42.伊織、出ていくタイミングを失い身を縮める
休憩宣言をして楠見が理事長室を立ち、五分ほどが経過した。
水島理恵子は膝に置いた手にタオルをしっかりと握りしめ、そこに視線を落としている。
キョウはそんな彼女のほうへと、見るともなく目をやっていた。
多分この後、その能力を斬ることになる。
本人もおそらく認識していない程度の微細な能力。これからコントロールを身につけるのは難しいし、また無意識に「放火」などをしてしまうよりも、なくしてしまったほうがいい。
そうは思うのだが、こうまで脅えられるとどうにもやりにくい。
(別に、いいけど……)
脅えた目で見られるのも、敬遠されるのも恨まれるのも、慣れている。キョウにしかできない仕事。自分がやらなければならない。けれど――。
――俺の能力も、『斬る』ことができるのか?
ふと、そんな疑問の言葉を投げかけてきた相原哲也のことを思い出す。
哲也は能力をなくしたかったのだろうか。家を一軒燃やし尽くし、人をひとり連れてテレポーテーションができるほどの、しかし持って生まれた器を大きく越えた能力。その能力を維持し、使いこなすのは苦痛だろう。
能力を断ち切り、荷を下ろしたかったのだろうか。しかし、同じ夜に彼は、その能力で両親を焼き殺してしまった。自分の能力をなくすことができるのかと尋ねた、わずか数時間後のことだ。いったい何があったのか――?
「あの――」
水島が顔を上げて、口を開いた。その横顔を見守っていたキョウとまともに視線が合って、水島は慌てたように目を逸らす。構わずに見つめ続けていると、また水島は目を上げ、たどたどしく口を開いた。
「私は、その――火をつけたんでしょうか……」
小さなタオルを握る手に、さらに力がこもる。
「その……近所の公園に放火をしていたのは、私なんですか……?」
「……何も、覚えてねえの?」
「分からないの。感覚だけは、覚えているの。火をつける感触だとか。そのときの様子、歩いた道筋、……でも、どうしてそんなことをしたのかとか、どうやったらそれができるのかが分からないの……本当に、私がやったことなの?」
ひとつひとつ言葉を探すようにしながら言う水島を、キョウは黙って見つめていた。水島は助けを求めるようにキョウを見て、また目を伏せる。手に握られたタオルが小刻みに震えている。
「気がついたら、火がついているの。みんながその火を見ていて、私には気づかずに……」
「……そっか」
キョウは、水島の震える手を見つめながらそれだけ答える。
と、水島はまた、訴えるような視線を上げた。
「子供に、怪我をさせた……たぶん。怖くて。誰にも言えなかったの……」
その瞳に、涙が溜まる。
「あなたにも、火をつけようとした」
「……ん? 俺はいいよ」
「ごめんなさい」
膝の上でタオルを握り締めている水島の手の上に涙が一粒落ちるのを、キョウは壁を背に身じろぎもせずに眺めていた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と、水島は口の中で何度か言った。
「……辛かったね」
静かにそれだけ言うと、水島は大きく肩を震わせた。また手の上に涙が落ちる。
「わざとじゃないの。やろうと思ったんじゃないの」
「分かるよ」
「私、警察に捕まるの? このまま帰ることはできないの?」
水島の目が、新たな不安に震えた。
「もう――前と同じには戻れないの?」
前と同じに、戻る――?
