37.琴子、フジを力いっぱい睨みつける
「琴子ちゃんよぉ。なんか分かったかい?」
ファストフード店のイートインのテーブルを挟んで、向かいに座った男子高校生が声を掛ける。琴子はカウンターの向こうにいる若い女性店員をそれとなく横目で睨みながら、
「ちょっと黙ってて」と、応じた。
「へいへーい」
琴子のそっけない――というより攻撃的な返事に、しかし特に気分を害した様子もなく、男子高校生――藤倉卓はLサイズのコーラのカップを手に取りストローをくわえる。
氷だけになったコーラをしつこく啜る音がしばらく聞こえていたが、藤倉はカップをテーブルに置いて、「つってもなあ……」と声を上げる。
「あんま入り込まねえように、時々声を掛けろって言われてんだよなあ……」
日焼けした顔にほんのわずかに困惑を浮かべて、藤倉は頬杖をついた。
琴子たちよりも一学年上、緑楠高校の二年に在学する藤倉卓は、いかにも体育会系といった筋肉質な体をしているため、彼が座っているとファストフード店の小さなテーブルと椅子はいっそ「貧相」と言っていいほどに見える。
小柄な琴子と一緒にいるとかなり不釣合いに見えるらしく、能力を「オープン」にしている琴子の耳に、隣の席のサラリーマン風の男性の「この二人、どういう関係なんだ? 付き合っているのか?」というような疑念が割り込んできた。
一瞬そちらを睨みつけそうになったとき。また藤倉がカップを手に取り、解けた氷をズルズルと啜った。
「琴子ぉ、俺あんまし『ガイド』得意じゃねえからさあ、自分でコントロールしてなあ?」
カップを置きぼやくように言う藤倉に、琴子は今度は目を向けた。
「アテにしてないから大丈夫」
それだけ言って、カウンターに目を戻す。
「へーい。そりゃどうもー」
藤倉は歌でも歌うような節をつけて、顔を上向かせて上半身を仰け反らせた。その重みで椅子が背がたわみ、「おっと」とつぶやいて慌てたように体を起こす。それからまたしばらくの沈黙。
「……琴子ちゃーん、俺、ハンバーガー食っていいかい?」
「いいから、ちょっと黙っててってば」
「琴子ちゃんも食うかい? お兄さんが奢るよ?」
「あたしはいい。ここのハンバーガー好きじゃないの」
「そうですかい」
言って、藤倉はカップを片手に席を立った。カップをゴミ箱に捨てるとカウンターに歩いていって、高校生くらいに見える若い女性店員に話しかけている。琴子が睨んでいるのとは別の店員だ。
琴子はそのまま、隣のレジについている女性店員に、注意を向ける。軽いウェーブのかかった髪を後ろでひとつにまとめ、サンバイザーの下でどこか落ち着かなげにきょときょとと瞳を動かしている。読み取った年齢よりも幼く見える顔立ちは、その不安げな様子さえなければ柔らかく可愛らしい印象を人に与えるのであろうが、今は病的な陰鬱さが勝る。
気づかれないように。意識して睨み過ぎないようにしているが、女性店員の頭の中は別のことでいっぱいらしく、琴子が見つめているのを察する気配はない。
藤倉がトレイを持ってこちらを振り返ったとき、琴子の背後のガラス窓を外から軽くノックする音が聞こえた。藤倉が窓の外の人物に気づき、軽く片手を上げる。
振り返ると、コンビニ袋をぶら下げて、警視庁の船津刑事が窓を叩いていた。
船津は、藤倉がこれから食事をしようとしているのに気づき、「そっちに行く」と手振りで示して一旦離れる。
すぐに店内に入ってきて、藤倉と同時に琴子の席にやってきてコンビニ袋をテーブルの上に置いた。
「へっへー。あのバイトの女の子、ね。かーわいぃよねぇ」藤倉がニヤリと笑って、先ほど話しかけていた女性店員を一瞥し、携帯電話を見せびらかす。「電話番号、ゲットしましたよー。船津さん、例のあのもう一人のアルバイトさんのことで同僚ちゃんに聞きたいことあったら、いつでも言ってくださいよ?」
船津はそちらに苦笑するような目を向けて、それから、
「入ってたんだ。お昼ご飯にって思っておにぎりとか買ってきたんだけど、ここで買って食べたほうが早かったね」
きまり悪そうな笑顔を作って言った。
「後でもらう。あたしここのハンバーガー好きじゃないの。おにぎりのほうがいい」
「そう?」
