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「それでね、今日はぶっつけ本番で〝姫君〟を演じた訳なんだけど」
実を言えば「臣下を紹介しよう」という十季の台詞に私はもっと内輪のお披露目を想像していたのだ。それがまさか、あんな大仰な場所で黒衣の大群に囲まれ〝相応しい振る舞い〟を求められることになるなんて扉が開かれるまで考えてもみなかった。だけどあの状況で、まさか転校生のような挨拶なんてできようか。
だが、あの場面でまさかと思うものが役になったのである。それは今まで読み漁ってきた本の数々――歴史小説、ロマンス小説、軍記――とにかく今まで無節操に乱読してきた本の中で〝王族〟はどんな風に振舞っていたか。あの時の私は物凄い勢いで脳内の記憶を掘り起こした。
幸い十季を庇ったあの日、私の鞄の中に入っていたのはヒストリカルロマンスで。挙式と披露宴の間に暇を持て余すだろうと鞄に突っ込んでいたのだが、かつて熟読させられた教科書なんかより「ひょんなことから王家の一員になった少女と若き貴族の恋物語」の方がよっぽど人生の役に立ってしまった。もっとも、そんなものが役に立つ人生を送る人が少数派なのは確かだ。だけど今回役に立ったからといって、これからも本の中の知識だけを乗り切れるはずもない。
「私は今後どうすればいいの? 姫君に求められるものは何?」
私の質問に2人は少し考えて、同時に口を開いた。
「「身を守る術」」
「……それは戦えるようになれってこと?」
「勿論それもある。だが大切なのはそれだけじゃない。慎重に、他の奴等に対して隙を見せないことも学ばなくちゃならん。普段はなるべく喋らないことである程度は防げるだろうが、何時までも口を噤んでいれば侮られる」
「そうね」
睡蓮の言葉に私は頷いた。
「その為には吸血鬼について色々知らなくちゃ。何を言ってよくて、何を言っちゃいけないのか。それすら今の私には判断できないんだもの」
「まあ、それを姫さん自身が分かってる分俺達は随分楽させてもらってるがな」
「ちなみに吸血鬼の戦い方は俺が教えるよ。これでも近衛烏の中で一番真っ当な戦い方をするから」
羽衣の言葉は予想外だった。〝一番真っ当でない〟だったら納得できるのに――なんて私が考えているのが分かったのだろう。羽衣が不満げに口を尖らせる。
「あのな、こう見えても俺は十季の次に長く生きてるんだ。それこそ戦いの前に名乗りを上げるのが当たり前だった時代の生まれだぜ? 正直、今の時代の戦い方には未だに嫌悪感すら覚えるね」
戦いの前に、名乗りを上げる。私は当然、目の前の年若いおかっぱ頭が得体の知れないものに見えてきた。よし、ひとまず考えない。それが賢明だ。
「ちなみに承知しておいてもらいたいんだが、今日以降しばらく俺と羽衣は姫さんの傍を離れない」
口振りからすると、本当に片時も離れない気らしい。実のところ私は普段から1人でいる方が気楽なタイプだったりするのでこれはかなり気詰まりになりそうだ。が、状況が状況だけに嫌だとは口が裂けても言えない。しかし四六時中離れないとなると、いくつか物理的な問題が浮上しないだろうか。――それこそ。
「……お風呂は?」
「自信がないなら、目を瞑っていてやろうか?」
ニヤリと笑った羽衣の頭を反射的に叩きながら、吸血鬼がトイレに行く必要がなくて本当によかったと思った。ちなみに蛇足だが、人間の食べ物を摂取しても体内であっという間に分解されるらしい。太る心配もなし。この点においては吸血鬼になってよかったと思ってしまう。
「そんなに危ない状況なの?」
「こうして冗談を言ってられる程度ではあるが、姫さんにとっては今が一番危ないと言えるかもしれない。姫さんは今日宵闇烏の前に姿を見せたが、あれはあくまでも内々の披露で正式なものじゃないからな。公式に宵闇の姫として発表するのは姫さんがある程度自衛できるようになってからと殿下は考えてるし」
「つまり、姫さんはまだこの国にいないってことさ」
もしそうなら今が私の狙い時ということだ。今なら私という存在を元々なかったことにできるのだから。「姫君? さて、殿下に血族はいらっしゃらなかったのでは?」姿の見えない誰かがそう楽しそうに言ってのける姿が目に浮かぶ。
「了解。お風呂もベッドも一緒ってことね」
「お望みなら?」
楽しそうに笑った2人の吸血鬼には、どうやら人間流の冗談が通じないらしい。もしくは彼らの貞操観念が家出をしているだけなのかもしれないが。
「……じゃあ、学校に行くのはやっぱり難しいのかな」
こんなことを言っている場合じゃないのかもしれない。それでも私は呟かずにはいられなかった。別に死ぬほど学校が好きだった訳じゃない。人間だった頃はむしろ行かなくていいならラッキーなんて思っていた。
