32.楠見、伊織に頭を下げる。一方、二人の刑事は
二人の刑事が出ていくと、楠見は膝に両肘をつき、手で顔を覆って長いため息をついた。
そのため息にすら、隣に座る伊織がギクリとして肩を震わす。楠見はそのまま伊織に声を向けた。
「伊織くん、辛かったね……すまない」
「い、いえ……あの、俺は……」
影山が客人の去った気配を察し、ノックをして部屋に入ってくると二人が結局手をつけずに置いていったお茶を下げる。
「新しいお茶をお持ちしますか」
問われて少し顔を上げ、
「コーヒーをお願いします。濃いのを……四つ」
答えると、影山は「かしこまりました」と頭を下げて退室した。
楠見は覆っていた両手で顔をごしごしと頬をこすると、叩きつけるように両手を膝に置いた。そして、正面の壁の本棚の間――隣室への扉に向かって声を掛ける。
「おい、もういいぞ」
すぐに扉が開いて、ハルとキョウが理事長室に入ってきた。伊織が目を丸くする。その様子に、ハルはまた控えめに「フフフ」と笑った。そして、ソファの背――先ほど白塚刑事が座っていたあたりに両手をつき身を乗り出す。
「憤懣やる方なしって感じだね」
「ああ――」
楠見はやはり気持ちを変えるべく、腕を組んで立ち上がると、扉の前に立っているキョウに声だけ掛けた。
「キョウ、塩撒いとけ」
「ん」
キョウは制服の上着のポケットからテーブル食塩を取り出すと、刑事たちが出ていったドアを開けて上品にパラパラと撒く。
「おお……準備がいいな……」
執務机の後ろの窓際まで歩いていって、楠見は腕を組んだまま窓枠にもたれた。少し考える。
リストの人物を調べている古市を、相原家から遠ざけたほうがいい。既に聞き込みで「相原家を調べている者がいた」とバレている可能性もあるが、そこから自分たちに結びつくようなヘマは古市もしていないだろう。この先は、刑事たちが調べた情報を分けてもらったほうが安全だ。
相原哲也の「新居」――住所はたしか、町田市だったか――だけ、「さりげなく」調べてもらおうか。
楠見の思考を読んだかのように、ハルが笑いかける。
「古市さんなら、事件のことだけ電話して伝えたよ。驚いてた。どうするかは後で楠見から連絡するって言ってある。それと、船津さんにも。必要なら今夜か明日、『打ち合わせ』に来てくれるって」
「ありがとう。助かるよ」
ハルに礼を述べ、次の思考にかかる。その間にハルは伊織の隣に立って、屈み込んで目線を合わせた。
「伊織くん、大丈夫? 気分悪くない?」
「あ、うん……ありがと……」
「そう――大変だけど……」
それだけ言って、元気付けるように肩に手を置く。伊織はまだ呆然としている様子だったが、ハルの柔らかい眼差しに、少しだけ表情を緩めた。
楠見はその様子を目の端に収め、窓から離れると再び伊織の隣のソファに戻った。それを合図にするように、ハルとキョウも向かいの三人掛けのソファに座る。
影山が、注文通りの濃い香りを漂わせながらコーヒーを持って入ってきて、四人の前に置いた。
「伊織くん――」
「あ、はい!」
隣に座る伊織に改めて向きなおると、伊織も体ごと楠見に向けて、姿勢を正した。
「こういうことになって、本当にすまない」
「えっ? あの……」
頭を下げた楠見に、伊織は驚いたように肩までピンと姿勢を正す。
「哲也くんやきみの伯父さん、伯母さんの家のことにもっと注意を払っておくべきだった。予期できなかったのは甘かった。後手に回ってしまった俺の責任だ。申し訳ない」
「いや、そんな――」
伊織は目に見えて狼狽していた。楠見のどこに責任があるのか、まだ理解は追いついていないだろう。そう見て取って、しかし楠見は言葉を続ける。
「哲也くんは必ず探し出し、事件を解決させる。まだ詳しいことは言えないないが、おそらくこの事件は警察には処理し切れない。もう少し状況が見えてきたら、きみにきちんと説明するから、少し待って欲しい」
「はあ、……はい、なんか……すみません」
伊織も楠見に向かって頭を下げようとしたが、楠見はその肩に手を置いて押しとどめた。
「いや、いま言ったように、責任は俺にあるんだ。きみに謝ってもらったりお礼を言ってもらったりすることじゃない」
「あの、でも……」
「全部解決してから――」
伊織の不安げな視線に、そう答えかけて、楠見は途中で口をつぐんだ。全て解決したときに、彼は自分たちのことをどう思うのだろう――。ハルやキョウのことを――?
