41.嫌な夢。そして近い将来に対する憂鬱
かすかに消毒薬のにおいが鼻を付く。とても寝心地のいいベッド。
目を開けるのが億劫で、伊織はそのまま寝返りを打った。ふかふかの枕。やっぱり、少し消毒薬のにおいがする。
俺の部屋のにおいじゃないな。ベッドも枕もこんなに気持ちよくはない。うつらうつらとそう考えて、伊織は気づいた。そうだ、引っ越したんだ。あの、神奈川の家にはもう帰らない。
でも、どこに? ……そうだ、アパートの一階の……でも、ここはあの部屋とも違う。あの部屋には盗聴器がつけられていて――
――部屋を盗聴までされていたんだ――!
誰かの声が、頭の中に突然響いた。この声、誰だっけ……。
――まともなヤツらじゃない! 伊織にも早く――!
(え! 俺?)
伊織はふと目を開けた。
真っ白な枕が目の前にある。枕の向こう側に、見覚えのない大きな窓が見えた。
もぞもぞと、枕に肘を立て上半身を起こす。そのままぐるりと見回して、足元をカーテンで仕切られたベッドの上にいるのが分かった。病院――だろか?
そうだ。自分は火事に巻き込まれたんだ。助かったのか?
記憶をたどる。
人の言い争う人々。激しく捲くし立てる声と、それを宥める声。
目の前で、突然火が燃え出した。炎は爆発的に広がって、人も家具も飲み込み、恐ろしい速さで壁を伝って家中を包んだ。あらゆるものの燃え、焦げるにおいを嗅いだのは一瞬のこと。その後は熱い空気が喉を焼き、煙が目を塞ぎ――
(――哲也!)
(これは――!)
ハッと目を見開き、伊織はゆるゆると首を横に振った。違う。あれは夢だ。
あそこにいたのは、俺じゃない。
脳裏に浮かぶ恐ろしい光景に、身震いがした。
喉が渇く。
(なんだ、今の……?)
白い掛け布団の上に、汗が一滴落ちる。
早く、ここから出ないと。布団を除けて起き上がろうとしたとき、カーテンの向こうで人の動く気配がした。
「……目が覚めた?」
そう言いながらカーテンを開けて姿を現したのは、背の高い白衣の男性だった。首から下げた聴診器を見て、お医者さんだ、と思う。するとやっぱり、ここは病院なのだろうか?
「気分はどう?」
穏やかな笑みを浮かべて問い掛けるが、答えられずにいる伊織に微笑みを抑えて心配そうな顔になる。
「まだ少し顔色が悪いかな。もう少し横になっていていいよ」
「えっと、あの……?」
「ああ、失礼――」
そう言って、また男性は頬を緩めた。首に掛けていた聴診器を除けて、胸の名札を持ち上げて示す。
「緑楠学園校医の、牧田と言います。相原伊織くんだよね」
笑顔で言いながら、彼はベッドの横のスツールに腰を下ろした。
「はい――」
「噂はかねがね。会ってみたかったんだ。こういう形になるとは思っていなかったけどね」
「う、噂……?」
思いがけず擦れた声になった。牧田がメガネの奥で、ふっと目を見張る。
「ああ、水飲む? お茶とかコーヒーとかもあるけど」
「……あ、あの、水をもらえますか?」
「ちょっと待ってて」
牧田医師は気さくに笑って一度下ろした腰を上げ、カーテンの向こう側からすぐにコップを手に持って戻った。
受け取った水を伊織は一気に飲み干す。かなり喉が渇いていたらしい。その飲みっぷりに、再びスツールに腰掛けた牧田は、口もとに微笑みを保ちながらも目を丸くしていた。
「あの。ありがとうございます」
「もう一杯持ってこようか?」
「いえ、もう……あの、ここは……」
ああ、というように、また牧田が笑顔を作る。
「緑楠学園の診療所だよ。学園事務棟に来たことがあるだろう? その一階」
「そう、ですか。俺……どうして診療所に?」
「覚えていないの?」
牧田の微笑みが引っ込み、気遣わしげな顔になった。
伊織は慌てて考える。楠見とハルとキョウと、神奈川の警察署に赴き、その足で相原家の跡を見に連れて行ってもらったところまでは覚えている。
焼け跡に花束を供え、しばしその場所に佇んだ。楠見と、その向こうでハルとキョウが心配そうにこちらを見ていた。
玄関のあった場所、狭い廊下の先に客間、その向こうにトイレと風呂場。和室、台所……と、つい十日前まで住んでいたはずの家が、焼け跡の上に見えていた。それでいて足元には、瓦礫が不安定に積み重なっていて。足場を見つけて慎重に歩いた。たしかあれは、リビングのあった場所。そこで――
(人の言い争う声を聞いて、炎に包まれたんだ……)
違う、あれは夢だ。
