43.楠見、キョウに「味噌汁としての進化」を説く
(――楠見、楠見)
意識の外から、名を呼ぶ声が聞こえる。頭の中に泥でも詰まっているような重苦しい痛みを感じながら、楠見はどうにかまぶたを少しだけ持ち上げた。が、予期していた以上の眩しい明かりが飛び込んできて、また目を閉じる。
「楠見――?」
「ああ。――ナオ、か……」
声の主に答えて、楠見は目を閉じたまま体を動かした。背中の下で、地面が柔らかく沈む。
(またソファで眠っちまったのか……)
息をついて、もう一度目を開ける。目の前に広がった光が、頭の中の泥を押し流すが、爽快とはいえない気だるさが全身に残る。腕時計に目をやると、八時を回ったところだった。
「また徹夜で仕事してたのかい?」
ソファの後ろに立って苦笑混じりに楠見を見下ろしているのは、十数年来の親友。高校、大学と離れていたが、半年ほど前に再会し「雇用関係」となった今も、変わらない人懐こい笑顔で「楠見」と呼びかけてくる。
「今週中に論文を一本仕上げないとならなくて……ちょっと集中してて、気づいたら朝だったんだ」
楠見はソファから身を起こし、小さく伸びをした。不自然な体勢で眠ることを強いられた体が、ぎしぎしと音を立てるように痛む。
「じゃあ起こして悪かったね。もう少し寝れば?」
「いや……会議があるんだ。起こしてくれて助かったよ。欠席なんかしたら、またなんて言われるか」
「大変だねえ、お前さんも」
「おかげさまで、充実した毎日だよ」
首を回して身をほぐしながら言って、楠見はソファの背越しに振り返り、目を留めた。
「……お前こそ、ちょっと顔色が悪いんじゃないか?」
親友の顔を見上げ、楠見は小さく首を傾げる。「仕事」続きで疲れているのか。それに、少し痩せたんじゃないだろうか――?
「そうかい? そういや今朝、家でも言われたんだけど、特に具合の悪いところはないよ?」
意外だとばかりに、目を丸くして軽く肩を竦める友人。
「そうか? ……ならいいんだが……疲れてんじゃないのか?」
「人間離れした忙しさのヤツらにそういう心配されると、ちょっと気が咎めるな」
「お前だって、あちこち駆け回ってもらってて、大変だろうが。俺はデスクワークだけど、サイは体力的にも大変だろうからな。あんまり無理すんなよ」
友人は軽く笑って、応接セットを半周し向かいのソファに腰掛けた。
「それで、会議は何時から?」
「九時だったかな。一階の会議室だから、のんびり出るよ」
欠伸混じりに答えると、呆れた顔をされる。
「顔ぐらい洗っていけよ? ――まあ、その前に、それじゃ俺のほうの用件を済ませていいかな」
「ああ――」
「江戸川のパイロキネシスの連続放火事件、犯人を捕まえたよ」
(……江戸川の……?)
そんな仕事を彼に振っていただろうか――?
