36.アイス、中華まん、そして焼け跡で
警察署の駐車場の植え込みに腰掛けて、署の入り口に目をやりながら、ハルはアイスキャンディをかじっていた。右隣に伊織が、その向こうにはキョウが座って、同じように三階建ての無機質な建物を眺めながら、アイスを食べている。
二人ともハルと同じように、この後そこから出てくる楠見の表情だとか、そのもたらす情報だとかを漠然と想像しているのだろう。言葉数は少なく、手に持ったアイスにもどこか集中できずにいるように見える。
「遅いね……」
沈鬱な空気を紛らわすために、ハルはひとつつぶやいた。
「これで出てこなかったら、次また肉まんな」
半分になったアイスをもう一口かじって、キョウがぼんやりと言う。
楠見が「お前たちはここで待て」と言って一人で警察署に入っていった後、三人で署の斜向かいにあるコンビニに入った。アイスを買った。食べ終わっても楠見は戻ってこず、落ち着かない気分と手持ち無沙汰にまたコンビニへ行き、肉まんを買った。まだ戻らないので、さらにまたアイスを買い、それからまた肉まんを食べ、これで三本目のアイスである。
楠見が早く出てきてくれないと、キョウの「アイスと肉まん」の無限ループから抜け出せない。
「早く戻らないかな……」
心から、ハルはそう思った。
「……俺、やっぱり行ったほうがいいかな……」
黙って与えられるままにアイスと肉まんを交互に食べていた伊織が、不安げに声を上げる。
伊織にここに残れと言ったのは楠見の気遣いだが、自分が行かないでは話が終わらないと心配しているのかもしれない。
「必要なら呼びにくるから、大丈夫だよ」
慰めるようにハルがそう言うと、伊織はひとつ息をついた。
「ピザまんもあったかな」
不意にキョウがつぶやく。
「あったと思うよ」
「じゃあ次ピザまんにするかな」
「俺は……飴とかチョコとかがいいな」
「一回菓子挟むのか?」
「いや……挟むっていうか、アイスと中華まんはもういいかな……」
「そっか……」
キョウがしょんぼりした様子で言うので、ハルは少しかわいそうになった。
「でも、もう一回ピザまんでもいいかな」
「そっか?」
キョウは立ち直った。
「伊織、お前は? ピザまん食う?」
「え、……俺は、もうお腹いっぱいかな……」
「そっか……」
キョウがまたがっかりした様子でつぶやいたが、ハルとしても伊織までこれ以上無限ループに巻き込むわけにはいかず、口出しを控える。むしろよくここまで付き合ってくれたと思う。
キョウはキョウで伊織に気を遣っているのだと思う――と思いたい――が、世の中のみんなが食べ物で機嫌を持ちなおすわけではないのだということを、そのうち教えてあげたほうがいいだろうか、などと考えていると、キョウが突然、真剣な声を上げた。
「ハル!」
「どうした?」
「当たりだ! アイス当たった!」
「……良かったね」
「どうしよう。もう一本だ」
キョウが心底困った様子で、残ったアイスの棒を眺めている。「あたり! もういっぽん!」の文字。
「ピザまんの後で食べれば?」
「俺、違うアイスがいい。ハル食うか?」
「俺はいいよ。気持ちだけもらっておく。ありがとう」
「……伊織、アイスもう一本食うか?」
「あ、いや、ありがと……でもアイスはもういいかな……」
「そっか」
キョウはしばらくその棒を眺めていたが、妙案を思いついたというように顔を上げた。
「楠見にやるか」
勢いよく立ち上がると、コンビニのほうへ走り出す。
「あ! ちょっ……キョウ?」
止める間もなく道路の向こうに走っていってしまったキョウを見送り、「まあいいか、楠見のだし」と、改めて警察署の入り口に目を向けた。
「きっとさ、手続きとか説明とか、いろいろあるんだよ。大きな事件になっちゃったからね」
警察署の建物の方に焦点の定まらない目を向けている伊織に言って、微笑んで見せた。伊織はぼんやりと頷く。
よほどのことがない限り、楠見はひとりで片付けてくるだろう。ハルはそう思った。伊織が行って、楽しいことがあるはずがない。
