27.ハルはキッチンをピカピカにする。キョウは、
(やっぱり、行けばよかったんだよなあ)
ダイニングテーブルに向かって五杯目のカモミールティに口をつけながら、ハルはため息をついた。
神経を落ち着かせる効果があるのだと鈴音から教わったのだが、この状況ではリラックスなどするべくもない。
伊織のおしゃべりに付き合って――というより、ハルの落ち着かない暇つぶしに伊織を付き合わせたのだろうが、小一時間も取り留めのない話をしたが、遅くまで付き合わせても悪いかと思ったのはお互い同じだろう。一時近くを示している時計を見て、伊織は慌てて引き上げていった。
それにしても――と、時計に目をやってまたため息をつく。
(遅いな……)
考えていた通りの簡単な仕事ならば、とっくに終わってキョウか楠見から連絡が入っている頃だろう。何も言ってこないとなると。
(何かあったのかな)
想定外の出来事で、思いがけず時間を取られているのだろうか。犯人との対決になって、何か起きた?
いや、武蔵野のときのように、待っているだけで時間を食ってしまうこともあるのだから、今回もそのパターンかもしれない。でも――。時間を追うごとに、嫌な予感が膨れ上がる。
カモミールティをもう一口飲んで、気を紛らわすために立ち上がり、キッチンに行って意味もなく湯を沸かし始めた。先ほどから、この往復を繰り返している。カモミールで落ち着くのはもう諦めた。次はラベンダーティにしよう。
伊織が部屋に引っ込んでからの間、ハルは湯を沸かしながらキッチンの拭き掃除をし、シンクを磨き、まな板を漂白剤に漬け包丁をとぎ、ぬか床をかき混ぜて冷蔵庫を整理し食器棚のガラスをピカピカにした。
これでもまだ帰ってこなければ、今度は換気扇を解体洗浄しようか。
IHヒーターのかすかな作動音を耳に入れながら、ハルは次のターゲットの換気扇を睨み付ける。
(やっぱり俺も行けばよかった……)
ハルとキョウが別々に仕事をすることは、珍しくはない。ほかの者と組むこともあるし、ひとりで行くこともある。それでもサイ犯罪者を捕まえるとなると、ひとりで行かせるにはためらいがあるが、今回のレベルの相手ならば問題ないはず。
――そうは思っても、ハルにはどうも、この一連の放火事件は一筋縄ではいかないような、複雑な事情が絡んでいるような、なんだか嫌な予感があった。
キョウも、同じようなことを考えているのだろう。船津に問い合わせて、ほかにも同様な事件が起きていることを確認していた。
三つの連続放火は――いや、まだ「仕事」として依頼の来ていないほかの事件も合わせて、どこかで繋がっているのかもしれない。
自分たちは。武蔵野の事件で、何か見落としたのではないか?
そんな漠然とした緊張感を覚える。
伊織のことはお嬢にでも任せて、自分も一緒に行けばよかった。
だいたい、あの伊織とあのお嬢が二人きりでひとつの家の中にいたからと言って、どんな間違いが起こり得る?
いや――。しかし、伊織を守るのもハルたちの仕事だ。あおいには日中のほとんどを伊織のガードに使わせてしまっているし、夜の間くらいは開放してやる必要があるだろう。
ハルは資料にあった新宿のパイロキネシスの犯行履歴を片っ端から思い浮かべる。ゴミや紙。木くず。ささやかな能力だ。大丈夫。キョウの敵じゃない。
そう自分に言い聞かせて小さく首を振り、湯の沸いたケトルの火を止めた。
キョウはスマートフォンを握ったまま、息を呑み目を見張っていた。
意識を失い木に背を預けているシバタの、その隣に、長身の男の影があったのだ。
男はシバタの横に膝を着き、そっと肩を揺する。
「シバタ……? おい……」
(なんで……どこから現れた?)
