26.キョウ、「新宿のパイロ」と対峙する
シバタは牛丼店を出て、琴子の読んだ通り、駅とは反対の西に向かって歩き出した。
キョウは、琴子が少し先の曲がり角で煌々と光を放つコンビニに入っていくのを視界の端で確認し、ぷらぷらといった調子で歩いていくシバタの後を追う。
都心の喧騒を離れ、商店の数も減っていく。周辺はひと気もなく静まり返っている。多少手こずったとしても、人に見られる心配は少ない。が、同時に「まずいな」とキョウは思った。
鉄筋コンクリートの建物が多い駅周辺と違い、この辺りは古い木造家屋が多い。
大した火力でなくても、シバタの言う「素敵な物」が見つかって上手く火がつき住宅に飛び火すれば、思わぬ大火事に繋がる恐れもある。入り組んだ細道の多いこの辺りでは、万一のときに消防車が駆けつけるにも時間がかかるだろう。
周辺を見回して低層の住宅が多いことを確認すると、キョウは横の民家の塀に飛び乗った。そのままシバタに近づき、塀の上から屋根へ、また塀へと音もなく飛び移りながらシバタと並走する。
シバタはなかなか火をつけない。「手当たりしだい」という印象だったが、「素敵な物」とやらを見つけて選り好みをするようになったのだろうか。
歩き回るだけのシバタに、キョウは焦れてきた。
最初の場所からかなり離れていることを気にして、楠見に一通メールを送る。「追跡中」の一言と、町名番地が表記された電柱の写真――。琴子が合流していれば、近くまで来れば気配をキャッチしてくれるだろう。
シバタに先行して次の曲がり角まで進み、メールの送信ボタンを押したとき、キョウの足元を小さな黒い陰が横切った。
野良猫だ。
シバタがこれからやってくるはずの小さな十字路の真ん中で、猫は足を止める。向こうから歩いてくるシバタを見ている。電柱の陰に隠れて、キョウは、前方に猫を発見したシバタの顔を正面から見た。
シバタは猫に気づくと、立ち止まった。
街頭の頼りない光の中で初めて正面から見たシバタは。獲物を見つけたとでも言うように、嬉しそうに口の端を上げる。
(猫を狙うのか?)
キョウは眉を顰める。非常にまずい傾向である。対象が生き物では、「火がついてもすぐに消せばいい」というわけにはいかない。
猫は不穏な気配を察したのか、動かずにいるシバタからふいと顔を背けると、跳ぶように走り去った。
しかし、シバタの顔には不気味な笑みが張り付いたままだ。いいことを思いついた、という雰囲気に見える。
キョウは右手にタイマを発現させて、また歩き出したシバタを油断なく見張る。何かあればすぐに飛びかかれる体勢だが、その「何か」を起こさせる前に、「現行犯」は諦めて斬ってしまったほうがいいだろうか。実際の能力の確認だけは、できればしておきたいが――。
五十メートルほど進んだところで、前方に人の気配と規則的な音を認知した。さっと音のほうに注意を向け、シバタに先行して様子を窺う。すぐ目の前に緑道があり、若い男が二人でキャッチボールをしていた。
(なんでこんなとこでやってんだよ……!)
キョウは心の中で舌打ちをする。
シバタが緑道の手前までやってきた。顔に笑みを浮かべたまま。緑道と交差する直前にキャッチボールをしている二人を見止め、足を止める。
シバタとも二人の男たちとも二十メートルほどの距離を取った住宅の塀の上で、キョウは感覚を研ぎ澄ませ、タイマを握り直した。シバタが能力を発現させる一瞬を、狙う。
次の瞬間――。
シバタの能力の発動を、キョウの感覚が捉える。両者の間に割って入ろうとしていたキョウは、違和感を覚え踏みとどまる。
(……外した?)
シバタはサイの能力を発現した。が、何も起こらなかった。
キャッチボールをしている二人は、人が近寄ってきた気配は察したようだが、特別に注意を払うには値しないと判断したのかボールを投げ合うことをやめない。
街灯の下にある緑道からでは、暗がりに人影は見えても、その人影が不気味な表情を浮かべていることまでは見て取れないのだろう。
シバタの「気」がまた、能力の発現に向けて膨れ上がった。が、今度も何も起きなかった。「空振り」に終わった、という感触だ。
その視線を追って、キョウは、シバタの思いついた「いいこと」を理解した。
(動いてるもんに火をつけようとしてんのか?)