キョウがピザまん二つと缶コーヒー三本と、当たりで引き換えてもらったアイスキャンディ一本を提げてコンビニから戻り、楠見が署から出てきたのはそれから十五分ほどが過ぎた後だった。
「待たせて悪かったね」
植え込みに腰掛けた三人を前にして、楠見はまずそう言った。そして、伊織の前でしゃがみ、少し下から見上げるようにして伊織の顔を覗き込む。
「伊織くん……」
伊織は脅えたような目を楠見に向ける。
「これから伯父さんと伯母さんの家を見に行くけど、その前に――」
楠見もさすがに言いにくそうに、そこで言葉を切った。
「今ここで、伯父さんと伯母さんに、会える。……けど、きみは見ないほうがいいと思う」
「あ、……はい」
少し考える間が必要だと判断したのか、楠見は立ち上がるとハルとキョウだけ目顔で呼んで、三人で少し離れた場所に移動する。
「遺体は相原夫妻のものだと確認された。死因は焼死だ」
ハルとキョウはそれとなく伊織に意識を向けつつ、黙って聞いた。
「相原家と駅の間で目撃された男は、哲也くんで間違いない。ただし、発火の原因が分からないので、放火と決まったわけではない。哲也くんは『重要参考人』だな。放火だと判断されて指名手配される前に見つけられればいいんだが……」
楠見はそう言って、キョウに目を向けた。
「ともかく……相原家を見に行って、哲也くんが火をつけたのかどうかを確認する。キョウ、確認を頼むよ」
「いいよ」
「よし、じゃあ、移動しよう」
頷いて、キョウはアイスの袋を差し出した。
「楠見、アイスやる」
「うん? ……ああ……ありがとう……」
脈絡もなく差し出されたアイスの袋を受け取って、楠見は訝しげな顔をした。中身の重心がだいぶ下に片寄り、触るとへこむ。袋の外側が汗をかいていて、雫がひとつ地面に落ちた。
「……俺が知っているアイスの感触と、だいぶ違うような気がするんだが……」
「溶けたんだ」
そう言い残して、キョウは伊織を呼びに行く。
「そうか……。溶けたんだな……そうだよな」
楠見はアイスの袋の上端を摘まんで、下方のプヨプヨした感触を確かめつつ、困惑気味にハルに目を向けた。
「なあ、ハル。俺はこういう時、どうしたらいいんだろう……」
「食べればいいんじゃない?」
「そうか……。なあ、ハル。俺は何か、キョウの気に障ることをしただろうか……」
「純粋な好意だよ」ハルは肩を竦める。
「……そうか」
「キョウの好意を無駄にしないよね?」
「ん? ……うん。もらおう」
楠見は袋を開けて、中から半分ほどの太さになって辛うじて棒にしがみついているアイスを取り出した。雫を滴らせるアイス部分を下にして、棒を目線の高さまで持ち上げると、下から食いつく。
「うん……まあ、これはこれで……アイスだな」
片手に持っている袋が、妙な具合に垂れ下がっている。
「白塚刑事と山崎刑事には会った?」
ハルは楠見に尋ねる。昨日の夜のことは、既に行きの車の中で話した。聞いた楠見は不快そうな顔をしただけで、特にコメントはなかった。
「いや。話はこちらの担当刑事から聞いた。最初に『緑楠学園の楠見』って名乗ったから、あの二人が聞いたら警戒してるだろうけどな。あえて指名はしなかったよ。昨晩のことも話してない」
「『貸し』にしたわけだ」
「そうなってればいいけどな。……また来るだろう。次はもっと『いい質問』を考えてな」
そう言いながら楠見は視線を鋭くするが、手に持っているのがだいぶ溶けてしまったアイスなので、あまり格好が付かない。話している間にも、アイスが溶けて雫が落ちる。
「……お葬式とか、どうなるの?」
「うん。本来なら哲也くんが対応するんだろうが……無理だろうなあ。伯母さんのほうの親族が東京にいて、そちらは警察が捜している。どちらにしても、まだ数日は掛かりそうだ」
「そう……」
「伊織くんの今後に関するいろいろなことも、話し合わないとならないんだが……」
今すぐには無理だろうと、楠見は言外に伝えている。伊織は落ち着いて「今後の話」などするような精神状況ではないだろう。
山積する現実的な問題に、ハルは心が重くなる。「仲」がどうであれ、彼らは伊織の「保護者」だった。それがいなくなったとすると、問題は多い。この上、従兄弟が重要参考人とあっては。今は感情的な問題でいっぱいだが、その後でやってくる事務的な問題についてこれから考える必要が出てくるはずだ。
