17.伊織、今日一番の居心地の悪さ
電車に乗って、学校の最寄の駅――と言っても歩けばそこから三十分はかかるのだが――まで行くことにした。時刻は七時近い。
上りの各駅停車は夕方でも混雑するほどではなく、伊織とキョウは、ドアの近くに並んで立った。
あおいと琴子に席を勧めると、二つ並んで空いている席があるにも関わらず二人は反対の方向に歩いていって別々に座った。そう動くと決まっているのか、キョウは特に不思議そうな様子もない。
それどころか、伊織を追ってきた連中を相手に一乱闘かました後なのだが、そんなことなかったかのように平常な面持ちだ。
中庭のベンチで会話を交わしたときと変わらない顔でキョウは、「そうだ」と伊織に向かって目を上げた。
「バイト募集広告っての、いま持ってる?」
「ああ、うん。持ってきた」
そう答えてカバンの中を探り、一枚のカラー印刷の紙をキョウに渡す。
キョウは受け取り、紙を眺め出した。紙面に目を滑らせるようにして内容を一読し、
「お前さあ……よくホントにこれで面接受けようと思ったな……」
予想は付いたが、やはり呆れ顔をされた。
「なんの仕事なのかもぜんぜん分かんねえし、そのくせ妙に条件いいし……」
「はあ……これまで条件の合わないのが多かったから……ぴったりでいいなあと思ったんだけど……」
「……俺もバイト探したことないからよく分かんねえんだけど、こういうのって普通なの? 時給とか、そこらへんのバイト募集ポスターに書いてあるのよりだいぶ高い気すんだけど」
「うん……」
「『保証人不要』とかも、普通言うのか? なんか怪しさ満点だろ……」
伊織はしょんぼりと目を落とす。
たしかに虫がいい話だ。早くアルバイトを見つけたい一心で、もうどこでもいいような気持ちになっていたときに舞い込んだ、あまりにも「ウマイ話」。
だけど、どうして――? 伊織を狙っている理由も謎だが、過去の二回のように追い回されたわけでもなく、今回は伊織が自分の意思で来たのだ。来させられたのだろうか? 追う者から逃れればいいだけでなく、自分から行動を起こすことも相手に操られているのだとすると、伊織はもうどうしたらいいのか分からない。
しかしまさか偶然ではないだろう。「担当者のスガワラ」は、月曜日に伊織を追いかけてきて街灯を倒したサイだと、キョウからさっき聞いた。おそらく向こうは、伊織のこの行動を期待していたのだ。甘い言葉に誘われて、罠にかかった。「ウマイ話には裏がある」。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「ちょっと焦ってたんだ……」
真っ直ぐに覗き込まれているような気配がしたが、バツが悪くてキョウの目を見られないまま、苦い気持ちでぽつりとつぶやく。
「ひとり暮らし始めてさ、生活費は自分で稼ぐって決めたのに……アルバイト、もう一週間近くも探しているのに見つからなくて、早く始めなきゃって」
伊織の事情は分からないだろうが、口も挟まずに伊織の表情を見守っているような視線が、それでも話の続きを促しているように感じられて、伊織は続けた。――誰かに、聞いてもらいたかったのかもしれない。
「――初めて会った日、近所のコンビニの面接に行ったんだけどさ、ダメだったんだ。俺、親もいなくてちゃんとした保証人もいないし。それに勉強は優先したいから、勤務条件の合うところも多くないし。いや、そういうので断られるのは単なる口実かもしれなくって、……俺がいかにもダメに見えるからかもしれないけど……」
目を伏せたままで、自嘲気味に笑う。
「電話掛けまくってるんだけど、ほとんど断られちゃって」
「……そっか」
伊織の、取りとめもつかない、言い訳とも愚痴とも判断のつかない告白にそれだけ答えて、キョウはまた手に持っているアルバイト募集の広告に目を落とした。
意見や感想を差し挟まれないのは、今は有り難かった。励まされれば「何も知らないくせに」と反発を覚えてしまうかもしれないし、慰められれば惨めな気分になるだろう。
キョウはそんな伊織の気持ちを察しているのか、もともとそれほど興味もないのか、それきり黙って広告を眺めている。まるで印刷された文字の奥に何かそれ以上のことが書かれている……とでも言うかのように、目を細めるようにして見つめている。
電車がいくつかの駅を過ぎた頃、キョウは小さく首を傾げるようにして、伊織に視線を戻した。
「お前さ、誰かにアルバイト探してるって話した?」
「……え? クラスの人には言ったけど……」
「見つかんなくて困ってるとかも?」
「え……うん、それは言った……かな」
「さっき言ってたみたいな理由で断られてんのも? 条件合わないとか、保証人がいないとか?」
「それほど細かいことまで言ったことはない……と思うけど?」
キョウは何か考えるように、少しの間、窓の外に目をやっていたが、やがて思いついたようにその目が伊織に向いた。
「電話、たくさん掛けた?」
「うん。先週末から手当たりしだい……って言っても家から通えて高校生でも可って書いてあるところだけだけど……十件は掛けたかな。二十件は行ってないと思う……」
「その電話を掛けてる時、周りに人がいたりしなかったか?」
「……え?」
ぽんぽんと飛び出してくる質問の連続に、なんとなく反射的に答えていたが、ふと伊織は首を傾げる。何を聞かれているのだろう?
