38.ネギ味噌おにぎり、「封印」、そして脳内BGM
「キョウ……これ――」
ハルが後部座席から呆然とした声を上げる。
楠見はルームミラーで後ろの様子を確認する。ハルの戸惑ったような表情と、苦しげに頭を抱える伊織。伊織の様子には、車に乗り込んだ時と変わった気配はない。
キョウはシートベルトを掴んで席越しに体ごと後ろを振り返り、そこで動きを止めた。
「……なんだ? どうした?」
前方とキョウとルームミラーに、代わる代わるに目をやり楠見は声を掛ける。
「これ……」
キョウがつぶやくように言って、突然、見えない鞘から刀を抜くように対真刀を半分だけ発現させた。
「おっ、おいやめろっ、こんな狭いとこで……」
刃が首筋のすぐ近くにあり、楠見は冷やりとする。自分に向けられているのではないと分かってはいても、この距離に刀を出現させるのは勘弁して欲しい。
が、キョウは構わず柄を後部座席に向けて、助手席と運転席の間に、完全に出現させたタイマを床と水平に掲げた。
「楠見……タイマが反応してる……」
キョウがどこかぼんやりした口調で刀身に目を落としながら言うが、サイの感覚を持ち合わせていない楠見には、見慣れたいつもの刀にしか見えない。
「反応してるって?」
「楠見、伊織はサイだ」
「……なんだって?」
「なんだ、これ」
「頼む、分かるように説明してくれ……」
信号が赤に変わり、車を停める。同時に前方にスーパーらしい大きな店舗と駐車場が見え、一旦そこに停めようかと考える。こんな状態ですれ違った車がこちらの車内を見てしまったら、通報されかねない。
「伊織くんの額にね、光が浮かんでるんだ。それに、タイマが共鳴してる」
ハルの言葉は楠見への説明だろうが、やはり楠見には要領を得ない。
「小さな光だよ」
「どういうことだ?」
「分からない。見たことないよ」
「これ……伊織の能力じゃないかも」
キョウも釈然としない様子で、タイマを掲げたまま首を傾げる。
「伊織くんに現れているのに、伊織くんの能力じゃないって? そりゃいったいどういう……」
困惑する楠見を押しのけるようにして、キョウがさらに体を後部に乗り出してタイマを近づけると、それまで小さく聞こえていた伊織の呻き声が止んだ。
「消えた……」
ハルがつぶやく。
「何が消えた?」
「光、が……」
「……『封印』、とか?」
キョウが、初めて口にする言葉のように覚束なげに、そう一言つぶやく。
「封印?」
楠見とハルは、同時にその言葉を繰り返した。
「伊織の能力が、何かに邪魔されてるんだ。閉じ込められてるみたいに。その、閉じ込めてる蓋みたいなヤツにタイマが反応してる」
キョウは助手席に正座する格好で、完全に後ろを向いてヘッドレストに片手を乗せ、楠見に顔だけ向けて説明する。
「そんで、タイマが近付くとその『蓋』の力が弱くなって、伊織の能力がちょっとだけ見える」
「……ちょっと待て? 今そこのスーパーに車入れる」
信号が青になり、車を発進させる。楠見はウインカーを出すと、右にハンドルを切って駐車場に進入した。昼前のスーパーの駐車場はガラガラだが、店の入口から離れたスペースに車を停める。
「静かになった、ね……」
呆然とした調子でハルがつぶやくのと同時に、タイマが消えた。
「眠ったのかな……伊織くん……?」ハルは、伊織の肩を支えていた手を離し、軽くその肩を揺する。
楠見も体勢をずらし座席越しに後ろを向いて。
「病院とか行ったほうが良さそうな感じか?」
「眠っているだけに見えるけど……」
もう一度ハルが肩を軽く叩いたが、反応はない。しかし、いくらか青ざめてはいるものの苦しげな様子も消え、呼吸も落ち着いている。ひとまずの緊急事態は去った様子に、車内に若干安堵の空気が流れる。
