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29.謎のDVD。そして、海沿いの街 【第1部最終話】

 キョウのベッドを奪ってしまうことになった伊織は、考え事がやめられずなかなか寝付けずに、ベッドの中で長い時間、浅い眠りとぼんやりした覚醒を繰り返していた。

 部屋に入ってからもしばらくアルバイトのマニュアルを読んでいたが、やはり次第に頭に入ってこなくなり、まだ三分の一も読んでいない。明日から始まるというのに大丈夫なのだろうか。そんな不安も、寝付けない原因のひとつだ。


 玄関で物音がして、ふっと目が覚めた。キョウが帰ってきたのだろうか。三時を過ぎている。

 話している内容までは聞こえないが、キョウとハルだけじゃない。楠見さん――?


 楠見は部屋に上がっていくようだ。一緒に帰ってきてこんな時間でも上がっていくというのは、常のことなのだろうか。それとも仕事で何かトラブルでもあったのだろうか。

 考え出すと、気になって仕方ない。せめて顔が見られるといいのだが。

 出ていって「おかえり」を言おうか。そういうの、不自然じゃないだろうか? でも伊織が出ていったら、起こしてしまったと思って向こうも気を遣うかもしれない……などと考えているうちにタイミングを逃した。


 かなり長いこと悶々と考えていたが、ベッドから起き上がって少しだけ様子を窺うことにする。トイレに起きたふりでもして、とドアを開けると、廊下の少し先でキョウがバスルームのドアに手を掛けているところだった。


「あ、お、おかえり……」

「ん。ただいま」

 キョウは顔をこちらに向けずに、ドアのノブに手を掛けたまま答える。


「あの……仕事だったんだろ? お疲れさま……えっと、それで、ベッド……」

「ああ、いいよ。てかまだ起きてたんだ。俺のベッドじゃ眠れねえっつーなら代わるけど?」


 酌を断られた酔っ払いみたいなことを言う。


「や! いや、違う! なんとなく考え事してただけ」

 慌てて答えた伊織に、キョウはかすかに笑ったようだった。


(だけど、なんとなく元気がないような……)


 ぼんやりと、そんな印象を受けた。横顔しか見えず、表情は窺えない。

 そんなところもまた、少し違和感がある。いつもは真っ直ぐに伊織の目を見つめてくるキョウなのに。でも――。


「だけど、無事に帰ってきて、よかった」

 そう言うと、キョウは少しだけ顔をこちらに向けた。


「ん。サンキュ。早く寝ろよ」

「キョウもね。おやすみ」

「おやすみー」


 バスルームのドアを開け、入っていくのだと思ったら、キョウはドアを開けたまま突然考え事でも始めたかのように固まった。そして、ちらりと横目で伊織を見る。


(……?)