キャッチボールをしていた男たちが去ってから、ほかの人間の気配は全くなかったはずだ。「仕事中」なのだ。「敵」と向かい合っていようがおしゃべりをしていようが、神経は絶えず周囲に張り巡らせている。他人が近づいてくる気配に気づかないはずがない。ましてや相手はサイだ。近くにいればその存在は肌で感じることができるはずだった。
(こいつもPKか……)
油断なく観察し、キョウはそう判断する。能力はシバタよりは大きいだろうが、そこまでの強さは感じ取れない。せいぜい小さな物を動かすか壊すかできる程度のPKだろう。サイの能力を隠したり気配を消したりできるような相手にも見えない。
「シバタ」
声を掛けても肩を揺すっても反応がないと見ると、困惑したようにシバタの体を検分し出したが、怪我はなく意識を失っているだけだと判断したようで、安心したようにひとつ息をつく。
シバタの仲間だろうか。少なくとも、危害を加えそうな様子はない。助けにきた、といった雰囲気だ。
そう考える間に、男は立ち上がりこちらに体を向けた。若い男だ。暗がりで表情までは見て取ることはできないが、キョウを観察するようにじっと視線を送ってくる。そして、
「きみは、何者だ?」
まさにキョウが聞きたかったことを、先に聞かれてしまう。
「シバタに何をした?」
男は重ねてそう聞くと、警戒するように少し腰を落とし前傾姿勢を取った。キョウの返答しだいでは、すぐにでも飛び掛るつもりだろう。威嚇に似た鋭い気を放っている。
「そいつの知り合い?」
キョウはシバタを指差し、男に聞く。男は答えない。先に自分の質問に答えろというのか。
「そいつは新宿区内で連続放火事件を起こしていたサイだ。俺は警察の依頼を受けて、そいつの能力を斬りにきた」
「『能力を斬る』? ……シバタはどうなったんだ……?」
「サイの能力をなくした。今は気を失ってるだけだ。怪我もしてないし、時間が経てば普通に目を覚ます」
キョウの話した内容を確認するように、男はシバタに目を向けて少し押し黙った。そして、またキョウに顔を向ける。
「能力をなくすって……そんなことができるのか?」
「できる」キョウは頷く。
「それじゃあ……」男はもう一度、シバタに目を向けながら言う。「シバタはもう、放火はしないのか?」
「サイの力ではな。マッチやライターだったら知らねえけど」
「火をつけなくても、辛くはなくなるのか?」
シバタがさっき言っていた、「火をつけていないと苦しくなる」という症状。それをこの男は知っているのだろう。質問というよりも確認のようで、どこか安堵の色を含んだ口調だった。
「……あんたは、そいつの言ってた『組織』の人間?」
そう聞くと、男はゆっくりとまたキョウに視線を戻す。そして、
「違う」
きっぱりと、言い切った。
「俺は、……組織にはいる……いや、いた。が、シバタの言っている『組織』ってのは、こいつの妄想だ」
キョウは首を傾げる。人間関係がよく分からない。シバタの話はたしかに妄想じみていたが、ではこの男はいったい何者なのだ? が、男は話し過ぎたというように、キョウから目を逸らし黙り込んだ。
こうしていても埒が明かない。ひとまず楠見に連絡を――と思って手にしていたスマートフォンを再び取り上げたとき、男がまた声を掛けてきた。
「な。どんな能力でも、なくすことができるのか?」
「ん? サイならな」
「俺の……能力も、その……」
少しだけ言いよどんで、それから迷いを断ち切るように男は強い視線をキョウに向けた。
「『斬る』? ……ことができるのか?」
キョウは黙って、男の質問の意味を考える。そして、頷いて。
「能力をなくしたいのか?」
男は自分で聞いておきながら、意外なことを聞かれたとでもいうように「え……」と小さくつぶやく。
「いや……いや、それは……」
困惑するように目を伏せる。そこに次に言うべき言葉が落ちているとでもいうかのように、じっと地面を見つめて何か考えている。探している言葉は、疑問か、要求か、それともなにかの取引か――? 男が黙っていたのはしかし、数秒の間で、それから急いで話題を変えるかのように視線を持ち上げた。
「それより……シバタはこれからどうなるんだ?」
「そいつは連続放火犯だ。発火能力はもうなくなって危険はないから、警察に引き渡す」
「警察?」
男は眉を顰め、大声を上げる。先ほどの困惑したような表情はもう見られない。
「だ、駄目だ! 警察は……!」
「なんで……」
そう聞こうとした瞬間に、男の能力が膨れ上がった。
PKだ――とキョウは再度確認する。
サイコキネシスを武器に使う者の、常套手段。昨日のスガワラと同じように、エネルギーをぶつけてくるつもりか。この男の能力はキョウやハルのような大きいものではない。スガワラよりも小さいだろう。それでもまともに食らえば、通常の人間ならば吹っ飛ばされて無傷ではいられない。人を相手にやっていいことではない。
(こいつも斬ったほうがいいのか――?)