「妙なDVDを送りつけられて、それを見ると能力が開化しちまうんだ。大した能力を持っていなかったサイが、コントロールし切れずに放火事件なんかを起こすようになる」
「……」
「『本店』の行き過ぎた能力開発も、問題だね。身の丈に合った能力をコントロールできるようにするならいいけれど、無理な能力を使わせちゃ体を壊すよ」
「……」
「それが原因で死んだって、『本店』は家族にちょっとの見舞金を渡して、しょんぼりした顔で『残念です』っつっておしまいだ。大した能力のない微力なサイなんか、掃いて捨てるほどいる上にさして役に立たないからね。使い捨てだよ」
「……」
「俺みたいにね――」
「……ナオ?」
自嘲気味に片頬を吊り上げて、友人の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「『本店』にとっては、サイは使い捨てだよ。お前は東京で、その駒を集める手伝いをするんだ。緑楠学園を、使い捨ての雑兵や実験台の、供給拠点にするんだろ?」
「……ナオ……」
「相原哲也は最初の生贄だな」
彼の顔がさらに歪み、形を失い、宙に溶けていくように崩れる。
「ほかの生徒たちも、リストに載っていた以外の人間も――あの子たちも、いずれ――」
「ナオ!」
ほとんど形を成していない「彼だったもの」が、目の前で霧散し、消滅する。楠見は夢中で手を伸ばすが、その手は空を掴んだ。
あの時と同じだ。楠見の手をすり抜けていく。
「ナオ! ナオ!」
消えてしまった親友の姿を探して、叫ぶ。止めなければ。早く彼を引き止めなければ。失ってしまう――。
「――楠見っ!」
ハッと目を開くと、視界に白い光が広がった。ソファの背が目に入る。その向こうに、困惑顔で楠見を見下ろす人影。
「……ナオ?」
違う。彼よりも幼くて小さくて、弱い――子供だ。ぼんやりした頭で、楠見は自分に言い聞かせるように、その名前を呼んだ。
「キョウ。……部屋に入る時には……ノックをな……」
わずかに安堵したように、キョウが息をつく。しかし、出てきた言葉は冷たい。
「寝ぼけてんのか、楠見。さっさと起きろよ。てか泊まったのかよ、ここに」
「ん? ……ああ、眠っちまったのかな……」
「朝だよ。ちゃんと目え覚ませよ」
「……お前……自分はどうしたって起きないくせに、他人を起こす時は容赦ないな……」
諦め気味に言って、楠見はソファの上に身を起こした。壁の時計に目をやると、八時を過ぎている。土日の日中を「裏の仕事」に充てるために、「表」の書類仕事を朝方まで掛かってこなしていたのだ。外が完全に朝を迎えていることに気づき、コーヒーでも入れて「日曜日」を迎えようかと席を立ったまでは覚えているのだが、そのままソファで眠ってしまったらしい。
(夢を見ていたのか……)
久しぶりに「あいつ」の夢を見た。こんなタイミングで出てくるとは、あいつもなかなか――。
「早く顔洗ってこいよ」
ソファの背後に立ったまま、ぶっきらぼうにキョウが言う。
「ああ、そうするよ。……ハルは? 一緒じゃないのか?」
「一緒に来たけど、途中で部活のヤツらに鉢合わせて連れていかれた。ちょっと顔出してから来るって」
「そうか。伊織くんはどうしてる?」
「朝から一日バイトだと」
「そうか。――キョウ、コーヒーを入れてくれないか?」
「顔洗ったついでに入れてくりゃいいだろ?」
ソファの背に手を掛けて、楠見はキョウを見上げる。
(なんだ、機嫌が悪いな……)
「……どうした、何かあったか?」
「何が」
「嫌なことでもあったか?」
「別に、ねえよ」
「そうか? 寝不足じゃないか?」
「ねえってば」
「朝ごはんはちゃんと食ったか?」
「食ったけど……」
キョウはそこで言葉を切って、少々切なそうな表情になった。
「……足りなかったのか?」
「違うけど……」
「じゃあなんだ」
「……味噌汁に具が入ってなかったんだ」
「……」