「とりあえず……一旦、学校に戻るか」
「昼飯はどうする?」
深刻な問題にぶち当たったという顔で、キョウが聞く。
「肉まんとアイスいっぱい食べたじゃない」
「朝ごはんが足りなかったんだ」
「ああ、ゴメンね、レトルトカレーで。お代わりもなくて」
「お前たち、朝からカレー食ってんのか?」
「ここのところ帰りが遅くて買い物できなかったし、今日は朝も早かったから、何も準備できなかったんだよ」
「別に、それはいいんだけど……味噌汁の具が鰹節だけだったんだ」
「……それは、『具』なのか……?」
楠見の常識からすると、鰹節は具ではなく出汁だ。が、さらに突っ込もうとした楠見に、バックミラーに映るハルの視線が険しくなる。楠見は言葉を呑み込み、キョウに財布を丸ごと渡した。
「スーパーで好きなもん買ってこい。すぐに戻れよ」
「分かった」
真剣な表情でキョウが頷き、車を降りる。カーナビゲーションの目的地を登録済みの「緑楠大学」に設定し、ルートを確認していると、キョウは大量のサンドイッチとおにぎりと、ペットボトルの飲料を手に本当にすぐに帰ってきた。
「『封印』ってのは、どういうことだ?」
適当に手渡されたサンドイッチを口に入れ、車を駐車場から出しながら楠見は声を掛ける。
「ん……わはんねえ」
おにぎりを頬張って、キョウがあっさりと答えにならない答えを出す。
「俺も見たことないなあ。楠見もない?」
後部座席で自分の食べる分のサンドイッチやらおにぎりやらをキープしていたハルが、スーパー袋をキョウに返しながら楠見に問いかける。楠見は少々考えた。
「……他人の能力を封じ込めるってのはなあ……」
「それできんらったら、タイマ要らなくねえ?」
次のおにぎりに入ったキョウが、難しい顔をする。
「ううむ……でも逆に考えるとな、『能力を斬る』能力があるんだ、『封印する』能力だってあるのかもな」
「タイマと同列の能力だったら、『九家の家宝』レベルの話だよ?」
「……『九家の家宝』……か。あるのか、そういう道具が?」
「どうかな。ほかの家のことはよく分からないんだよ。『九家』は事実上、機能していないし、『使い手』が現れなければ何百年だって蔵に入っているようなものだからね。それに俺も、子供の頃に少し話を聞いたくらいだし」
「ふうん……まあ、それはともかくとして――」
土曜の県道は渋滞もなく、車はスムーズに進む。サンドイッチを食べ終わったのを見て、キョウが今度はおにぎりを差し出してきたので、受け取って口に入れた。キョウも次のおにぎりを開けて食べ始めている。
「伊織くんの能力ってのは? 分かったのか?」
「キョウ、見えた? 俺には分からなかった」
「……PKじゃねえな。超感覚系の能力だと思うんだけど、はっきり分かんねえ」
どうも頼りない。
「その、『封印』みたいなものが影響していて分からないのか?」
「んー……それもあってはっきり見えねえんだけど、伊織の能力自体、たぶん俺の見たことないヤツだ」
「見たことがない能力……?」
「テレパスじゃねえし、透視じゃねえし……」
考えながら、キョウは次のおにぎりのセロハンを開けた。が、楠見も食べ終わっているのを見て、食べずに楠見に渡す。気持ちは嬉しいが、これだけ種類がたくさんある様子なのに二つ続けてネギ味噌というのはどうだろう。
釈然としない楠見をよそに、キョウは改めて自分用に、豚キムチと書かれたおにぎりのセロハンを剥いている。
「しかしなんで突然こうなったんだろうな」
「分からないね」
「全然分かんねえ」
「ふうむ……キョウ、この封印は解けるのか?」
「サイの能力ならな。タイマが反応してんだから、できんじゃねえの?」
「だけどさ、なんでそもそも封印なんかされているんだろうね」