以前も少しだけ考えた、そんな思考がまた頭を過る。
「――いや」
いま考えるべきことはそれではない。
伊織の肩から手を外し、正面に向きなおる。
「……それで伊織くん、明日の朝、神奈川の伯父さんたちの家を見に連れて行けるが、どうかな?」
「えっと――」
伊織はかすかにその表情に脅えを走らせ、迷う様子を見せたが、すぐに心を決めたように先ほどまでよりも強い瞳で頷く。
「連れていってもらえますか……?」
「分かった。――お前たちも、付き合ってくれ。昼には戻る」
目の前のハルとキョウに声を掛けると、二人は同時に頷く。二人の同行を確認して、伊織は少し安心したようだった。が、また表情に緊張を浮かべる。そうして少しの間、言おうか言うまいか逡巡し、やがて決意したように視線を上げた。
「あの……伯父さんと伯母さんは……刑事さんたちは、ああ言ってたけど……つまり」
「……覚悟はしておいたほうがいいと思う」
伊織は一瞬押し黙り、それからためらいがちに言葉を継ぐ。
「……従兄弟は、……事件に関わっているんでしょうか……」
楠見は言葉を選ぶ。向かいのソファでハルが心持ち表情を曇らせ、キョウが身を硬くしたのを視界の端で察したが、あえてそちらには顔を向けずに――
「俺は、関わっている可能性は高いと思う。たぶんあの刑事たちも――」
「それは…………つまり、その」
伊織はそれだけ言って、次の言葉を探しあぐねるように視線をさまよわせたが、結局見つけることができずに黙り込んだ。
楠見は伊織が知りたいことことを察する。が、今はまだそれに答えられる状況ではなく、力付けるように伊織の肩に手を置いた。
校舎を出て、白塚刑事は太いため息をついた。縦にも横にも体の大きな白塚から出るため息は、そこら中の空気をかき回すような巨大旋風で、しかもタバコ臭く、隣を歩く山崎はこっそり顔をしかめた。
(あの子の前でこんなため息をついたら、吹き飛ばしてしまいそうだな……)
脅え切っていた相原伊織を思い出して益体もないことを考えるが、そんな想像を掻き壊すように白塚が口を開く。
「あの副理事長が厄介だな……」
理事長室ではニヤニヤとやり取りしていたが、よほど居心地悪く感じていたのだろう。
「白塚さん……あんまりあの人を怒らせないほうがいいと思いますよ……」
「なんだお前、あんな若造にビビッてんのか?」
「そういうわけじゃありませんけどね……」
山崎は複雑な気持ちで肩を竦めた。
三十代といえば周囲から見れば若い部類だが、それでも山崎とていくつもの事件を扱い何人もの犯罪者と渡り合ってきた刑事である。そこらへんの一般市民を視線で竦み上がらせるくらいの眼力は持っているし、自分より若い者に「ビビる」などそうそうあることではない。
が、そういうのとは別口で、楠見という人間には得体の知れないものを感じる。言うなれば、「カタギじゃない」といった雰囲気――少なくとも、ただの金持ちの坊ちゃんではない。学校という聖域よりも、自分たちの住む世界に近い場所にいるような気がする。
火災の関係者を探すため、相原哲也の母校であり、先週まで相原家に居候していた相原伊織が在籍している緑楠高校にやってきた。校長だとか教頭だとか、そういった人物と話すことを想定していたし、特別に難しいことだとは考えていなかった。
ところが通されたのは理事長室である。迎えたのは、学園副理事長という若い男。一見してノーブルとかエリートとかそんな言葉が思い浮かぶ、「いいところの坊ちゃん」という印象。
金持ちの家に生まれ、苦労もなく二十代で学園副理事長などという高級なポストを手に入れている。白塚の嫌いなタイプだな、と認識すると同時に、隣でその叩き上げの刑事が「楽勝だ」と思っている気配を感じた。校長や教頭といった聖職者然とした人種よりは、「扱いやすい」と思っているのだろう。
山崎も一瞬気が抜けたように感じたが、挨拶を交し向かい合って座った瞬間に、違和感に気づいた。
背筋が自然に伸びた。おそらく十歳近くもあるだろう年の差を感じない。柔らかい表情ながら、自分たちを見つめる瞳には隙がない。どうもこの先、自分たちの思い通りのペースで話を進めることは難しそうだという直感を抱く。
