2-1
ひくり、と微かに震える瞼。次いでその薄い皮膚をゆっくりと持ち上げて、私は揺らぐ焦点を数度の瞬きで調整する。柔らかなベッドの上に横たわったまま視線だけを横に流せばどうやら今は夜らしい。開かれたカーテンの向こうに皓々と輝く冷たそうな月があった。藍色の空に浮かぶそれは満月に近い。
外は随分と風があるようだ。月明かりに浮かぶ木々の黒々したシルエットがざわざわと揺れている。けれど葉擦れの音は厚いガラスに遮られ私の耳までは届かなくて――ざわめく視覚と静かな聴覚――それがこの空間を酷く非現実的なものにしている。
そんなとりとめもないことを考えつつ、私はまだ眠りの余韻を漂わせながら身体を起こした。途端、壁にかけられた燭台の蝋燭が次々に灯る。小さな炎も吸血鬼となった私の目には十二分に眩く、目を瞬かせれば静かな部屋の中にひとつ、くつりと穏やかな笑い声が落ちた。
「おはよう、木蓮」
声の方へ顔を向けて、瞬間、私は唇に乗せかけた「おはよう」の言葉を失くしてしまった。仄明るい部屋の片隅で宵闇と浮かぶ白い月を背に窓辺に立っている美しい人。肌の色は透けるように白く淡く輝いて、さっき私が乱した細くつややかな黒髪も今は綺麗に撫でつけられている。蝋燭の灯りに妖しく浮かび上がる赤く薄い唇。何より惹きつけられるのは闇を溶かして固めたような切れ長の目――美しき夜の王――そう呼ぶに彼は誰よりもふさわしい。
だけど心臓を握り込まれるような心地に襲われたのはきっと彼の美しさだけが原因じゃない。当分見慣れはしないだろうけれど、さっきまではその美貌をもっと間近で見つめていたのだ。それよりも私を魅了したもの。それは十季の顔に浮かんでいる柔らかな笑み――ただ愛しいと、大切なのだという思いが溢れている――それが私に呼吸を忘れさせた。
この人は何て顔で私を見るんだろう。人間であった頃にこんなにも強く、溺れそうなほど深い思いを向けられたことなんてなかった。酷く、胸が苦しい。それほどに十季が向けてくる感情の波は高くて、溢れ押し寄せるそれに溺れて私は本当に窒息死してしまうかもしれない。そんな馬鹿なことを半ば本気で思いながら、現実の私は少しばかりぎこちない微笑みを十季に返した。
「おはよう……十季」
「木蓮、改めてようこそ朽ち果ての国へ。喉の渇きは消えたね?」
するすると音もなく近づいてきた十季の口付けを頬に受け、体が触れるほど近くに腰を下ろした彼の親密な距離と仕草に戸惑いながらも小さく頷く。言われて初めて自覚したが、ひりつくようだった喉の渇きは今や完全になくなっていた。あれだけ熱を持っていた体も火が消えたように冷たい。それは生き物として不自然な――自分が人間でなくなったことを証明する温度。
「……冷たい、ね」
ぽつりと呟いて、そっと自分の手の甲を撫でてみる。滑らかで作り物めいた手触りだ。氷のように冷たい訳じゃないけれど、人間のような温もりもない。さっきまで半ば人として存在していた私からすれば十分冷たいと感じられてしまう温度。まるで空虚が身体の中を巡っているみたいだ。そして、ふと考える。この感覚が吸血鬼という存在の常なのだとすれば、彼らは何て冷たい世界に身を置いているのだろう。
だが、私の思考を見透かしたように十季の片手が私のそれをそっと包み込んだ。同時にもう片方の手が私の体を引き寄せ、あっという間に唇が触れ合う。何度も角度を変え、けれど決して唇は離さないまま深くなっていく口付け。その合間に「……分かるだろう?」と吐息で彼が囁く。私はその唐突な問いかけに何をと聞き返そうとして、それよりも早く彼の言葉の意味を理解した。触れ合っている唇が、気がつけば熱い。
「なん、で?」
