21.楠見、昼休みは伊織を慰め励ます
考えをまとめきれずにいるうちに、ドアをノックする音がして、続いて「ハルでーす」の声とともにハルが姿を現した。
「委員会で遅くなっちゃいました」言いながら理事長室に入るなり、ローテーブルの上にぶちまけられているスプーンに目を留める。「――あれ? キョウはスプーン曲げの練習でも始めるの?」
「……お前は理解が早いな……」
額を揉みつつ、楠見は苦い声を出す。
隣でキョウは嬉しそうな顔をして、スツールの上でハルに体を向けた。
「そう! ハルお前スプーン曲げできる?」
「うーん、前にやってみたんだけどねえ、俺がやると折れちゃうんだよね、ぽっきり」
ハルはさも重大そうに眉を顰めながら、スプーンを一本手に取った。
「でも試してみたのはだいぶ前のことだから、今ならできるかなあ」
カバンを肩に掛けて立ったままスプーンを凝視し始めたハルに、慌てて声を掛ける。
「待て待て! 二人ともこの部屋で能力の訓練をするのはやめてくれ! ……というかハル、お前までそんな練習をしたことがあるのか……」
「まだ小学生くらいのときだよ」そう言ってハルはにっこりと笑った。「テレビで超能力特集やってて、あれ俺にもできるのかなーって思って試してみたんだ」
生まれた時からサイの世界にいて子供の頃からあれだけ大きな能力を扱いながら、どうしてスプーン曲げができるかなんて試そうとする? スプーン曲げとは、「もしかして自分には超能力があるのでは……」と思った子供あたりが挑戦するものだろう。順序が違うのではないか……。
「ふうん。あ! そういやうちのスプーンが一本もなくなったことがあったよな……あれ……そうだ、まだ小学校ん時だっけ……」
過去の疑問に納得したらしく、目を丸くして声を上げるキョウに、ハルは決まり悪そうに笑った。
「あは、バレてた? 誤魔化そうと思って同じスプーンを探したんだけど、見つからなくてさ」
「二週くらい続けて夕めしにカレーが出なかったんだよ! それでおかしいと思って見たら、スプーンがなかったんだ!」
と、キョウは楠見に訴えるように言う。
「……お前もよくそんな理由でスプーンがないことに気づいたな……」
「だってハルは毎週カレー作るもんな」
ため息をついて額をもう一度揉み、それから椅子の肘掛に両手を置いて座り直す。
「それで、ひとまず、……ハルの報告を聞かせてもらおうか」
キョウの頭をスプーン曲げから引き剥がすべく、するりと話題を変えた。ハルは執務机の前のオットマンに、机に向かうように腰掛けると、苦笑を浮かべる。
「進展はないよ。現場を見た限り、六件とも同じパイロキネシスの放火だと俺は思ったけど、肝心の『被疑者』が分からないんじゃ俺たちは役に立たないよね」
「そうか――」
肩を竦めるハルに、楠見もため息をつく。
「船津さんの話では、防犯カメラに映っていた『怪しい人物』っていうのは絞り込めているらしいんだ。ただ、それが誰なのか教えてもらえないみたい」
キョウが不満げに眉を寄せた。
「だったら分かった時点で尾行でも付けてりゃよかったのにな」
「だよね。でも、たぶん追っている人間がいたんだよ。五件目で疑いが晴れたんだ」
そう言って、ハルは机の反対側から身を乗り出す。右手にまだスプーンを持っていて、それをパタパタと振っている。
「河川敷の、椅子が燃えたって事件だな?」
「そう。アレは絶対に、誰かが近寄って火をつけたとかじゃない。所轄の刑事さんたちはサイの犯行だなんて信じないから、遠隔操作や時限装置の可能性を考えているらしいんだけど、それだと『怪しい人物』は犯人像に合わないんだ」
「犯人像に、合わない――?」
そう、とハルは頷き、キョウと楠見を交互に見て言う。
「犯人候補は、若い女性。科学知識だとか機械操作だとかには無縁そうな、ね」
楠見は驚いた。
「そこまで分かっているのか?」
「そうなんだ。接触はしていないけど、家と職場までは突き止めているらしいよ。その後も所轄の担当刑事さんがその人物を追っているのかどうかは、船津さんにも分からないって」
「……だが、六件目が起きちまっても犯人が捕まらないところを見ると、行動確認は行われていないか、それともその人物は本当に無実なのか、あるいは――」
「パイロキネシスか……だね。現場の近くにいたかもしれないけれど、手を触れて火をつけてはいないことを刑事さんがその目で確認してしまったのかな」
三人のため息が重なる。ハルとキョウのもどかしさが、じりじりと伝わってきた。
「船津さんは、別の伝手を辿って調べることにしたみたい。今日明日中には楠見のところに連絡するって言ってたよ」
「分かった。もう少しだけ待ってみるか。それから、昨日の伊織くんのほうの件だ――」
雰囲気を変えるため、わずかに姿勢を正して、楠見は切り出した。
「なんか分かったか?」
キョウが身を乗り出す。
