35.刑事、慌てふためく。そして少年の困惑
白塚刑事は焦れていた。腕組みをして、つま先をイライラと動かしつつ、一階に喫茶店の入った瀟洒なマンションを通りを挟んだ向かい側の商店の影から睨んでいる。
胸のポケットからタバコを取り出そうとして、やめる。先ほど一本吸っていたら、通りすがりの若い二人連れの女に嫌な目を向けられた。
(東京ってのはヤなところだぜ……人が冷てえっていうかな……)
八つ当たり気味に思う。
(ノーブルだかハイソだか知らねえが、スカしたヤツが多いったら)
頭に浮かんだのは、昼間会った若い副理事長。仕立てのいいスーツを着て、座り心地の良さそうな椅子に座っているのが仕事の、いけ好かない金持ちのボンボンだ。
俺があのくらいの歳の頃には、底のすり減った靴と毎日同じクタクタのスーツで、椅子に座る暇なんぞないくらいにそこら中を歩き回っていた。薄っぺらい座布団一枚敷いた自宅のちゃぶ台の前にのんびり座ってタバコをくゆらすのが、たまの至福のひと時だったっけ――。
(あの『坊や』は、タバコなんか『吸えねえ』に決まってる)
ちょっとふかして咽るクチに違いねえ――。想像をしたら少々痛快な気分になった。
考えてみると楠見副理事長は別に悪いことをしたわけではないのだが、白塚の中で悪役になってしまったのは、元々嫌いなタイプだからというほかない。先日捕まえた、大家とのわずかな家賃交渉に失敗して傷害事件を引き起こした若い男のほうが、むしろ同情を覚えるほどだ。傷害は不味かったが。
(山崎のヤツも、あんな『坊や』にビクビクしやがって。まだまだよな……)
苛立ちに、目の前のマンションを睨みつける。
どうやら昼間、理事長室にいた二人の高校生のどちらかの家らしい。なよっちいクセに妙に態度のデカいガキどもだった。副理事長も副理事長なら、生徒も生徒だ。小奇麗なマンションに住んで、夜中までほっつき歩いて。
理事会の仕事に協力している、だ? どうせ大した仕事じゃない。そんなんで『仕事した気』になっちまうから、ろくな大人にならねえんだ。先日捕まえた、ゲームセンターの両替機を壊して大量の小銭を奪って逃げた大学生のほうが、まだ気概があるってもんだ。犯罪はいけないが。
(……にしたって、遅せえな)
つま先で地面を叩く動きが、ますます忙しなくなる。
相原伊織はいつ家に帰るのか。時刻はもう十一時近い。高校生が出歩いていていい時間ではない。ひとり暮らしになって羽目を外しているのではないか?
コンビニでアルバイトをしている風なのには少々感心したが、その後迎えに来た様子の綺麗な顔をした女子生徒と一緒に公園に入っていったときは、思わず声を掛けて叱りつけそうになってしまった。が、暗い公園の中で何をするのかと思えば、缶コーヒーを飲んでしゃべっていただけだ。これはこれで、逆に年頃の男子としてどうなのか。金持ち学校に通うひ弱な現代っ子は、女ひとつ口説けやしない。
そんなことを考えていると、先ほど四人が連れ立って入っていった直後に点いた三階の部屋の灯りが消えた。
白塚はつま先の動きを止めて、さらに物陰に引っ込み息を潜める。
三人の高校生が、エントランスから出てくる。相原伊織と先ほどの美少女。そして理事長室にいた高校生のうちの一人だ。
白塚は静かに後をつける。七、八分も歩いたところで、美少女が離脱する。
じゃあね、おやすみ――そんな言葉を交わして彼女が入っていったのは、ぱっと見た感じ数世帯しか入っていない様子の二階建てのアパートだ。若い新婚夫婦あたりが好んで新居に選びそうな、洒落たデザイン。
