25.伊織はハルとカモミールティをすする
伊織はフローリングの床に座り壁にもたれて、コンビニの店長から貸し与えられたマニュアルを読んでいた。
「まずはこれだけ覚えて」と受け取ったマニュアルは、基本的な業務内容や接客の心得から、給与、シフトといった事務的なことがらまで、たしかに「まずは」という内容ではあるがボリュームが多い。店にはまだ分厚いファイルが何冊もあった。覚えきれるだろうか……と不安になる。
記憶力は悪いほうではない。ヤル気もあるし、言われたことには素直に従う。真面目だと思う。ただ、なにぶん要領が悪い。空気を読んで行動するのも機転を利かせるのも苦手だ。
ベルツリーでの会食の後、片付けの手伝いを申し出はしたが、鈴音の周りをあたふたと動き回っていた程度で役に立ったとは思えない。
それでも鈴音は〈どうもありがとう〉というように微笑んでくれたし、ほかの者からも「お疲れさま」と声を掛けられた。
伊織はそれで、気づいた。
彼らはみんな優しくて親切だが、その優しさは「客」に対して向けられたものなのだと。
彼らはお互いに、仲良くおしゃべりをしているだけではない。睨み合ったり口喧嘩をしたり、怒ったり呆れたりため息をついたりし合っている。
伊織に対しては、それはない。「お客さん」だからだろう。
彼らには、積み重ねてきた時間があるし、仕事仲間としての信頼もあるはずだ。知り合ってたかだか一週間の伊織が、その輪の中に同じように入れるはずもない。でも、時間を重ねれば、自分もそんな風になれるという自信もない……。
だけど――と、思い返す。昨日、目的不明の者に追われている身でのこのこと怪しいアルバイトの面接を受けに行ったこと。あの時だけは、キョウに本気で叱られた。竦み上がるほど怖かったが、後から思い返すと心がふわりと温かくなる。心配してくれたのだ。危険を察知し駆けつけて、追われている身で緊張感のない伊織を叱ってくれた。
親しく話す相手も長らくいなかったが、叱ったり心配してくれたりする人もいなかった。
そして、あんな風な楽しい会食の席に加わるようなことも。
(もしも俺が『サイ』だったら、みんなと一緒に仕事をして、あの仲間の一員になれるんだろうか……)
先ほどの思い付きが、再び頭に浮かぶ。
自分にそんな能力があるなどと、伊織はこれまでの人生の中で考えたこともなかった。子供の頃には付き合いで「超能力ごっこ」みたいなのに参加したような気もするが、もちろん本気ではない。伊織は特別な能力どころか、普通の能力さえも覚束ない、平凡以下の人間なのだと自分を認識している。
ハルやキョウと同じような能力を、自分が持っているとは到底考えられない。万一そうだったとして、楠見の仕事が――それが具体的にどんなものなのかは想像もつかないが――できるとは思えない。
伊織は自分の思い付きに苦笑した。
そうだよ、だいいち俺に、なんの能力があるっていうんだ?
スプーン曲げだってできなかったし、他人の心が読めたことも未来の想像が当たったこともない。
考えて、伊織は自分の超能力に関する知識の乏しさにがっかりした。もっと詳しければよかったのに。従兄弟の持っていた超能力の本が頭に浮かぶ。読んでおけばよかった。
「超能力の世界」とか、そんなタイトルだったと思う。従兄弟の部屋には、彼が中学校時代に使っていたという教科書や参考書がそのまま置かれている以外には、本は数冊しかなかった。だから、印象に残った。
数回しか会ったことのない従兄弟のことを思い出す。背が高くてひょろりと細く、色白で、あまり覇気のない感じだった。その従兄弟が、伊織に緑楠高校に進学することを強く勧めてきた。どちらかと言えば大人しい人だと思っていた従兄弟の積極的な態度に、少し圧倒された。
(……あれ?)
と、そこでまた、ひとつ疑問が頭に浮かぶ。
哲也があの本を持っていたのは、単に興味があったからというだけか?
彼が緑楠高校を――『サイ組織』を持つ企業が創立した学校を伊織に勧めたことと、いま伊織が「サイかもしれない」と言われ、何者かに追われていることと、関係はないのか?
あるいは今、哲也の行方が分からなくなっていること。彼の名前が載っていたリスト……。あのリストの人間は、サイなのかもしれないと、楠見は言っていなかったか?
