44.伊織、ボディーガードのガードと、小さないたたまれなさ
伊織はコンビニのバックヤードで、廃棄品のおにぎりをかじっていた。三日目にして初めての、朝から一日のアルバイト。昼過ぎての昼食休憩に入る前に、店主がくれたものだ。「本当は駄目だから、内緒でね」そんな注意と共に三つほどのおにぎりをくれた。ありがたいと思いつつも、申し訳なさが先に立つ。
まだ三日目。だが、もう三日目。
「誰でもやってるんだから、硬くならないで。そのうち慣れるから――」
優しい先輩アルバイトはそう励ましてくれたのだが、伊織の変に真面目な性格が災いし、できないことに引っ掛かってまた失敗をする。
休憩中に少しでも仕事を覚えようと、おにぎりを食べながら膝に置いていたマニュアルに目を落とすが、いかにも簡単そうに書いてある業務方法の解説に少々腹が立つ。
(俺、向いてないのかな――)
そう考えるのは、少しだけ気が楽だ。この仕事には向いていないが、どこかに自分にぴったりの仕事があるのだと思えるから。しかし、それが何かと言われると、さっぱり思い浮かばない。高校一年生の伊織の知識の中では、自分が従事できる可能性のある職業というのは限られている。
社会に出れば、もっと選択肢が無限に増えるのだろうか――だがその前に、高校生活に関して様々な問題があった。生活についてはアルバイトでどうにかするとして、来期からの学費はどうしよう。
時間が経つにつれ、漠然とした不安は次第に具体的なものになってきた。
伯父たちの葬儀や今後のことに関しては、東京にいる伯母の親族に任せることになるだろうと聞かされていた。
伊織の今後の問題に関しても、その親族と話し合うことになっている。しかし、血の繋がりもなく会ったこともない遠縁の高校生の身元を、ましてや高い私立高校の学費を引き受けてくれたりはしないだろう。
そんな曖昧な望みにかけるよりも、学校を辞めて働くという選択肢のほうがまだ現実的だ。伊織の夢だとか希望だとかを別にすれば。
そう思ったところで、伊織はまた、俺は自分のことばかり考えているな、と思う。
親類が亡くなったことに対する悲しみ。行方の知れない従兄弟を心配する気持ち。だが、それは深い喪失感だとか深刻な懸念だとかと言うには軽すぎる、どこか漠然として淡白な感情だった。健全な常識人がテレビなどで知らない人間が亡くなったニュースに接したときの気持ちと、大差はない。
親族を突然の事件で亡くした高校生が当然抱くであろう衝撃や悲しみが、こんな淡白なものであるはずはない。そう思う。
先日来感じている、自分の身の回りに起こっている出来事への現実感のなさ。それをまた、ぼんやりと感じている。焼け跡を見てもなお。
もしかすると、自分の感情にはどこか欠陥があるんじゃないか。ふとそんなことを思った。
苦笑されたりため息をつかれたりしながらも、午後五時までの勤務を終えた。体も心もくたくたに疲れ切っているが、長時間みっちり働いたおかげで、だいぶ仕事を覚えることはできたと思う。店に対して「役に立った」とは言えず、その分は割り引きつつも、伊織は充足感を感じていた。
挨拶をしてコンビニを出ると、斜向かいのスーパーのフードコートでガラス窓に向かって座っているあおいの姿が目に入る。手を上げると、あおいのほうでもすぐに気づき、手を振り返してきた。
店を出てこちらへ走ってこようとし、そこで彼女は誰かに呼ばれたように足を止めた。視線を追って右手から来る人の流れに目をやると、五、六人の男子高校生の集団の中に同じクラスの上野の姿を見つける。ほかに知った顔はない。集団の中から出てきて、あおいに駆け寄る上野。
(これって、出ていかないほうがいいのかな……)
知らない人間が見たら、どう考えても待ち合わせをしているカップルだ。一瞬遠慮して足を止めた。
見ていると、上野とあおいの間で会話が交される。内容までは聞き取れない。指で背後を指したり前方を示したりしながら、何事か話しかける上野。あおいは困ったような笑顔で首を横に振る。
と、上野の手があおいの肩に触れた。あおいは少々怒ったように首を振り、上野に背を向けようとしたが、肩に置かれた上野の手がそれを引き止めて――。
思わず伊織は足を踏み出していた。あおいと上野に向かって走り寄る。
「お――衣川さんっ」
「……伊織くん」
上野の手が肩から離れ、あおいはほっとしたように笑顔を作って伊織を迎えた。
「待たせてゴメン!」
これから約束があるのだと窺わせるよう、伊織は笑顔で言う。
「……相原?」
「あれ、上野、どうしたの? こんなところで」
「新聞部の取材で商店街回ってんだよ。お前こそ、なんで?」
「お、俺は、そこのコンビニでアルバイトしてて……」
「へえ、バイト決まったんだ……何、お前ら待ち合わせしてたの? 衣川、約束って……相原と?」
上野は訝しげに首を傾げ、伊織とあおいを交互に見比べた。
「え? えっと、それは……」