狙いは人ではなく、二人の間を行き交っている小さなボールだ。さまざまな物に火をつけて遊んでいたシバタが次に燃やそうと考えているのは、「動いている物体」なのだろう。しかし、ボールは小さくその動きは早い。狙いを定めきれずに、能力を発動させては着火に失敗しているのだ。
個人の能力の性質にもよるが、一般に動いている物体を対象にPKの能力を使うのは、静止している物体に対するよりも難易度が高い。
シバタにそれができるほどの能力があるようには見えない。
いろんな素材や状態で試して、練習でもしようってのか?
(――?)
またちらりと脳裏を過ぎったものがあった。
少しの間、ボールがグローブに当たる音だけが規則的に緑道周辺に響いていた。
もう一度シバタが能力を使おうとして、失敗に終わった瞬間。シバタはここへ来て初めて、顔から不気味な笑みを消し表情を曇らせた。丸い顔が、悔しげに歪む。シバタの纏う気が、ぴりりと尖った。なかなか火のつかないことに苛立っているのだろうか。
キョウは、タイマを握る手に力を入れる。
ささやかな能力ではあるが、苛立ちにタガが外れて暴走しては不味い。最大限に発現すれば、他人に傷を負わせる危険性はある。
平和にボールを投げ合っている一般人の前でシバタに斬りかかることは、できれば避けたいが――。
――と。ボールが二人のうちの片方――背の高い、長髪の男のグローブに収まったのを最後に、規則的な音がやんだ。ボールを手に収めた男が、訝しげにシバタに目をやる。そして、もうひとりの短髪の男に「おい」と声を掛けると、行こう、というように右手と顎で緑道の外を指し示した。暗がりで表情は分からずとも、気味の悪い雰囲気を察したのかもしれない。
短髪の男が意図を察し、揃ってシバタに背を向けて歩き出そうとしたときだった。
「馬鹿にすんな……っ」
震えるような、それでも小さくはない声で、シバタは絞り出すように言った。
キャッチボールの二人が、ぎょっとしたように足を止めて振り返る。長髪の男がシバタに一歩足を踏み出しかけたが、もうひとりがブルゾンの袖を掴んで止める。関わらないほうがいい、という表情だ。長髪の男はそれでこの場を離れるかに見えたが、その前にシバタがもう一度声を上げる。
「たまたま……たまたま失敗しただけだ……次はもっと上手くやれる……お前らなんか、丸焦げにしてやる……」
シバタは、顔を歪めたまま、口の端だけを吊り上げた。
長髪の男が、袖を掴むもうひとりの手を払いシバタに歩み寄る。
「おい、何言って――」
瞬間――。
緑道とその脇の道を隔てていた腰の高さほどの植え込みに、パッと火がつく。
(――?)
キョウは目を見張った。
能力の大きさが、変わった――?
長髪の男が「ひっ」と小さく声を上げて、植え込みから距離を置くように後ずさる。
シバタの顔から苛立ちが消え、先ほど「いいことを思いついた」時よりもさらに大きな笑みが広がり――植え込みに上がった炎が一瞬その顔を照らし、そして火は急速に勢いを失って消えた。後には連なる植え込みの中に一箇所だけ焦げた木が残り、焦げ臭いにおいが漂う。
二人の男がじわりと後退りをした刹那。シバタはものを持ち上げるように手の平を上にして、胸の前へと掲げる。そして――
「うわあああっ!」
男たちから悲鳴が上がった。
シバタの右手の平の上に、炎が立ち昇ったのだ。炎は細い柱のように、シバタの頭を越える高さまで立ち昇って揺らめいている。シバタの薄気味の悪い笑顔が浮かび上がる。
「な、なん……なん、だ!」
長髪の男が必死に疑問の声を上げるが、それは言葉にはならず、シバタは笑いを浮かべるだけで答えない。気持ち良さそうにクツクツと小さな声を立てながら笑い、先ほど男たちがしていたキャッチボールのスローイングを真似るように、炎を振りかぶった。
フォームとしては絶望的に様になっていないが、何をしようとしているのかは男たちにも分かったらしい。が、二人は動けない。恐怖に顔を凍り付かせ立ち竦んでいる。
シバタが炎を放り投げる。キョウは瞬時に跳躍し、タイマを手にシバタと二人の男の間に飛び込んだ。
バリッ、という電気系統がショートしたような音が一瞬周囲に響き、着地したキョウが片手で地面に水平にかざしたタイマが、シバタの放った炎を受け止める。炎はキョウの持つ細身の剣にぶつかって霧散した。
火花のはじけるような断続的な小さな音が数秒続き、静まる。