「そこだ。次の問題だ――誰がどうして封印したんだ?」
「分からないね」
「全然分かんねえ」
ルームミラーに目をやって、伊織の様子を窺う。本当に、ただ単にぐっすり眠っているように見えるが、楠見は改めて心配になってきた。
「ハル……伊織くん、どうだ?」
ハルは腰を屈めて、俯いた姿勢で眠っている伊織を覗き込んだ。
「普通に眠っているみたいだよ。顔色もちょっと良くなったみたい」
「ならいいんだが」
「爆睡中のキョウと変わらない様子だよ」
「……それは、心配だ」
「どういう意味だ」
一言抗議の声を上げつつ、キョウはまた食べ終わって、次のおにぎりを開け出した。ネギ味噌だ。楠見は横目で窺いつつキョウが食べ始めるのを待って、手に持っていたネギ味噌おにぎりの最後の一口を口に放り込んだ。
「……というか、なんでお前、ネギ味噌ばっかりそんなに買ってきた?」
「ん? これで一個目だけど?」
「……」
「あ、楠見終わった? ちょい待て」
「それ食い終わってからでいいよ。ネギ味噌以外にしてくれ」
「ネギ味噌嫌いか?」
「嫌いじゃないが……いや……まあ、いい。ともかく――あの現場で何があったかについては、伊織くんが目を覚ますのを待って聞いてみるしかないか」
楠見はまたミラー越しに伊織に目をやる。目を覚ます気配はない。
「あの現場で、何か見たのかな……」
考え考えという口調でハルがつぶやく。
「ESP――超感覚系の能力だとしたら、ね……何か、その『封印』を破るくらいに衝撃を受けるようなものがあったとか?」
楠見もその時の様子を思い出しつつ、考える。唐突だった。焼け跡に悄然と佇む伊織に目を向けていたが、伊織が何か特定のものを注視したような印象は受けなかった。いや……積極的に何かを見ているようには見えなかったが、しかし――。
「けどさ、伊織がサイだって自分で気づかないくらい、ずっと昔から封印されてたのかな」
そう言いながら、キョウはサンドイッチを開ける。
「おい、もうそれくらいにしておいたらどうだ……炭水化物ばっかそんなに食うな」
放っておいたら学校に着くまでずっと食べ続けるのではないかと心配になり、楠見は声を掛けた。
「んー?」キョウは不満げな声を上げる。
「……もう少し食っていいから、伊織くんの分を残しておけ」
「ん。八個くらいでいいか?」
「……」
まだかなり重量のあるスーパー袋を持ち上げて中身を確認しているキョウに、「いったいいくつ買ってきたんだ」「伊織くんはどれだけ大食いなんだ」「お前はまだ食う気なのか」などなどの言葉が喉元に殺到して外に出られず、結果、黙った。
昼前だというのに――スーパーの店員と、この後サンドイッチやおにぎりを買い求めに来る客に、楠見は心の中で詫びた。
(困ったな……)
商店街の外れにある駐車場から車を出しながら、船津公平は心中でため息をついた。さっき話に出てきたせいで――藤倉が節をつけて歌ったのを聞いたからだろう――「アルプス一万尺」の節が、頭の中に流れていて離れない。
(本当に、頭に残る曲だよなあ……)
最後に歌ったのなんて、十年も二十年も前だろうと思うのだが、聞けばしばらく頭の中で流れ続ける短くて単純なメロディ。たしか、最近もどこかで聞いた――曲の流れ続ける頭の片隅でそんなことを考えながら、船津は公道に車を出した。
それにしても――と、琴子の語った「犯人候補」の心理を、船津は頭の中で整理する。音楽が怖い、というのはどういう心境なのだろう。彼女の能力や連続放火と関わりがあるのだろうか。そして自分でも自覚の薄いままに、「パイロキネシス」の能力を使って火をつける……?
単純に結びつければ、曲が発火の引き金になって、知らない間に火をつけてしまうということか?