隣の白塚はといえば、同じような気配を感じたのだろう。それでも舵を握りなおすべく、いつもの姿勢と口調を取り戻そうとしていたが、山崎から見るとそれは縛られた縄から抜け出そうと身を捩っているかのようでもあった。
妙だといえば、最初の話に立ち会った二人の高校生も妙だった。変に落ち着きがあった。
事件のことを話した時にはさすがに驚いたようだったが、動揺したり取り乱したりしている様子はなく、楠見と言葉を交わさずとも意を受けたように動く。
二人と入れ替わりでやってきた相原伊織は、こちらは普通の高校生といった感じで、山崎は少し安心した。が、脅え切らせてしまったのはいけない。楠見の出る幕を増やしてしまったのだ。前の三人の反応が妙に落ち着いていたために、ついこちらも――特に白塚は――相手を威圧することに躍起になってしまったようだ。
もう楠見のいる前で、相原伊織から率直な「本音」を聞きだすのは難しいだろう。楠見のいない場所で彼と話すこともできそうにない。彼らが余計な「すり合わせ」をする前に、こちらの望む発言を引き出せればよかったのだが、出直しとなると――。
「まあ、どちらにしても、もう少し調べてから改めて話を聞いたほうがいいでしょうね……」
ため息混じりに言うと、白塚が険しい視線で山崎を睨んできた。
「なんだ、あの副理事長に丸め込まれちまったのかよ。んな弱気なこと言うなんて」
「そういうわけじゃありませんけど、現時点であんな予想通りにことが運ぶとも思えませんよ。そもそも放火と決まったわけではないし、相原哲也の交友関係だって、調べだしたばっかりじゃないですか」
「そりゃそうだが、しかしなあ……」
白塚としては、「楽勝だ」と思った若造を相手に自分たちの思い通りのペースを貫けなかったことこそに腹を立てている様子だ。少々ムキになっているのかもしれない。「最初の思いつき」にしがみついてしまっている。面倒だな、と山崎は思った。
「だけど白塚さん、まだあんなことを本気で考えているんですか?」
「うん? うん……まあ、なあ……」
白塚の返答は心許ない。山崎と同じような感想を抱いたのかもしれない。
「あの相原伊織って子、とても何か隠したりできそうな子には見えませんでした。本当に何も知らないのかもしれませんよ?」
「うぅむ……」
「こちらの見込み違いででうかつに踏み込んであの副理事長を怒らせたら、本気で訴えられかねませんよ」
「だがなあ、あの子は少しオドオドし過ぎじゃなかったか? 何かあるんじゃねえかな」
山崎は少し考える。それほど仲が良くもなかったとはいえ、つい先週まで世話になっていた親戚の家が火事にあったのだ。伯父夫婦が亡くなり、従兄弟が関わりを持っている可能性もある。そんな話を聞かされ、怖い目をした刑事に問い詰められれば、気の弱い人間ならばあのくらいに狼狽するのではないだろうか。
たしかに困惑し切った口調で、どもったり言いよどんだりしてはいたが、話している内容はしっかりしていた。
(やっぱり、白塚さんがムキになってるだけじゃないのかな……)
そう思うが、若造相手に「負けたまま」で引き下がるような白塚でもない。はっきりと白塚の考えを否定する証拠でも出てこない限り、諦めないつもりかもしれない。
山崎は、白塚に見えないように小さくため息をついた。
「俺としては、あんまり可能性は高くないと思うんですがねえ……一応、張ってみますか?」
「ああ。せっかくここまで来たんだしな。あの副理事長に気づかれねえ範囲で、も少し調べてみようや」
(もう気づかれてるんじゃないかな……)
劣勢に立ちたくないばかりに白塚は虚勢を張って、楠見を甘く見ている――いや、見ようとしているのではないかと危惧を抱いたが、白塚相手にそれを指摘しても面倒なだけだ。そのうち火事の原因も分かってくるだろうし、ほかで動いている人間が、相原哲也の別の交友関係を見つけてくるだろう。ギリギリまで付き合うしかないか……と、山崎は腹を括った。