哲也は、サイだったのだろうか――。
伊織は思わず、顔を上げていた。
(どうして今まで考えなかったんだろう……)
自分の頭の回転の鈍さに辟易する。考えている余裕がなかったということもあるが、自分がいまひとつ楠見の話を信じ切っていなかったせいもあるかもしれない。いや、信じ切らないようにしていた。
怖かったから、逃げていた。
自分から踏み込んでいって、失敗するのが。荒唐無稽な話を鵜呑みにして、馬鹿にされるのが。
伊織はいつも、そうなのだ。空気が読めない。みんなが冗談で言っていることを、本気にしてしまう。だから、馬鹿にされる。仲間に入れてもらえない。「あいつは仲間に入った気になっている」と、遠くから指差されて笑われる。またそんな思いをするのを恐れている。
一方で、「もしも自分がサイだったら……」などと思うほどに、心の底では楠見たちの言うことを信じてしまっているし、仲間に入れたらと願っているのに……。
そして、伊織がそうやって逃げている間にも、楠見たちは伊織を守り、問題を解決する方法を探してくれているのに。
自分が逃げているくせに、相手からは受け入れてもらいたいなんて、なんて虫のいいことを考えているんだろう。
だけど――だったら俺は、どうしたらいい?
伊織は途方に暮れながら、全く頭に入ってこない文字を追ってアルバイトのマニュアルのページを繰った。
「伊織くん」
ノックの音に続いて、ハルがドアを開けて顔を見せる。
「こっちの部屋にいるなら、クッション持ってこようか。フローリングだから、疲れちゃうでしょ」
「あ、えっと……」
思考を中断したものの上手く反応できずにいると、ハルは少し考えて、
「それとも勉強とかするなら、ダイニングのテーブル使えば? ああ、キョウの部屋の机でもいいし。あいつどうせ部屋で勉強なんかしないから、占領しちゃっていいよ」
ハルは徹底的に親切だ。伊織は少々心が痛む。そうして口の中でつぶやくようにして「ありがとう……」と言ったきり上手く言葉を繋げずにいると、ハルはまた少し考えて。
「伊織くん、何か飲む?」にっこりと笑う。「カモミールティとかどう? リラックス効果があるから寝る前に飲むといいんだって」
招かれて、伊織はハルとともにリビングに移動した。男子高校生なのに、カモミールティとか常備しているなんて、凄いな……と、どうでもいい感想を抱きつつ。
「キョウね、今夜はたぶん遅くなるから、あいつの部屋で寝ていいよ」
キッチンのカウンターから顔を出して、ハルは作業をしながら声をかける。
「出かけたの?」
聞くと、ハルは手を動かしながら伊織のほうを見て、「うん」と頷いた。
「『仕事』にね」
こんな時間に……? もう十一時を回っている。
「あの……『仕事』って……?」
「こないだ楠見が言ってた、『サイ犯罪者』を捕まえる仕事だよ」
「はあ……」
ぼんやり頷くと、ハルは手元を見つめ少し考えるような間を置いて、それからまた顔を上げる。
「新宿で、連続放火事件があったんだ。伊織くん、『パイロキネシス』って知ってる?」
「パイロ……?」
「うん。火をつける能力を持っているサイ。それがね、あちこちで火遊びしてるんだよね。だから、そいつを捕まえに」
昨日見たドラマのあらすじでも話すように、ハルが言う。
「捕まえて、どうするの?」
「うーん、まあ大抵は能力を奪って無力化するね。そこから後は警察に任せる」
「能力を奪う……?」
伊織は自分でも馬鹿みたいな反応だな、と思いながら、言われた言葉を繰り返すしかできない。
「そう、こないだ言ってた――キョウの持っている『対真刀』でね、斬ると、サイの能力がなくなるんだ。犯人を捕まえるのは警察の仕事だけどね、相手がサイだと警察が対応するのは難しいから。怪我をするかもしれないし。捕まえた後で警察署やなんかで暴れても困るし。だから、能力を奪ってから警察に渡す」
「へえ……」
「まあサイの中には根っから悪いヤツもいるけれど、ほとんどの場合は能力がなくなれば犯罪もやめる。もしもまたやったとしても、そこから後は警察の仕事だからね。俺たちの仕事はそれだけだよ」
それだけ、などと軽く言うが、凄くないか?