相手の能力も確認せずに躊躇なく力を放ってくるのだとすれば、危険なサイだ。
瞬時に考えを巡らせつつ、攻撃に備える。
だが。わずかな思考の間に、男のエネルギーはさらなる膨張を見せ――
(……なに?)
男の全身が巨大なエネルギーに包まれるや、その右手から放出されたエネルギーは、巨大な炎となってキョウに襲い掛かってきた。同時に男の足元の砂や小石が浮き上がり四方に散る。緑道の周囲に植わった木々の葉が、熱風に煽られて盛大な音を立てる。その風にもぎ取られた葉が、宙を舞い夜の闇に消えて。
「……っ!」
わずかに反応が遅れ、男のぶつけてきた炎がキョウの迎え撃つ力に勝る。相殺し切れなかった炎がキョウの身に達した。炎と、それに巻き込まれた形で襲い掛かってくる小石から身を庇うように右腕を上げて、全身に気を張り巡らせて防御する。
肌に熱を感じ、力に押され後退しそうになるが、この程度で弾き飛ばされはしない。しかし――
(こいつも……?)
なぜ。シバタに続き、この男もキョウが「読み取った」以上の膨大な能力を発現した。しかも、あらかじめ感知しえなかった能力を持っている。こいつもパイロキネシスだと――?
驚きと困惑を、しかし表には見せずに、キョウは体を庇っていた右手を下ろし、男に視線を送りながら考える。
(何者だ――?)
膨大なエネルギーを行使した後でもなお、男からはそれほど大きな能力を持っている気配が感じられない。
能力を行使するときにだけ、変化する? そんなことが有り得るのか?
(もう一度撃たせて、様子を見るか?)
琴子を連れてくればよかったと、キョウは少々後悔した。
楠見のような常人と同じく、サイであってもサイの攻撃から身を守る手段を持たない琴子は、危険な相手の前に連れてくることはできない。だから、残した。だが、琴子がこの男を見れば、多少の事情が掴めるだろうか。
(――琴子――)
近くまで来ている可能性を考え、キョウは意識の「ロック」を外して琴子に呼びかける。
(琴子、近くにいたら来てくれ――)
テレパスの能力を持たないキョウには、琴子が呼びかけに気づいたかどうかは分からない。が、先ほどのメールを見て、楠見は琴子を連れてこちらに向かってきているはずだ。
琴子が感知すれば駆けつけてくれる。楠見が一緒ならば、安全な場所から「観察」させるだろう。
油断なく男を見据えながらそう思考するキョウの視線の先で、男は慄くような色を浮かべた瞳をキョウに向ける。
そうして視線を対峙させ、キョウは男の異変に気づいた。――憔悴している。顔色が悪い? 暗がりではっきりとは視認できないながらも、どこか具合の悪そうな様子が見て取れた。
しかし男は再度、緩やかに身の回りに気を漲らせる。そして、
「きみは……きみも、PKなのか……?」
驚きを含んだ声色で、慎重に問う。
「そうだ」
キョウは答えて、見えない鞘から抜き払うように、ゆっくりとタイマを右手に出現させる。
男は刀に目を奪われるようにしながら、
「きみはいったい……何者なんだ……?」
「こっちが聞きてえんだけど。あんた何もん? その能力は……」
キョウは言いかけて、少し考える。その能力は……?