「……相原くん?」
思考に沈みそうになった伊織に、牧田は慎重な様子で声を掛けた。
「あ、すみません……あの、嫌な夢を見ちゃったみたいで……」
「そう。それで、気分悪いとか、痛いところとかない? 診たところ悪そうなところはないけれど、頭を押さえていたって言うから……まだどこか具合が悪ければ、大きな病院に連れて行くよ?」
「あ、いえ、もう大丈夫みたいです……」
そうだ、突然ものすごく頭が痛くなったんだ。でも、もうなんともない。
伊織は軽く息をついた。
「すみません。どうもありがとうございます」
「いいよいいよ。それよりしっかり休んでいきな。ハルもキョウも学校に戻ってきているけれど、まだしばらく帰れそうにないって。伊織くんが早く帰りたければ、お嬢に送らせるから連絡しろってさ」
牧田は言いながらまた椅子を立ち、カーテンの向こうに戻っていく。
「……そうですか――え?」
「そうだ、お昼もまだだって? ハルがおにぎりとかサンドイッチとかたくさん置いていったよ」
カーテンの向こうからそう言って、スーパー袋を持ってカーテンを肘で除け、袋の中身を検分している。
「たくさんあるけど……なんだ、これ。おにぎりネギ味噌ばっかりだよ? あ、昆布と明太子がひとつずつあった。あとサンドイッチはハムカツと、ミックスサンドと……」
(えっと……『ハル』とか『キョウ』とか『お嬢』とかって……この人って……?)
「……ん? どうかした?」
ぼんやりと見つめている伊織の視線に気づき、牧田が不思議そうな顔をする。
「ええと……牧田――先生は、みんなと、その……?」
「ああ――」
牧田はスーパー袋をカーテンの外に置き、満面の笑みを作った。
「そうだよね、ゴメン。そうだね、付き合い長いし……彼らはうちの常連さんでね」
「常連……」
「だいぶ診療所の使い方間違ってるけどさ」
そう言って、牧田は苦笑する。
「最近よく彼らからきみの名前を聞くもんだから、すっかり仲間みたいな気分になってたよ。ゴメンゴメン」
(そういえば『噂はかねがね』って……どんな話をしているんだろう)
伊織は不安になったが、牧田は窓枠に寄りかかって腕組みをし、また屈託のない微笑みを浮かべる。
「彼ら、よっぽどきみのことを気に入ったみたいだね」
それは、伊織にとっては思いがけない言葉だった。
「え?」
「ハルとキョウの家に泊まってるんだって? 大変じゃない? あいつらに生活合わせるの」
「……いえ」
「そ? ならいいんだけど。――でも、こんなの初めてだからさ、楠見もびっくりしてて」
「そう、なんですか?」
牧田の言葉を頭の中で咀嚼しながら、彼も副理事長を呼び捨てにするような仲なんだ……とぼんやり思う。友人なのだろうか。歳もそれほどは違わないように見える。
「うん、あいつら二人とも、人当たりが悪いわけじゃないけどね、やっぱり事情が事情だから、同級生との間にも線を引くだろ?」
「事情……ですか」
つまり、「サイ」だとか「仕事」だとかの話を、牧田も知っているということだろうか。
考えていると、牧田は少し不安げな表情になった。
「あれ……聞いてる……よね?」
「えっと。サイ……とかって……?」
言っていいのかな、と探り探り上目遣いに聞くと、牧田は微かに安堵したような面持ちになる。
「うん――」
「えっと……つまり、先生も、サイの話を信じているんですよね……?」
「……え?」
安堵の笑顔を作ったまま、牧田の表情が固まる。
「――信じるとかっていうか……あれ? これ言っちゃまずかったかな……」
牧田は頭の後ろに手を当てて、困惑気味に目を斜め下にやる。そして窓枠から身を離すと、先ほどまでと同じ微笑を浮かべてカーテンのほうに歩いていく。
「こっちに食べるもの置いておくから、起きられるようだったら食べるといいよ。俺はしばらくここにいるから、ゆっくりしていって」
そう言ってカーテンの向こうに姿を消す牧田に、伊織は慌てて頭を下げた。
「あ……ありがとうございます」
「構わないよ」という言葉に続き、椅子の軋むような音が聞こえた。
電話のボタンを押すような機械音。そして、牧田の声。
「――ああ、伊織くんが目を覚ましたよ――うん。――うん、大丈夫、いいよ――」
カーテンのこちら側でひとりになり、一息つくと、突然思い出して慌てて携帯電話を探す。見回すと、ベッドの脇の籠に伊織の荷物が入れられていた。携帯を取り出し時間を確認する。午後四時。アルバイトの時間には間に合う――。