 なんだろう、と思ったが、ともかく無事は確認した。伊織は手を振って、部屋に引っ込みドアを閉める。その後すぐに、バスルームのドアが閉まる音が聞こえた。









 ラベンダーティの最後の一口を飲み終えカップを置くと、ハルがカウンターから顔を覗かせた。


「楠見、次、ハイビスカスとミントとラベンダーとジンジャーとレモンバーム、どれがいい?」

「……なんだって?」

「ハーブティだよ。ハイビスカスとミントとラベンダーと……」


「ああ、いい、いい」

 ハルが呪文を唱え始めたのを遮って、楠見は立ち上がろうとした。

「俺はそろそろお暇するよ。遅くまで悪かったな」


「どれがいい?」

 冷たい笑顔で再度言われ、凍りつく。


「あーっと、ハル……もうすぐ四時だよ。良い子は寝る時間だ。というより、そろそろ起きる時間だ。スズメの声が聞こえないかい?」

 引きつった笑いを浮かべつつ両手を広げて明るく言うが、ハルは表情を変えぬまま瞳をきらりと光らせた。

 楠見は観念する。


「……何と何と何があるって……?」

「ハイビスカスとミントとラベンダーとジンジャーとレモンバームだよ」

「……ハルが好きなのでいいよ」

「ジンジャーね」


 にっこり笑って、湯をポットに注ぐ音を立てる。そうしてトレイにポットとカップを載せて、ハルがダイニングテーブルにやってきた。椅子に腰を下ろし、カップを並べる。


「……ハーブティに凝りだしたのかい?」

 楠見は先手を打つことにした。世間話の時間にしてしまえばいいのだ。そのうちキョウが戻ってくる。早く戻って来い。


「これ? 鈴音さんが、業者からサンプルでいっぱいもらったって言ってくれたんだよ」ハルは興味なさそうに。「俺にはどれがなんの味だかよく分かんないんだけどね」

「ああ……ベルツリーのメニューに入るのかな……?」

「さあね」

 この話題を延ばすつもりはないらしい。いきなり世間話は終了した。


「ところで、琴子は先に帰ったの」

「ああ、ここに来る前に家を回ってきた」

「なんだか酷く落ち着かない気持ちをさらに波立たせる感じのメールをもらったんだけど……」


「……すまん。失策だった」

 冷たい笑顔のまま鋭く睨まれて、楠見は両手を上げた。ホールドアップだ。


「ふうん。まあ、いいけどね……」

 ハルは楠見から目を逸らし、ポットの中身をカップに注ぐ。ハーブの種類には詳しくないが、さすがにこれは分かる。ジンジャーの香りが漂ってきた。


「それで、楠見――」

 ジンジャーティをなみなみと入れたカップを楠見のほうに押しやりながら、ハルが切り出した。

 楠見は両手を肩の高さに上げたままの体勢で、ハルの説教を待つ。


「分かってると思うんだけど、キョウを」

「ああ、分かっている」

「それと――」

「悪かった。以後気をつける」

「それならいいんだけど――ああ、どうぞ」


 許しが出たので、楠見は手を下げてジンジャーティをいただくことにした。意外とあっさり済んだので、安堵すると同時に気が抜けた。が――。


「ああ、それから――」


 なんだ、まだあったか? カップに口をつけて、戦々恐々と視線を上げる。


「キョウはえらく元気がないんだけど……」

「ああ……」

 楠見は一度カップを置いた。

「相手の能力を読み違えたって、落ち込んでいる」


 ハルは、三秒ほど時が止まったように停止し、それからきっぱりと言った。


「有り得ない」

「やっぱり、ハルもそう思うかい?」


「思うもなにも……」

 ハルは心外そうに眉間にシワを寄せる。

「サイの能力の大きさや性質の違いなんか、キョウにはリンゴとバナナくらいにはっきり区別できるはずだよ」


 キョウの、サイの能力が見える(、、、)ということに、本人も周囲も絶大な信用を置いている。その分、本人としてはそれを失敗したことへのショックが大きいのだろう。

 だが、楠見の考えが正しければ、今回に関してはそれは仕方のないことだった。相手が狙ったわけではないだろうが、そのキョウの特技が裏目に出て「出し抜かれる」形になってしまったのだ。


「今回はおそらく例外だ」

「って……楠見には原因が分かっているの?」

「まだ、はっきりとはな……」


 楠見は少し言いよどんで。

「……キョウは、謎の男の能力を、『不安定』と表現していた。それが正しいと思う。彼の――もしかしたらシバタもそうだが、彼らの能力は、無理な変化をさせられているのかもしれない」