第一、大学を卒業したところで学位が今後の生活に影響することもなくなったのだ――けれど。今まで積み重ねてきた人としての毎日を何の躊躇いもなく放り投げることができるほど私は思いきりのいい性格じゃない。
さらにもうひとつ懸念がある。両親のことだ。大学に行かなければ――それ以前に私が急に姿を消したとなれば、例え放任主義の両親であっても必ず動くだろう。そんなことを考えてもごもごする私を、しかし2人は呆れるでもなくむしろ面白そうな目で見ていた。
「ああ、殿下から聞いてる。この春で卒業なんだって?」
「そう。だからできたら、なるべく穏便にいきたいの」
何だか随分前のことのようだけれど、私が人として死んだ〝あの夜〟――あれが12月に入ってからのこと。そして怪我を負い、眠りこけることほぼ1週間。その間は必然的に自主休講になってしまったけれど、年内の講義がまだあと1週間分、短い冬休みを挟んで形のばかりの期末試験を受け終えるまで――私の大学生活を終えるまでは、もう少しだけ時間が残されていた。
もしも、もしも許されるなら、せめて卒業してみたい――けれどそんなことを考えたのも束の間だった。何故って、私は重大な事実に気がついてしまったのだ。
「そもそも、この見た目じゃ学校に行くなんて無理じゃないか……」
私は思っている以上に馬鹿かもしれなかった。そう、私はもう以前の私じゃない。かつて呼ばれていた名前を十季に捧げ〝木蓮〟になった私は彼の血によって吸血鬼に変わった。名前だけじゃなく〝見た目〟も。鏡に映った私を見て自分でも思ったじゃないか。私を私だと気づく人はいないだろうって。一気に我に返ってらしくもなく自虐的な笑いをこぼしてしまった私に、しかし羽衣があっさりと首を振った。
「それは別に心配いらない。吸血鬼の容姿は人目を引くけど、勿論逆もできるからさ。違和感なく人の中に紛れ込むことだってできる」
「……本当に? 私にもできる?」
「できるに決まってる。十季の血が流れててできないことなんてない。第一〝学校〟の仕組みなんざ知らないが、公的な機関なんてのは金を積めば大抵のことは解決する。別に行きたいなら行けばいい」
それに、と羽衣が言った。
「流石に同じことを繰り返すとは思わないが、例え地上で襲われても昼の間なら心配はない。俺の配下に昼の護衛に打ってつけの奴がいるんだ。〝学校〟とやらにいる間はそいつを傍に置けばいい。まさかこんなところで役に立つとは思ってなかったが」
「殿下からもできる限り姫さんの望みは叶えるよう言われてるしな。どうとでもしてみせるから、細かいことは気にせず行ってきたらいい。……それより、姫さん」
睡蓮は不意に、私を気遣うような目になった。
「家族がいるんだろう? その後はどうする」
言われて、小さく唇を噛んだ。けれどそのことについては短い時間であっても流石に少しは考えてある。
「……海外の仕事に就いたって、言おうかと思ってるんだけど」
「なるほど。まあ……当面はそれでいいだろう。だが頃合を見て」
言い難そうにしている睡蓮の、その言葉の続きは容易に想像できた。
「私は死ななきゃいけないのね」
「……そうだ」
「そのことに関しては勿論異存はないわ。そうするべきだと言うのは分かる。だからこそ、時間をくれる?」
「それは勿論、すぐになんて言わない。勿論だ」
と、睡蓮が戸惑いを浮かべながら溜息をついた。
「どうしたの?」
「いや……姫さんは随分と聞き訳がいいからな。それに冷静だ。正直もっと荒れるもんだと思ってた。殿下に悪い影響がいかないか心配してたのが随分昔のことみたいだ」
「内心は分からないわよ? 急に叫び出したらどうする?」
冗談めかして言えば、睡蓮は笑った。
「美しい女はどんなに我侭でも許されるんだ。少なくとも俺は何でも聞いてやるつもりでいるから何時でも言ってくれ」
「嬉しい。それじゃあ、何をしてもらおうかしら?」
「睡蓮、姫さんはそのうちお前にとんでもないことを言ってくるぞ」
「怖いな。だが……望むところだ」
睡蓮がじっと私の目を覗き込んでくる。その瞳には紛れもない本気の色。
「それじゃあ手始めに、その覚悟を証明するとしようか」
言うなり、睡蓮は自分の人差し指を噛み切った。ぷつりと白い指に血が滲み出て、とろりと赤い珠になる。それを見た瞬間、羽衣が血相を変えた。睡蓮の、血の流れる方の腕を素早く捕まえると「正気か?」と目で訴える。
「睡蓮」
「羽衣、姫さんには賭けるだけのものがあると俺は思うね」
「お前の得意な勘か? 引き返せなくなるぞ」
「分かってるさ。ちなみに俺が今まで勘を根拠に仕えた吸血鬼は数え切れないが、血を捧げたのは殿下だけだぞ」