安堵のため息をついたものの、しかしそれからまた暗い気持ちになった。上手く仕事をこなせない憂鬱と、こんな日にアルバイトに出勤などしていていいのだろうか、という戸惑いとが、重く心に圧し掛かる。
(……どうしよう)
ごちゃごちゃといろんな問題が頭に詰め寄せて、どうにも整理がつかず、伊織は泣きたい気持ちになった。
伯父たちの亡くなったことは、純粋に悲しい。事件には心が痛む。哲也のことを心配する気持ちも本当だ。だが、そのことばかりを考えていなければならない今、しかしもっと切実に頭に浮かぶのは自分のことばかり。
身寄りをなくした自分はこれからどうなるのだろう。いざというときに伯父たちに頼ることも、これまではできた。したくなかったし、しないつもりであの家を出てきたが、それでも本当にできないのとでは気持ちが違う。
学校は? 生活は? 伯父たちの家のことは、誰がどう処理するのだろう。
こんなときにアルバイトなどしている場合ではないと思う一方で、しかしこうなった今、ますます収入の手段を失うわけにもいかない。
きっと今、自分ひとりではこれから生じるであろう問題をどうにもできない。でも、誰に何をどう相談したらいいのか分からない。
自分は途方もなく孤独なのだ――と、改めて心に突きつけられる。本当に涙が出そうになって、伊織は枕に顔を埋めた。
「静楠大学への進学を勧められた?」
水島理恵子からの事情聴取を中断してハルと琴子の様子を伺いにやってきた楠見は、モニターの脇に立ったまま腕を組んで不審げに眉を寄せ琴子の報告を繰り返した。
「そう」いつもの無表情で琴子が頷く。「詳しい事情は彼女自身は分からないみたい。でも、神戸の静楠大学に進学するなら学費免除を続けるって言われてる。高校の一年か二年……まだ、大学のことをそれほど具体的に考えていないくらいの時期に。彼女を緑楠に『スカウト』した学校関係者っていう人が、家に来て」
楠見は難しそうな顔で小さく唸り声を上げた。
ハルも腕を組んで、ソファの背に深くもたれる。
「……だけど、どうして嘘をつく必要があるのかな」
「ああ。事情が分からないなら、彼女に後ろ暗いところがあるわけじゃないだろう?」
「うん」もうひとつ頷いて、琴子は考えるように視線をモニターに向けた。「親が……」
わずかに言葉を切り、それから彼女の内心を探っているような口調で言を継ぐ。
「『それじゃ話が違う』って……食ってかかって……『スカウト』の人からお金をもらったみたい……だから」
そこで、水島理恵子の心情を言い表す言葉を探すように、少しばかり間を置いて。
「そのお金で、家を建てて引っ越した。勉強が好きじゃないから大学に行かなかったっていうのは本当だけど……あの時の親の反応と、お金をもらったことについては……」
「後ろめたく思っているから言いたくなかった、ってわけ?」
「そう、そんな感じ」
「なるほどな……」
苦い口調で、楠見は腕を組んだまま首を捻った。
「ほかの人間も、そんな勧誘をされたり取引を持ちかけられたりしているのかもな」
「楠見さん」
パイプ椅子に座り、楠見の持ってきたメモと自分の手帳を見比べていた船津が、遠慮がちに呼びかけた。
「二月二十五日です。彼女が言うくらいの時間に、あの移動販売車が近くを通りかかっている」
「そうですか……やはり。それで、あの音楽が彼女の能力発現の『スイッチ』になってしまった――」
「けど」船津は戸惑ったように首を傾げた。「実際にそういうことってあるんですか? その……」
「催眠誘導や暗示というのは、未知の領域も多い分野ですが、全く効果がないということもできません。特にこのDVDは」
軽くディスクを取り上げて、楠見は船津に見せる。
「脳の深層に作用する目的で作られたもの――だったら、何かの加減で上手い具合にぴたりと暗示に掛かってしまう、ということも」
「そのDVDってのは」盤面に視線を吸い寄せられるようにしながら、船津は眉を顰めた。「いったいなんなんです?」
「サイの能力開発用の教材、あるいはそれに類する何か、と考えられますね。見てみないことにはなんとも言えませんが。同様の症状の人間が現れる前に、なんとかしないとなりません」
そう言って小さなため息を、楠見が漏らしたときだった。
『あの――』モニターの中の水島理恵子が、小さく声を発した。