水島の言葉が、心の中に引っかかった。
「……大丈夫だ」
「本当に……?」
「ん。俺たちがあんたを元の場所に戻すから、大丈夫。心配いらねえ」
水島は、まだかすかに不安の色を載せた瞳で、それでも小さく安堵するような息を漏らした。
カーテンの向こうで、ドアが開き人の入ってくる気配がした。少し前に牧田が部屋を出て行ったようだったので、戻ってきたのだろうか――。そう思ったところに、
「伊織くん、大丈夫?」
そんな声と共に、あおいが遠慮がちにカーテンをまくって覗き込む。
「あ、うん、平気……ゴメン」
もやもやした気分を抱えてベッドに伏していた伊織だが、体を起こして今度こそベッドを出た。そのまま出て行こうと思ったが、あおいはベッド脇のスツールに腰を下ろす。
「そう、良かった。倒れたって聞いて心配してたの。いったい何があったの?」
「俺にもよく分からなくて……急に頭が痛くなったような気がするんだけど……」
「そうなの……何かしら。いろいろあったから、疲れが出たのかしらね」
あおいが心配そうに眉を寄せたのを見て、伊織は慌てて笑顔を作る。
「でももうなんでもないよ」
布団から出てベッドに腰掛ける体勢になって、伊織は「もう平気」とアピールする。あおいはまだ少し心配そうな表情で、それでも納得したように小さく笑った。
あおいは、伊織を送るために来てくれたのだろうか。緑楠高校では、土曜日にも補講や特別講義をはじめとした授業があると聞いているが、入学から二週目の今週はまだ授業はない。
「あの、もしかして、迎えにきてくれたの?」
「そうよ」
「ご、ごめん。わざわざ……」
「いいの。遠いわけでもないし、みんな仕事してるし、あたしもね」
気を遣わせない笑顔で、あおいは軽い口調で言う。
そこで、もう一度ドアが開く音がした。人の気配を察してか、カーテンを除けて牧田が姿を現す。
「ああ、お嬢、来てたんだ。お疲れさま」
「うん」
あおいは牧田に親しげに笑いかける。牧田も微笑みを返して、伊織に目を向けた。
「相原くん、気分治った?」
「あ、はい、どうもありがとうございます」
立ち上がろうとしたところで、三度目のドアの開く音を聞いた。
「マキさーん」
若い男の声にマキが振り返り、カーテンの向こうにまた姿を消す。
「ああ、お疲れさま。フジも仕事だったのかい?」
「そうっす。やー、疲れた疲れた。何が疲れたって、琴子とサシで張り込みとかって、犯罪者を相手に捕り物を繰り広げるよりも神経使いますよね」
「あはは、お疲れ。江戸川の件?」
「はい。やっと仕上げっすよ。一件落着ーっと」
カーテンの向こうのそんな会話を聞くともなく聞きながら、誰かが枕の上の壁に掛けてくれた上着を取って、出る支度をする。それを見て、あおいがスツールから立ち上がった。伊織は上着を着て、荷物を確かめる。
そうしている間に、会話に乗ってカップに飲み物を注ぐような音がし、カーテンの隙間からかすかにコーヒーのにおいが漂ってきた。
「あ、どうも、サンキュっす。いただきます――」
フジと呼ばれた男が礼を述べる。
「そんでねマキさん、聞いてくださいよ。江戸川のパイロね、若い女性だったんすよ。二十二、三とか」
「へえ――」
「なんだか小柄な、可愛い感じの人でね、『なんでこんなことになっちゃったのか分かんなーい』みたいな」
「そうなんだ」
「それをね、どうやって捕まえたと思います?」
ずずず、とコーヒーを啜るような音を立ててから、フジは思わせぶりな口調で。
「なんと! キョウがナンパしたんっすよ!」
出ようとしてカーテンに手を掛けたあおいが、その言葉を聞いて、ピクッと肩を反応させる。
「あいつはなかなかのモンですよ。肩を抱き寄せてこう、ね、『もう怖くないから大丈夫。俺たちが助けるから』……なーんちゃってね? ぐふふふ……」
「え……ふ、ふうん……」
「で、犯人もそれで、クラリってなっちゃったみたいで、もう何かってーとキョウのことチラっと見ちゃってね」
「そう……」
「あーもうー。ずるいっすよねえ、顔がいいのは。ちきしょう、俺が何年もかけて習得したテクを、こうもするりとなあ。ああいう『みんなの弟』みたいなキャラに、年上の女性は弱いんすよねえ。キョウもね、マキさん、あいつ絶対、年上の女性が好きなんだと思いません?」
「えっ? そ、それは……どうかな……」
(しまった……)
伊織はいたたまれなさに身を縮めた。完全に出て行くタイミングを失った。カーテンに手を掛けたままで動きを止めているあおいの後姿を、上目遣いに窺う。表情は見て取れないが、そこはかとなく怒りのオーラが立ち上るのが見えるような……。
「絶対、そうっすよ!」
フジはそう言い切る。カーテンの向こうで、これも様子を見ることはできないが、「胸を張って」と言って良さそうな断言っぷりだ。
「ハルとか楠見さんとかに日ごろから甘やかされてますからね。あー、マキさんもだ。ああいうお子ちゃまはねえ、引っ張っていってくれる大人の女性に弱いっすね。鈴音さんとか、あいつ意外と本気だったりしてね」
「……えぇと、どうだろう」
「大穴で、実は影山さんのことが……とかだったら面白いっすけどね、ハハハハハ」
「まさか、ハハハ」
「や、でも、さっきのパイロキネシスもなあ……あの出会いでくっ付いたら結構ドラマっすよねぇ――」
言葉の途中で、またドアの開く音がした。
「あれ? フジ、来てたの」
声の主を悟り、伊織は頭を抱えたくなった。
「おう、キョウ。そっち終わったのか?」
「ん。楠見と船津さんとで、江戸川まで送り返しに行った。ハルも付き添いで行った。俺らはもう上がっていいってさ」
「ほっか。んじゃあ帰るかなー」
「マキ、伊織は?」
「ああうん、ええっとね、今ちょっと――」
言いよどむような牧田の声がし、足音がこちらに向かってくる。
(やめて来ないで――!)