「詳しい条件とか、話してるわけだろ? 誰かそれ聞いてるヤツいたことねえか?」
「外から掛けたのは、最初のときと今回だけかな……学校で……人は、いなかったと思うけど。あとは全部、家から掛けたから」
考え考え答えると、キョウはまた「そっか」と言って広告に目を移す。
電車が目的の駅のホームに入り、あおいと琴子が席を立つ。四人で電車を降りて改札口を出たところで、キョウが立ち止まった。
「予定変更。伊織のうちに行く。俺ちょっと学校寄ってっから、お前ら先に伊織んちで待機しててくれ」
あおいと琴子にそう指示をし、二人が頷くのを見て駆けていくキョウ。残された伊織と二人は、お互いに顔を見合わせた。
自宅に向かうバスの一番後ろの座席で、伊織は途方に暮れていた。
右手に衣川あおい、左手に武井琴子という美少女二人に挟まれ、なんとも素敵な「両手に花」状態なのである。きっと誰もが羨む、これまで経験したこともない贅沢な状況なのである。なのであるが……。
(なんか、両側からものすごい圧迫感が……)
三人揃って一番後ろの席に陣取って以来、左右の二人は顔を背け合って口もきかない。
(なんだろう、この空気……気まずいんですけど……?)
「あ、あのぅ……」
意を決し言葉を発してみると、二人は同時に振り向いた。自分が無視されているわけではないらしい。伊織は密やかに安堵する。
「えっと……なんか付き合ってもらっちゃってスミマセン……衣川さん、と、武井さんは……」
言いつつ言葉を探していると、あおいが口を開く。
「あのね、相原くん」
「琴子でいい」
微笑んで何か言いかけたあおいに、琴子が口を挟んだ。
「……あ、はい?」
「だから……『武井さん』じゃなくて。みんなそう呼んでる。『さん』もいらない」
無表情、というよりも不機嫌そうな目で前方を睨みながら、琴子がそう言う。顔も口調も怖いが、下の名前を呼び捨てでいいなんて、ものすごく接近を許してくれているということなのでは……? いやしかし、この面白くなさそうな顔。単に名字が嫌いだとか……?
表情と話題のギャップに戸惑い、内心で慌てていると、隣のあおいが微笑みを消した。
「ちょっと、琴子。それ今あたしが言おうとしたんじゃない。ずるいわ」
(……え?)
常に花のような微笑を湛えている衣川あおいの、初めて見る怒りの表情に、伊織は思わず固まる。が、琴子は特に驚いた様子もなく、腕組み足組みのまま顔を逸らした。
「知らない。たまたまでしょ?」
「嘘! 読んだんでしょ」
「『サイ』のクセに『ロック』もできないのが悪い」
「やっぱり!」
あおいは全身から怒りの炎を噴出するかに見えたが、間に挟まった伊織が固まっているのに気づき、バツの悪そうな笑顔になった。
「あ、あのね、相原くん、いま言おうと思ったんだけど、あたしのことは『お嬢』って呼んでくれていいから。みんなそう呼んでるし。『さん』とか『ちゃん』とかは付けないでね」
「あ、はい」
そう言ってあおいはいつもの微笑みを取り戻したが、反対側で琴子が窺うような横目を向けているのに気づき、また「ふんっ」と言ってそっぽを向いてしまった。琴子も小さく鼻を鳴らして反対側を向く。
(やっぱり……き、気まずいんですけど……キョウー助けてー)
行きのスクールバスに乗ってから今までで一番の居心地の悪さを感じながら、ともかく何か会話を……と必死で言葉を探す。
「えっと、お、お嬢、と、ここ、琴子、は――」
まだ親しげに呼ぶことに抵抗――というか遠慮のある名前をたどたどしく口にして話しかけると、また二人は同時に伊織の顔を見た。両側からの美少女の視線が緊張を煽る。
「えと、つ、つまり二人も、その。『サイ』、なんですか?」
と、二人は――琴子までもが小さく目を見張って伊織の顔を一瞬凝視した。
さらにドギマギしながら、
「そそそその……助けにきてくれたんだよね……ああ、ありがとう……」
小さく頭を下げた次の瞬間。
「あははは! 相原くんってやっぱり面白い! いいわ!」
あおいは声をあげて笑い出した。琴子は――
(え、笑った……の?)
