34.伊織、それらが現実に身に起きていることなのだと思えなくて
数十メートル歩くごとに、隣を歩くあおいが立ち止まって「大丈夫?」と心配そうに覗き込む。そのたびに伊織は、「あ、うん、ゴメン……」と少しだけ足を速めるのだが、数歩進むとまた足取りが落ちてしまう。
「ちょっと休んでいく?」
公園の脇に差し掛かったときに、あおいが小さく首を傾げながらベンチを指差した。
「あ、え? い、いいよ、遅いし……その……ゴメン」
時刻は午後十時を回っている。こんな時間まで女の子を付き合わせている申し訳なさに、また少し足を速めようとした。
が、あおいは伊織の前に回り込み行く手を阻む。そうして綺麗な眉をわずかに寄せて、目を細めて。
「謝るの、禁止」
「……え?」
あおいは普段の華のような微笑みからは想像のつかない怖い顔で、顎を上げて伊織を見下ろすようにして、仁王立ちで腕を組んだ。
「伊織くん、さっきから謝ってばっかり」
「え……そう?」
「そうよ」
「ゴメン……」
思わず言ってから、あおいの眉間にさらに不快そうなシワが寄ったのを見て伊織は慌てた。
「あ! そそそその……」
そんな伊織を見て、あおいは腕組みのまま大きくため息をつく。そして、
「伊織くん、こっち」
そう言って伊織の腕を掴み、公園に引っ張り込む。
街灯の下のベンチの前で伊織の両肩を押して無理やり座らせると、走っていって自動販売機で缶コーヒーを買ってすぐに戻ってきた。
「はい。これでも飲んで、元気出して」
先ほどの険悪な表情は既になく、柔らかく微笑んで、缶を差し出すあおい。情けないやら申し訳ないやらで手を出すことをためらっていると、あおいは何か勘違いをしたらしく慌てて缶を引っ込めた。
「何も聞かずに買ってきちゃったけど、これ嫌い? ほかのが良かった?」
「あ、ううん。ゴメン、どうもありがとう」
またも「しまった!」と思いながら焦って缶を受け取ると、しかし気にした様子はなくあおいは、
「良かった」
と言って笑顔を戻した。
まだ今よりも彼女らのことをよく知る前、教室の中で見かけて「綺麗だなあ」と思っていたときと同じ笑顔なのだが、それよりも親しげで好意的に感じる。
あおいは伊織の隣に腰掛けながら、機嫌のいい顔で元気に缶のプルタブを持ち上げ、美味しそうに一口飲む。ビールのコマーシャルに出てくる女優さんみたいだ。こういう表情は、教室の中では見たことがない。
「ハルはね、微糖派なの。好きなブランドも決まってるみたい。キョウは、砂糖もミルクもたっぷり入ってるのが好きなのよ。缶じゃないコーヒーはブラックなのに、変よね。琴子はだいたいどれを飲んでも不味そうな顔をしてるわね」
「仲いいよね」
楽しそうに話すあおいを羨ましく思いつつ、小さく笑いながらそう言うと、あおいはやはり笑顔で伊織に視線を向けた。
「まあ、ねえ……いいのかしらね。お互いに『仕方なく』って感じもするわねえ」
「仕方なく……?」
「仕方なく、よ」
意味を掴み損ねてあおいの顔に目をやったが、それ以上説明するつもりはないらしく、あおいは缶コーヒーを持った手をベンチに置いて宙に目をやった。仕方なく、などと言ってはいるが、表情はやはり柔らかい微笑を浮かべている。
「でもさ、好きなんでしょう?」
「え! 誰を?」
焦った様子で振り向いたあおいと目が合う。その表情に、伊織は思わず笑ってしまった。
「みんなのことだよ」
「……みんな、ね……」
あおいは取り乱したことを恥らうように、居心地悪げにふいと視線を逸らした。
「まあ、嫌いじゃないわ……」