「警察から依頼が来るの?」
「うん、まあ……もちろん表立っての話じゃないけどね」
ハルは苦笑した。お湯の湧く音がして、それからカップに湯を注ぐ音がして、その間に伊織はハルの話を咀嚼する。が――
「凄いね」
出てきたのはそんな言葉だけだった。ハルは、カップを二つ手に持ってリビングに向かいながら、にこやかに頷いた。
「うん、サイはまあそこそこいるし、サイ犯罪を追う人もほかにもいるけれど、『対真刀』を使えるのはキョウしかいない。あれはね、神月家にも数百年に一人しか生まれないっていう、特殊な能力なんだ」
「へえ……」
素直に感心していた。やはり、伊織なんかにはそんな「仕事」はできそうにない。先ほど同じテーブルを囲んで一緒に食事をしていた人たちを、遠くに感じる。
「あのさ……」
「うん?」
考えもまとまらないままに話しかけると、ハルは笑って小さく首を傾げた。
「俺が『サイ』かもしれないっていう話……」
「うん」
「……どうしてかなって思って。俺、そんな風に思ったことなかったし……」
「うん……キョウが伊織くんを見て、そう思ったんだよね。神月家の人間の持つ特殊能力なんだ。サイが見える。俺も見えるけど、キョウのほうが正確だよ」
サイが見える……と、キョウも言っていた。中庭で。あれはたったの二日前の話なのに、随分前のことのような気がする。
「感じる、に近いかも。ものすごく感覚的なものだからね、俺たちは生まれたときからこうだから、ほかの人に説明するのって難しいな。第六感っていう人もいるけれど、それが正しいのかもしれない」
「うーん……」
「キョウは『タイマ』の使い手だから、もっとはっきり分かるんだ。『タイマ』が反応するのかな。まあだけど、実際のところタイマを持っている感覚は俺には分からないし、キョウにしても、もう自分の体の一部みたいなもんだからね、上手く説明はできないんじゃないかな」
ハルにも分からないのなら、伊織にはお手上げだ。
「でもそのキョウも、伊織くんがサイなのかどうかはっきり分からないって言う。感じ取れないほどの微力なサイだとか、潜在的な能力とかだったら、そもそも気づかないんだけれど。『分からない』っていう判断は珍しいね。……だけど、キョウのほかにも伊織くんをサイだと思ってテストしようとしている人がいるみたいだから、そうなのかもね」
ハルは小さく肩を竦めた。それは、「困ったね」という意味にも取れたし、「大変だね」という同情のようにも感じられた。
伊織はふと、この人たちは伊織がサイだったらいいと思っているのだろうか、サイではないほうがいいと思っているのだろうか、という疑問を覚える。「サイだったら仲間になれるだろうか」というのは、伊織の勝手な想像である。彼らからしたら、伊織がもしも能力を持っていたとして、仲間にしたいと思ってくれるのだろうか。
楠見もハルやキョウも、たくさんのサイに会ってきたのだろう。能力を奪ってしまう犯罪者は別として、伊織のように、保護の対象として出会ったサイだっていたはずだ。保護して、問題を解決して、そしてどうするのだろう……?
そもそも――。伊織は彼らの仕事に関係する「何か」に追われている存在で、彼らが自分を取り囲んで守ってくれているのは彼らの仕事のためなのだ。伊織を追っている「何か」の正体が分かって問題が解決したら、それで縁の切れる存在。
彼らのしてきたたくさんの仕事の中のひとつ。日常の一コマ。伊織はそこを横切っただけの、エキストラに過ぎない。
じわり、と、胸の中に重たくて暗い靄がかかってくるのを感じた。
部屋に盗聴器を仕掛けられていたのはショックだったはずなのに、あの部屋に帰れるのは彼らとの関係が終わるときなのだと思うと、そちらのほうが憂鬱な気分になる。
「どうしたの? 伊織くん」
沈黙してしまった伊織に、ハルが少しばかり心配そうに首を傾げて聞く。
伊織は緩く、首を振った。
「ううん……やっぱり、だけど、俺にハルやキョウたちと同じような能力があるって思えないなあって。スプーン曲げだってできなかったし」
「スプーン曲げ?」
ハルが小さく目を見張り、意外そうに聞き返した。思わぬところにハルが食いついたので、伊織は苦笑する。
「うん……なんだか恥ずかしいな。子供の頃にやるじゃない。俺含めて、誰もできなかったけどね。っていうか、給食で使うスプーンって、そんなに硬い素材じゃないだろ? 腕力で簡単に曲がっちゃうし。あれ、本当にできる人っているの?」
「……さあ……いることはいると思うけど……?」
「そうなんだ。いるんだったら見てみたいなあ、本物」
「……キョウに、そんな話をした?」
「え? えっと……うん、した」
中庭での会話を思い出して答えると、ハルは堪らなくなったようにクスクスと笑い出した。
「そうなんだ……」
「うん……え? どうしたの?」
「ううん、ゴメン、なんでもない」
そう言いながらも、ハルはしばらく笑っていた。なんだかよく分からないけれど、笑ってくれているから、まあいいか? 笑われていることが不快ではなく、伊織もつられて小さく笑いを浮かべてカモミールティを啜った。