「……無理な変化?」

 不思議そうに目を瞬かせながら、ハルが真顔で繰り返す。


「彼らの元々の能力とは質も大きさも違う能力を、『持たされて』いるんだ」

「……そのきっかけが、DVD? 楠見はそのDVDのことを知っているの?」

「DVDじゃないが、似たようなケースに心当たりが若干な……だけど、少し考えさせてほしい。まだ……」


 楠見はそこでやはり言葉を切った。この件にはどうにも嫌な気配が見え隠れしている。

 ここから先をハルやキョウに話すべきなのか。楠見には、まだ決心が付かない。

 それは、ハルもキョウも知らない、楠見の過去の記憶を呼び起こさせる。苦く、辛い記憶だ。


「だがな……」

 記憶の蓋を少しだけ開けて、楠見は絞り出すように言葉を繋ぐ。

「俺の『心当たり』の通りだったら、たしかにキョウの言う通り、『謎の男』は早急に保護する必要がある……」


 それだけ言って、口をつぐむ。場をもたせるように、ジンジャーティを口に含む。

 次の言葉を待つようにハルはしばらく楠見の表情を見守っていたが、楠見が口を開かないとなるとやがて見切りをつけたように、手に持ったカップに目を落とした。

 無言の時間がしばらく続き――


「ともかく――」

 沈黙に終止符を打ったのは、念を押すようなハルの言葉だった。

「『約束』は忘れないでね」


 ハルはカップを口元に近づけた姿勢で、上目遣いに楠見を見た。


「ああ、分かっているよ」


 ハルとの「約束」――楠見は了承の印に小さく微笑んで見せる。ハルはすると、またカップに目線を落とした。

「俺も、キョウのやりたいことに、制限なんかしたくないんだけど――」


 そう言ったきりしばらくお互い黙ってジンジャーティを啜っていると、タオルでばさばさと髪をかき回しながらキョウがリビングに戻ってきた。


「あれ、楠見、まだいたの?」

「ああ――さすがにもう帰らんとな」

「キョウ、おいでおいで」


 ハルが先ほどまでの険しい表情を消して、自分も立ち上がりながら手招きをする。リビングの戸棚から救急セットを出すと、蓋を開けて平べったい缶の容器を取り上げた。楠見が車に載せているのと同じ缶だ。

 説明の書かれている面に軽く目をやりながら、ハルが尋ねる。

「楠見、これ火傷にも効くよね」


「ああ」

「はい、キョウ、軟膏塗ったげる。『くすみのくすり』だよー」

「げーっ」

「『げーっ』とはなんだ。効くんだぞ? ちゃんと、寝て起きたらまた塗れよ」

「やだよ、臭いんだもんよ、これぇ」


 ソファーに座らされ、軟膏を掬ったハルの指を顔に近づけられて、キョウは迷惑そうな顔をする。家業の薬にケチを付けるとは、失礼なヤツだ。

 しかし、その前にハルはなんと言った? ――と思っていると、


「くすみのくすりっ、くすみのくすりっ、くすみのくぅすぅりぃー」


 ハルがキョウの火傷に軟膏を塗ったくりながら、楠見の大嫌いな楠見製薬のCMソングを歌い出した。いたたまれなさに席を立つ。


(くそっ、これがキョウに怪我をさせたことに対する報復か――?)


「あ、楠見、帰るのぉ?」

「ああ、お疲れさま。おやすみ」

「おやすみ、また明日ねー、くすみのくすりっ」

「またなー」

「くすみのくすりっ、くすみのくぅすぅ――」


 妙に楽し気なハルの歌声を耳からシャットアウトして、もうこの時間じゃおやすみしている暇もないがな……と心の中でつぶやきながら、楠見はハルとキョウの家を出た。

 時刻は四時をとっくに回っている。午前中の会議に間に合えばいいから、シャワーを浴びて二時間ほどは眠れるだろうか。そんな算段をしながら、車で五分と掛からない自宅マンションへと戻るのであった。







「なんか、どんどん仕事が増えていくよね……」


 部屋の灯りを消してベッドにもぐり込みながら、ハルはため息混じりにつぶやく。枕元の時計を見る。四時半を示しているのを見て、またため息が出る。隣で枕を並べているキョウは、体をこちら側に向け、すでに顔の半分まで布団をかぶって、返事の代わりに眠たげにひとつ欠伸をした。


「武蔵野のパイロの事件が解決したのが先週の水曜日の夜だろ? その後、木曜日に謎のリストの話を聞いて、それから伊織くんの件があって、江戸川、新宿の放火事件、その上ちょっと手ごわいパイロキネシス登場……さらに怪しいDVDの存在がちらほら……と。一週間で立て続けに仕事が増えたよねえ……」


 ベッドに体を横たえて、真っ黒な天井に目をやりながら独り言のようにそれだけ言うと、枕の上で頭を少しだけ動かして横目でキョウを窺う。


「……火傷、痛くない?」

「ん……」


 キョウは半分まぶたの下りた状態で辛うじてそれだけ答えて、眠気の限界が来たように目を閉じる。タイマを使って疲れたのだろう、とハルは思う。それきり眠ってしまうのかと思ったら、目を閉じたまま寝言のような曖昧な口調で、「あのさ……」と口を開いた。


