28.楠見、ハルの報復を恐れる。ハルは「見落とし」に気づく
「何があった?」
楠見は車を走りださせながら、後部座席に乗り込んだキョウへとルームミラー越しに尋ねる。暗くて表情は読み取れない。
緑道の手前で聞いた、雷の落ちるような轟音。ドアを開けた瞬間車内に入り込んできた焦げ臭い空気。近隣の住人が駆けつけてきそうな気配を察し、ともかくこの場を少し離れようと狭い路地をいくつか曲がった。
「もうひとりPKが――いや、パイロかな。それが現れて、連れ去られた」
悄然と、キョウが答える。
「連れ去られた……?」
「仲間……みたいだった。急に現れて、警察はダメだっつって。シバタは意識を失ってた。テレポーテーション。だと思う」
「テレポーテーションだって? 人をひとり連れてか?」
キョウの説明は要領を得ないが、なんとなく状況を想像する。
シバタという人間については、ここまでの道すがら琴子から報告を受けている。心身に異常を来たしている恐れがあるが、琴子の報告からも、警察から得た情報から考えても、キョウが手こずるような相手には思えなかった。連絡が来ないのは、単にシバタがなかなか行動を起こさず、追跡が長引いているからだと思ったのである。
「シバタの能力は? タイマは済んでいたのか?」
「ああ――」
キョウはさらに声を曇らせる。当初の目的は果たしていると言って、喜べない。能力を失ったサイが、正体の分からない者に連れ去られ行方をくらます――この事態がこの後何を引き起こすのか。警察に引き渡すのは、当人を保護することにも繋がるのだ。
シバタ・シュウイチという名前は分かったものの、それ以上のプロフィールが不明とあっては、後からその無事を確認し保護するのも容易ではない。
「それで、あんたは無事なの?」
琴子がシート越しに振り返り、キョウに尋ねる。
「ああ」キョウは短く答えた。
「そう――突然呼ばれたから、何かと思った……」
言って、琴子はかすかに息をつく。全く表情には出さないが、心配していたのだろう。
「悪い。後から来たヤツのこと、琴子が見れば何か読み取れるかと思って」
大通りに出てしばらく進み、適当なスペースを見つけて一旦車を停めた。そこで船津に電話をし、簡単に現状を報告する。と言っても、分かっていることはほとんどない。楠見たちが去った後の現場の混乱を考えて、とりあえずの一報である。改めて詳細を報告する旨を伝え、短い通話を終えた。
「それで――」ルームミラー越しに目を合わせ、楠見はキョウの顔に目を留めた。「おい……?」
上半身を捻って、顔を寄せろと手招きをする。少しだけ身を乗り出したキョウに手を伸ばし、顎を持ってクイッと左を向かせた。キョウは煩わしそうな顔をしたが、構わない。
「怪我したのか?」
「え?」
暗がりで気づかなかったが、多少は明るい大通りに出て見れば、右の頬骨の辺りに擦り剥いたような傷がある。楠見は自分の頬骨のあたりを指で示し、傷の位置を教えた。
キョウはその場所に手をやり、「痛てっ」と小さく顔をしかめる。
「馬鹿、触るな」
そう言ってルームミラーを向けてやると、きょとんとした顔で覗き込んで、「ほんとだ……」とつぶやいた。
「気づいてなかったのか?」
呆れてため息をつく。キョウは時々、恐ろしく痛覚が鈍い。「我慢強い」を通り越して、痛みを認識しないようにできているのだ。楠見としては、キョウに仕事をさせる上で一番心配している点なのであるが、本人が自覚しないのでタチが悪い。
「あの時かな……」
「火傷か?」
「そうかも」
軟膏を積んでいたな、と思い、「ちょっとゴメンよ」と琴子に断って助手席の前のグローブボックスに手を伸ばすが、開けたところで手を止めた。
「その前に、水かなんかで冷やしたほうがいいんだろうな……」
「いいよ、このくらい。早く帰ろう」
「痕が残ったら困るだろう?」
もう一度振り返って軽く睨みつけるが、キョウは不機嫌そうにシートに沈み込んで顔を背けた。
「氷でも買ってくる?」
前方で明るい光を漏らしているコンビニを目で示し、琴子が言う。
「悪いな。頼むよ」
コンビニの前まで車を進めて千円札を預けると、琴子は店内に走っていった。
「おい、ほかはないか?」
「ん?」
聞かれたキョウは、一瞬おざなりに自分の体に目を落としただけで、「うん」と答えた。