束の間の思考の後、
「なんで、そんなに不安定なんだ?」
言葉にすると、それが一番しっくり来るような気がした。「不安定」なのだ。男の元々持つ能力の器には不釣合いに大きく、一定しないように見える。
すると、男は驚愕するように大きく目を見開いた。
「なんで……そんなことを……!」
男の身を包むエネルギーが、再び膨れ上がる。次はタイマで受け止める。そのまま斬り掛かる。拘束し、楠見を呼んで話が聞ければ一番いいが、無理ならこの場で斬る。この男の能力の使い方は危険だ。他人に対しても、そしてこの男自身にも、おそらく――
「うおおぉぉぉぉぉ――!」
男が吠えた。先ほどよりもさらに大きな力が全身を覆い、それを発散させるように拳を前に突き出す。
炎が轟音を立てて地を走り、キョウに向かって押し寄せる。
キョウはその炎が自分の身に達する直前に、眼前に地面と水平に構えたタイマで受け止めた。重い衝撃を感じ、峰に左手を添える。火花が弾けるような音が鳴り、数秒間続く。
熱風が体の脇を吹き抜ける。
強大な力を神剣の刃で受け止めながら、キョウは舌打ちをした。視線だけずらして周囲を確認する。男の放った炎はすべてタイマが吸収している。飛び火などは間違っても起こさせない。が、轟音と炎の放つ熱は、サイでなくとも感知するだろう。寝静まっているかのように静かな住宅街でも、外で何事か起きていることに気づいた人間がいるかもしれない。
――これ以上、時間は掛けられない。
そう判断し、峰を支えていた左手をずらし柄を両手で握ると、受け止めていた炎を力任せに横薙ぎに叩き斬ってそのまま男に飛びかかろうと跳躍し――
(――――っ?)
先ほどシバタを寄りかからせた木の前に、音もなく着地する。
二人の姿が、ない。
意識を失い木にもたれているはずのシバタも、その傍らで巨大なエネルギーを放っていたはずの謎の男も――。
轟音は既に消え、辺りに嘘のような静寂が戻っている。
「なんで……?」
呆然と目を見張り、思わずつぶやく。振り返り、周囲を見回す。そして。まさか、と思う。
(テレポーテーション……?)
突然現れた時と同じく――いや、現れた時とは違い、今度はシバタを連れて二人で、忽然と姿を消した。
炎を受け止め周囲を気にし、キョウはじっと男にだけ目を据えていたわけではないが、それでも意識は間断なく向けていた。目を離した時間もほとんどなかったはずだ。男が自分の足でどこかに行くほどの隙はあるはずがない。
しかし……またも想定外の能力を使われ、しかも能力を失ったシバタを連れ去られた。
動くことができずにいるキョウの後ろに、一台の車が滑り込む。
「キョウ!」
ブレーキと同時にドアが開き、楠見が半身を出して声を掛けた。キョウは背後を振り返る。
楠見は素早く辺りを見回して。
「お前ひとりか? シバタは?」
「取り逃がした」
「……なんだって?」
楠見は眉を寄せる。が、次の瞬間わずかに後方に目を配り、キョウに声を掛けた。
「キョウ、乗れ」
キョウは小さく頷き、タイマを消しながら車に駆け寄ると、運転席の後ろのドアから車内に乗り込んだ。
すぐに車は走り出し、住宅街の路地を器用に曲がって広めの通りへと出た。