さらに十分ばかり歩いて、昼間来て確認しておいた相原伊織のアパートに到着する。
こちらはいかにも男子学生が一人暮らしをしていそうな、古めかしい造りの小さなアパート。隣の部屋からテレビの音が聞こえてくるのが想像できる。「分相応」という言葉が思い浮かび、好感が持てる。
相原伊織とその友人は、一緒に室内へ入っていった。中にほかの人間がいるような気配は感じられない。そこまで確認したとき。
「白塚さん」
暗がりから小さく名を呼ばれる。
「おう、お疲れさん」
隣の建物の影から、山崎が身を現す。こちらも声を潜めて応じると、数時間ぶりの仲間との再開だというのに、駆け寄ってくる山崎の眉間にはシワが寄っている。
「お疲れさん、じゃないですよ。で、ん、わ。切ってるでしょ」
「当たり前だろう。尾行中に鳴ったらうるさくて堪らん」
「マナーモードにしておけばいいでしょう? こっちに主任から何度も掛かってきて、大変だったんですよ。早く帰って来いって」
「つったってなあ。こっちだって仕事してんだぜ?」
「そうですけど、もう十分でしょう? 帰りましょうよ。また出直して、ちゃんと話を聞けばいいでしょうが」
「それじゃ逃げられちまうかもしれねえ。今日の今日だってのが大事なんだよ」
「それは相原哲也、伊織が本当に繋がってるとしたらの話ですよ」
「まあ待て、あと少しだ。昼間いた友達が一緒に入っていったろ? そいつが出てくるまでだ」
「すぐには出てこないかもしれないじゃないですか。それに、友達は関係ないでしょう?」
必死に訴えてくる山崎に、白塚は呆れた目を向ける。
「関係ねえかどうか分からんだろうが。あの友達もグルってことだって考えられる」
山崎はしかし、輪を掛けて呆れたようなため息をついた。
「白塚さん……一旦戻りましょう。本部じゃいろいろと報告が上がってます。そっちとすり合わせて、捜査方法を考えなおしましょうよ」
「ああ戻る戻る。戻るって。けどな、せっかくここまで来たんだ、あと少し待て。――こっちは何もなかったか?」
相原哲也の現れる可能性を考えてこの場所で張り込んでいた山崎に、成果を尋ねる。
「なーんにもありませんよ。静かなもんです。だいたいね、もしも相原哲也が従兄弟と繋がってるとしてもね。犯行の当日に来ますかね。刑事がいるかもしれないのに」
「ほかに手掛かりがねえんだ。一応張ってみたっていいだろ」
「ほかに手掛かりがないかどうか、ほかの連中の報告を聞かないと分からんでしょうが」
「まああと少しだって。こっちだって土産話のひとつも持って帰ろうや。お前、窓のほう回れ」
アパートのドアを凝視したまま聞く耳を持たない白塚に、もう一度大きなため息をついてドアに背を向けた山崎が、そこで息を呑んだ。
「し、しら、白塚さん」
ちょんちょん、と、白塚の肩を叩く。
「だから、あとちょっと待てや」
邪険に手を払うと、今度はその肩を掴まれた。
「白塚さんっ!」
「なんだよ、うるせえ……」
振り返って、白塚は驚愕に目を見開いた。
山崎のすぐ目の前に、見覚えのある高校生が立っていた。理事長室にいたもう一人――。
高校生は、その整った顔に笑顔を浮かべる。
「あれ、昼間の刑事さんたちじゃん」
「お、おう……やあ――」
驚きのあまり、白塚は理事長室で必死で保っていた「威嚇」の体勢を忘れ、素で答えてしまう。
(なんだ、こいつ――いつから? 全く気配を感じなかったぞ?)