くすりとも声には出さなかったが、口元が少々緩んだように見えた。が、琴子はすぐにまた顔を背ける。あおいはまだクスクスと笑い続けている。
「あの……お、おお、お嬢? えっと……」
笑うばかりであおいは答えず、琴子もそれきりこちらに顔を向けず、どちらからも答えは返ってこなかったが、とりあえず先ほどまでよりは若干――若干ではあるが――緊張感が緩んだような気がして少々肩の力を抜く。
だが。バスが見覚えのある地域に差し掛かったところで、新たな問題に気づいた。
(『伊織んちで待機』って言ってなかったか?)
つまり、二人が伊織の部屋に上がるということだろうか。そうなのだろう。
(俺いま部屋どうなってたっけ!?)
荷解きは済んでいるし、それほど散らかってはいなかった……はずだが……見られちゃマズいものはないよな? 飲み物とかあったかな……。
あたふたと考えている伊織の心の準備も定まらないうちに、バスは無情にも自宅最寄のバス停に到着し。美少女二人に挟まれてぎこちなくバスを降りた伊織は、歩きながら、自分の部屋の玄関から押入れの中にいたるまでの隅々までを、指差し確認でもするかのように想像して緊張していた。
学内での会議から戻って理事長室の執務机の前に座った楠見林太郎は、机の上がなにやらとっ散らかっているのに首を傾げた。
雑に折り畳まれた大きな紙と、数本のマーカー。なぜかクッキー。こういうことをするのはキョウだろうが、果たして彼はどこに行っているのか……。
マーカーをペン立てに戻し、何気なく紙を開く。多摩地区まで載った東京都地図のあちこちに、マーキングがしてある。なんの地図なのかはすぐに理解したが、理解できないマークがちらほらと。……ふむ、なかなか興味深い。そう思ったところで、勢いよくドアが開き、地図の持ち主と思われる人物が入ってきた。
「キョウ、部屋に入るときはノックを……」
が、キョウは楠見に見向きもせずに、室内に入って右手に並んだ書棚の下のキャビネットを開ける。
「……おい、キョウ……この地図……」
だがしかし。キョウは勝手知ったる無駄のない動きでキャビネットの中から小さな機材を取り出し自分のカバンに詰め込むと、楠見など存在しないかのようにまた慌しくドアを閉めて出て行った。
「おい……?」
楠見の言葉は宙に浮いた。
小言どころか存在ごと無視された楠見は、首を傾げる。
(……幻覚?)
楠見は目を閉じ、眉間を揉む。
(疲れが溜まってんのかな)
「表」も「裏」もここのところ仕事が立て込んでたもんな……新学期は何かと慌しい……。そんなことをしていると、ノックの音に続き「ハルでーす」の声と共にハルが姿を現した。
「ああ、ハル。お疲れさま。どうだった?」
江戸川から戻ってきたハルに報告を求める。が、ハルは「どうもこうも……」とげんなりした顔をしながらソファに腰を下ろし、それきり言葉が続かない。そこはかとない苛立ちが全身から滲み出ていて、楠見は重ねて尋ねるのを少々ためらった。
そこにまた、勢いよくドアが開く。
「ハル!」
「ああ、キョウ。どうしたの?」
「ちょっと今、来られるか?」
「うん。いいよ」
ハルは苛立ちを消してふんわりと微笑んで立ち上がり、部屋を後にする。
「…………」
取り残された楠見は、二人が出て行ったドアを呆然と眺めていたが、やがてそのまま机の上の電話機に手をやり。受話器を取ると電話機には目もくれずに押し慣れた内線の短縮番号を押す。
相手はすぐに電話に出た。
「……マキ、聞いてくれるかい? あのさ、なんだかハルとキョウが冷たいんだ。キョウなんか俺のこと完全に無視するんだよ――――うん、俺も最近あいつらに忙しくさせすぎてるかなって思ってるんだけど……それであいつら、俺のこと怒ってるのかな――――うん、うん――うん――そうかな――うん、だけどさ……」