楠見はやろうと思えばなんでも出来るし、実際にしてくれるだろう。だが、この先どういうことになっても、伊織は楠見を頼る気になれるだろうか。
楠見は棒にくっついていた分を食べ終えると、袋の端をつまんで袋に残っている液体を飲み干した。
ちょうど伊織を連れて戻ってきたキョウに、大人の微笑みを向ける。
「キョウ、美味かったよ、ありがとう」
「ん。いいよ」
「なんていうか……ひとつで二度楽しめる感じが……こういう食い方もありだな」
ないと思うよ、とハルは内心で突っ込んだが、キョウはまあ満足そうな顔をしているので口には出さないことにした。
「伊織くん、移動していいかい?」
どこかぼんやりした様子の伊織に、楠見が尋ねる。
「家を見に行って、それからまた来てもいい。日を改めても……」
「……はい」
伊織が絞り出すようにそれだけ答えるのを聞いて、四人は車に乗り込んだ。
黒く炭化した柱を何本か残し、相原家のあった場所は煤だらけの瓦礫の敷き詰められた空き地のようになっていた。
それほど離れてもいない隣家のクリーム色の壁が、塗り立てかと思うほどに目に眩しい。その隣家の、現実的で健全な佇まいが、焼け跡の異常さをいっそう引き立てる。
相原家の敷地と道路を隔てていたらしい、焦げて幹だけになった植木に、黒と黄色の立ち入り禁止テープがめぐらされ非日常性を演出していた。
「けっこう狭かったんだな。もっと広いような気がしてたんだけど……」
テープの外側に立ち、伊織が感情の窺えない口調で言う。
二階建ての和風家屋だったという。つい十日ほど前まで住んでいたはずのその建物を、伊織は焼け跡に重ねて見ているのかもしれない。
「伊織くん」呼びかけて、楠見がテープを持ち上げる。「しばらくいていいよ。足元、気をつけてな。物の積んである辺りは避けて。奥までは行かないように……」
そう言うと、伊織は「はい」と答えてテープをくぐった。腕に献花用の花束を抱えて、敷地に入る。焼け跡の瓦礫に、ほかよりも多少高くて平らな場所を見つけ、伊織は花束を置いた。
その様子を目に入れながら。数十メートルほど離れた路肩の広い場所に停めてある車に、ハルとキョウは並んで寄りかかっていた。焼け跡に立って悄然とうなだれている伊織と、腕組みをしている楠見に視線を向けている。かすかに潮の香りを含んだ風が吹いてきて、きな臭い空気を一瞬押し流した。ハルは改めて、海が近いんだな、と思った。
「悲しいかな」
伊織に目を向けながら、キョウがぽつりとつぶやく。
「たぶんね」
ハルも同じ方向を見つめながら、短く答える。
それから少しの間を空けて、またキョウがつぶやいた。
「すごく辛いかな」
「……どうだろう」
実際のところ伊織の胸中は分からないのであるが、キョウの心情を考えて、ハルは答えを曖昧にする。
一般的な家族や親族に対する距離感だとか感情だとかというものが、キョウには分からないのだ。伊織の気持ちを想像しているのだろう。あるいはそうすることで、やはり自分を責めているのかもしれない。
「お前のせいじゃないよ」
ハルは先回りして、キョウを慰める。
キョウは聞いていないかのようにしばらく黙って焼け跡に目をやっていたが、少ししてまた言葉を落とす。
「でも、やっぱり俺が悪いんだと思う」
「お前のせいじゃないよ」
ハルは繰り返した。再び短い沈黙。キョウは焼け跡のほうに顔を向けたまま、目を伏せた。
「油断、したんだと思う」
「……」
「過信かな」
「……過信?」
「どんな能力でも読めると思ってたから……」
慰めの言葉を口にするのは簡単だが、それで起きたことがなくなるわけではない。キョウに責任があるとはハルには思えないが、それでも二人の犠牲者を出し、哲也に殺人を犯させてしまった結果は重い。少なくとも今、亡くなった二人を悼むべきこの場では何を言うのも適当でないように思え、ハルは代わりに手を伸ばしてキョウの肩を抱き寄せた。
キョウは大人しく頭を寄せていたが、しばらくしてまた思い出したようにつぶやく。