すぐに戻ってきた琴子から、キョウは冷却材を素直に受け取り頬に当てる。
「当てっぱなしにするな。時々外せよ」
楠見は注意することを忘れない。気をつけて見ていてやらないと、今度は凍傷を起こしかねない。世話の焼けるヤツだ。ともかく急いで帰ろう。この時間なら、キョウの家まで二十分とかからないはずだ。
車を走り出させながら、楠見はキョウに声を掛けた。
「それで――テレポーテーションってのは、確かか?」
「だと思う」
「シバタを連れて?」
そうなのだとしたら、かなりの能力者だ。が、キョウが敵わない相手かと言われれば、それはないだろうとも思う。純粋に「能力の大きさ」ならば、キョウに勝てる者は、おそらく世の中に何人もはいない。
「ん、だけど――」
キョウは言いかけて、言葉を切った。説明に困ったような、一から思い返しているような沈黙を置いて、また口を開く。
「大した能力じゃない、って思ったんだ。相手はPKで、シバタよりもちょっと大きい程度……の、はずだった。なのに、実際はパイロで、かなりの力だった」
キョウはまた少し考えるようにして、続ける。
「シバタも――最初はぜんぜん……上手く行って紙くずに火がつけられる程度のヤツかと思ったんだけど、ほんとはもっとデカかった」
琴子が驚いたように、楠見に向かって目を上げた。
「あたしも、シバタの意識からその程度だって読んだ。たまに上手く火をつけることに成功して喜んでるぐらいの。シバタの記憶の中でも、そんなに大きな火はつけてなかった」
「ふむ……植え込みの木に火をつけたのは、どちらだ?」
「……シバタだ」
「その傷をつけたのは?」
「後から現れたほう。凄いエネルギーぶつけて来やがった。大したことないと思ってたから、押し返すのに失敗したな」
相手に怪我をさせないように、能力を押し返す――キョウは難なくこなすが、実際には難易度の高い技だ。相手の能力の程度が読めなければできないし、そもそも少し「上回れる」能力を持っていなければ話にならない。相手がどうなっても気にせず全力でぶつかればいいのなら、話は早いのだが。
「油断したかな……」
またシートに沈み込み、キョウはつぶやくように言う。
「……それか、能力を読み違えたのかな……」
楠見は答えず、黙って思考する。どちらも考えられない、と思う。
人間としてどこか抜けているところがある、と思っているしはっきり言ってもいるが、キョウはサイとしては一流だ。場数も踏んでいる。どんな相手であろうと、仕事中に「油断する」など有り得ない。「能力を読み違える」などということも、これまでになかった。しかし――。
楠見はひとつの可能性を考えていた。それは昼間からずっと漠然と頭の中にあったことであり、琴子とキョウの報告からの連想であり。
この考えが正しければ、キョウの他人のサイが見えるという能力が、裏目に出たということだ。
後部座席の様子を窺う。
キョウは黙って頬に冷却材を当て、その肘を窓枠について、窓の外に目をやっていた。
失敗に消沈しているようでもあり、上手くことが運ばなかったことに拗ねているようでもあり、疲れてもいるだろう。だから、少し静かにさせておくことにする。
「琴子、ハルに電話を掛けてくれるかい?」前方に視線を向けたまま、助手席の琴子に頼む。ハルも心配していることだろう。「とりあえず――『これから帰る。ちょっと複雑なので、帰ってから話す』って伝えてくれ」
「分かった」
琴子はスマートフォンを取り出し、ハルの番号を呼び出すと、すぐに電話に出たらしい相手に向かって「これから帰る。ちょっと複雑なので、帰ってから話す」と言われた通りにそのまま伝え、相手の返事を待つ間もなくなんのためらいも見せずに電話を切った。
(……もっとなんか、あるだろう……)
楠見はハンドルを叩きたい気分になった。これではハルはますます心配するのではないか? 自分で電話すればよかったと後悔し、おそらく苛立ちの絶頂にいるであろうハルの報復を想像して、暗澹たる気持ちでため息をついた。
電話の着信音が鳴り出した。琴子からだ。ハルはコール一秒で電話に出る。
『これから帰る。ちょっと複雑なので、帰ってから話す』
