11.ほかの誰でもなく、この人たちがいいような
「お前はさ、いま座っているこのベンチの存在を、信じるか?」
「え……?」
一瞬、質問の意味を掴み損ねる。が、キョウは真剣な表情で真っ直ぐに伊織の目を見て、答えを待っている。
「だって……信じるも何も、あるじゃない……あ……」
瞬間、キョウの質問の意味が頭を掠める。それは漠然とした感触で、頭の上を少し掠めて通り過ぎただけだけれど、少しだけ姿が見えたような気がした――。そんな伊織の表情を見て取って、キョウはまた笑う。
「そういうこと。俺たちにとって『サイ』は信じるかどうかじゃない。あるんだ」
「……うぅん、でもなあ……ベンチはだって、ほら、こうして見えてるんだし……」
頭のどこかでは納得しつつも、そんな疑問を振ってみると。キョウはまた少し笑いを引っ込めて、澄んだ瞳で伊織の目を覗き込んだ。その瞳に、怒っているような様子はない。
「俺には、『サイ』が見える」
「見える?」
「ん。……ちょっと違うのかな、普通に見えてるってのと。……でも、見えるんだって思ってる。すごくガキの頃は、普通にみんなに見えるもんだって思ってた」
(普通に、みんなに、見える――?)
伊織は心の中で繰り返す。
「俺は、生まれたときから『サイ』の世界にいる。俺にはサイは、ほかのもんと変わらない。ベンチも、空気も、サイも。同じに、ある。男と女がいたり、日本人と外国人がいたり、勉強が好きなヤツと運動が好きなヤツがいたりするみたいに、サイと、サイじゃないヤツがいる」
そうして伊織から視線を外し、体ごと正面を向いて、また芝生に目をやる。怒ったような様子はないが、その表情は――なんと言ったらいいのだろう……。
「けど、ベンチも空気も否定されねえけど、サイを否定する人間がいっぱいいるってことも知ってる。楠見もハルも知ってる。そういうもんなんだって思ってる。だから、他人がどんな反応したって別にいちいち気にしない」
「それは、だけど――」伊織は考えながら、慎重に言葉を選ぶ。「やっぱり、寂しくないの?」
すると、キョウはかすかに目を見張るようにして、伊織の顔を見た。
(ああ……だから……)
理事長室に流れていたあの空気を思い出す。
ほかの人には見えない、それでも確かにある、同じものを見ている者同士しか共有できない特別な空間。自分は昨日、一瞬だけ、そこにいた。そこで、共有した。その空間を、心地よいとさえ思ったんだ。それなのに――
「ごめん」
気づいたら、そんな言葉が出ていた。
「なんで謝んの?」
キョウが不思議そうに首を傾げる。
「やっぱり、うまく理解できないし、共有できてないし、――入っていけないなと思って」
「そっか」
「だけど、入っていけたらいいなって思ったんだ」
キョウが、さらに不思議そうに目を見開く。
「キョウや、ハルや、……楠見さんと。同じものが見られたら、いいだろうなって思ったんだ。なんとなく」
彼らの話が本当だったらいい。そう思った理由を、伊織は漠然と理解する。
それは、伊織がずっと求めていたものなのかもしれない。特別なもの、ほかの人には見えないものを、共有する存在。同じ世界を見る人間。
それがサイであり、キョウやハルや楠見である必要があるのかどうかは分からない。でも、ほかの誰でもなく、この人たちがいいような気がした。
キョウは笑ってまた、「そっか」と言った。
押し付けたり、引き込んだりはしてこない。でも、拒まれてもいないと思った。歓迎されている、とまで思うのは、ちょっとおこがましいかもしれないが……。
「だからさあ、超能力って、本当にあるの?」
そこに立ち返る。あるって、分かりたい。信じたいのではなくて、知りたい。理解したい。
「ある」
断言して笑うキョウ。それを見たら、少し駄々をこねてみたくなる。
「うーん、でもやっぱり信じられないな」
「じゃあ、ない。うそうそ。昨日の楠見の話は全部うそ。お前、騙されてんだよ」
からかうように、キョウが笑った。
「じゃあ昨日のあれは何だったんだよ」
「手品だろ?」
「あの、懇切丁寧な説明は?」
「よく出来てただろ? 信じた?」
「もー! どっちが本当なんだよー!」
「さあな。理事長室に行ってみれば? 楠見なんか実は存在しなかったりしてな」
キョウは悪戯っぽい笑顔を作っていた。
歩み寄ってもらったのかと思ったら、突き放される。
(いや、違うな)
突き放されているんじゃない。向こうからはもうそれ以上、近寄ってこないということなのだ。だから、そこからもっと近づきたいなら、お前のほうから来いと言われているのだ。行けるだろうか……。
「なあ、お前、本当にサイじゃねえの?」
不意に、キョウがそんなことを聞いてきた。
「え……って、あれ? それ、最初に会ったときも言ってたよね?」
そう言えば。最初に妙な男たちに追い回されて、アパートの近くでキョウに助けてもらった時。
あの時は「サイってなんだ?」と思ってそれきり忘れていたが、……俺が、……超能力者?