教室では見られなかった、いろんな表情をするあおいが楽しい。そんなことを考えてまた笑ってしまったら、抗議の視線を送られたが、少し睨んだ後であおいはふっと息をつき微笑を浮かべなおした。
「良かった。笑った」
かなり気を遣わせていたらしい。
「心配させて、ゴメン」
伊織は心から詫びる。そしてまた謝ってしまったと内心で焦るが、それまでのどこか上の空の謝罪文句とは違うことを、あおいは察してくれたらしい。
ゆっくりと首を振って。
「ううん。ショックだったでしょ?」
あおいは、伊織の伯父たちに起きたことを知っていた。それで気遣ってくれているのだろう。しかし、伊織の落ち込んでいる原因は、それだけではなかった。
「それもあるんだけどさ……」つい、言葉にしてしまう。「アルバイト、上手くいかなくて」
言いながら、自己嫌悪に陥る。
衝撃的な事件を聞かされた後で、やはり初めての仕事に集中することができなかった……などというのは言い訳だろう。それがなかったとは言えないが、上手くいかなかったのは不器用な自分のせいだ。
先輩アルバイトに付き合ってもらっての、まだ研修の段階だというのに。初めての仕事への緊張が勝り、商品を捌く手もぎこちない。いつも客として、何気なく手にとってレジへと運んでいた見慣れたはずの商品が、見たこともない大変な宝物か、あるいは危険物に見えてしまう。
さほど難しくなかったはずのマニュアル通りの行動が、難しい。
そして、隙を窺うようにして頭に浮かぶ、伯父たちに振りかかった事件。それ自体もショックだったのだが、世話になった伯父たちが大変なことになっているときに、それよりもアルバイトの件が頭の中を占めている自分の薄情さにも辟易した。
「伯父さんたちのこと考えてなきゃならないのにね。なんだかそっちは、どこか他人ごとみたいな感じがしちゃって……」
この一週間と少しの間に、いろんなことがあった。どれもこれも現実味がなくて、緊張だとか焦燥だとかといった感情にはなかなか繋がらなかった。
強いて言えば、部屋に盗聴器が仕掛けられていると言われたあの時。住みだしたばかりとはいえ、世の中で一番くつろげる場所となるはずだった自分の部屋が、恐ろしい場所に見えた、あの時に感じた絶望と困惑は大きかったが――。
けれど。今日の昼間、刑事に聞かされた話はまた、自分の身の上に起きるべき様々なことと大きく乖離していて、上手く受け入れられずにいる。起きている出来事と現実の自分との間に、一枚の膜があって直接肌に触れてこない。例えて言うなら、昨日見た夢の内容を思い出しているような。そんなふわふわとした感覚。
眠って起きたら、夢だったということになるのではないだろうか。盗聴器なんかない、アパートの小さな部屋で目を覚ます。伯父たちに電話を掛けてみれば、すんなり出るかもしれない。
楠見の話なんか全て夢。神月悠も成宮香も、普通に学校に通っている普通の高校生。衣川あおいは斜め後ろの席の、手の届かない美少女。そして、勉強もアルバイトも、友達を作ることさえも上手くいかない、不器用な自分だけが取り残されるのだ。
そんなことを想像して、ふと目を上げると、気遣わしげなあおいと目が合った。
「突然のことだもんね。理解しろってほが無理よね」
あおいは困ったように少しだけ笑い、小さく息をついた。
「伊織くんは、これまであたしたちとは全然別の世界にいたんだね……」
「……別の世界?」
「うん」
「そうなのかな……」
そう言われると、少し寂しい気がした。それを察したように、あおいが慌てて手を振る。
「いいのよ、それで。そっちの世界のほうが『正常』なの。あたしたちは、どうにか上手く『擬態』しないと、そっちの世界にいられない。だからきっと。……眩しいんだろうなあ」
(……眩しい?)