「さっき伊織、……見て。思ったんだけど……」

「うん?」

「あのパイロ。似てるなって」

「……あのパイロって、シバタを連れて消えたっていう?」

「そう……」

「似てる?」

「ん……読めねえじゃん……能力」


 寝言みたいな口調で言って、キョウは半分だけ目を開けた。


「『器』が違うんだ……」

「器が違う?」


 聞き返しながら、ハルは寝返りを打ってキョウに向き直る。


「ん……あのパイロは、器よりもデカい能力を使ってて……それで危ねえんだけど……」

「うん」

「伊織はさ……器があんのに、何も入ってねえ感じ……」

「……」


 ハルは半分眠りかけているようなキョウの顔を見ながら、少し考える。そして、なんとなく理解して頷いた。


器があるのに(、、、、、、)何も入っていない(、、、、、、、、)……)


 ふと、先ほどの伊織との会話を思い出して。

「キョウはさ。伊織くんがサイだとして、どういう能力を持っていると思う?」


 キョウは少しの間考えていたようだったが、やがて目を閉じて小さく息をついた。

「分かんねえ」


「そう……」

「俺、シバタもその後のパイロの能力も読み間違えたし」

「……間違えたわけではないと思うけど……」

「伊織の能力も読めないし」

「何か原因があるんじゃないかな」

「スプーン曲げもできねえし……」

「練習すればいいよ。俺も協力するからさ」

「ハル、協力してくれんの?」


 キョウは目を開けて、上目遣いにハルを見る。ハルは優しく微笑んだ。


「うん。俺はキョウに『やりたいこと』ができるの、なんでも嬉しいもの」

「……ハルは優しいな。楠見とは大違いだ」

「当たり前だろ? 楠見なんかと比べないでくれないかな」

「そっか」


 小さく笑って、キョウは目を閉じた。もう一度目を開ける気配はない。眠ったのだろうか。


(どれかひとつ解決すれば、なにか大きく進展するんだろうか……)


 そんなことをハルは考える。仕事がどんどん増えているのに、どれも取っ掛かり口が漠然としていてすぐに解決できそうな気がしない。


(できるとしたら、江戸川の放火事件かな……)


 被疑者「候補」は絞り込めたという話を聞いた。周期通りに放火事件が起きるなら、次の犯行は土日のどちらかだ。それまでにその「候補」に接触できれば。あるいは次の犯行を押さえられれば、この問題は解決するだろう。キョウもおそらく今度は取り逃がしたりしない。

 都内で起きている全てのパイロ事件に「DVD」が絡んでいるのだとすれば、その件に関してはこの江戸川の犯人かあるいは武蔵野の犯人――アキヤマから突破口が開けるだろうか。


(なんにしても……)


「まずひとつ、解決させないとねえ……」


 小さくつぶやいたが、キョウの返事はない。ベッドサイドの灯りを消しながら、ハルは先ほどのキョウのしょげ返った表情を思い出して、キョウの頭にそっと手を置くと自分も目を閉じた。









 火の手が上がったのは、午前四時を回った頃だった。神奈川県の海沿いの住宅地の一角。築三十年近くなるその二階建ての木造家屋は、目撃者の証言によれば、何かが爆発したような轟音と共に前触れもなく家全体が一気に炎に包まれ、瞬く間に崩れだしたと言う。

 日ごろ海のほうから吹いてくる風にほんのりと潮の香りが漂う静かな街は、異臭と緊急車両のサイレン、起き出してきた住民の悲鳴で騒然とした夜明けを迎えることになった。




 前述の証言をしたのは、新聞配達の若い男性だった。決められたポストに新聞を投げ込みながら、慣れたコースを自転車で走っているまさにその時。前方で爆発音が聞こえ、二軒ほど先の住宅が突如、炎の塊と化した。驚きのあまり自転車のブレーキを掛けて飛び降り、無事に着地はしたものの自転車が倒れ、あたりに新聞紙をばら撒くことになった。

 そのまま立ち竦み思考を停止していたが、激しい音が聞こえた一方で、現場と自分との間には数十メートルの距離しかなかったにも関わらず爆風などは感じなかった。熱いとも思わなかった。数十分後に思い返して、そう証言している。


 消防署と警察に通報をしたのは、隣の家の住人だった。始発電車で都内の会社に出勤する会社役員の男性と、それを送り出す準備をする妻は、その時刻すでに食卓で朝食を前にしていた。