心の中で叫んだが、無情にもカーテンが勢いよく開く。
「伊織ー……」
カーテンを開けたキョウが、目の前に立っていたあおいとまともにぶつかりそうになり、驚いたように固まった。
「あ? お嬢――」
カーテンの向こうで、フジがカップを取り落としたような音。
――と。
「……!」
あおいは素早い動きでキョウの襟首を掴み、締め上げながら、優しい口調で労いの言葉を掛ける。
「江戸川の件、解決したんですって? たーいへんだったみたいねえ。お疲れさま」
「――? お、おじょ……? ちょ、な……? 苦し……」
あおいはそのままキリキリとキョウを締め上げて、突然放り出すように手を放すと、カーテンを完全に開け広げ、部屋の中央に進む。放り出されて咽ているキョウ。
開け放たれた向こうに、フジらしき男子高校生の驚愕の表情が見えた。
「あーっと、お嬢……いたんだ」
お嬢はフジに、艶然と微笑みかける。
「そうなの。いたの」
「なに……? なんだ今の?」
まだ半分咽ながら全員の顔を見比べるキョウから、フジと牧田は慌てたように目を逸らした。
説明を求めるキョウの視線から逃げ遅れ、伊織は曖昧な笑みを浮かべる。
「あ、いや、ちょっと俺はよく分かんないんですけど……」
ごにょごにょと言いながら逃げるように視線を逸らし、カバンを抱えてキョウの横をすり抜けた。
「あ、えっと、……伊織くんと、フジは、初対面かな……」
空気をかき混ぜるように、伊織と「フジ」を示して手をパタパタと振りながら、牧田が新しく無害な話題を提起する。
「あ、そうっす! おお! あの噂の伊織くん?」
「う、噂、……ですか?」
「うん、俺、二年三組の藤倉卓です。よろしくよろしく!」
「あ、一年五組の相原伊織です……よ、よろしくお願いします……」
立ち上がって握手を求める藤倉卓に、伊織も手を差し出した。ものすごい力でぶんぶんと振られ、肩をばしばし叩かれる。日に焼けた顔にはさわやかな笑みを浮かべてはいるが、横から睨んでくるお嬢の視線を若干警戒し引きつっている。
「硬いなあ、そんなに改まらなくていいよお。フジって気軽に呼んでくれよ!」
「はあ……」
やっとのことで手を放してもらい、伊織はカバンを抱えなおした。
「伊織、もう気分悪くねえの?」
いまだに釈然としない表情を残しつつ、キョウは伊織に尋ね、確認するように牧田のほうを見る。
「うん、ごめん、心配かけて」
「特に悪いところはなさそうだよ。少し様子を見て、またどこか悪いようだったらすぐにおいで」
「はい、ありがとうございました」
伊織は頭を下げた。
「そんじゃ帰るか?」
「あ、いや……アルバイトに行こうと思うんだけど」
そう言うと、キョウはわずかに困ったように眉を寄せた。
「さすがに今日は休んだほうがいいんじゃねえの?」
「うん……でも、まだ二日目だし、俺……この仕事がなくなっちゃうと、困るから……」
さっきまでの迷いがまた頭を掠める。気持ちが落ち込みそうになるのを堪えながらそれだけ言うと、キョウは少しの間やはり眉を寄せて見ていたが、やがて「そっか」と言って肩を竦めた。
「じゃあ送る」
「伊織くんはあたしが送るわ」
あおいが挑むような口調で割り込み、キョウを睨みつける。
「ん……? うん……いいけど……」
「キョウは『お仕事』で疲れているでしょうから」
「……?」
ふいっと顔を背けて出口に向かうあおいに首を傾げ、キョウはまたほかの面々の顔を見比べる。
フジが目を逸らしながら立ち上がった。
「あー……俺もちょっくら部活に顔出して帰るわ。マキさん、ご馳走さま。……なんか……ごめんな、キョウ……」
フジは謝罪の形に片手を上げて、もう片方の手でキョウの肩をひとつ叩くと、逃げるように診療室のドアを出て行く。
「あたしたちも行きましょう」
琴子も顔負けの不機嫌そうな顔で言うあおいに従い、伊織も「じゃあね」と遠慮がちに声を掛けて部屋を出る。
出掛けに「なんだあれ?」と不審げに聞くキョウの声と、「さあ……」という牧田の声を聞いた。