「うん。そうかと思ったんだ。けど、よく分かんねえ」キョウは、釈然としない顔で視線を斜め上にやって首を傾げた。「俺にはサイが見える――分かる、から、お前がサイなら分かるはずなんだけどな……サイじゃなけりゃそんなこと思いもしないし。こういうことって、あんまないんだけど」
「俺、自分のことをそんな風に思ったこと一度もないよ」
「ふうん」
「でも、そうだったらいいのにな。一度は憧れるよね、超能力」
本物の超能力者にこんなことを言うのも少々気恥ずかしいが……。
「憧れるかあ?」
思った通り、キョウは変な顔をした。
「憧れっていうか……そういう特別な力があったらいいなって、子供の頃って思うじゃん? クラスにもそういう話の好きなヤツいたよ。スプーン曲げようとしたり、消しゴムを動かそうとしたり、信号の変わるタイミングを念じたり、いろいろ試してさ。――そういえば」
ふと、思い出す。中学生時代の、従兄弟の部屋。
「昨日話に出てた従兄弟の部屋にも、超能力の本があったなあ」
「へえ……」
キョウはわずかに目を見開いた。
「従兄弟も、超能力者になりたかったのかな」
何度も入ったことはないが、伯母に何かの用事を言い付かって従兄弟の部屋に入った時に、その本棚を見かけたのを思い出しながら、伊織は小さく笑う。
キョウは少しだけ何か考えるようにしていたが、すぐに、
「けど、そんないいもんじゃねえよ?」
「どうして? 便利じゃないの?」
「俺は――便利だと思ったことはないな。便利な能力のヤツもいるけど、俺やハルのはあんま便利じゃない」
キョウやハルの能力というのは、昨日見たあれだろう。楠見は「破壊専門」と言っていた。
「便利な能力っていうのは、キョウたちのとどう違うの?」
「んー、そうだなあ。モノを動かせるヤツ、あれできたらいいよな。自分が移動しなくても物のほうから来んだ」
「ただの怠け者じゃないか」思わず苦笑が浮かぶ。「キョウは、それはできないの?」
「できない。試してみたことあるけど、壊れた。あんまりモノ壊すから、練習も禁止された」
「……そうなんだ。……スプーン曲げは? できる? 誰でも一度はやるよね。試したなあ、小学校の頃」
「あれは遊びだろ? サイじゃなくてもできる」
「サイはスプーン曲げしないの?」
「俺はできない」
「ええっ? 意外! 超能力っていったらスプーン曲げじゃないの?」
びっくりだ。定番じゃないのか? しかし、不思議そうに首を傾げたキョウの口から出てきたのはもっと意外で物騒な言葉だった。
「んー。俺がやると、スプーン粉々にしちまう。ついでに周りのモンも一緒に壊れる。そもそも、ああいう小さいモンをどうこうすんのに向いてないんだ」
「なんか……超能力者のイメージと違うなあ……」
「ハルなら多分できるよ。あいつは器用なんだ。――いや、やっぱ粉々にするかな。スプーンの頭ピンポイントで狙って」
「へえぇ……」
「あ、でも、手に持ってやんのかアレ。じゃあできるかな……」
「うわ。一度ホンモノのスプーン曲げ、見てみたいなあ」
「そうかあ? んー……」
眉根を寄せ、斜めの方向を見て真剣に考えているようだ。なんだか面白くなってきた。
「ねえ、ほかの能力を持ってる超能力者も知ってんの?」
「知ってる」
「キョウやハルと同じように、楠見さんの仕事をしている?」
「ああ」
「へえ。この学校の中にいるの?」
「いるよ」
「え! 誰だれ?」
「そのうち分かる」
キョウは笑った。その笑いは、やっぱりどこか悪戯っぽくて、伊織は好奇心を刺激される。
「気になるなあ……高校にいる?」
「いる」
「中学生は?」
「サイはいるんだろうけど、仕事仲間じゃない。楠見は基本、中学生には仕事させない」
「え、でもキョウやハルだって、高校生になったばっかだろ? 前からやってるみたいだったじゃないか」