生まれた熱を失くしてしまうのが嫌で、十季の唇に自分のそれを触れさせたままに囁く。すると十季は「大丈夫」と宥めるように目を細めて、最後にひとつ小さな音を立てて口付けを落とすと顔を離した。それでもその腕は私の体を引き寄せたまま、繋いでいる手も今はじんわりと温もりを宿している。
「人間の血を飲んだ時の他に、こうして触れ合えばこの冷たい体も熱を生むことができる。いずれは冷たさも気にならなくなるだろうけれど、それまでは違和感があるだろうね。でも安心して。君が望むだけ……私が温めてあげるから」
大抵の日本人なら羞恥で憤死しそうな台詞を耳元に落とされて、もしも私が人間だった頃なら盛大に赤面していたことだろう。それでも人でなくなった私の頬はやっぱりひんやりしたまま――けれど、触れた十季の唇は確かに温かかったから。
「ん……」
気恥ずかしいような何とも言えない気分で眉間に皺を寄せ、私も十季の頬にじんわりと熱を持った唇をほんの少し触れさせてみた。
「それで? 喉の渇きもなくなって、私は晴れて吸血鬼。お次は何をすればいいのかな」
十季の腕から抜け出して、気恥ずかしさを振り払うように勢いをつけベッドから床へ。木目の美しい床材の上に素足をつけて、私はちょっとばかり芝居がかった口調で尋ねた。そんな私の内心を知ってか知らずか、十季は今までの余韻なんて微塵も感じさせない涼やかな顔で立ち上がり私の手をとる。
「そうだね。まずは身支度をしようか」
言われて、納得する。見下ろせば今の私は酷く心もとない薄さのワンピースを素肌の上に纏っているだけだ。目覚めてすぐ、裸にシーツを巻きつけたままなのが流石に居た堪れなくて玉緒に用意してもらったもの。彼女の趣味を否定するわけじゃないけれど――本音を言えば、全然趣味じゃない。
さっきはわざとワンピースと呼んでみたが訂正しよう。これは紛れもなくネグリジェと呼ばれる代物だ。薄く、軽く、ひらひらで、ウエストを同じ素材のリボンでゆったりと絞ったタイプのソレ。色が黒だったのがせめてもの救いだろうか。
ともあれ普段はくたくたになったTシャツと短パンをパジャマにしている私と相容れない存在であることは断言できるし、そもそもベッド以外の場所で着用するには問題大有りな格好であることは間違いない。
十季に手を引かれるまま広い部屋を奥へと進む。ここで私は初めてこの部屋に続き部屋があることに気付いた。出入り口である扉の他に、部屋の最奥に壁をくりぬいたアーチ型の通路がある。
迷わずにその続き部屋を目指す十季についてアーチを潜り抜ければ、そこは正しくクローゼットルームだった。壁面には作り付けのハンガーラック。そしてそこにかけられている大量の衣類、衣類、衣類。ラックの下部にある引き出しにも恐らくは衣類が詰め込まれているのだろう。それどころか別のラックにはずらりと多種多様な靴が並べられているのだ。
間違いなくこれらは全て私の為に用意されたものなんだろう。金額なんて考えたくもないし、何よりここまで今までの生活との違いを見せつけられると最早抵抗しようなんて考えすら浮かんでこないのが私という人間で。顔が若干引き攣るくらいはご愛嬌だ。
開閉式の三面鏡がついた豪奢なドレッサー、その揃いの椅子に促されて腰を下ろす。もうなるようにしかならない。そんな投げやり気分でぼんやり成り行きに身を任せる私の視線の先では十季が楽しそうにあれこれ衣類を選んでいる。
「木蓮、君はどんな衣装が好みかな。それとも私が選んで構わない?」
「いいよ。でも、なるべくひらひらしてなくてシンプルなのでお願いします」
むしろ選ばせて欲しいというオーラを全身から溢れさせている十季に私はあっさりと答えた。元々洋服に大きなこだわりがある方じゃなし、彼が楽しそうで何よりだ。案の定十季は私の言葉に「承知した」と破顔して再び洋服の山へと視線を戻している。
「色はやはり黒にしよう。これから私の臣下に君をお披露目するからね。彼らの衣装も黒が基調だし……ふむ、これは少しばかり君の言う〝ひらひら〟が過ぎるかな?」
