1.ハルとキョウ、放火犯を捕まえる
「パイロキネシス」
二階建ての住宅の屋根に膝を抱えて座りこんで、向かいの住宅を睨みながら少年はつぶやいた。
隣で同じく瓦屋根の上に胡坐をかいているもう一人の少年は、難しそうに眉を寄せる。
「す? す……スキヤキ」
「き。き、き、き……キセキレイ」
「……キセキレイってなんだ」
「鳥の名前だよ」
「そんなの知らねえ。ハル、作っただろ」
「作ってないよ。そこらへんにいっぱいいる。キョウだってきっと見たことある」
不満そうな表情を浮かべたままの「キョウ」に、「ハル」と呼ばれた少年は微笑んで続きを促す。
「『い』だよ、キョウ」
「い? ……イチゴ」
「ゴマフアザラシ」
「しゃぶしゃぶ」
「ブラキオサウルス」
「なんだそれ」
「恐竜の名前だよ」
「……。……す……すし」
「シロツメクサ」
風が通りを吹き抜けた。だいぶ花を散らせてしまった桜の木が、葉を吹き出した枝を鳴らす。
ハルは無意識にパーカーの襟元をかき合せた。隣のキョウも、かすかに肩を震わせる。
「さみいな……」
「寒いな……な、な、な……ナガサキスズメダイ」
「ちーがーうー!」
「『ち』じゃないよ、キョウ。『い』だよ」
「いまのはシリトリじゃないっ」
「いまのはシリトリじゃない。また『い』か。上手いね……い……い、い、い……イグアナ」
「だからーっ! ちょっと止めろ、タイム」
片膝を立ててハルに向き直り、キョウがストップをかけた。
「だいたい、なんだ、ナガサキなんとかって」
「ナガサキスズメダイ? 魚の名前だよ」
「……シリトリはヤメだ。ハルは知らない言葉ばっか使う」
ムスッと眉を寄せたキョウに、ハルは苦笑を向ける。
「お前が待ってるだけじゃヒマだって言うから、ヒマ潰しの方法を考えたんだ」
「だからって、シリトリじゃなくていいだろ?」
「それじゃどうする? 世界史か英単語の問題の出しあいっこでもする?」
「もっとヤダ」
ため息をついて、ハルは数十メートルほど離れた住宅の窓に目をやった。
「今夜も動きなしかなあ……」
「これでまた『空振り』だったら、クスミに抗議するかんな」
「これはクスミのせいってわけでもないよ。依頼人の指示だからね」
「だから依頼人のやり方なんか無視して、最初っから全部、俺らに任せりゃよかったんだ」
「いろいろ大人の事情があるんでしょ。微妙な立場だからねえ、あの人も」
軽く肩を竦めたところに、また風が通り抜けた。キョウは再び小さく身を震わす。
「それより寒いな」
「そんな格好で出てくるからだよ。だから上着を着ろって言ったのに」
面倒臭がってTシャツ一枚で出てきたりするからだ。葉桜の季節とは言っても、夜を吹き抜ける風はまだ冷たい。
四月初旬の深夜。東京都下。
最寄り駅に最終電車が到着し帰路に着く人々を吐き出してから、小一時間は過ぎている。
「しょうがないな、パーカー貸そうか?」
「いいよ、このくらい平気だ」
「うーん……じゃあさ、コンビニで何か温かい飲み物でも買ってきてさ……」
言いながらもう一度、向かいの住宅の窓に目をやったとき。二階の一室の明かりが消えた。
言葉を止めてふっと目を細めたハルの隣で、キョウもわずかに身を起こす。
「動くかな」
「ああ……」
「行こうか」
短くやり取りして、二人は屋根の上に立ち上がった。
ずっと見張っていた住宅の玄関のドアが、小さな音を立てて開き、閉まる。人影が通りに姿を現す。二人よりもいくつか年上らしい、ランニング・ウェアに身を包んだ青年が、小走りに西のほうへと去っていく。
「作戦通り、『放火』を確認した後で公園の前に追い込もう」
「ん。分かった」
二人は同時に屋根の上から跳躍し、ハルは向かいの塀へ、キョウは隣の住宅の屋根の上へと飛び移る。軽くジョギングでもするような足取りで駆けていく一人の青年を、ハルとキョウは両側の頭上から音もなく追いだした。
道の脇に積み上げられたゴミ袋の山に向けて、軽く神経を集中させる。
ボッと小さな音が鳴り、ゴミの詰められたビニール袋に拳ほどの大きさの炎が上がった。
(やった――!)