「いや――やはり、『エイチエル』とかいう名前のサイ組織は見つからないな。と言っても、登録制ってわけじゃないからな。立ち上げたばかりだったり、ほかとの繋がりのない連中だったら分からんよ。府中のマンションも今朝にはもう引き払われていた。もぬけの殻だ。もともと短期契約だったらしいが、調べた限りじゃ契約者の実在も怪しい」
ハルとキョウは目を丸くする。
「ふうん……それで……」
スプーンを顎に当てて何事か考えている様子で、ハルがつぶやき、それから楠見に向けて少々視線を険しくする。来たな、と楠見は思った。
「スガワラっていうのは? 楠見、もしかして知ってるの?」
キョウも鋭い眼差しを楠見に向けている。二人とも、気づいていたか――。
観念して楠見は、腕を組み椅子に深くもたれた。
「……神戸の『本店』に、たしかそんな名前のサイがいた。優秀なPKだ。俺よりも五つ六つ年上だったかな。……と言っても、俺が神戸にいて『本店』のサイと接触する機会があったのは中学生までだからな。十何年も前の記憶だ。まだいるかどうかも分からないし、顔を見ても思い出せるかどうか」
「スガワラも、そんぐらいの歳に見えたな。結構能力のあるPKだ。街灯も倒した」
「かなり訓練されたサイ。しかもその年齢まで力を維持している――スガワラ、か……」
「楠見……伊織くんを追っているのが、『本店』だって可能性あるの?」
「どうかな。『本店』とは不可侵協定を結んでいるんだ。緑楠に手を出してくるなら、重大な越境行為だよ。厳重に抗議しないとならない。ひとまず様子は探ってみるが」
「できんのか?」
「あまりしたくはないが……」
伯父夫婦に連絡を取るのをためらっていた伊織の気持ちがよく分かる。楠見としても、「本店」と接触できないわけではないが、「できれば避けたい」のだ。
「俺と『本店』は敵対関係にあるわけではないよ。『もう関わらない』と言って離れただけだ。向こうはそれを認めて、その上でまだこの学校を俺に任せているし、俺がこちらで『仕事』をするのにも口出ししてこない。だから、あまりこちらから接触したくないんだが、話を聞ける人間がいないわけじゃない」
「ねえ、本当はあのリストの十四人も、『本店』に関わってるって思ってるんじゃないの?」
ハルは目を細める。数秒、視線を対峙させて、楠見は負けた。目を逸らして腕組みのまま背もたれから体を起こし、少し考える。
この二人には、あまり「本店」の話をしたくないのだ。楠見としても、今後できる限り離れていたい組織であり、楠見のもとにいるサイたちを近づけたくないというのが本音だった。だから、「本店」の内情や、楠見がそこを離れるに至った経緯は、二人にさえほとんど話したことがない。このままずっと触れさせずにいられるとも考えてはいないが――。
「昼休みに伊織くんが履歴書を持ってきて、少し話したんだ。それで、考えたことがあってな……」
斜め下に視線を逸らしたまま、楠見は言葉を落とした。
相原伊織は、高校の昼休みが始まって間もない時間に理事長室にやって来た。昼食は、と聞くと、売店でパンを買って済ませたと言う。育ち盛りの高校生男子の昼食がそんなものでいいのか、とは気になるが、「やる気満々」といった面持ちには昨日の悄然とした雰囲気はなく、楠見はひとまず安心した。
持ってきた履歴書は、上手いとは言えないが丁寧な文字できちんと記入されており、伊織の素直で真面目な性格が現れているようで微笑ましかった。
『学校には、もう慣れた?』
署名をして返した履歴書を丁寧に封筒にしまう伊織に目をやりながら、楠見は何気なく声を掛けた。
『はあ、まあ……えっと、やっぱり勉強は……ちょっと難しいかな。中学のときも出来のいいほうじゃなかったんで、まだ始まったばかりだけど既についていけるかどうか不安です……』
気まずそうに言って、ハハハと力なく笑う。
『でも、受験に受かったんだ、自信を持っていいだろう』
『いやあ……自分でもマグレだと思ってます。……必死で勉強しましたけど。生まれて初めての猛勉強でした。半年くらい』
『そんなに努力して入学してもらえて、嬉しいよ』
歓待の気持ちを滲ませて微笑むと、照れたような笑顔を返した。ふと、そんなに猛勉強をしてまで、しかも遠いところから緑楠高校を受験した伊織の動機が気になったのは、職業病のようなものだろう。尋ねてみると、
『なんだか入試のときの面接みたいだな』
そう言って苦笑混じりに返ってきたのは、本当に面接用の「貴校の校風と教育方針に惹かれ……」みたいな答えだったので、楠見としても苦笑する。
『俺は面接官じゃないんだから。神奈川にだって高校はたくさんあるだろう? いや、うちを選んでくれたのは率直に嬉しいけど』
『あはは、すみません……ホント言うと、きっかけは従兄弟の勧めです。ああ、相原哲也です。卒業生だから』
『へえ。そりゃ光栄だな』
『伯父も伯母も、手放しで賛成してくれて。ここだけの話なんですけど、俺に対してそんなに何かを積極的に勧める伯父と伯母は初めて見ました。それで、ちょっと嬉しかったっていうのもあるかな。俺、ずっと厄介者だと思ってたから』