ラックから何ともクラシカルなドレスを取り出した十季に「そうだね」ともう少しレースの減量を希望しつつ私はふと思う。十季はさらりと何でもないことのように言ったが〝臣下〟とはこれ如何に。現代社会に生きてきた私からしてみれば〝臣下〟なんて耳慣れないことこの上ない。むずむずするような奇妙な響きだ。けれど思い返してみれば十季が王族のようなものだというのだから、臣下がいるのも当然か。
「そんなに不安な顔をしなくても大丈夫。お披露目と言っても簡単なものだし、今日は私直属の部下だけだから気負わなくていい」
まあ直属の部下だろうがどうせ緊張はするのだからとそれ以上思い悩むのを諦めて、暇潰しに私もクローゼットの中を覗き込んでみた。先程提示されたドレスから想像はしていたものの――高級そうなレースにビロード、綺麗な光沢のあるリボンに細かな刺繍なんて――用意されていたのはどれもこれもアンティークを彷彿とさせるドレスやワンピースばかり。
確かに十季の身に着けている衣服もアンティーク風のツーピースだから彼の隣に並ぶのにこのドレス達は相応しいかもしれない。似合う自信は一切なかったが仕方ないと諦めて、十季の示した中から一番レースや飾りが少ないように見える黒のドレスとボレロを私は選んだ。
衝立の向こうで手早くネグリジェを脱ぎ捨て、ドレスとボレロを身に纏う。そうして再び十季の前へ戻れば、紳士らしく静かに着替えの終わるのを待っていた彼はふと首を傾げた。
「何だか……不満そうだね。気に入らなかった?」
しまった。投げやりな気持ちが表情に出てしまっていたらしい。別に十季に悲しそうな顔をさせたくなんてなかったのにと歯噛みして、私は慌てて首を振り懸命にフォローの言葉を探す。
「違うよ! 不満というか……選んでくれた服に不満なんてないけど……その、十季に恥をかかせるんじゃないかと思って」
「何故? よく似合ってる」
「お世辞はいいから。私だって自分の容姿のレベルはちゃんと把握してるの」
私の言葉は紛れもなく本心から、それは謙遜でもまして自虐や卑下でも何でもない。考えてもみて欲しい。こういうクラシカルなドレスが似合うのは極限られた人々なのだ。自分がそこに入っていないことは考えるまでもない。しかしそれを聞いた十季は驚いたように目を見張り、それから目を細めふっと吐息で笑った。
「なるほど……君は気がついていなかったんだな」
言って背後に回った十季が私を再びドレッサーの前に座らせて、それから勿体つけるようにゆっくりと鏡を開いた。そして、私は理解する。磨かれた曇りない鏡に映る自分の姿は、なるほど、そうか。
「君は吸血鬼。人間の血を糧にする私達にとって、この身は人を魅了する為の罠だ。ちなみにその美しさは血統の証でもある」
つまり王族の血統である十季の血を与えられた私は、その血に値する美しさを手に入れたということ。彼の言葉通り、鏡に映る私は美しかった。勿論以前の面影は残っているが、しかし今の私を今までの私と同一の人物であると気付く人はきっといない。
目も鼻も唇も、かつて「もう少しこうだったらな」なんて鏡を前に思っていた欠点を失い素晴らしいバランスでもって顔の中に収まっているし、元々色白だった肌も今や吸血鬼特有の透ける様な白色になっている。何よりの変化は、はっとするような赤色を帯びた唇から覗く尖った牙だろうか。
「ねえ、牙ってずっとこのままなの? 口の中切りそう」
恐る恐る舌先で牙に触れれば、鋭いそれにちりと痛みが走って口内にかすか血の味が広がった。不思議なことに自分の血を美味しいと感じることはないらしい。顔を顰めながら十季に聞けば、彼はおかしそうに笑って私の頭を撫でる。
「切れてもすぐに治るし、そのうち慣れる。ほら、仕上げに髪を梳かしてあげよう」