「俺も。後でおにぎりもいただきます。あたし、ここのハンバーガーじゃ足りないの」
船津はまた苦笑して、レジに向かう。すぐにホットコーヒーのカップを手に戻ってきて、
「どんな感じ?」
椅子を引いて藤倉の隣に腰を下ろしながら、単刀直入に尋ねる。
「間違いない。『犯人』。でも、いまいちはっきり読み取れなくて、変な感じ」
「変な感じって?」
「その瞬間の記憶が漠然としてて、目的とか動機とかそういうのがよく分からない。火をつける時とか、燃えているものを見ている時とか、『その時』の記憶がすごく薄い感じがする」
言いながら琴子は目を細め、小さく首を傾げた。
「たまたま今、思い出してないだけなのかもしれないけど……これ以上はもっと深く入り込んでみないと分からない」
「ふうむ……」
船津は腕を組んで、椅子の背にもたれる。
「今度の男はいったい何者なんだ?」という、隣の席のサラリーマンの疑惑がまた割り込んできた。琴子は今度こそ、サラリーマンを睨みつける。一瞬目が合って、サラリーマンは気まずげに目を逸らした。
船津は背広姿だが、ソフトな感じの風貌は、刑事というよりはセールスマンあたりのほうが似合っている。たしかに傍目には妙な取り合わせの三人だが、そこまで興味を引く特殊な要素もないだろうに……と琴子は思った。なぜ人は、それほど他人の関係を詮索するのが好きなのか――。
それはともかくとして。話の内容を聞かれるのは、あまり望ましくない。琴子は少々声を潜め、テーブルに肘をつく。船津も琴子の視線を追って察したように、少し前傾姿勢になってコーヒーを啜った。
「シバタの時は、もっと、火のことばかり考えてた。あれはあれでちょっと精神おかしいみたいだったけど。こっちの人は、薄すぎておかしいの。これだけ頻繁にやってるんだから、もっと意識の上のほうにあっても良さそうなのに――自分でやっていることっていう感覚が薄いのかな」
「分かった! 分かりましたよ!」
大口を開けてハンバーガーをあっという間に平らげた藤倉が、人差し指を立てて、しかつめらしい顔で話に入る。
「彼女は二重人格なのです。火が好きなのは別の人格。彼女が知らない間に、もうひとりの彼女が――」
「おいおい、まさか……」
「違う? じゃあ、彼女は夢遊病なのです。起きて働いているときは、火のことなんか忘れている。しかし、眠ると無意識に――」
「……どうしてもそういう方向に持って行きたいかな……」
船津は苦笑気味に肩を竦めた。
「けどねえ、前の六件は昼間から夕方にかけてだよ。眠ってないだろう……」
「ああ、そうですね。こりゃ失礼」
冗談だったらしく、藤倉はあっさりと引き下がった。が、琴子には少し引っかかるものがある。
「だけど……そういう……感じかもしれない……」
「え?」
船津と藤倉が、同時に琴子に注目する。
「なんとなくだけど……そういうのがあるんだったら、それが一番ぴったり来るかも……」
船津と藤倉は、顔を見合わせた。
「二重人格とか、夢遊病とか?」
自分で言い出したくせに、藤倉は眉間にシワを寄せて意外そうに確認する。
「分からない。けど、自分の意識と違うところでやっていて、自分ではそれが分かっているんだけど上手く認識できないっていうか、はっきりと覚えていないっていうか……」
説明が難しく、琴子はもどかしい気分で手元のコーヒーのカップを睨んだ。
「それよりも。今は別のことで頭がいっぱいみたい」
「別のことって?」
船津がさらに顔を寄せて、内緒話という感じで聞く。琴子はさらに声を潜めて。
「音楽が聞こえるのを怖がっている。必死でその曲を思い出さないようにしているんだけど、頭の片隅でずっと流れちゃってて、消したくてしょうがないみたい」
「ああー、ありますよね、そういうこと。コマーシャルの曲とかさ、アニメのテーマソングとか。妙に耳に残るヤツ。しつこくて困るよねえー」
藤倉は、「分かる分かる」と軽い調子で言うが、琴子には彼女の心理は、どうもそんな「しつこくて困る」などという程度のものには感じられない。脅えている、と言ったほうが適切だ。
「その曲っていうのは?」船津が尋ねる。
「『アルプス一万尺』」
「ああー、あれは耳に残るわ。リフレインするわ」
藤倉が声を上げた横で、船津は怪訝そうに眉を顰めた。
