呼び、ほかの教室も回ってくれと手振りで指示する。
そしてそのままクラスの中を見渡す。クラスメイトたちはすでに別の話題に移ったような雰囲気を見せつつ、しかし視線はちらちらと伊織に向けていて――。
(もしかすると……)
クラス内の生徒たちを一渡り見まわしていたハルの思考を遮るように、携帯電話がポケットの中で震えだした。
「――楠見? おはよう」
『ああ、ハル。高校内に哲也くんのことに関する貼り紙がされているって、今――』
「情報早いね。ホワイトボードに哲也くんの写真と新聞記事が大きく貼り出されてて『神奈川の放火事件の犯人』って……それから、机の中にも新聞みたいなビラが入ってた」
手近な教室に入って、そこの生徒たちが不審な顔で見ているのに構わずホワイトボードの貼り紙を剥がす。
『そうか……。こっちに来た報せじゃ、見つけたのは三年の先生だ。校内の掲示板や二、三年のクラスにもあったそうだ』
マーカーで書かれた大きな文字を消しながら、ハルは片眉を上げた。
「高校内全体ってこと? うわあ……」
始業前に学校中を回らなければならないのか? うんざりした声を上げると、楠見は状況を察したように、
『先生方が回ってくれているから、二、三年の教室はそちらに任せろ。お前たちは伊織くんのフォローを頼む』
「了解。これ、そっちに持っていく?」
『そうだな――いや、もうすぐ授業だろう? 別口で手に入れるよ。昼に一度来られるか?』
「了解。じゃあ後で」
携帯を切ってホワイトボードのイレイザーを置き、何事かと見ている十名ほどの生徒たちに向き直ると、笑顔で声を掛けた。
「おはようございます。五組の神月です。うちのクラスでちょっと問題があって、こんな紙が出回ってるみたいなんだけど、持っている人、いる?」
口もとに微笑を残しながら教室全体に鋭い視線を向けると、三、四名の生徒がためらいがちに紙を出してきた。
「ありがとう」
にっこり笑ってハルはその紙を受け取り、次のクラスへ向かった。
昼休み後半。一年五組の教室はどよめいていた。
元凶は、教室の入り口に立って室内を無言で睨み渡している他クラスの美少女――武井琴子である。
生徒たちは、目が合えば直ちに締め上げられそうな勢いで睨んでくる琴子に脅えつつ、怖いもの見たさで様子を窺い、視線がぶつかりそうになっては慌てて逸らすという行動を繰り返していた。
琴子がそんな挙動不審な行為――と言っても本人にしてみればおそらく入り口に立って室内を見ているだけなのだが――に出ている理由を察して、近くの席の女子生徒とおしゃべりしながら昼食を食べ終えたあおいは、ため息をついた。
ハルは昼休みになると同時に理事長室に行ってしまい、この場をフォローできるのは自分しかいない。仕方なく、入り口へと歩み寄る。
「琴子、用事? 誰か探してるの?」
多分だいぶ引きつってはいるだろうが、他クラスの友人をにこやかに迎える美少女スマイルを作って朗らかに声を掛ける。「用事」は分かっているのだが、そう声を掛けたのは戦々恐々としているほかの生徒たちに対するポーズだ。
琴子もそれは分かっているはずなのだが、迎える視線はいっそう険しく、慣れているはずのあおいも一瞬――怯んだりはせず、心の奥底に怒りの炎を点す。
『あ、あのねえ』顔には華のような笑顔を浮かべながら、思い切りトゲのある小声で。『そんな顔して突っ立ってたら、みんなが脅えるでしょ? もうちょっと普通の顔できないの?』
『元々こういう顔だもの』
対する琴子も、表情も変えずに小声で冷たく言い返す。
『不審に思われちゃ、見つかるもんだって見つからないわよ。自然におしゃべりしてる感じにしなさいよ』
『あたしが探してるなんて分かるはずないんだから、心配ない』
『あんたの能力知らなくったって、十分怪しいわよ! 逃げられたらどうすんのよ!』
『お嬢、うるさい。集中できない』
『あーのーねえーーー!』
ますます大きな笑顔を作って、あおいは内心で琴子の足を踏みにじった。
そんなあおいの心中を読み取った琴子は、一度あおいに険悪な視線を向けたが、そのまま無視して室内に目を戻す。
(駄目だわ、フォローしきれない……ハル早く帰ってきて)
笑顔を保ちつつ心の中で叫ぶと、琴子が今度はこちらも見ずに冷ややかにつぶやいた。
『あんたにフォローなんかしてもらう必要ない』
『また! あたしの心まで読まない》でよ!』
『『ロック』できないのが悪いって言ってるでしょ。読もうと思わなくたって入ってくるの。うるさいから、ちょっと黙ってて』
うっかり笑顔の仮面を取り落としそうになって、慌てて口の端を引きつらせる。
ちらりと振り返りクラスの様子を窺うと。琴子とあおいのツーショットに別の興味を引かれたらしく、ちらほらとこちらに目向けてくるクラスメートたち。
教室内にいる五組の生徒は、三分の二弱と言ったところか。
中傷ビラの内容は、相原哲也でなく相原伊織に対する嫌がらせ――とすれば、犯人は身近にいる可能性も高い。ハルの推測だ。
もしもこの中に相原哲也の記事を貼り付け拡散した「犯人」がいれば、琴子ならすぐに探し当てるだろう。そう思って琴子に目を戻すと、わずかに眉を上げてあおいの顔を見ている琴子と目が合い、思わず「ふんっ」とそっぽを向いてしまった。
胸にいろんなものをつかえさせたまま、伊織は四日目のアルバイトに向かっていた。
いつもの通り送ってくれるあおいとも、なんとなく口をきく気力が湧かずに。あおいは気を遣ってくれているのか、半歩ほど下がって声も掛けずについてくる。
コンビニの少し手前で、立ち止まってあおいを振り返った。
「お嬢、どうもありがとう」
「あ、ううん。九時までよね。終わった頃に迎えに来るね」
遠慮がちに微笑んで、あおいは小さく手を振った。
完全に気を遣わせてしまって、申し訳ない。帰りに缶コーヒーでもご馳走しようか。
初日に説明されたアルバイトの給料の締め日が近づいているのを思い出して、そんな算段を立てる。最初の給料は大した額にはならないだろうが、それでも自分で稼いだお金が初めて入ってくることへの期待は大きい。
ここで財布の紐を緩めるわけにもいかないけれど、お世話になっているみんなにほんのわずかでも何か返したい。
そんなことを考えて、気持ちを少しだけ浮上させながら、コンビニの店内に入る。
瞬間、レジの向こうに立っている困惑したような表情の店主と目が合い、伊織は嫌な予感に身を硬くした。