「俺たちは別。この仕事するために、ここにいる」
「そうなんだ……なんだか凄いな……」
よく分からないけれど、凄いっぽい。
「会ってみたいなあ……」
ついさっき、やはり超能力など信じられないと思っていたことも忘れ、これからの出会いに期待してしまう。
と、そこへ――
「相原!」
さっきキョウの姿を見つけたのと同じ中庭の脇から、呼ぶ声がした。見れば、上野が走ってくる。
「先生があんまり遅いって言うからさ、迷ってんのかと思って見にきたんだ。こんなとこにいたのかよ」
「ああ! ご、ごめん!」
膝に抱えたままになっている包みに目をやり、本来の用件を思い出す。
と、上野は隣に座っているキョウに視線を向けた。
「成宮、久しぶり」
キョウは、いつもの感情の読めない顔で、「よぉ」とベンチに載せていた片手を挙げた。
「あ、知り合い?」
聞いてから、そういえばこの二人は中学から一緒なんだから顔くらい見知っているか、と納得する。
「成宮ぁ、ちゃんと学校来てんのか? こないだお前と同じクラスになった女子が、成宮くんと同じクラスになれたのにぜんぜん会えないーって嘆いてたぞ」
「今週は毎日来てる」
キョウはベンチの背もたれに頬杖をついたまま笑う。
「今週って、まだ二日じゃんかよ。女子が寂しがるからちゃんと来てやれよ」
そう言って、上野は小さく肩を竦めるキョウから伊織に目を戻した。
「そんで相原、先生が待ってるぜ」
「ごめんごめん、すぐ行くよ」
包みを抱えて立ち上がり、キョウを振り返る。
「じゃあキョウ、また」
「ああ、またな」
キョウは相変わらずベンチの背に腕を乗せたまま、笑って手を一振りした。
ベンチに座って、高校校舎へ向かっていく伊織ともう一人の男子生徒の後姿を見送りながら、キョウは考える。
(伊織と一緒にいんの、あれ、誰だっけ……?)
たしか同じクラスになったことあるよな……思い返していると、頭上で窓が開く音がした。
「あれ? 一人? なんだか話し声がしてたみたいだけど?」
首から上だけ振り返る。窓から姿を見せたのは、学園校医・牧田真樹だ。
「相原伊織がいた」
キョウは、遠くなった背中を指差す。
「ええ! 例の? あの相原くんがいたのか? キョウが人違いしたっていう?」
「……情報が早えぇな……」
「なんだ、そうかあ……会ってみたかったな、相原くん」
心底残念そうに、牧田がため息混じりに言う。
「ちっきしょー、あんな下らない会議が長引いたせいで、せっかくのチャンスが……」
「不良校医」
窓枠に肘を乗せて、牧田が身を乗り出した。
「ね、どんな子? 相原伊織くんは」
「んー、おもしろいよ。マキは気に入ると思う」
「ハルと同じクラスなんだろ?」
「ん。あ、そういや初めて会った時、ハルと間違えられたな……」
「へえ。まあそりゃ、似てるもの」
「そっか? 子供の頃は、まあ……でももう間違えられねえよ?」
「うーん。感覚が鋭いのかなあ。顔かたちだけじゃなくて、もっと本質的な部分が見えているとか……」
「やっぱあいつ、サイかな……」
「キョウにも分からないのかい?」
んー、と、キョウは首を捻る。
「サイだったら、キョウたちの仲間になるかな」
牧田がそう言って、笑う。
信じられないと言いながら、どうにも疑っている様子がない伊織の楽しげな口調を思い出して、キョウも笑った。
「どうかね」
「そっかあ。ますます会ってみたいなあ」
「引き止めとけば良かった?」
「……いや、まあ……すぐまた機会があるだろ」
そう言って牧田は、伊織の去っていったほうを眺めながら笑う。そして、思い立ったように窓枠から身を起こした。
「そうだ、キョウ、美味しいチョコレートがあるんだよ。コーヒー入れようか」
「ん」
キョウは立ち上がって、牧田が横にずれて作った窓の隙間から室内――学園診療所に入った。