「伊織のことも……」
「伊織くん?」
「うん。あいつさあ、俺が人違いして巻き込んじまったんじゃないかって」
「……どうして?」
さすがにそれは考えていなかったので、ハルは目を瞬かせる。
「そもそもあいつサイかどうかも分かんねえし、自分でも知らねえじゃん。俺たちと関わったからサイの組織に目をつけられたってこと、ないか?」
「……それはないと思うけど……」
言いながらハルは、またキョウの悪い病気だ……と内心でため息をつく。良くないことが起きるのは自分のせいだと、キョウは思うのだ。理屈でなく、悪い星の下に生まれてきて、それが周囲の人間をも巻き込むのだと。そう、刷り込まれてきた。
ハルや楠見は繰り返し、大丈夫だからと言い聞かせて。キョウを社会に、他人との生活に、慣らしてきた。しかし、何かの拍子にまた持ち上げてくるキョウの不安を完全に拭い去ることはできない。
ハルはキョウの頭を撫でるように軽く叩く。その動きを繰り返しながら、
「俺は、キョウは当たりを引いたんだと思うよ」
控えめな笑顔を作って、優しく言う。
「当たり?」
キョウが頭を叩かれながら、小さく首を傾げる。
「うん。人違いして目をつけておいて正解だった。でなきゃ悪いサイ組織に捕まって、能力を悪用されたり無理な開発をされたりしていたかもよ?」
「……そうかな」
「そうだよ。キョウはそういう『当たり』の目を引くようになっているんだ。アイスだって当たった」
「アイスはまぐれだ」
「違うね。そういう能力だ」
「透視はできねえもん」
「じゃあ運命だな」
「運命?」
大仰な言葉に、キョウはくすぐったそうにかすかな笑顔を作る。
「そうだよ。おかげで楠見も喜んでた」
「そうか?」
「うん」
「溶けてたよ?」
「楠見はきっとああいうのが好きなんだよ」
「そっか」
少しだけ持ち直したかな、と。そう思った時だった。
「う――あああああああ!」
突然の叫び声。
焼け跡の中にひとり立っていた伊織が頭を抱え膝を折った。
ハルとキョウは弾かれたように寄りかかっていた車から身を起こし、目を見張る。
「伊織くんっ?」
楠見が立ち入り禁止のテープを乗り越えて、瓦礫を踏みながら伊織に駆け寄る。
「ああ――あ、ああああ――!」
両手で頭を挟んで呻き声を上げる伊織の肩を掴んで立たせると、楠見はそのまま肩を抱きかかえるようにして、敷地の外に向かう。ハルも駆けつけ、テープを持ち上げて伊織の体を一旦受け取る。後から出てきた楠見と共に、伊織を支える。その間も伊織の呻き声は絶えない。
「どうしたの――?」
伊織の頭越しに楠見に尋ねるが、楠見は焦ったように首を傾げる。
「分からん――焼け跡を見ていたんだが、急に――」
「伊織くん、頭が痛いの?」
「う、うぅ――あああ……」
伊織の返事は言葉にならない。ハルの言葉が聞こえているのかいないのか、呻きながら苦しげに頭をゆるゆると左右に振る。
「ともかく、車へ」
楠見に促されて車へ向かう。キョウが助手席の後ろのドアを開けた。そこに伊織を押し込むと、ハルは反対側に回って車に乗り、伊織の肩を支える。伊織はまだ苦しそうに、頭を抱えて腰を曲げた。肩が小刻みに震えるのが、手に伝わる。
運転席と助手席に乗り込んだ楠見とキョウが、顔を見合わせる。
「何があった?」
当惑を露わにしてキョウが聞くが、答えられる者はいない。
「楠見、ここから少し離れよう」
それで解決するとも思えないが、ほかにどうしたらいいのか分からずハルはとりあえず提案する。
「ああ……」
楠見は一度後ろを振り向いて伊織の様子を確認すると、エンジンをかけ車を走り出させる。
車は住宅街の曲がり角を滑らかにいくつか曲がって、広い県道に出た。
「伊織くん、伊織くん、大丈夫?」
声を掛け続けるが、伊織は小さく呻き声を上げるだけで答えることができない。両手はまだしっかりと頭を押さえ、苦しげに眉を寄せ目を閉じている。額に汗が浮かんでいる。
ハルはハンカチを取り出す。そうして彼の額の汗を拭おうと手をかざしたところで、信じられないものを見つけ――言葉を呑んで目を見張った――。