それだけ言って、電話は切れた。なんだそれは……もっと何かあるだろう。と思うが、おそらく楠見から伝えろと言われた言葉をそのままリピートしただけなのだろう推測する程度には、ハルは琴子のことをよく知っている。「帰る」というからには、ひとまず全員無事なのであろう。
ケトルが湯の沸いたのを知らせる音を立てた。
キッチンに脚立を運び込んで換気扇の解体にかかろうとしていたハルは、作業を中止して脚立を畳む。沸いた湯はカップとティーポットを温めることに使い、ケトルにまた水を汲んだ。
キョウと楠見が帰ってきたのは、電話から十五分ほど経った頃だった。
帰ってきた気配を察知して玄関まで迎えに出たハルは、「おかえり、遅かったね」と言い掛けて途中で口をつぐむ。
「キョウ……怪我したの?」
「ん? ちょっとだよ」
頬に当てていた冷却材を外して顔の傷を見せるが、ハルの視線は、冷却材を持つキョウの腕のほうに行っていた。
その右肘を掴み、目の前に持ち上げる。右腕のTシャツの袖から出た部分を一度よく見て、それから本人に見えるようにさらに持ち上げた。
「あれっ、ここも……?」
キョウは驚いたように目を丸くする。
右肘から下に、二十センチほどの火傷がある。表皮を炙った程度の軽いものだろうが、この大きさで痛くないはずはない。
「ハル、遅くなって悪かったな」
キョウの後ろからやってきた楠見にも、ついでにキョウの腕を見せて抗議の視線を送る。
楠見はあからさまに動揺した顔をした。
「そこも火傷かっ? お前……本当に気づいてなかったのか?」
ため息をついて眉を顰めた楠見に、キョウはバツの悪そうな顔をした。
「ともかく、こっちおいで」
肘を掴んだままキッチンに引っ張っていき、水道を捻るとキョウの腕を蛇口から出てくる水の中に突っ込んだ。それが染みたのか、キョウは一瞬顔をしかめたが、大人しくされるままにしている。
ほかに火傷がないことを確認すると、ハルはダイニングへ椅子を取りに行き、キッチンの流しの前に置いてキョウを座らせてやる。それからケトルの火を止めて三人分のラベンダーティを入れた。
楠見はダイニングテーブルに、カウンター越しにキッチンの二人が見える位置に腰掛けた。腕組みをして、何事か考え込んでいる。
ハルはそんな楠見と、腕に水を流し続けているキョウと、カップにお茶を注ぐ手元を等分に見比べながら、
「それで、何があったの?」と声を掛けた。
楠見が、琴子とキョウから聞いた報告をまとめて手際よく説明をする。一通りのことを説明し終えるのにそれほどの時間はかからなかった。つまり――よく分からないのだ。
(まただ――)
と、ハルは思う。どうにも「よく分からない」事件が多過ぎはしないか?
「……シバタってのは? すぐに見つけないと危険がありそうな様子なの?」
個人的に犯罪を行っただけの者なら、能力を斬ったことで自分たちの仕事は終わりだ。そのまま警察に引き渡せればベストだが、取り逃がしたとなったら探し出すのも警察に任せたほうが早いだろう。
が、何かの組織や別の犯罪に関わるサイなら、別口の「敵」がいる恐れもないではない。野放しになったとあっては、口封じや証拠隠滅に消される恐れもある。能力があれば抗うことも可能かもしれないが、その手段をなくしてしまっているのだ。
楠見は首を捻ってキョウへと目をやる。
キョウは、水につけた腕にやっていた視線をハルに向かって上げた。
「少なくともあの男は、シバタには危険じゃねえとは思うけど……。シバタのことを心配してるって感じだったな。シバタがなにかの組織と関わってるってのは、シバタの妄想だって言ってたし……ただ、変なDVDが送られてきたってことは……」
「完全に、個人的に遊んでただけの犯罪者でもないってわけだ?」
嫌な予感が的中しかけているのを、ハルは薄っすら感じた。
「だけど、DVDってなんだろね」
独り言のようにそう言って首を傾げる。
と、楠見はカップを置き、少し考えるように眉を寄せながら、こちらも独り言のような口調で言った。
「見るとパイロキネシスの能力が身に付いちまう。そんなDVDがあるのかな」
「冗談だろ?」
キョウがうんざりした声を上げる。が、楠見の表情は真剣だ。