――そう真剣な気持ちで考えているのだが、脳内に流れるBGMは「アルプス一万尺」の軽快な音楽だ。うっかりそぎ落とされそうになる緊張感を必死で留めつつ、船津は車を走らせる。
アルバイトを早退して向かう先は、琴子によれば、歩いて十五分ほどの場所にある自宅。琴子と藤倉は、念のため徒歩で彼女を追っている。船津は車を取って、自宅近くで調べておいたコイン駐車場に車を停め、再合流する段取りだ。
商店街を抜けて大通りをしばらく進むと、琴子と藤倉の後姿が見えた。
五十メートルほど前を、先ほどの女性が歩いている。ほかのことで頭がいっぱいなのだろう、背後を気にする様子もない。
それでも一応クラクションは鳴らさずに二人を追い抜こうとしたが、琴子が気づいて船津の車に目を向けた。藤倉もその視線を追って船津に気づき、軽く手を上げる。船津は速度を緩め前方を指差して、「先に行く」と手振りで示した。琴子が頷いたのを見て、また速度を上げて住宅地の駐車場に向かう。
緩やかなカーブを描く昔からの道筋に、整然とした真っ直ぐな道が交差する。こじんまりとした一軒家が多い中に、古そうな町工場や店舗が点在するこの地域は、緑道となっている親水公園も含めて公園の数が多い。
新築の家も目に付き、子供を育てるために引っ越してきた若い世帯なども多いことだろう。
「犯人候補」――水島理恵子の自宅は、そんな新しげな住宅地の一画にあった。二階建てのごく普通の一軒家だが、まだ建って新しい様子。庭木も全体的に背が低く、若い。門に取り付けられた「水島」の表札は、文字が躍っているような洒落たデザインだった。
車を置いて水島家に先回りした船津は、少し離れた場所で待機する。ほどなくして水島理恵子がとぼとぼといった足取りで帰ってきた。すぐにドアが開いて閉まる音がして、それを聞いてから動き出したようなタイミングで、琴子と藤倉が小走りに船津の元にやってきた。
「まだ放火のことは考えてない。それよりも、早くベッドに倒れ込みたいって思ってる。本当に具合が悪いみたい」
琴子が再会の挨拶も前置きも抜きに、即座にそんな報告をする。意識越しに具合の悪いのが移ったのか、琴子の顔色も優れない。その斜め後ろで、藤倉がいつにない深刻な表情で船津を見つめて言った。
「それよりも船津さん、俺はいま重大な問題を抱えています」
「どうしたんだい?」
「……『アルプス一万尺』の曲が、頭から離れません」
実は俺もなんだよ――そう船津が口を開く前に、琴子が藤倉を冷ややかに睨んで低い声を上げた。
「馬鹿フジ。彼女に聞こえる声で歌って警戒させたりなんかしたら、蹴るからね」
船津は同意の言葉を呑み込んだ。
「歌いませんーって。はいはい、琴子ちゃんはいちいちそんなに睨まない睨まない」
両掌を琴子に向けて、藤倉が琴子の威嚇を宥める。
まだ何か言いたげに琴子が藤倉に険しい視線を送っているのを見て、船津は二人の間に割り込んだ。
「あー、あのね、車をね、そこの角を曲がったところに停めてあるんだ。その中にさっきのおにぎりが置いてある。動きがあるまでしばらく張ることになるから、その間に交替で昼飯といかないかい?」
「お、いいっすね。琴子、食ってくれば?」
藤倉が宥めるような笑顔を作って勧めたが、琴子は一睨みしてからふいと視線を逸らし、水島家に向き直った。
「あたしは彼女の次の行動が分かるまで、ここで待つ。彼女が本当に眠ったら食べる」
「ああ……真面目っすね、琴子ちゃんは……。俺も今ハンバーガー食ったばっかだから、船津さんお先にどうぞ」
そう言って、二人は水島家に視線を向ける。
勧めたつもりが、自分が勧められることになってしまった。立場上、最初に昼食休憩を取るのはためらわれるが、住宅街で張り込みをするのに三人では目立つし、サイが相手ならここで今一番役に立たないのは自分である。
ひとまず楠見への連絡も兼ね一旦車に戻った。
車に乗り込み携帯を取り出した瞬間だった。
人影が車の脇に立ち、窓をノックする音が聞こえ――
「――?」
素早く振り返り、船津は息を呑んだ。




