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朽ち果ての王と宵闇烏  作者: 吉野花色
第1章:朽ち果ての夜へ
3/33

1-2

 吸血鬼――


 それは人を惹きつける美しい容貌(かお)をして


 夜は闇に姿を溶かし


 (からす)に姿を変えて空を舞い


 人の血を吸って生きるモノ




   ◆◆◆




 玉緒が去った後の室内は妙に冷え込んで広く感じた。彼女が話してくれた内容は決して喜べることじゃなかったしショックでもあった。それでも彼女は精一杯気遣って話してくれたとのだ思う。何より彼女は優しかった。仮令、その正体が吸血鬼だったとしてもだ。


 私はヘッドボードにもたれて、開かれたままのカーテンの向こうをぼんやり眺めていた。鮮やかだった茜色の裾に紫が混じり始めている。もうすぐ完全に日が落ちるだろう。暖かい光が少しずつ薄れていくのをこんなに寂しく思うなんて不思議だ。私も、吸血鬼らしいのに。


 玉緒が吸血鬼について必要最低限のことを教えてくれた。まず、物語と違って日の光を浴びても吸血鬼は灰にはならない。ただ昼の間は吸血鬼としての能力が低下するから、基本昼夜反転した生活を送っているそうだ。


 そして夜がくれば、吸血鬼は姿を闇に溶かすことができる。それから(からす)に姿を変えることもできる。ただし蝙蝠(こうもり)にはなれない。


 吸血鬼は人間よりも圧倒的に身体能力に優れ治癒力も高い。だけど頭や心臓が壊れればしばらく動けなくなるし銀は毒になるそうだ。


 ちなみにただ血を吸われただけで人が吸血鬼になることはないらしい。血を吸われ、さらに吸血鬼の血を吸血鬼自身の意思で人に与えた場合、人は吸血鬼になる。


 そして、人の血を飲み(かて)にする。


 人間と同じ普通の(・・・)食事もできるし、味覚もちょっと繊細になるくらいで大きくは変わらない。それでも血を飲まなければ衰弱し死んでしまう。今私の身体が重たくて仕方がないのも、喉乾いているのもその所為らしかった。


 受け入れるには時間がかかるでしょう。今まで同族だったものを食べるのを嫌悪するのも当然だと思うわ。玉緒はそう言って私の頭を撫でてくれた。


 どうだろう。いざという時になって私は〝食事〟をすることができるのかどうか。今は頭が一杯でそんなことを考えている余裕すらないのが現実だ。


 第一これでも冷静な方だろうと自分でも思う。普通に考えたら気が狂いそうになっていたって可笑しくないのに。玉緒の話では1週間近く前のあの夜、私は血と一緒に〝普通〟という感覚も流しきってしまったに違いない。


 膝を抱えて窓の外、生い茂る木々の間に太陽の最後の欠片が滲んで消えるのをみた。そうすれば程なく世界は宵闇に包まれる。再び薄暗くなった室内に――ドアをノックする音が静かに響いた。


 ドアの向こうにいるのが誰なのか、確かめずとも私には分かっている。体内を巡る血が「彼だ」と告げている。この不思議な繋がりを吸血鬼達は血縁(けつえん)と呼ぶのだそうだ。


「どうぞ」


 静かに答えればドアが軋みながら開かれる。現れたのはすらりとした長身を黒衣に包んだ男――十季。その姿を視界に捉えれば血は一層ざわめき、あの夜の朧げな記憶が少しずつピントを合わせていく。


 ああ、確かに彼の容貌は吸血鬼に相応しかった。艶やかな黒髪をオールバックにし、切れ長の目は暗く穏やかな色をたたえている。薄い唇は仄かに赤く、肌の白さと相まって目を引いた。滑らかに鈍く光る黒のツーピースをその細身の体躯に纏い、柔らかそうな白いシャツと紫色のタイから覗く首筋の血管が艶かしい。儚げで、物憂げで。彼ほど闇に佇む姿が似合う人もいないだろう。そしてこの美しい姿は、ただ人間を惹き寄せる為の餌に過ぎないのだ。


 十季の目と私の目は、あの夜と同じように空中で噛み合った。音もなく私に近づいてくる彼の背後でドアが独りでに閉じる。ドアの金具が立てる無機質な音に、もう引き返せないところまできてしまったのだと私は不意に悟った。そうと理解して、結局私はただ目の前の美しい吸血鬼を見つめていた。


 我ながら、私の運命はかなり突拍子のないものだと思う。就職と、人としての人並みな幸せ。そんなことばかりを考えていたのが、私の記憶の中ではつい昨日のことで、実際だってたった1週間前のことなのに。今私の前にあるのは〝吸血鬼として生きるか否か〟という選択肢だけなのだ。


 ぼんやりと思考の海に漂っている間に、十季は私のすぐ傍までやってきていた。じっと彼を見つめている私を、彼もまた見つめている。2人の間には緊張を孕んだ沈黙が横たわっていた。でも、じゃあ彼に何か声をかけるべきなのか。皆目見当もつかず、私は黙っている他ない。