「何してんの? こんな時間に」
高校生は、片手で財布を弄びながら気軽な調子で問い掛ける。
「いや、その――」
山崎が少々声を上ずらせながら言葉を探している。
「遅くまで大変だね。あいつんちに用事? そこだけど」
そう言って、彼は相原伊織の部屋の玄関の前へ進みだす。すれ違いざまに、思い立ったように足を止めて、白塚と山崎を振り返り交互に見た。
「用あんなら、入る?」
「……え?」
思いがけない誘いに瞠目する白塚と一瞬目を合わせ、彼はすぐに「ああ、けど――」と思いなおした様子でつぶやいて片手をポケットに入れる。
「先に『副理事長せんせー』に相談したほういいだろな。こんな時間だしな。刑事を部屋に入れるってなると、一報入れといたほが――ちょっと待って、すぐ連絡取れっから」
そう言ってスマートフォンを取り出した手を、山崎が慌てて止める。
「い、いや。今ちょっと、相原哲也くんが以前住んでいた家の所在地を確認しに来ただけなんだ。もう帰るところだよ」
「そう?」
「ああ。きみたちも早く帰るんだよ。高校生がこんな時間まで出歩いていちゃいけない」
「ん」
素直に頷き、電話機をポケットにしまう少年。ホッと息を漏らして、山崎が白塚の腕を引く。
「じゃあ白塚さん、行きましょう」
「あ、ああ。あーきみたちも、気をつけて帰りなさい」
やや体勢を立てなおし、威厳を取り戻して。玄関に背を向け歩き出しながら、捨て台詞のように言い残す。――と。
「ん。だけど――もういいの? 『土産話』できたの?」
「――っ!」
振り返ると、相変わらず片手で財布を弄びながら、彼は口もとに笑顔を残したままその目を細めた。
「『主任』サンによろしくー」
「白塚さんっ」
さらに強く腕を引かれ、山崎に引きずられるようにして歩き出した。背後でドアの開く音がし、彼がわざとらしく大声を上げた。
「伊織ー、財布忘れてったぞー。あれ、ハルもいたんだー。きみたちって、ハルのことかー」
「だ、か、ら! 言わんこっちゃないですよ!」
運転席に座った山崎が、目を剥いて白塚に怒鳴りつける。俺を怒鳴りつけるとは、いい度胸じゃないか――そんな抵抗が頭を掠めたが、山崎の剣幕に、白塚は言葉を呑み込んだ。
「ああーもう! 呼び出し無視して脈もない相手を半日つけ回した挙句、大した成果もなしで。この上あの副理事長から署に抗議でも来たら、なんて言われるか……」
ぶつくさと並べ立てながらエンジンをかけ、山崎が車を走りださせた。そこへきて、逃げるようにして退散してきた自分の様子を思い浮かべ、バツの悪さをそうさせた山崎への腹立ちにすり替える。
「いや、けどな、お前……なあ……相手はただのガキだぜ?」
「あれ『ただのガキ』じゃないですよ、絶対。最初から聞いていましたよ、絶対。しかも全く気配も感じさせずにですよ?」
「たまたま来たばっかだろ?」
「違いますよ、白塚さん、つけられてたんですよ。『ただのガキ』は二重尾行なんかしません」
「まさか、お前……なあ――」
「いい加減認めましょうよ」
前方に目をやってハンドルを切りながら、山崎が声に力を込めた。
「ただもんじゃないですよ、あの副理事長も、高校生も。おかしいですよ」
「おかしいって、お前……」
憤然と助手席に沈み込んで、白塚は山崎を睨む。
「お前……あんな若造とガキに本気でビビッちまっってんじゃねえだろうな」
「白塚さんだって、ビビッてたじゃないですか」
「ありゃお前、いきなり後ろにいたから、ちょっと驚いただけさ」
「熟練の刑事が、後ろに人がいたくらいで驚きますかね。そもそも背後を取られますかね」
白塚は言い返そうとして、しかし言葉が見つからず、前方の赤信号を睨みつけた。
「いいですか、白塚さん、『怖い』とか『ビビる』とかじゃなくてですね、なんだかおかしいんですよ」
「なんだい。なんだかおかしいって」
「刑事の勘です」
「ほう。お前、言うようになったじゃねえか」
白塚は腹立ち紛れに、信号に眼力を飛ばして「青になれ」と念じてみたが、もちろん効果はなく、山崎は緩やかにブレーキを掛けた。白塚は、日本の交通システムが一介の刑事の眼力なんぞに左右されないことに満足し、鼻を鳴らす。落ちていく車の速度に合わせて、山崎の口調も若干クールダウンする。
「白塚さんこそ、ペース乱されて勘が鈍っちまってるんですよ。どうも俺たちの知っている相手じゃない。一般人とも警察関係者とも犯罪者とも違う、妙な感じがします」
「ふん……」
「……とりあえず、今は主任への今日の行動の言い訳を考えるのが先です。それから……さっきのことがあの副理事長に知れたら……」
「怖い」とか「ビビる」とかじゃないと言いながら、どうにも弱腰な山崎の態度に苛立ちを覚えつつも、少し冷静になると「たしかに一筋縄じゃ行かねえな……」と感じている部分を認識せざるを得ず、「あの副理事長」の鋭い目線を思い返して白塚はまた、「フン」と鼻を鳴らした。
少年は、暗い自室で、恐怖と困惑に震えていた。
目の前の、青白い顔で膝を抱えて俯いている年上の男を、途方に暮れた目で見つめながら。
(なんで、こんなことになっちまってんだよぉ……!)