青年は小さく拳を握る。
ここひと月ほど、この火遊びに夢中だった。念じるだけで、炎が上がるのだ。気持ちがいい。
だが――。
(……?)
頭上に小さな人の気配を感じて、さっと周囲に気を配る。
――頭上だと? 馬鹿な……。
ヒヤリと嫌な予感をめぐらせて、身構えた瞬間。本当に、頭上から降って湧いたように。アスファルトにとん、と足をついて、目の前に二人の少年が姿を現した。
「キョウ、見た?」
「ん。見た」
「『パイロ』だね」
「だな」
「火をつけた」
「ん。……だけど。ヘンだな……」
「……そうだね、なんだか変だね」
背格好も顔立ちも似たような二人の少年は、道端で雑談でもするように息の合った短いやり取りをして、同時に首を傾げる。
「まあ……とりあえず、捕まえようか」
「ん。だな」
「――ヒ……ッ」
相手の目的を察し、青年は、小さく声を上げて二人の少年に背を向け駆け出した。
まさか――自分の仕業だと、分かるはずはない。手を触れて放火したわけではない。放火だなどと認められるはずはない。それなのに――!
全力で走りながら、青年は時おり振り返り、短く宙に意識を集中させる。追っ手の二人の少年との間に、ボッと音を立てて小さな炎が燃え上がっては消えた。
見ている者があれば、人魂や鬼火とでも称するだろう。中空に突如発現する、不思議な炎。
追いかける二人はしかし、行く手に現れるそれを軽々とかわしながら、時に跳躍して間合いを詰め、左右の塀を蹴る。その動きは、青年が自由に進路を選ぶことを妨げる。
(追い込まれているのか……?)
思った瞬間、追っ手の一人が跳躍し、丁字路にかかるギリギリのタイミングで音もなく左手の住宅の塀の上に飛び乗った。反射的に、追われる青年は右手に逃げを打つ。
が、その動きを読んでいたように――あるいは誘っていたかのように、塀を蹴って飛び掛ってくる少年。
「クソ!」
叫んで意識を集中し、自分を押さえつけている少年との間に発火しようとする。だが、一瞬生じたかに見えた大きな炎はジュッと音を立てて消え、青年は襟首を掴まれて、後頭部と背中を住宅の塀にしたたかに打ち付けた。
「――っ!」
鈍い痛みに目を閉じ、背を塀に預けたままズルズルとその場に座り込む。
同時に頭のすぐ右手でガツッと鈍い音が鳴り、目を開いて青年は愕然とした。
追っ手の一人。「キョウ」と呼ばれた少年が、すぐ目の前で片膝立ちになり青年を厳しい視線で見つめている。
その手に握られているのは、細身の刀の柄。白刃は、青年の首筋に触れるか触れないかの場所にあり、切っ先は斜めに背後の塀に突き立てられていた。
彼は、こんな刀を持っていただろうか――?
走って息が上がったためだけではない冷たい汗が、背中を伝う。恐る恐る刀から距離を取ろうとした瞬間、「動くな!」と鋭い声で制止され、首筋にかすかな冷気が触れた。
もう一人の少年が、音もなく正面に立つ。
街灯の頼りない明かりでははっきりと視認することはできないが、やはり二人とも似たような、端正な顔立ちをしている。高校生――いや、まだ中学生くらいだろうか?
「『パイロキネシス』ですね?」
目の前に立った少年が、超然と見下ろしながらそう聞いてきた。
「パイロ……?」
「『発火能力者』。三月から続いてる連続放火の犯人、あなたですよね。約一ヶ月前……三月五日の深夜から、ほぼ二、三日ごとに杉並区および武蔵野市内の住宅地のゴミ集積所に『念力放火』。確認されただけで、今日で十一件目」
「し、……知らない、……なんだ、念力放火って……」
「おいッ! いい加減にしろよ」
と、刀を持つほうの少年――キョウが、唐突に声を上げた。
冷ややかに睨みつけられる。刀の柄を握る手に力が入ったのを感じ、青年は「ヒッ」と息を呑んで竦み上がった。
「さっさと認めろ。明日も学校があるんだ」
(……が、学校だと?)