理解できず、一瞬あおいの表情を凝視してしまう。あおいは本当に眩しそうに目を細め、数メートル先の遊具を眺めて微笑んでいた。
「別の世界」と線を引かれて寂しく思ったのは自分のはずなのに、なぜだかあおいのその笑顔のほうが寂しそうに見える。
ほんの少しの間だけ、無言の時間が続いた。風が出てきて、木の葉を揺らす。街灯に照らされた足元を、落ち葉が一枚転がっていくのをなんとなく目で追っていると、あおいがこちらを向いてもう一度微笑んだ。
「帰ろうか」
「……うん。ゴメン、遅くまで……」
「いいのよ。これが仕事だもの」
仕事だから。――そう言ったあおいの言葉が、複雑な重さを持って心に落ちてくるのを感じながら、伊織はあおいとともにベンチを立った。
いくらかまともな足取りで五分ほど歩くと、ハルとキョウのマンションのある通りに出た。マンションの前。喫茶ベルツリーの花壇の縁に腰掛けている、二人の影が見える。
あおいがいち早く、その二つの影を見止めて手を振った。
「遅かったね」
影のひとつ――ハルが花壇に腰掛けたまま、近づいてくる伊織とあおいに声を掛ける。
「まだ帰ってないみたいだから、ここで待ってたんだ」
あおいと伊織の到着を待って、ハルが見上げる体勢で微笑んだ。
「うわ、ゴメン! すごく待った?」
「ううん。俺たちもさっき帰ったばかりだから」
「伊織くんとね、初仕事の打ち上げをしてたのよ」
あおいが悪戯っぽく笑って、伊織に意味ありげな顔を向けた。伊織は慌てる。
「打ち上げ?」
「あ、あの、ちょっと公園で缶コーヒーを飲んで休憩してただけで……ホント、待たせてゴメン!」
隣のキョウは黙って伊織とあおいを見ていたが、一瞬その視線を伊織の後ろのほうに向け、目を細めた。
「ハル――」
「うん」
それだけでやり取りして、二人は同時に立ち上がる。
「それじゃあ、打ち上げの二次会しようか。お嬢もお茶飲んでいきなよ。後で送るから」
「あら、そう?」
「ハーブティがいっぱいあるんだよ。ミントがけっこう美味しかったよ」
あおいは少しだけ背後を気にするような素振りを見せて、それからにっこり笑った。
「じゃ、ちょっと寄っていこうかしら。ね、チャイロにも会える?」
「チャイロはどうかなあ。俺もここのところ会ってないんだよね。キョウ、見た?」
「ん? そういやここ二、三日見てねえな。いるよな?」
「エサがなくなってるし、トイレも使ってるから、いることはいると思うんだけど」
言いながら、ハルは先に立ってマンションに入る。あおいと伊織が続き、キョウが後から中に入ってきた。
「ちょっと厄介なことになったね……」
キッチンでポットに湯を注ぎながら、ハルが口を開く。
「警察……かしらね。昼間来てた……?」
室内に入るなり、勝手知ったる様子ですんなりとリビングにやってきてソファに腰を下ろしたあおいが、腕を組みつつつぶやいた。
あおいはこの家に来慣れているんだな……などとぼんやり考えていた伊織は、「警察」の言葉にハッとなる。
「あの二人のうちのひとりだな……ヤマなんとかじゃないほう。シロ……ザキ?」
「混ざってるよ、キョウ。白塚刑事だよ。もう一人が山崎刑事」
ダイニングの椅子に横座りで、背もたれに頬杖をついて言うキョウに、ハルが答えた。
「えっと……?」
あおいの隣に座り、ひとり話についていけずにいる伊織に、キッチンからハルが声を掛ける。
「あのね、警察が尾行してるんだよね。さて、どうしようか」
「え……」
求める答えはもらったものの、伊織は言葉を失った。
(ケイサツガ、ビコウ?)
ドラマやなんかで聞き慣れた言葉が、またもや自分に関するものだとは信じられず、固まったままぎこちなくほかの三人の顔を見回す。
「えっと、……え……?」
真っ直ぐにこちらを見つめているキョウと目が合ったが、キョウは答えずに、質問をパスするように背後を振り返ってキッチンのハルに目をやる。ハルは苦笑混じりにそのパスを受け取る。
「警察は、哲也くんが接触してくると思ってるんじゃないのかな」
「『哲也くん』がンな簡単に接触してきてくれたら、苦労ねえっつーのにな」
むすっとした調子でキョウは顔を正面に戻し、頬杖をつきなおす。
「ホントにねえ……だけど――」
ハルは何事か考えるように笑顔を引っ込め、トレイにポットとカップを四つ載せて、キッチンから出てきた。ミントの香りがあたりに漂う。
「警察は、伊織くんと哲也くんが実は仲良しだと思っているのかも」
言いながらトレイをテーブルに置き、ソファに座るとそのままハルは動きを止めた。目はポットを睨んでいる。
「あ、入れる?」