「昨日、俺が鰹節しか入ってなかったって言ったから、ハルは味噌汁を作るのが嫌になっちまったのかな……」
「……」
「俺、文句言ったつもりじゃないんだけどな……鰹節だけでも別にいいし」
楠見は顎に手をやり、髭も剃らなければなと思いつつ、悄然と俯くキョウにソファを示す。
「……な、キョウ。座れ」
「なんだよ……」
キョウは不満げに眉根を寄せたが、大人しく示された通りに楠見の隣に腰を下ろす。
「いいか、キョウ。あのな。味噌汁に鰹節が入っていなかったのはな、そりゃ味噌汁としての進化だ」
「進化」
「そうだ」
楠見はキョウの目を見て深く頷く。
「お前は知らなくても無理はないが、世の中では通常、鰹節の入っていない味噌汁のほうが上等なんだ」
「……なんで?」
緑楠小学校の家庭科の授業で「味噌汁の作り方」を教えるのは、何年生だっただろう。五年生よりも前か? キョウは授業を受けていなかっただろうか。訴えるような切なげな目で見つめられ、説明しようとして、昨日のハルの険悪な視線が脳裏を過る。
「……今ここで説明するのは難しいが、これは科学的にも解明されていることだ。俺はそういうケースをいくつも見てきた。昨日の味噌汁が、手ぬ……いや、手違いだったんだ」
「手違いって……?」
「……詳しいことは、今は言えない」
「……」
「けどな、これだけは間違いない。ハルはお前のために、昨日よりも上等な味噌汁を作ってくれたんだ」
「そうなのか?」
「ああ。そうだ」
「そっか……」
「ハルの味噌汁は美味かったか?」
「ん」
「よし。いい子だ。分かったらコーヒーを入れてくれ。飲みながらこれからの段取りを話し合おう。な?」
「分かった」
励ますように肩を叩くと、キョウは神妙な面持ちで頷いて立ち上がり、ドアを出て行く。
楠見はひとつ大きな欠伸をして、両手で顔をごしごし擦り、それからソファを立った。
顔を洗ってややすっきりした気分になり、昨日入手した二枚のDVDをローテーブルに並べる。コーヒーカップを二つ持って戻ってきたキョウがソファに座りながら、汚いものを見るような目をDVDに落とした。
「これな、こちらが武蔵野事件のもの、これが江戸川のもの。確認したが、内容はどちらも同じだった」
「……見たのかよ」
キョウが、汚いものを見るような目をそのまま楠見に向けた。
「……そういう目で見るなよ……ああ、ゆうべな、見たよ。見ないと始まらんだろう」
「よく見る気すんなあ……変な能力に目覚めたらどうすんだよ」
「心配いらないね。俺は子供の頃から散々テストして、全く能力なしという判定が出てるんだ」
威張るように言って、キョウがテーブルに置いたコーヒーカップを手に取り、コーヒーを啜る。楠見好みの深い味とすっきりとした飲み口に、ようやく脳細胞が活気付き出した。
「まあ――お前たちは見ないほうがいいだろうな。たぶん、サイの能力を持っている人間に作用する能力開発プログラムだ」
「能力開発?」
「ああ。トレーニングのためのものだろう」
「そんなモンがあんのか」
キョウは少し考えるようにDVDに目を落とし、それから視線を上げた。
「小さくするヤツねえの? スプーンとか曲げられるように」
「……お前……まだスプーン曲げの練習してるのか?」
「ん。周りに傷つけないでできるようんなった」
「ほう、そりゃ凄いな」
楠見は感心の声を上げた。このサイ少年が、使い勝手の良い小さなエネルギーをコントロールできるようになるのなら、なかなかの進歩だ。何より、彼の能力は既に完成されているものだと思っていた。まだ伸びしろがあるのか、と思う。だいぶ普通と順序が違うが。
キョウは得意げに笑う。
「上手く曲がったら、楠見にやる」
「……曲がったスプーンをか?」
「ん」
寝不足の目には眩しいキョウの嬉しそうな笑顔に、「俺はできたら曲がっていないスプーンのほうが……」という言葉を呑み込んだ。
(それは……ホームランボールみたいなアレなのか……?)