「身体に、不具合は……?」


 沈黙を破ったのはやはり十季の方だった。けれどそれはかける言葉を探して結局それしか出てこなかったような、そんな戸惑ったような物言いで。彼も戸惑っているのだと思えば少し気が楽になる。


「ちょっと怠いですけど大丈夫みたいです。十季さんも、お加減は如何ですか」

「十季でいい。敬語もいらない。傷はとうに癒えた」


 そして、再び沈黙。無理もない。そもそも私達は何の面識もなくて、なのにあの夜、私達には途方もない縁ができてしまった。お互い名前くらいしか知っていることがなくて、でもじゃあ一体何を聞いたらいいのかもよく分からない。まるで、下手なお見合いのようだ。そんな風に思ったら何だか笑えてしまった。


「え……?」


 と、不意に朧気ながら血を介して伝わってきた彼の感情に戸惑う。何故だろう、それは間違いなくかすかな恐怖で。


「私が、怖いの?」


 おずおずと聞けば、面白いぐらいに彼がたじろいだのが分かった。自身の感情が露見したことが信じられなかったらしい。動揺を隠すように眉根を寄せて、それから何かを理解したらしく溜息をつく。


「そうか……血縁というのはこういうものなのか。縁を結ぶと相手の感情や気配をより強く感じられるようになる。すっかり失念していたよ」


 十季は苦笑し、そっとベッドの縁に腰を下ろした。それから皮肉そうな笑いを浮かべ、私と目線を合わせ首を傾げてみせる。


「そう……私は君を恐れている。何故だか分かる?」


 私はぽかんとして首を振った。だって彼が私を恐れなくちゃならない理由が何処にあるというんだろう。死にかけて中途半端に人でなくなったらしい私を、優れた能力を持つらしい吸血鬼の彼が。


「私はね、今まで誰とも縁を結んだことがないんだ。大抵の吸血鬼は数人と縁を結んで血で繋がった仲間を作る。でも私には血の繋がらない仲間はいても、血の繋がった仲間はいない。1人もだ」


 十季の目が真っ直ぐに私を見ている。その瞳はまるで私の心の中を探ろうとしているようにみえた。


「正直に答えてくれ。君は私を恨んでいる?」


 その問いに私は困惑した。恨んでいるって――十季を? 一体どうして。しかし困惑する私を余所に、十季は堰を切ったようにただ言葉を溢れさせた。


「私と出会わなければ、私を庇わなければ、君は今も人として生きていただろう。私が君に血を与えなければ吸血鬼になることもなかった。人間として死んでいくという選択肢だってあったんだ。死を目前にすれば人間は誰だって恐怖するだろう。私はあの時、君のその当たり前の恐怖につけこんだ。死ぬのが怖いか? 怖いに決まってる。死にたくないか? 大抵の人間は答えるだろう。死にたくないと。私は選択肢のない問いを君に投げかけ、あたかも君自身が選んだかのように見せかけた。吸血鬼になることを。でも、真実はどうだ」


 まるで大罪を告白するかのように十季は言った。


「私はただ、あの夜、君に死んで欲しくなかった。それだけなんだ」


 縋るように十季が私を見つめている。彼の言葉はまるでお芝居の台詞みたいで、奔流のように私に押し寄せてきた。けれどつまり――要約すれば。


 彼は、本当にただ怖がっているのか。感情が伝えてくる通りに。私という、生まれて初めて血を分けた存在が自分を嫌うのを。嫌わないで。彼はただ、そう言いたいだけなんだ。


「……馬鹿だなあ」


 心の底から呆れて、笑ってしまった。そのまま手を伸ばし、十季の頬にそっと触れてみる。ビクリと怯えるように彼の身体が震えたが構うものか。


 吸血鬼でも男は男、そういうことなんだろう。女からしてみれば男は本当にどうでもいいことで悩む癖がある。


 確かにあの夜、彼に関わらなければ全ては変わらないままに平穏だっただろう。でも、だけど、関わってしまったんだから。もうなかったことにはならない。もしもなんて、今考えたって仕方がないのに。


 女の武器は常に現実的であることだ。皆が皆そうじゃないかもしれないけれど、少なくとも私はそうだ。今考えるべきことを考えて、やるべきことをやればいい。


「十季、私はあなたを恨んでない。あなたを庇ったことを後悔もしてない。吸血鬼になったことを苦悩することはあるかもしれないけど……それだって十季の所為じゃないもの」


 それに、もうひとつ。


「私に死んで欲しくないって思ってくれたことが、私は嬉しい」


 十季の手をとれば、ひんやりと冷たい。それでも何故だろう、かすかな温もりがそこにあるような気がした。きゅっと握り締めればそろそろと十季も力を込めてくる。彼のことはまだ何も知らない。でも、私は思うのだ。