自嘲気味に笑うが、微笑を浮かべて黙っている楠見と目が合うと、少しだけ狼狽したように言葉を続けた。
『あの、決して邪険にされていたとか、そういうことではないです……でも……』
『親切でもなかった?』
『はあ……歓迎はされてないかなって……いや、お世話になっといて、こんなこと言うのは……』
困ったように目を伏せる。
『誰にも言わないよ』
微笑みのままそう言うと、
『はあ』と伊織は少々バツが悪そうに笑って、続けた。
『俺がいるのちょっと迷惑かなって思ってたから、正直、伯父の家を出て一人暮らしができるのは大好都合で……。中学にも良い思い出ないから、知らない場所に行きたかったってのもあるし』
『そう――』
伊織はやはり、それ以外の表情が見つからないとでも言うように、仕方なさそうに笑った。楠見は意見を差し挟まずに、目顔で先を促す。
『俺――死んだ親が、保険金とか多少は残してくれたんで、公立でアルバイトしたり奨学金とか利用したりしたら、どうにか大学までは行けるかなって思ってたんです。けど伯父が、『緑楠なら学費の心配はするな』って。伯父の家もそこまでお金持ちじゃないから、申し訳ないなとは思ったんですけど』
『へえ……』
相槌を打ちながら、考える。伊織の言う通り、両親を亡くした甥っ子を養うことに乗り気でなかった人間が、高い学費を積極的に払ってやろうと思うものだろうか。
だが、相原氏は息子の哲也もひとり暮らしをさせて東京の私立高校へやっている。伊織が「そこまでお金持ちじゃない」と思っているだけで、実は二人分の私立学校の学費を気前良く出せるほどの資産家なのだろうか?
それとも、伊織が思っている以上に、息子同様に甥っ子を愛していた? いや、そうであれば、伊織は気づいただろう。自分に寄せられる愛情を見逃すような性格には、彼は見えない。
『哲也くんは、どうしてうちの学校を選んでくれたんだろう』
『さあ、その辺りは……従兄弟とは何回かしか会ったことなくて、あんまり個人的な話をしたことはないんです。俺が伯父の家に来た時には、彼はもう家を出ていたから……』
伊織は真面目な顔で話す。伊織としても、哲也のことは気に掛かっているのだろう。
『それで、去年の夏ごろだったかな、二、三日ですけど帰ってきたときに、緑楠への進学を勧められました。いい学校だから、自分も高校生活楽しかったから、って……』
『ふうん……』
微笑を保ちながらも、楠見としては、やはり釈然としないものがある。取り寄せた相原哲也の資料では、進路は空欄になっていた。在学中の希望調査ではほかの生徒と同様、緑楠大学への進学を希望していたようだが、最終的に進学のための審査に出願した記録もない。
緑楠高校卒業後に進学も就職もしない生徒というのは、ゼロとは言わないがかなり少ない。形式的な審査はあるものの、希望さえすれば基本的にエスカレーターで大学に進学できる一貫校だ。九割方はそのまま緑楠大学に持ち上がる中、進学を却下されるほど成績が悪かったわけでも問題を起こしたわけでもなく、自分の意思で進学しなかった。「いい学校だ」「楽しかった」と、他人に勧める程度には気に入っていたにも関わらず――?
また、哲也本人はそれで良かったとしても、高い学費を払った両親としては、息子に進学も就職もさせてくれなかった学校への屈託はなかったのだろうか?
――それとも、もしかしたら……?
『だから、お前も絶対に緑楠に行け! って、なんだか分かりませんけど、ものすごい勢いで勧められましたよ』
その時のことを思い出したのか、伊織は苦笑を浮かべた。そしてまた「しまった」という顔をする。
『あ、すみません……俺も、いい学校だなって思います』
取って付けたような伊織の気遣いに、楠見も苦笑を返す。
『構わないよ。どう? 実際に入ってみて。友達はできた?』
『あ、ハイ。って言っても、よく話すのはまだひとりですけど。ひとり暮らししてるって言ったら遊びにきたいって言ってくれたけど、しばらく無理そうですね』
笑顔を作りつつも目を伏せる伊織が、気の毒になった。自分を厄介者だと感じてしまう親戚の家や、良い思い出のない中学生活。そんなこれまでの鬱屈から脱却し、心機一転、楽しい高校生活に期待をしていただろうに。
『少しの間いろいろ不便だろうけど、早く解決できるように努力するよ』
慰めの代わりにそう言うと、伊織は慌てた。
『いえ、いろいろ本当に助かってます。ハルにもキョウにも……』
『どうだった? 二人の家は。ちゃんと寝られた?』
『はい。朝ごはんがものすごく豪華で、びっくりしました』
『ハハハ、何も遠慮しなくていいからね。あの二人には精一杯迷惑をかけてやってくれ』
『は、はあ……ありがとうございます……』
履歴書の入った封筒を大切そうに両手で持ち出ていく伊織を見送ると、楠見は微笑みを消して考える。そして受話器を取り、電話を掛けた。