キョウは残心をとった姿勢のまま、シバタを睨む。
シバタは笑みを消して細い目を見開き、驚愕に顔を引きつらせていた。
キャッチボールの二人のうち、手前にいた長髪の男が、ぺたりと地面に尻をついた。
(おかしい……)
シバタを睨みつけながら、キョウは心の中で首を捻る。
シバタの能力はそれほど大きくないはずだ。なのに、植え込みを燃やした炎。手の上に浮かび上がらせた火柱。タイマの吸収したエネルギーも、シバタを見て読み取った能力を超えていた。炎を投げつける能力も……隠していただけなのか? 能力を読み違えた? 有り得ない。どういうことだ? そんなキョウの思考を遮るように――
「う、わああああ!」
「なん……! あんたたちっ!」
あまりのことにしばらく口をきくことを忘れていた二人の男が、金縛りから解けたように口々に叫び出した。疑問のようだが、ほとんど意味を成さない悲鳴。キョウはシバタを睨んだまま背後の二人の男のほうに首を少しだけ動かし、鋭く言った。
「早く行け」
「え……」
二人は動けない。キョウは、胸の前にかざしたタイマはそのままに、後ろにいる短髪の男に今度は顔を向ける。そしてへたり込んでいる長髪の男を目で示し、
「そいつ連れて、ここを離れろ」
声を掛けられた男は呆然と立ち竦んでいたが、一瞬の間を置いて言われたことを理解したらしく、小刻みに頷きもう一人の腕を取って立ち上がらせる。
長髪の男も我に返り、自分を引き上げる腕に縋ってよろよろと立ち上がる。
「なんなんだ、あんたたち、ば、化け物……!」
そんな言葉を残して、意外としっかりした足取りで緑道を東のほうへ駆けていった。
(……なんかそれじゃ、俺まで化け物みたいじゃねえか……)
キョウとしてはやや釈然としないものがあるが、二人から見ればシバタもキョウも同等に「化け物」だろう。まあいいけど、と思う。それよりも、この後に起こることを見られては厄介だ。
キョウは刀の先をシバタに向けたまま手を下ろし、鋭い視線を送る。
「パイロキネシスだな?」静かに問う。
「……え」
シバタはまだ訳が分からないという顔で立ち尽くしている。両腕がぶらんと垂れ下がり、顎を前に出し、丸い背中をますます丸めていた。
「シバタ・シュウイチ? 新宿区内のあちこちで放火してるパイロキネシスだよな」
キョウが重ねて問うと、シバタは弾かれたように姿勢を正した。
「も、もしかして……迎えにきてくれたの?」
キョウはわずかに眉を顰め、首を傾げる。なんだ、その反応は?
しかしシバタは構わずに、顔を輝かせた。
「僕のこと、やっと迎えにきてくれたの? あのDVDを見て練習したんだよ。最初は何かと思ったけど。先に説明してくれたらよかったのに。でもそれで、こんな能力が身についたんだ。だけど、まだコントロールが上手くいかない。それに発火して発散しないと、苦しくて仕方ないんだ。どうしたらいい? これから教えてくれるんだろう?」
一息に捲くし立てるように言う。キョウが答えずにいると、そこで初めて違和感に気づいたように、キョウを頭のてっぺんからつま先までまじまじと見る。
「……きみは……ずいぶん若いね。高校生?」
シバタは顔を曇らせた。
「どうして高校生が迎えにくるの? きみも『組織』の一員なの?」
「……組織って、なんだ?」
問うと、シバタの顔はさらに「理解できない」というように曇る。
「『組織』がやっと、僕のことを迎えにきてくれたんじゃないの? 能力を身に着けたから……」
「『組織』は知らねえ。俺はあんたの能力を斬りに来たんだ」
「……斬りに?」
シバタは不思議そうに言って、首を捻る。
「能力を斬るって、なに?」
「あちこちで放火しただろ。ダメだろ、普通に考えて。犯罪だろ。だから」
キョウの雑な説明に、シバタは刀に目をやって顔を不安げに歪ませる。
「これで」と、キョウは柄を引き寄せて両手で握り、斜めに構える。「あんたの能力を斬る。それで、あんたは能力がなくなる」
「……どうして? ……これからコントロールを身につけて、悪いヤツらと戦うんじゃないの?」
柄を握ってシバタに一歩踏み寄ると、シバタはじりりと踵を後ろにずらした。
「だけど……じゃあどうして、あのDVDを送ってきたの? ……もしかして、
『罠』だったの?」
言いながら愕然と目を見開く。
「もしかして、僕が能力を持っているから、ジャマだったの? だから僕を殺すために、あんなDVDを送りつけてあぶり出そうとしたの?」