心の中で、繰り返し叫ぶ。こうなってしまうまで事態を甘んじて受け入れてしまっていた自分にも腹が立つが、自分を混乱に巻き込んでいる目の前の男には、腹立ちを通り越して苦り切っていた。
時を遡ること数時間前。
高校生活最初の二週目が終わる、金曜日。六時限目終了と同時に席を立ち、バスと電車を乗り継いで全速力で帰宅した。
自宅の前でひとつ深呼吸をし、玄関のドアを開ける。奥のほうで、息子の帰宅に気づいた母親が「おかえりなさい」と声を上げた。歓待の声色ではない。ドアが開くのに自動で反応したような、機械的な声。事務的な挨拶。特に変わった様子はない、いつもの口調だ。
「ただいま」
平静を装って一言だけ答え、二階に上がり自室のドアの前に立つ。ここでまた、深呼吸。
(いませんように……誰もいませんように……)
心の中で祈りながら、恐る恐るドアを開けた。
水色を基調に統一されたインテリアの六畳間。息子の教育に熱心だった頃の母親が、何軒もの家具屋やインテリア専門店に通って厳選して設えた、インテリア雑誌から切り抜いたような「子供部屋」だ。毎日のように室内に入って床から窓からピカピカに磨き上げていた母親は、しかしここ何年かは、部屋のドアを開けすらしない。
この部屋に入る人間は、自分だけだ。そう、誰もいない。いるはずがない――。
どこも変わった様子がないのを確認し、室内に入って後ろ手にドアを閉める。瞬間――。
「……っ!」
扉の陰、足元に座り込んでいる人の気配を察し、咄嗟のことで声を出すのを抑えた。
首が錆び付いたみたいな不自然な動きで、そちらに視線を動かす。
(……なんで……いるんだよぉっ!)
少年は泣きたくなった。
重いため息をつき。壁に背をつけ膝を抱えて座っている若い男の目の前に、腰を落とす。男は青白く頬のこけた顔で、焦点の合わない目をぼんやりと部屋の中心あたりに向けている。
「……テツヤさん、テツヤさん」
小声で呼んだ。反応がない。少年は、男の目の前で手をひらひらさせ、それでも反応しないとなると、そっと肩を揺すってみる。
「テツヤさん? なあ、大丈夫?」
「……ああ……」
ゆっくりと男の視線が少年の鼻のあたりに焦点を結ぶ。少年はまたひとつ、ため息をついた。
「ずっとここにいたの?」
「ああ……悪いな」
男――テツヤは、少年の問いかけの意味を考えるような間を置いて、静かに答えた。
「親には知られてないよな?」
また少し、間があって、「ああ」と小さく答える。宇宙と交信しているみたいにテンポが噛み合わない。
「あいつはどうしたの? 帰ったの?」
「……ああ。昼前に目を覚ましたから、駅まで送っていった。……悪かったな」
「本当だよ……もう、勘弁してよ……」
げんなりとした気持ちを押し隠すこともできずに、少年は泣きそうな声を上げる。
テツヤは小さく目を伏せて。
「すまない」
少年は額に手を当て、それから前髪をぐしゃぐしゃとかき上げ、もう一度大きなため息をつくとテツヤを睨みつけた。
「なあ、本当に行くとこないの? いつまでここにいる気だよ。困るよ。親にバレたらどうすんだよ」
「……すまない」
駄目だ。埒が明かない……。少年は途方に暮れた。
一年ほど前に、通っていた学習塾の教師の紹介で知り合ったこの年上の友人を、少年は慕っていた。志望する高校の先輩として。自分と同じように、「不思議な能力」を持つ先達として。
痩せ型でひょろりと背の高い彼の外見から、初めて会った時は神経質で気難しそうだという印象を受けた。が、話してみれば気さくで親切で、すぐに打ち解けた。自分と似たような境遇ながらも前向きに暮らしている姿は、希望になった。両親しか知らない秘密も、誰にも話したことのない悩みも相談したりした。受験の時は世話になった。
だから、話に聞いて憧れていた緑楠高校に合格したその日。両親よりも中学の教師よりも一番に、この先輩に報告をした。
だが――。
事情があってしばらく住む場所がないので、数日だけ寝泊りさせてくれ。
そんなことを言ってテツヤが少年を訪ねてきたのは、四月の初め。入学式の直後のことだ。
以来二週間。テツヤは二日と空けずにふらりとやってきて、数時間ほど少年の部屋で眠り、知らない間にどこかに出かけていく生活を送っている。