「理論上は有り得るよ。二十歳近くもなって新しい能力を身に付けたとか、能力を定期的に行使しないと気分が悪くなるとか……元々自然に持っていた能力とは考えにくいしな。……ここ最近、パイロの放火事件が増えてるってのは事実だろう?」
「まさか、そんなDVDが配られているとか……?」
「……もしかして、武蔵野のパイロも……?」
キョウの口調に、緊張の色が滲む。
同時にハルも気づいていた。武蔵野の事件で「見落とした」ものに。慎重に、そろりと口を開く。
「武蔵野のパイロ……アキヤマ、だっけ? あいつも、『最近発火ができるようになった』って。……楠見、アキヤマはその後どうなったの?」
捕まえて警察に渡してから、一週間が過ぎた。楠見は手にしたカップに目をやりながら。
「検察に送致したとは聞いたが、その後は聞いていない。証拠は出ないだろうし、釈放されているかもな」
「話が聞けないかな。船津さんを通してでも。DVDのことを知らないかだけ確認できれば……」
「そうだな――明日、問い合わせてみよう」
そう言って、楠見は一度考え込むように黙った。ハルは続けて聞く。
「それで、後から現れた男は、そのDVDにも関係あるのかな。シバタの『症状』を知ってたってわけだろ?」
「分かんねえ。けど、どっちかっていうと、シバタよりもそっちの男のほうがヤバそうだったよ」
「……ヤバそうって?」
「うぅん……なんていうか……相当無理してるかもしれねえ」
キョウは視線を宙に上げて眉根を寄せる。
「テレポーテーションも……あれ、負担デカいだろ? しかも一人連れてだろ? パイロの能力も、無理やりデカくしたみたいな感じあったし……あいつ本人もあの能力の使い方じゃ体が持たねえんじゃないかな」
ハルは、今度は楠見と顔を見合わせた。楠見も同調するように頷く。
そんな男の体のことなど知らないと言ってしまえばそれまでだが、「サイを守る」のが楠見の仕事だ。世の中にとって危険であるというのもさることながら、その男が能力の使い方を知らずに無茶をしているのならば、無視することもできない。
「キョウ、そのパイロキネシス――」楠見は肘をついて顔の前で手を組み、目を上げる。「そいつの能力なら――」
「ん?」
「家を一軒丸ごと燃やすことは可能だと思うか?」
唐突に話題を変えた楠見に、キョウは驚いていなかった。楠見と視線を合わせ、瞬きをする。同じことを考えていたのかもしれない。腕の傷に視線をおろし、考えるようにしながら、
「できると思う」
そう言って、キョウはまた楠見と視線を合わせ、それから困惑したようにハルのほうを見た。
もしも出会ったのが三軒の住宅を全焼させたパイロキネシスだとしたら、大変なチャンスを逃したことになる。知らなかったとはいえ、その場で取り押さえられなかったのは、キョウにしてみれば大失態だ。
楠見は、またしばらく考えて、口を開いた。
「明日……。大田、八王子、青梅の現場を回ってみよう。船津さんに話は通しておく」
「俺も行く?」
キョウが聞く。時間が経ち整地されてしまっていては心許ないが、キョウが見れば火をつけたのがサイかどうかは分かるかもしれない。あるいは先ほど対峙した、謎の男の仕業なのかどうか――。
「頼む。お前は明日は学校を休んでいい。連絡しておくよ」
「ん、分かった」
少し安心したように、キョウは答えた。今キョウが欲しいのは休息よりも、挽回の機会だ。連続放火犯を取り逃がし、危険な人物を捕らえるチャンスを棒に振った――キョウの思考回路がそういう風に動くのは、ハルにはよく分かる。楠見も同じことを考えたのだろう。「仕事をさせる」のは温情だ。
「俺は、午前中は外せない会議がある。昼から空ける。一時ごろ理事長室に来てくれ」
「分かった」
「俺は? 一緒に行こうか? それともほかの件を手分けして同時進行で進めてもいい」
「ああ、できたら頼みたい。午後からでいい」
「うん。……キョウ、もういいよ」
流水を止めながら、キョウに声を掛ける。タオルを渡してやって、
「シャワー浴びてきなよ。お前、焦げ臭いよ。それから軟膏塗ろう。と……」
たっぷり二十分は冷やしていたキョウの腕を掴み、火傷を検分する。
「これじゃ、お湯が染みるね」
「大丈夫だろ」
「そう? あんまりお湯掛けないように入りなよ。痛かったら言いな」
そう言ってキョウを送り出し、ハルはまたケトルに水を汲んで火に掛けた。