「まだだよ、お嬢。三分蒸らすんだ」
「あ、そう……」
それきり、しばし沈黙が落ちる。ハルは時限爆弾でも見つめるように深刻そうな面持ちでポットを睨んでいたが、きっかり三分経った頃に突然動き出して滑らかな手つきでカップにお茶を注ぎ始めた。
「伊織くん、一度、家に帰ろうか……」
カップを差し出しながら、ハルが伊織に問いかける。顔には微笑みを戻しているが、目には真剣な色を浮かべている。
「帰れば尾行が終わんのかな」
キョウがソファにやってきて、ハルに聞く。
「分からないけれど――あのね、伊織くん」
ハルは少々困ったような微笑みを伊織に向けた。
「刑事さんたちは、なんだか昼間、家の中が見たいみたいなこと言ってたよね」
「あ、うん――」
「……あれもしかしたら、『家に行く』って言ってみて伊織くんの反応を見てたんじゃないかなあって」
「反応って……?」
「うん、ことによると、伊織くんが哲也くんを匿ってるって思ってるのかも」
思ってもみなかった発想に、伊織は目を見開く。カップを手に持っていたら、取り落としていたかもしれない。
ハルは困ったような微笑を浮かべた。
「伊織くんは当事者だし、俺たちも多少話を聞いているから、『まさか』ってなるけどさ、全く知らない人間が客観的に考えたら、わりとマトモな線だと思うんだ。まず、誰かが哲也くんを匿っているってのは、ない話ではないと思うよ。その人間が哲也くんの事情を知っているかどうかは別として」
ハルはそこで一旦言葉を切って、ミントティを一口飲む。伊織もつられてカップを手に取った。ミントの軽やかで涼しげな香りが鼻をくすぐる。が、ハルの言葉は、重く心に圧し掛かった。
「でもその『誰か』の候補がまだ誰もいない。そしたら、やっぱり最初に当たるのは伊織くんになっちゃうかもね」
キョウが眉を寄せたまま宙に目を上げて言って、ミントティを一口啜った。
「で? 帰ってどうすんの?」
「それなんだよねえ……。家に帰るのを見て、中にほかの人間はいなさそうだなって思って、そのまま諦めて神奈川に帰ってくれればいいんだけれど」
「あ、あの、俺……家の中を見せれば、納得してもらえるのかな……」
たまりかねて、伊織は口を挟んだ。
警察が伊織を疑うところがあるとしても、伊織自身としては何も悪いことをした覚えはないし、哲也や伯父夫婦の事件との関わりもないのだ。ありのままに対応して、それでも自分に何かしらの嫌疑が掛かるとは到底思えないのである。
しかし、ハルはまた困ったように、ため息混じりに口を開いた。
「それがね……厄介なんだよね。伊織くんの家には盗聴器が仕掛けられているんだ。それを見つけられたりすると――」
「あ……そう、か。だけど……」
「うん、伊織くんは何も悪いことをしていないし、全くもって身に覚えがない。だけど、潔白なら今すぐに疑いが晴れるかっていうと、そうでもない。伊織くんを追っている人間がいることや、俺たちが事件の前から哲也くんを探していたことなんかが知れると、かなり話が面倒になってしまう」
伊織は言葉を重ねようとして、それでも言うべきことが見つからず、口をつぐむ。伊織に向いているハルの眼差しが、真剣で、それでいて少し申し訳なさそうな色を湛えていたからだ。
「……まあ、向こうも暇じゃないだろうし、脈もないのにずっと付きまとわれるってことはないとは思うんだけど。ほかの関係者が見つかるかもしれないし、そもそも自然発火の可能性だって残ってる。ただ、そっちの捜査が進むまでこうだと、ちょっと鬱陶しいね。こちらもこれから哲也くんを探すわけだし」
「刑事たち、『見つけ』ちまうか?」
「そうだねえ……ちょっと強引だけど、それで行こうか?」
顎に拳を当てて考えていたハルが、キョウと目を合わせる。
「おっし」
カップのミントティを一気に飲み干して、キョウが立ち上がる。
ハルも席を立ち、ソファの横の猫のエサ皿らしき器にエサを継ぎ足し、それから空いたカップを回収し始める。
伊織も慌ててカップを空けたが、
「……えっと……?」
戸惑い気味に声を上げると、カップをトレイに載せながらハルが顔を上げた。
「うん、まずはね、お嬢を家に送って、そのまま伊織くんの家に帰る。それで……刑事がその確認だけして帰ればそれで良し。帰らなかったら…、見つけちゃう」
キョウとあおいは、それで作戦を理解したようだった。
二人同時に頷いて、キョウが伊織に向かって手を差し出す。
「財布か携帯、貸して」
「え?」
「『届けて』やるから」
にやりと笑ってさらに手を伸ばしてくるキョウに、伊織はおずおずと財布を差し出した。