夜と言わず、昼と言わず。おとないの挨拶もなく、玄関も通らず、直接この部屋に現れる。――そういう能力を持っている彼には、ドアも鍵も意味はない。
無論、友人として普通に訪ねてきてくれたなら、歓迎していただろう。だが、見るからに深刻そうな問題を抱え、日に日にやつれていくテツヤに、少年は本能的な恐怖を感じている。
没交渉の両親にだって、万一こんな不審な男を家に入れていることが知れたら大騒ぎだ。大手企業の中間管理職の父と専業主婦の母はごく常識的で気の小さい、まっとうな大人。不気味な青年が同じ屋根の下に寝泊りしているなどと知ったら、なんと言うだろう。厄介な息子が、輪を掛けて厄介な人間を連れ込んでいる、と、そういう目をされるのは気鬱だった。
「今朝は、だって……これからはどうにかなりそうだって言ってたじゃん。あれはどうなったの?」
少年は眉を寄せて抗議の声を上げる。
迷惑の極めつけは今朝――いや、まだ夜も明けない午前三時頃のことだった。
テツヤはあろうことか、もう一人の客人を連れて少年の部屋にやってきたのだ。
眠っているというよりも気を失っていると言ったほうが適切な様子の、小太りの若い男を抱えるようにして、この部屋に現れた。
突然の来客に叩き起こされる形になった少年の困惑と焦りを懸命に宥め、「これからはどうにかなる。もうここは出て行くから、最後だから、こいつを朝まで預かってくれ――」そう言いながら、連れ込んだ男を残して部屋を出て行った。
招かれざる客人――テツヤは彼を「シバタ」と呼んでいた――は、まんじりともせずに夜明けを迎えることになった部屋の主に気づきもせずに、そのまま眠りこけていた。
テツヤが戻ってきたのは、少年が時計を気にしつつ、いい加減で家を出て学校へ向かわなければと考え、二週間でようやく着慣れてきた詰襟の制服に袖を通していた時だった。
眠っている知らない男を自室に一人で残して家を出るのは不味いだろうと鬱々としていた少年は、テツヤの帰還に安堵しかけて、だがそれよりも先に不吉なものを感じた。
戻ってきたテツヤは、出て行った時よりもさらに疲れ果た様子で生気はなく、真っ青な顔をしてわずかに震えていた。近づくとかすかに、焦げ臭いにおいがした。
「いったい何が……?」
問いかけた少年に、「少しだけ休ませてくれ」と、それだけ言って、テツヤは座り込んで動かなくなった。
まともな状態にはとても見えず、放っておくのは不安だったが、一緒にいることも恐ろしかった。
それで、絶対に家族に知られないようにと念を押して家を出たものの。学校でも生きた心地がせず、テツヤを置いて出てきたことを後悔し、放課と同時に脇目も振らず一目散に帰ってきたのだ。
「――なあ、問題、解決したんじゃないの? もう出て行っても大丈夫になったんじゃ……?」
困惑を前面に押し出して重ねて問うと、テツヤは目の前の少年よりも動揺した顔で、縋るような目で、見つめ返してきた。
「俺……大変なことしちまったんだ……」
「なに……?」
「もう、戻れない……」
「だから……」
生気の抜けきったようなテツヤの表情に、理屈抜きの恐怖と不安を感じながら、少年は自分でも意識せずに問いかける。訊きながら一方で、答えを聞くべきではないと思っている。語るな。聞かせるな。巻き込むな。これ以上の厄介な事態になる前に、何も言わずに出て行ってくれ……。
だが少年の思いは通じず、これまで一切の自分の事情を話さなかったテツヤは、初めて、しかも絶望的な状況を口にした。
「俺……燃やしちまった……」
「……は?」
「家を……両親を、燃やしちまったんだ……」
少年は愕然と目を見開き、目の前の男の青白い顔から視線を動かせなくなる。この男は、今、何を言った?
リョウシンヲ、モヤシチマッタ……?
意味が分からない――。
テツヤは小さく震えながら、光のない眼を少年に向けていた。
「どうしよう、どうしよう……」
少年は、本当に泣きたくなった。
(どうしようって、こっちのセリフだよ……)
どうしたらいいのか分からずに、真っ暗になった部屋の片隅で、二人はかなり長いこと向かい合って床にへたり込んでいた。