私を置いてきぼりにして、羽衣と睡蓮はしばらく見つめ合っていた。目と目で互いに何かを伝え、訴えあっているのは分かる。そしてそのやり取りに折れたのは羽衣の方だった。私をじっと見つめると顔を近づけて目線を合わせ、言った。
「姫さん、吸血鬼になったばかりの身に酷だということは分かってるが、それでも聞くぞ」
私は、訳も分らないまま頷いた。
「姫さんに、俺達の心を背負う覚悟はあるか?」
「待てよ、羽衣。お前も連れ立つ必要はないぞ」
「馬鹿だな、お前1人に抜け駆けさせる訳ないだろ」
「ちょっと、待って。私を置いてかないでよ。答える前にまず説明して」
私を置き去りにある意味盛り上がっている2人には申し訳ないが、正直何が起こっているのかすら把握不能だ。
「つまりだな、姫さん。睡蓮は今、姫さんに血を捧げようとしてる。それは吸血鬼流の信頼の証なんだ。むしろ信頼と言う単語じゃ生温いくらい。姫さんと十季を親子に例えるなら、血を捧げるのは兄弟ってところ。普通は初対面でやるようなことじゃないんだよ。血を捧げれば、血縁ほどじゃないけど相手には自分の気持ちなんかが伝わるようになるしさ。何より、血を捧げた相手には嘘がつけない」
「じゃあ、どうして睡蓮はそんなことをやろうとしてるの?」
聞けば、睡蓮は迷いのない口調で言い切る。
「言ったろ、勘だ。今は殿下が王になるかならないかの大事な時期で、姫さんは確実にその鍵になるって俺の勘が言ってる。そして、俺はその鍵の傍にいるべきだとも。自慢じゃないが俺は吸血鬼になる前も、なってからもこの勘で大半のことは上手くやってきたんだ。賭けるには十分な理由がある。それに血を捧げるのには、もう1つ意味があるぞ。もしも誰が味方で誰が敵か、そんな事態に陥ったとしても、姫さんは俺を疑わなくていい」
嘘がつけない。裏切ることもできない。まだ出会ったばかりの私に彼は随分なものを寄越そうとしている。全く、吸血鬼の世界は大変だ。命の危険、示される信頼、絶えず試される自分自身。でも、それは私にとって心地よくもある。
「指を、睡蓮」
「覚悟を持って受け取るんだな?」
羽衣の念押しに私はしっかり頷いた。その代わり、と笑って返す。
「そっちも同じだけ背負ってもらうことにする。不公平だもの」
私は両手の人差し指を順番に噛んだ。それを2人の目の前に突きつけてやる。
「文句ないわね?」
「上等だ」
羽衣がぎらりと目を輝かせ、彼も指を噛み切る。差し出された睡蓮と羽衣の指。言い出した順ということで、まずは睡蓮から。彼のごつごつした指を口に含めば、その血からは気怠い花のような仄かに甘い味がした。
「吸って」
言われるままに傷口から血を吸えば、睡蓮が何とも艶めいた吐息を漏らす。彼の血の味が名残惜しかったが、私は彼の指を離すと今度は羽衣の指を咥えた。彼の指は睡蓮よりも細く繊細で、しかし血の味はむせ返るほどに濃い。羽衣は私が血を吸った瞬間、悪戯するようにその指先で私の舌をなぞっていった。
「それじゃ、そっちの番」
私は深く息を吸うと、キスを求める時みたく両手を差し出した。まずは羽衣が差し出された私の左の指をゆっくりと口に含み、傷口を強く吸う。体に走る、痺れるような気持ちよさ。次いで右手を同じように睡蓮が吸った。彼はまず舌で表面に浮いた血を舐めとってから、羽衣と同じように私の指を口に含んで強く吸い上げる。思わず漏れてしまった喘ぎを楽しむかのように睡蓮は軽く私の指に歯を立てた。
「これで、一蓮托生ね」
「仰々しいがその通りか」
「俺は思ってたよりも重度の博打打ちだったらしいな。お前のがうつったらしいぞ、睡蓮」
唇を染める赤い血の名残をべろりとはしたなく舌で舐めとり、私はベッドに身を投げ出した。何だか笑いが止まらない。すると羽衣と睡蓮もつられたように笑い始めて実感した。ああ、確かに今、彼らの中には私の血が混じっている。
「楽しそうだな、姫さん」
「いいじゃん、姫さんが楽しければ俺も楽しくなれるし。いっつもそうやって笑っててよ」
羽衣は「悪くない気分だ」と投げ出された私の指先に軽く口付ける。
「それで? 明日は早速〝学校〟とやらに行くの?」
「明日は……何曜日だっけ?」
「水曜日かな、多分」
さて、水曜日は何限からだったっけ。私は頭の中で時間割を探した。確か「創作実習」が3限だったような気がする。〝講義〟なんて何だか普通すぎて、最早その単語に違和感を感じ始めている自分の順応性の高さには本当に驚かされるばかりだ。
「それじゃ、行くよ。講義は13時から」
「承知した。じゃあ今日の護衛は睡蓮に任せて俺は手回しを済ませてくるさ。例の配下は姫さんが起きた頃に連れてくるから。それじゃ、いい夜を」
羽衣は睡蓮に「頼んだ」と目で告げて、部屋を出て行った。