「そういうわけだから、上野くん、ゴメンね。また明日、学校でね」
あおいが小さく笑って、「行きましょ」と伊織にささやく。
「あ、じゃあ上野、また……」
そう言って背を向けようとしたところで、上野が声を掛けてきた。
「なあ、ちょっと前から思ってたんだけどさ、お前らって付き合ってんの?」
「えっ! い、いや、そんな……」
「そうか? だって、それじゃ二人でどこ行くんだよ」
やけに絡んでくる。振り返って見ると、上野は不機嫌そうな顔をし、後ろの五、六人の男子高校生は面白い場面でも見ているというようにニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「え? えっと、二人じゃないよ。ハ……委員長とかも一緒だし」
「神月?」
ハルの名前まで出したのはまずかっただろうか、と思ったが、効果はあった。上野は引き下がらねばならないと思ったようだ。
「まあいいや。じゃあな、また。ああ、バイト、良かったな。頑張れよ」
「あ、うん、ありがとう」
ひらひらと手を振って上野は伊織たちに背を向け、後ろの友人たちを促し歩き出す。少し離れた彼らから、「上野のヤツ、振られてやんのー」という言葉が聞こえてきた。
「……ありがと、来てくれて良かった」
こちらも歩きだしながら、あおいがそう微笑んで可憐に肩を竦める。
「ガードしてるのにガードしてもらっちゃった」
「い、いや! そんなもんじゃ……」
「ううん。助かったわ。お茶でもしようとかカラオケに行かないかとか、しつこかったのよ。もう少しでぶん殴っちゃうとこだったわ。フフフ」
「ははは……」
(助かったのは上野のほうなんだね……)
最後の言葉に若干引きつつ、微笑むあおいに、胸のつかえがすっと取れたような気分になる。自分が少しでも役に立ったと言われたら、とても嬉しい。そう言われるほど凄いことをしたわけでもなく、自分がいなくても多分――いや絶対、どうにかなっていたのだろうが――。
「い、いや、俺、守ってもらってばっかだし……こんなの全然……しかも最後はハルの名前出しちゃったのが情けないよね……」
照れ隠しのように苦笑交じりに言うと、あおいも小さく笑う。
「いいのよ、こういう時のためのハルだもの」
よく分からないが、あおいは楽しそうに笑っているので、まあ良しとする。しかし、この後が問題だ――。
「上野に、変な誤解されなかったかな……」
「させとけばいいのよ。何かっていうと声掛けてくるから、どうしようかと思ってたのよね」
「そ、そうなんだ……」
上野のあおいに対する気持ちは真剣なものだったのだろうか? これだけの美少女なのだ。言い寄ってくる男も多いだろう。上野も、見慣れてしまったなどと言ってはいたが、一高校生男子なら「あわよくば」と思っていても当然だ。
「今だって、後ろにいた友達に、あたしと仲がいいんだってアピールしたかっただけよ。普段ならちょっと断れば引くんだけど、やけにしつこかったわね」
「……大変なんだね、お嬢も」
あおいを誘って仲間に入れられたら、たしかに周りに自慢できそうだな、と伊織は納得する。一方で、断られ鼻をへし折られる形になった上野にも、少しばかり同情する。仲間からあれ以上にからかわれていないといいのだが。
プライドを傷つけられて、ますますしつこくなったらどうしよう。だけど、お嬢には好きな人が……。
(好き……なんだよな?)
目をやると、困ったような怒ったような、それでもどこか毅然とした美少女の横顔が目に入る。
この美少女に一方的に想いを寄せられているのだとしたら、キョウはかなりの果報者だな……ちょっと大変そうだけど……そんなことを考えながら、あおいの気持ちを聞いていいものなのかどうかしばし迷い、結局口をつぐんだ。
そのうち何かの機会に、さりげなく話題にしてみることができるだろうか……などと思いつつ――。
マンションに戻ると、一階の喫茶ベルツリーの窓の中からハルが大きく手を振った。向かいの席でこちらに背を向けている楠見と、楠見の隣に座っている見知らぬ大男が振り返る。
あおいと共にドアベルを鳴らしながら店内に入ると、カウンターの椅子に横座りでジャガイモの皮剥きをしていたキョウも顔を上げた。その向こうから、店主の鈴音も〈いらっしゃい〉というように微笑む。
ハルが座ったまま片手で自分の隣の椅子を引きながら、笑顔で声を掛ける。
「おかえり、伊織くん。アルバイトお疲れさま。お嬢もご苦労さま」
「ただいま」
招かれて三人の席に着き、あおいと口を揃えて答えると、楠見が笑いかける。
「お疲れさま。夕食まだだろ? 良かったら食っていきなよ。お嬢もな」
「あ、あの、……ありがとうございます」
伊織はハルが引いてくれた椅子に、あおいはその隣に腰を下ろす。
その間に、楠見はテーブルの上に散らばっていたDVDを自分の元に引き寄せて両手で整えた。
(あれ――?)