言っている意味がよく分からない。ネットカフェで漫画でも読んでいたんだろうか。キョウは内心で首を捻りつつ、もう一歩詰め寄った。シバタはまた数センチだけ踵を後ろに下げながらも、捲くし立てる。
「酷いよ! 騙したの? あのDVDのせいで僕、火をつけないといられなくなっちゃったんだよ? ものすごく苦しかったけど、でも『組織』で働けるならいいやって思って頑張って練習したのに……ねえ、僕、あなたたちと一緒に戦うよ。悪いヤツらを倒すんでしょう? 僕を使ってよ!」
シバタは泣き出しそうな声で訴える。シバタの話はよく分からないが、キョウとしてはいろいろと引っ掛るものがあった。
「『あのDVD』ってなんだ?」
するとしかし、シバタは失言に気づいたというようにハッと顔を強張らせた。
「もしかして、『敵』……?」
シバタはまた右手の平を上にして、その手に炎を載せる。キョウはその炎を冷静に観察しながら、適当に話を合わせてもっと聞き出すべきだったか、と少し後悔する。まあ、いい。後で構わない。楠見も琴子も来る。琴子にサイコパスの心理を読ませるのは少々問題があるが、それでなくても楠見が上手く聞き出すだろう。
「そうか……やっぱりあなたは『組織』の人間じゃない。僕が……僕が優秀なサイだから、消そうとしているんだね?」
しかし、とキョウは思う。斬って気を失ってしまっては、話を聞くのに時間がかかる。先に二人を呼ぶか? 予想以上には能力が大きかったとはいえ、この程度ならタイマで押さえつけておけばそれほど危険はないか。
「僕の存在がジャマだから、『組織』に入って『仕事』を始める前に、始末しようとしているんだ!」
いや、それよりも、シバタの謎のストーリーに巻き込まれている現状をどうにかしよう。気を失ってしまって話が聞けないようなら、とりあえず警察に引き渡して後から船津刑事にどうにかしてもらえばいいだろう。
答えずにいるキョウに業を煮やしたように、シバタはまた炎を振りかぶり投げつけた。キャッチボールなら手から離れた直後にぽとりと落ちそうなフォームだが、炎はその投げ方からは考えられないスピードでこちらに向かってくる。
タイマの柄を握りしめ、眼前に迫ってくる炎を刃で受け止める。すべて吸収し、そのまま跳躍すると、一気にシバタの目の前に詰め寄った。
「おい、なんか知らねえけど、俺は警察に頼まれて『連続放火犯』を捕まえにきたんだ」
突然目の前に詰め寄られたシバタは、さっきまでの勢いをなくし脅えたように目を見開いた。「警察」の言葉を聞いて、小さく震える。
「だから能力を斬るから、とりあえず警察に捕まって、あと話はそっちでしてくれ」
「れ、連続放火犯って……誰?」
「決まってんだろ。あんただよ」
「……だ、だけど、僕……放火なんて……練習していただけなのに……」
「だから! それがダメなの! 練習だってなんだって道端のもんに火ぃつけて燃やしたら犯罪なんだよ!」
先ほどスプーン曲げの練習で校舎の壁を壊したことは棚に上げておく。
「でも……火をつけていないと、どうにかなっちゃいそうなんだ……苦しくて……そこらへんに火をつけちゃうんだよ……つければすっきりして落ち着くから……だけどまた少し経つと苦しくなって……」
「要らねえだろ、そんな能力。なくしてやるよ」
「火をつけなくても苦しくなくなるの?」
「うん」
「……だけど、『組織』には、なんて……?」
「どうにかしてやるよ」
「でも……でも、警察に行くのなんか嫌だよ。僕、死刑になるの?」
「大丈夫だろ。ゴメンナサイって言えば」
「そうかな……」
「ああ。火をつけてねえと苦しいよりもいいだろ」
そう言って刀を振り上げると、シバタは脅えた視線をタイマに向けた。
「痛くねえから大丈夫だ」
笑って見せて、一歩踏み込み袈裟懸けに白刃を振り下ろす――。
――シバタは抵抗もせずに斬られ、崩れるように地面に膝をついた。キョウはタイマを消すと、シバタの体が完全に地に伏す前にその肩を捉まえ、数メートル引きずっていき木に寄り掛からせた。
「ふう」と小さくため息をつく。
意外と時間がかかったが、これで一件、解決だ。
木から離れて緑道の入り口に向かいながら、携帯電話を取り出た瞬間――
「……!」
背後に唐突にサイの気配を察知し、体ごとさっと振り返る。
そして、驚きに目を見張っていた。