 起き出した頃から、隣家で男女が激しく言い争うような声――どちらかというと激しい声で捲くし立てていたのは若い男一人で、ほかの二人の男女がそれを宥めるような声を上げていた、と後から思い出している――を聞いていた。

 隣人の会話にそば耳を立てるような趣味は持ち合わせていなかったため、内容までは聞いていないが、「哲也」という名前を何度か耳にした。深い交流はなかったものの、長年隣に住んでいる家族の息子の名前くらいは知っている。「息子さんが帰ってきているのか」「こんな時間から何を言い争っているのやら」などと夫婦で少し話題にした直後に爆音を聞いた。


 夫が驚いて外に飛び出し、家の前に突っ立って呆然としている新聞配達の青年に炎から離れるよう声を掛けると、携帯電話から消防署と警察に通報。その間に妻は、二階で眠っていた小学生の息子を叩き起こし、貴重品だけを手に持って息子と共に必死で家を駆け出してきた。が、三人がそれ以上現場から距離を取ることはなかった。

 隣家が激しく燃え上がっているにも関わらず、熱さはさほど感じられなかったからだ。自分たちの家にも一向に燃え移る様子がなかった。そのため、早く逃げなければという切迫感を覚えず、逃げ腰の体勢ながら消防車が来るまで事態を見守ることになった。

 夫婦は後になって、隣人の言い争いの内容を端くれだけでも聞いていないかと警察から尋ねられ、必死でいくつかの言葉の切れ端を思い起こした。




 新聞配達の青年と隣人一家が炎の塊を呆然と見守っているその頃。


 現場から五百メートルほど駅に近い場所で、若い女性が、走ってきた男とぶつかって道端に倒れた。

 駅近くの商店街のパン屋に勤める若い女性だった。仕込みのために夜明け前から出勤の道を急いでいた。遠くで何かが爆発するような音を聞き、足を進めながら振り返った時に、脇道から飛び出してきた背の高い痩せ気味の若い男と衝突して突き飛ばされるように転んだ。


 女性は反射的に出した手に軽い掠り傷を負った程度で済んだが、ぶつかってきた男は辛うじて聞き取れるほどの小声で「すみません」とつぶやくように言っただけで、倒れている女性に手を貸すこともなく慌てた様子で駅のほうに走っていった。

 ぶつかったこと自体にも驚いたが、女性が倒れた状態でしばし放心してしまったのは、男の体から漂う焦げ臭いにおいに本能的な恐怖を抱いたからだ。――まるで火の中から出てきたようだった、と後から証言している。見送った後姿は疲れたようによろめいていた。

 我を取り戻してパン屋に出勤し、店主に手に傷を負った事情を話した。時を置かずして、近所で大きな火事があったことが知れ、店主が警察に連絡を入れた。




 駆けつけた消防隊員と警察官は、想像もしなかった現場に一様に息を呑んだ。

 通報は隣家からとあって早かったし、始発電車も動きだす前の早朝の道は空いていた。消火活動が遅れをとる要素は一切なかったはずだ。それなのに――


 現場に最初の消防車が到着する頃には、木造二階建ての住宅は柱を残してあらかた燃え尽きていたのだ。


 かすかにくすぶる小さな火を消し、完全に鎮火するのを待って捜索を始めるまでに、消防隊の到着から十分と掛からなかった。住人が在宅していたかどうかは現段階では不明だが、内部に生存者はいないものと思われた。

 少し後で、目撃者から「家全体が突然燃え上がった」「数十メートル離れた場所では熱を感じなかった」などの証言を聞き、聞き取りに当たった者はみな当惑の表情を隠すことができなかった。


 火事に気づかなかった人々も起き出し、街が動き出す時刻には、捜査当局は既にこの家に住んでいたはずの家族を把握しいた。居住しているはずの中年夫婦は行方不明。数年前に高校進学のために家を出た息子と、先週同じようにして東京に越した甥っ子がひとりずついることを掴み、二人への捜査に着手すると共に、夫婦の捜索が開始された。

 直前に家の中で言い争う声を聞いたという隣人の証言から、行方不明者の所在については誰もが無言で焼け落ちた瓦礫の下に意識を向けていた。




【第1部・完】

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