なんとはなしに、伊織の目はそのディスクの盤面に引き付けられていた。
なんの変哲もない、一見そこらへんで市販されていそうなディスク。けれどそれに、見覚えがあった。
(これって、どこかで――)
「どう? アルバイトは。慣れた?」
しかし、伊織がその見覚えの正体にたどり着く前に、楠見が柔らかく問いかける。
「あ、はい……あっと、いえ……まだまだなんですけど、少しは……」
「そう。それで、体のほうは問題ないかい?」
「はい! ……あの! 昨日はどうもすみませんでした……」
神奈川まで連れていってもらったのに、倒れてしまった後は挨拶もしていなかったことを思い出し、伊織はあたふたと頭を下げる。
「いや、問題なければいいんだ。だけど、なんだったんだろうね」
「それが――」
あの時のことを説明しようと思い、少し考えてしかし、伊織はやはり首を横に振った。
「俺にもさっぱり……その後は、なんともありません」
「ああいうことがあったのは、初めて?」
「はい……」
あやふやに答えると、楠見はハルと一度目を合わせてから、伊織に目を戻して小さく笑った。
「ともかく、何もないならいい。もしも具合が悪かったら、すぐにマキのところに行ってくれ。お前たちも気をつけているようにな」
そう言ってハルとキョウに目をやると、二人は同時に頷いた。
「それから……いろいろと大変だけれど、できる限り力になるから――」
「なんだか、すみません……」
みんなの親切と励ましが心に染みる。しかし、感謝の気持ちを抱く一方で、心の片隅に、それだけではない微妙な「いたたまれなさ」を伊織は感じていた。どう答えていいのか分からずともかく深々と頭を下げる。
それに微笑み返しながら、楠見が紙袋にしまおうとしていたDVDの束が、店の照明に反射してキラリと光った。
「あれ!」唐突にハルが身を起こす。「楠見、それ」
「ん? なんだ?」
怪訝な顔をした楠見の手から、ハルはDVDの束を奪い取った。そうして光にかざしながら、
「楠見これ……番号が振られてる。ほら、この角度で光に当てると……」
「……なんだって?」
「092、059、これは……056」
「本当だな……こっちは037」
真剣な顔でディスクを明りにかざす二人。
と、向かいに座っていた大男が突然声を上げた。
「ちょっとお、楠見ちゃん、そんなの後にしてさあ、オイラのことも紹介してよ」
「ああ、失礼しました。……伊織くん、こちら古市調査事務所の所長の古市さん。古市さん、彼が相原伊織くんです」
体も声も大きな古市という男は、その大振りな顔からもはみ出そうなくらいの笑顔を作ってテーブル越しに手を差し出す。
「どうもー、古市です。よろしくね」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
求められて握手に応じつつも、どういった関係なのかよく分からずに視線をうろうろさせていると、楠見が苦笑しながら説明する。
「古市さんの調査事務所とは協力関係にあってね、今は、哲也くんたちの載っていたリストについて調査してもらっているんだ」
「そういうモンです」
そう言って、古市は笑顔を引っ込め、表情を引き締めた。
「伯父さんと伯母さんの件は、残念だったね。なんと言ったらいいか……早く哲也くんが見つかるといいんだが」
真剣な顔で言われて、ドキリと心臓が鳴った。胸の片隅にあった「いたたまれなさ」が、少し重みを増す。
「……ありがとうございます」
そう言ったきり返答に詰まっていると、伊織が困っていると思ったのか、ハルが笑顔で言葉を割り込ませる。
「伊織くん、古市さんはね、こう見えて意外となかなか優秀でまあまあ頼りになる探偵サンなんだよ」
「おぉい、ハルよぉ、余計な修飾語が多過ぎるんじゃないかいー?」
「『優秀な』ってとこだろ?」
皮剥きを終えたボウルいっぱいのジャガイモをカウンター内に運びながら、キョウが横目で口を挟む。
「『頼りになる』ってとこもね」
あおいもテーブルに頬杖をついた姿勢で、斜め上に視線をやりながらつぶやく。
「お、キョンキチ、お嬢、やんのかコラ」
「やめときなよ、古市さん。また腰痛めるよ」
「こらハルキチ、俺を年寄り扱いすんな!」
子供みたいに歯を剥き出しにして笑ったり、大げさに顔をしかめたりする古市の横で、楠見は肩を竦めて伊織に苦笑してみせる。「こういう関係だから、きみも気を遣わなくていいよ」と言われているようで、伊織は曖昧に笑い返した。
その後は、「俺の仕事がどれだけ凄いか聞かせてやる」という古市探偵の活躍譚が始まり、それは一同が夕食に移って食後のコーヒーの最後の一口を飲み干すまで、ハル、キョウ、あおいの三人の散々な突っ込みを受けつつ続けられた。
いつものじゃれ合うようなやり取りを傍観しつつ、伊織はしかし、これまでは感じたことのなかった、かすかな違和感を覚えていた。