「私は十季と会えて、嬉しいよ」


 私の言葉に、十季が小さく息を飲んだのが分かった。私をじっと見つめるその目にはっきりと熱が生まれる。誰かにそんな目で見つめられたことなんてなかったから、私は身体の奥で何かが疼くのを感じた。


「誰かと縁を結ぼうなどと思ってはいなかったけれど……この日を(こいねが)うことがなかったかと言われれば嘘になる……」


 繋いだままの手、絡んだ指の感覚が急に鋭くなったような気がする。十季の囁くような声を聞きながら目線は吸い寄せられるように十季の薄っすらと開いた唇へ。――途端、血が燃えた。


「ハ……アッ」


 目を見開き息を乱しながら、妙に冷静に思う。ああ、変だなと。さっきまで我慢できていたのに、急に耐えがたいほどの喉の渇きの感覚が津波のように押し寄せてくる。ふと唇に痛みが走り、伸びた牙に気付いた。その感触で、私はもう自分が人間でないことをようやっと理解し始める。


「十季……ッ」


 喉の渇きに喘ぐように十季の名前を呼んだ。そう、自分が人かどうかなんて――今はそれよりも襲いくる衝動に耐えることが辛い。


「その渇きは私と完全に縁を結べばひとまず消える。私はまだ君に十分な血と名前を与えていないから。そして縁を結べば君は完全な吸血鬼になる。死ぬことのない、人の血を吸う生き物……私達の同胞に」


 彼の感情から恐れが薄れたのは伝わっている。十季はもう躊躇うことなく私を完全な吸血鬼にするだろう。


「辛いだろうがもうひとつだけ聞いておくれ。こちらの世界を知らない君にはよく理解できないかもしれないが、吸血鬼は未だ古い風習の中に生きている。私は吸血鬼の言わば王族の血統で……今も血腥い権力闘争の中心に立っている。その私と縁を結べば嫌でも君もその闘争に巻き込まれるだろう。私の唯一の血族だ。君のことは誓って私が守る。それでも、そうやって生きることに疲れたら」


 喉の渇きに乱れた意識にもその言葉は甘く、睦言のような響きで私の耳に届いた。


「私が、責任を持って君を殺すと約束するから」


 そして、十季はタイを引き抜くとその白い首筋を私に晒す。


「噛んで」


 十季が身体を寄せ、彼の首筋が私の目の前に晒されている。耳元で囁かれた言葉に頭が真っ白になりそうだった。それでも衝動に抗って躊躇いがちに首筋へ唇を寄せると、十季の手がぐっと私の腰を引き寄せる。


「そう、怖がらなくていいから……噛んでごらん」


 促されるまま、鋭く伸びた牙をそっと皮膚に押し当てた。十季の皮膚に小さな傷ができて血が赤く滲む。その香りを嗅いだ途端、ついに私の理性は飛んだ。


「ッッ」


 牙を深く突き立てれば十季が堪えるように呻いた。苦痛だけでなく、悦楽の色も含んだその呻きに私の身体が反応する。貪る様に血を吸いながら十季の身体をきつく引き寄せ、その造作を手で確かめた。ジャケットを脱がせ、力任せにボタンを飛ばして肌蹴たシャツの中に手を忍ばせれば、彼のすべらかな素肌の感触に眩暈がする。


「十季……ッ」


 彼の名前を呼びながら首筋から口を離し、何時の間にやら押し倒されて私を見上げている十季を見つめた。首筋を血で濡らし荒い息を吐く彼の姿に、堪らなく私の身体も昂ぶる。


 下から伸びてきた彼の手に引き寄せられて重ねた唇。喉の渇きは何時しか消えて、熱は重なった唇と絡む舌にうつったようだ。唇を離しては重ねて、息を吸う瞬間を互いの唇で塞いで、手は互いの身体を彷徨う。十季の冷たかった肌も今や火がついたように熱くなっていた。


「あの夜、私が言ったことを覚えている?」


 唇が離れ、酸素を求めて喘ぐ私に十季が言った。朦朧と、意識が麻痺した私は最早何も考えられず、ただ涙の薄っすらと浮かぶ目で十季を見る。


「共に逝くか? 暗く、冷たい国へ。君は死にかけのまま、目を閉じて頷いた」


 十季の唇を、首筋に触れるか触れないかのところに感じた。息を漏らせば彼の熱い舌がドクドクと血の荒れ狂う管の上をつぅっとなぞっていく。


「もう一度言うよ。……共に逝こう。私は唯一の血族となる君に名を与える」


 十季の牙がちくりと私の肌に傷をつけた。身体が震える。途方もない快楽の前兆に、私は怖くなって十季の身体にしがみついた。


()の名は、木蓮」


 私の名は、木蓮。


「私の……何よりも好きな花の名だよ」


 そして首筋を貫いた十季の牙。今、木蓮として新たな生を得た私は声にならない叫びを上げ――意識を失った。

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