ドレッサーの引き出しからブラシを取り出す十季はとても楽しそうだ。私も、ひとまずは容姿において十季に気後れをする必要がなくなって安堵の溜息を吐き彼に髪を委ねる。この顔ならば化粧も殆どいらないだろう。精々アイラインとシャドウ、チークを軽く乗せるくらいだ。別の引き出しには当然のように色とりどりの化粧品が並べられていたから、私は深く考えずにそのうちのいくつかを目の前に並べた。
「ねぇ……聞いてもいい?」
「んん、なんだい?」
私の髪にブラシをかけるのに夢中の十季は完全な生返事をした。それもそのはず。驚いたことに吸血鬼になった私の髪は生前――人間だった時のことをそう呼ぶらしい――からにょきにょきとその長さを伸ばし肩を優に越す長さになっていた。しかも髪はまだまだ伸びる可能性があるらしい。まるで呪いのお菊人間になった気分だ。それでも傷みのなくなった美しい黒髪が肌をくすぐる感触は中々いいものだ。――さて、それはともかく。
「私、十季の事も……それどころか吸血鬼についてだってよく分からないままなんだけど」
淡いピンクのチークを薄らと頬に刷きながら、鏡越しに十季を見つめて私は口を開いた。吸血鬼の生態については簡潔な説明を受けたものの、知らないことは彼らの歴史の長さに比例して膨大なはず。それを何も理解しないまま、彼以外の吸血鬼に会うのはかなり無茶がないだろうか。
考えてみればあの夜の出来事から今に至るまでの展開があまりにも急で衝撃的だった所為で、私はその流れについていくだけで精一杯だったのだ。でもこうして十季にのんびりと髪を梳いてもらっていると疑問や懸念事項が一気に押し寄せてくる。
「そもそも、あなたの血族になった私は何をすればいいの?」
中でもまず知りたいのはそれだった。十季が王族だというのなら、それに連なる私もまた王族の立場になるのだろうか。それとも臣下なのか。でも王族だろうが臣下だろうが、現代の日本人だった私にとって馴染みのなさは変わらない。それでもそれを言い訳にして十季の顔に泥を塗りたくはなかった。
だが十季はつやつやになった私の黒髪を満足げに触りながらブラシを置くと、困ったような表情で鏡の中の私に微笑みかける。
「君の立ち位置については私も決めあぐねていてね……。何せ血縁を持つのは初めてで……いや、あまりにも突然に我々の同胞となった君に比べれば些細な変化なのだろうが。だがね、言い訳を許してくれるのなら……代わり映えのしない長い時をただ過ごしてきた身に急な変化は中々堪えるものなんだ」
早口にぼそぼそとそんな言い訳をする十季の姿はちょっとばかり情けなくて、けれど可愛らしくもあって。小さく噴き出せば恥じるように十季が目線を泳がせる。やがて咳払いをひとつ、仕切り直しを計った彼は真面目な顔で真っ直ぐに私の目を見つめた。
「木蓮、少し時間をくれないか。私はまだ君のことを何も知らない。それは君も同じことだ。時間があるとは言えないけれど……この状況で性急に事を決めては後に障りがあるかもしれない。だから少しだけ、時間を。その間に君は私やこの国のことについて知ってくれ」
「分かった。正直、今は私も自分が一体どう振る舞うのが正解なのかなんて想像もつかないから。知る、努力をするよ。この国のこと、吸血鬼のこと、十季のことも」
そうして2人で微笑み合ったはいいけれど、ちょっと待って欲しい。結局私の質問に対する答えは得られないままじゃないか。しかし十季の中でこの流れはすっかり片付いてしまったらしく――早速臣下に会わせようというのだろう――私をエスコートすべくその手を差し出している。ああ、もう、仕方がない。私は心の中で諦めの溜息を吐きながら差し出された十季の手をとる。どうやら、私は何も知らないままに吸血鬼デビューを果たさねばならないらしかった。