現実から恐ろしくかけ離れた状況で、いきなり飛び出した「学校」という常識的な言葉に、思わず肩の力が抜ける。
が、本人にとっては至極重要なことらしく、口調はさらに厳しくなる。
「だいたいなんで、おととい昨日と放火休んだんだよ! こっちは一晩中ずっと張ってたんだぞ! おかげで昨日も今日も昼間眠くて、俺、入学式以来一日も授業出てないんだぞ! 返せ、俺の高校生活最初の一週間!」
「キョウ。怒るところがおかしいよ」
「ハル! さっさと斬って終わりにして、帰ろう」
「まあまあ、ちょっと待って」
「ハル」と呼ばれた少年は苦笑しながら、息巻くもう一人を宥めて、改めてこちらに向き直る。
「ああスミマセン、こいつ眠くて機嫌が悪いんです。俺は緑楠高校一年のコウヅキ・ハルカ。こっちは同じく、ナルミヤ・キョウ」
聡明そうな瞳に幾分柔らかい光を浮かべなおし、コウヅキ・ハルカは自己紹介をする。
「あ、覚えなくていいです、もう会わないと思うし。ただ、名前も知らない相手に捕まって斬られるのもシャクかなって」
「……き、斬られる?」
「はい」ハルはにっこりと微笑んだ。「俺たち『サイ犯罪』を解決する仕事をしています。それで、警察から依頼を受けて、一ヶ月前からここら辺で起きている放火事件の犯人としてあなたを捕まえにきました。ちょっと話を聞かせてもらいます。それから――」
言いながらちらりと隣の「キョウ」に目を向けるハル。キョウは、その視線を受けて軽く頷き返し、青年の首筋に当てていた刀を一旦引いて。柄を両手で持ち構えなおすと、低く、冷たい声で宣言した。
「斬るんだ、あんたを」
私立・緑楠学園、理事長室。
誰もいなくなった深夜の建物の中で、「仕事」に遣わしている二人の高校生からの連絡を待ちながら書類仕事を片付けていた楠見は、突然鳴り出した机上の電話の着信音に目を上げた。
一瞬、二人からの連絡かと腰を浮かせかけるが、FAXの受信だと気づき椅子に体を戻す。
(こんな時間に――?)
壁に掛かった時計に何気なく目をやる。午前一時過ぎ。
すぐに機械から吐き出されてきた紙を手に取り、椅子の背もたれに深くもたれながら紙面に目をやって、眉を顰める。
A四サイズの紙一面に、何かの名簿のような表。そして上部の欄外に。その一文は、慌てて殴り書きしたような雑な文字で記されていた。
『以下の者、至急保護されたし』
段ボールから取り出した教科書や参考書を、手際よく机の脇の本棚に並べていた相原伊織は、本棚と壁の隙間に何気なく目をやって、ふと手を止めた。
(あれ……?)
見覚えのない一枚のDVDが落ちているのに気づいて、手を伸ばす。
この部屋の、前の住人の忘れ物だろうか――? それとも自分の荷物のどこかから、こぼれ落ちたものか?
(……俺のじゃないよなあ)
ディスクを手に首を傾げながら、今日の夕方越してきたばかりの自室を見回して。
畳んだ段ボール箱と、そこからとりあえず出した服や本や、その他の雑多な小物。狭い六畳一間のアパートの一室。
液晶テレビの下に、再生専用の簡素なものではあるが、DVDプレイヤーが設置されているのを見つけ、持っていたディスクを入れてみる。
電源を入れた液晶テレビの画面に、見たことのない、外国の海を思わせる景色の映像が映し出された。
スピーカーから静かな音楽が流れだす。画面が切り替わり、どこかの草原のようなのどかな風景。数十秒ごとに切り替わる風景映像。やはり自分のものではないだろうなと首を捻りつつ、伊織は堪え切れずにひとつ欠伸をする。
今朝はかなりの早起きだったから――こんなのんびりした映像を見ていたら、眠ってしまいそうだ。頭の片隅で、そんなことを考えた。
* * *
一九二〇年代。ドイツの超心理学者、カール・エルンスト・フェルツ博士は、人間の持つ通常の感覚を二十二に分類し、さらに一部の人間にだけ発現する二十三番目の感覚の存在を主張した。
現在、「第六感」という言葉で表現されるものに近いそれに、博士は、「超常能力」を意味する「PSI」にちなんでギリシャ文字二十三番目の「Ψ」を当てた。
フェルツ博士の研究は、超心理学会に大きな影響を与え、従来の科学では解明できない現象を説明するこの学説は当時の学会を大きく賑わせた。が、博士はその後、オカルトめいた超心理現象に傾倒。「科学」の域を大きく踏み外したとして学会から追われ、次第に彼の論文は忘れられていった。
現代のPSIおよび心理学研究に関わる者たちの間でも、このフェルツ博士の学説が想起されることは、ほとんどない。ごく一部の、それが真実であることを知る人間たち以外には。