「『アルプス一万尺』……?」
「あら? 船津さん、知らんの? まさか?」
「タタタタタタタッタッタッ……」と、藤倉が節をつけて口ずさみ出す。
「知ってるよ。知ってるけど……」
何事か考えながら船津が答えた瞬間、琴子の感覚に触れる強い『意識』があって、琴子はハッとカウンターに目を向けた。
琴子たちの『捜査対象』となっている女性店員が、愕然と藤倉を見つめている。少々高めの声で口ずさんだ音楽が耳に入ったのだろう。女性は琴子の視線には気づかずに、真っ直ぐに藤倉を見ていたが、藤倉がつられたようにカウンターに目を向けると、その視線を避けるように顔を逸らした。
「……なんじゃ?」
「馬鹿っ」
不思議そうな顔をしている藤倉に、琴子は冷たく言い放った。
「船津さんー、琴子ちゃんは冷たいんすよー」
縋るような目で見られた船津は、困ったように眉を寄せて苦笑を浮かべる。
「ともかく……それじゃ、次の『予定』も分からないかな」
苦笑いのまま聞く船津に、琴子は小声で答えた。
「少なくとも、『やろう』と思っている様子はない。だけど分からない。本当に知らない間にやってるんだとしたら――」
「キョウとかハルとか呼びますかい?」
藤倉は携帯電話を取り上げたが、そこで大げさに苦い顔を作って手を止める。
「けど、『何時間後に』とか分かれば呼ぶんだけどなあ。俺らそれ確認すんのが仕事なんで、分かんないけどやるかもしんねえから来てーっつったら蹴っ飛ばされそうなんだけど」
「うぅん、蹴られはしないと思うけれど……でも、向こうは向こうで別の仕事に行っているんだろう?」
「神奈川って言ってた。相原伊織の親戚の家」
「したらさ、まあとりあえず、動きがあるまで張ってみますかね。その場でやっちゃったらやっちゃったで、『現場』は俺と琴子で確認すれば、処理は後からでも」
船津は目を宙に上げて、そうだねえ、とつぶやき、さらにまた声を落とした。
「それで、楠見さんの仕事のほうにも問題ないだろうね。こちらとしても、彼女には逮捕状も出ていないんだ。手を触れずに火をつけるんじゃ現行犯逮捕も無理だし、確認だけして説得して自首を促せれば一番いい」
「だけど、人に怪我をさせてるんでしょ? またやったら危険じゃない?」
「火を抑えるくらいなら俺が出来ますよー」
「あんたで大丈夫なの?」
「あ、琴子ちゃんは何を疑ってるんだい、ブーブー」
「まあまあ」と船津は宥めつつ、手帳を取り出した。「その前に、彼女のプロフィールについてなんだけど……名前は分かる? 名字は、彼女の自宅の表札にこの名前があったんだけど――」
そう言って、船津は手帳に名字を書いて琴子に見せた。琴子は頷いて受け取ると、下の名前を書き足す。
「二十二、三歳くらい。はっきりしたことはよく分からない。なんて言うか、意識が曖昧で。仕事はここのアルバイトがメインみたいだけど……」
「フリーターかな」
「たぶんね。働き始めて長い。能力のこともよく分からない。意識に浮上しないの。自分でも認識していないのかも」
「ふうん……」
「後でキョウやハルが見たらもう少し分かると思うけれど……もしかしたら、自分でサイだって気づいていなかったのかもしれない」
船津は意外そうに目を見張ったが、同時に感覚にまた強い『意識』が触れて、琴子はカウンターを振り返った。
「――船津さん。彼女、帰る」
「え?」
カウンターの中をうろうろとさまよっていた女性店員の視線が、キッチンの中の店長らしい男性に止まる。顔は先ほどよりも青ざめて見え、どこか脅えたような、憔悴した表情を浮かべている。
「気分が悪いみたい。店長に『早退させてください』って言おうとしてる」
「おや、病気ですかいな?」
混ぜっ返すように言う藤倉に、琴子は視線を険しくする。
「あんたがあんな歌聞かせるから、動揺しちゃったんじゃないの」
「うは! 『童謡』だけに『動揺』って、琴子ちゃんソレ……どうよぅ……」
さらに力いっぱい睨みつけると、藤倉は亀のように首を縮めた。
「すいません……」
「追うでしょう?」
「そうしよう」
三人は手早くテーブルの上を片付けてトレイを返却台に戻すと、外に出て斜め向かいの本屋に入り、女性店員が出てくるのを窓から見張ることにした。