「ありがとう……嬉しいよ」
ひとまずそう答えて、話を変えることにする。
「まあ、ともかく、このDVDの話だがな――」
「それは見ねえよ。今さらパイロの能力なんか要らねえし」
「うん、そこだ」
カップを置いて、楠見は真剣な目でDVDを睨む。
「そこって?」
「DVDの目的は、パイロキネシスの能力を開発するためのものではないんじゃないかな」
「……って?」
「うん……正直、これが本当にどれだけサイの能力に作用するものなのかは分からない。見てみたが、水島理恵子が言っていた通り、映像は景色と幾何学模様の繰り返し。それに音楽や効果音が流れているだけだ」
水島は冒頭部分しか覚えていなかったが、実際、一時間半ほどの収録時間の間ひたすらそれを繰り返すだけのもの。
これまで多くの「自己啓発」「能力開発」プログラムといったものを目にしてきた経験上、そういう類のものなのだろうとは思うのだが、意図するところが判然としないのである。
「現に能力を身につけた者がいるわけだからな。何かしらの影響を与えるものではあるんだろうが、これでどうして発火能力が身に付くのかが分からん。まあ、ここでは詳細な解析はできないからな、もっと調べてみれば何かしら分かるかもしれないんだが……」
どう反応すればいいのか分からない様子で、キョウは二枚のDVDを手に取り、訝しげに見比べている。
「もしかしたら、『能力開発』や『増強』が目的であって、『発火能力』は副作用なのかもしれない」
「……副作用?」
「ああ。潜在的にパイロの素質を持っている人間が見ると、その能力が引き出されるとか……それに、スイッチが入ると知らない間に火をつけちまうだとか、定期的に火をつけていないと気分が悪くなるだとか、そういう症状もな。元々持っている能力は千差万別で、そこに作用するわけだから、同じ状態になるほうが不自然だろう。シバタが見たものも同じDVDかどうかは分からないが、この三人の中でもバラつきがあるところを見ると、DVDの影響はかなり個人差があるのかもしれないな」
「……全く別の能力や症状になってるヤツもいるかもしれねえってこと?」
「それに、見てもなんの影響もなかった者だって、いるだろうな」
キョウはDVDの盤面を睨みながら、少し考え込んでいる様子だった。楠見の印象としては、見ても何も起こらなかった者も多いのではないかと思っているのだが、そもそも誰が送ってきたのか分からない奇妙なDVDを再生してみる人間のほうが少ないだろう。
水島のようにうっかり見てしまったり、あるいは故意に拡散させたりする人間が現れないうちに、送られているDVDを回収することが急務である。
そして、問題はそこだけに留まらない――。
その奥にある、楠見の考えている問題の気配を察したように、キョウがDVDから目を上げた。
「つまり、それって――?」
「……こいつはもしかすると、作った人間にもその効果が確認できていない、実験か、試作段階のプログラムだ。本来なら世に出しちゃいけない。それをな――」
楠見は真剣な目を向けているキョウの顔を正面から見て、身を乗り出す。
「水島理恵子は、自分がサイであることも知らなかったろ?」
こくりとキョウは頷いた。
「アキヤマやシバタもたぶん似たようなもんだ。潜在的なサイか、あるいはサイだと分かってはいても、どこの組織とも関わりのない一個人。あのリストに載っていた卒業生たちも、もしかしたらな。水島さんと同じように、どこかで能力に気づいた人間がスカウトして緑楠に入れた。が、事情が変わって何も知らないまま卒業し、サイとは関わりのない生活を送っている。そういう人間に」
楠見はキョウの手から、DVDを取り戻して軽く掲げる。
「こういうものを無言で送りつける。送った人間の目的は、今は想像するしかないがな――水島さんたちは、このプログラムの実験……効果測定に使われたのかもしれない」
キョウが不快そうに眉を寄せる。楠見はひとつ頷いた。
「ああ。人体実験みたいなもんだ。絶対にやってはいけない、人道に悖る行為だよ。被害者が出ないうちに、元を断たなければならないな……」
そう、このDVDを回収すれば終わりという問題ではないだろう、と楠見は思う。そんなことをやっている人間、あるいは組織を、見つけ出して目論見を阻止しなければならない。
そしてその、組織というのはおそらく――。
(まだ、そんなことをしているのか……あいつらは)
そう考えると同時に、胸の内に立ち込める憤りと無力感。
楠見は一度それらを頭の中から払拭すべく、ひとつかぶりを振って。
「ともかく、まずはリストの生徒たちの安否確認だ。古市さんが、九時に来てくれることになっている」
楠見はコーヒーを飲み干して、カップを置きながら言う。
「今日中に手分けして回って、彼らの状況を確認する。もしもDVDが送られていれば、回収する」
「ん」
「お前は俺と来い。ハルは古市さんと回ってもらおう」
「分かった」
ハルはそれから十分ほどして、古市は九時五分前に、理事長室にやってきた。
リストにあった生徒の中で現在までに行方が分かっているのは、相原哲也、水島理恵子と神戸の静楠大学に進学した者を除き、九名。東京近郊に散らばっている。二手に分かれての捜索活動には、ほぼ丸一日を要することとなった。




