10-1
藍色の夜空にまんまるの黄色い月。月光は大地に降り注いで、その輝きがより一層暗がりを色濃くさせる。まるで辺りの闇を全て呑み込んでしまったかのように森は黒々と広がっていた。
「で、何処なのここは……」
苦笑しながら漏らした言葉はぽつりと空しく流れて溶けていく。全く次から次へと、どうしてこう予想を超えた出来事が息つく間もなく起こるのだろう。十季の部屋の浴室にいた筈の自分。なのに視界が揺れてブラックアウトしたと思ったら、ぱっと画面を切り替えるように目の前の景色が一変していた。
浴室の高い天井は月の輝く夜空に変わり、浴槽は消え、私は素足で湿った土を踏みしめている。そして眼前に広がるのは暗く深い夜の森。ここは森の端らしく木立はまばらだ。けれど先へ進めば進むほどに木々は密集しているようで吸血鬼の目を持ってしても森の奥までを見通すことはできなかった。
「本当に、もう、次から次へと!」
苛立ちを滲ませ呟いてみても状況は何ひとつ変わらない。だが、さっきまでは確かに十季の腕の中にいたのに。ようやく長かった一日が終わり、十季と共に眠りにつけると思った。だがこの世界はまだまだ私に休息を与えるつもりなどないらしい。
ふと違和感を感じ見下ろせば、いつの間にか黒い薄手のドレスをまとっていた。ひっそりと吹き抜ける風が剥き出しの肩を撫でていく。――妙な話だ。服を着た覚えなんてないのに。そういえば風呂に入っていたというのに髪も肌も濡れていない。
そうか――私は合点した。ここは現実じゃない。というか似ているのだ。前に十季と夢の中で言葉を交わしたあの場所に。確か睡蓮は〝箱庭〟と呼んでいた――血縁だけの閉ざされた領域。ここが箱庭であるならば今の状況もまあ不思議ではないだろう。でも、それじゃあここも十季と私の箱庭なんだろうか。けれど目の前に広がる森はどうにも〝十季っぽく〟ないし、第一何故私はひとりでここにいるんだろうか。
森の奥へ吸い込まれるようにして風が吹いた。その行方を追うように闇の色濃い方へ目を向ければ、私を誘うように細い小道が延びている。苔生し小石のまばらに転がる小道は如何にも頼りない――が。
「……十季?」
何だろう、先に何かがある。そんな予感がして私はひたひたと森の奥へと足を向けた。数メートル進んだだけで視界はぐっと暗くなる。けれど辿る小道だけは闇の中でもはっきりと目に映る。私は周囲を眺めながらゆっくりと奥へ奥へ歩を進めた。
闇に縁取られた木々や草花は何処か作りものめいて見える。藍色の夜空を背景に真っ黒な木々のシルエット。まるで切り絵の世界に迷い込んだような錯覚を覚えつつ、けれど恐怖は感じなかった。この先にいるのは果たして十季なのだろうか。何となく十季ではないような気がして、それなのに進むことに躊躇いはないのが不思議だ。
ふと、遠くに灯りが見えた。青と、黄と、橙と。暗闇の中に滲む柔らかな光の粒。思わず走り出したくなったのを押し殺して歩調は変えずにひたひたと私は土を踏み小道を進んだ。その慎重な歩みでも灯りは徐々に近づいて、間もなく木立は開け、辿りついたのはぽかりと森の中に生まれた空き地。
真ん中に佇んでいるのは、月を固めたような色をした東屋だった。軒に吊られたランタンには金の繊細な飾りがあしらわれている。そこにはめ込まれた青と、黄と、橙との色硝子が揺れる蝋燭の火にきらめいて、混ざり合い溶け合う三色の光が夜を不思議な色合いに染め上げていた。
ああ、やっぱりここにいるのは十季じゃない。目の前の光景に何故かその思いが確信へと変わる。瞬間滲んだ私の警戒心。それを感じとったかのように東屋の中でぱっと影が動いた。ああ、ほら、十季じゃない。灰色がかった髪が振り返る勢いに揺れ、驚愕の色をたたえた瞳は深い黒。何処か神経質そうな顔立ちは、だがやはり吸血鬼らしく美しい――その人は。
「何故……」
喉から喘ぐように絞り出された疑問。その答えは私もまた持たない。何より私自身が聞きたかった。――何故〝今〟まみえたのか。
「珠皇……?」
たった一度の邂逅であったのに、その名はするりと口をついて出た。まさか。何故。どうして。そんな益体もない言葉ばかりが脳内を巡って、けれど身体は咄嗟のことにぴくりとも動かない。
もっとも驚いているのは相手――珠皇も同じだ。東屋の中、彼もまた目を見開き私を見つめたまま動きを止めている。恐らくは私と同じように脳内でぐるぐると思考だけが空回っているのだろう。
だって、互いに想定していた筈なのだ。私も珠皇も、それから十季も、謂わばこの物語のラスボスのようなもの。相対するのならば物語の終盤、多くの観客がいる大きな舞台でと。なのにこんな物語の序盤で、お互いきっと丸腰のまま出会ってしまうなんて一体どうすればいい。きっとその答えは私の愛読書の中にもかかれていない。
珠皇。思い返せばその名前を知ったあの日、抱いたのは生まれて初めての憎悪と殺意。視界が真っ赤に染まるような激しい感情だった。十季の命をあと一歩のところまで追いつめ、私の背中に銀のナイフを突き立てて、そして柚木に怪我を負わせたその元凶。
だがこうして本人を目の前にしその名を呼んだ今、抱いているこの気持ちは何だろう。戸惑い。警戒。微かな畏怖。だってあまりにも突然過ぎて、そう、あの日生まれた憎しみや殺意は現実の方へ置き忘れてきてしまったのかもしれない。思い描いていた形とはまるで異なる再会に肩すかしを食らったような。そんなことを考えながら珠皇の顔を眺めてみたら、おかしなことに彼もまた何処か困ったような顔をしているような気がした。
「……何故、貴様がここにいる」
かけられた声は意外にも静かだった。私が吸血鬼になったあの日の醜悪な姿からは想像もつかないほどに。
「と、聞いたところで貴様も分からんのだろうがな」
そう言って、苦笑して。珠皇が警戒に強張らせていた身体の力をそっと抜くのが分かった。私はそんな彼の一挙一動を見つめながら正直自分はどうすべきなのか判断しかねている。警戒を解いてよいものか。それともこれもまた罠だろうか。ここには十季が、味方がいない。自分の判断に全てがかかっている。込み上げてくる恐怖から無意識に握りしめていた拳を珠皇の目がとらえているのに気づいた。慌てて手を開き、しかしその行為が逆に自分の未熟さを露呈させてしまったのにもすぐに気づいて唇を噛む。
「怖いか」
少し余裕をとり戻した、面白がるような珠皇の声。だが不思議とそこに悪意の色はなくて、ただ純粋な好奇心だけが滲んでいる。
「宵闇姫」
どう答えればいい。ああ、もし私が憎悪を持ち合わせていたのなら鼻で笑い飛ばすこともできたのに。今の私は完全に相手のペースに呑まれてしまって鼻で笑い飛ばしたところできっと無様にしかならないだろう。怖いかって、そんなの答えは決まってる。
「……怖い」
怖いに決まってる。結局、そう呟いていた。そうだ、だって怖いのだ。そう認めてしまったら面白いほどに気は楽になっていた。あの夜十季を庇った時は必死で、だから何も考えずに飛び込めた。でもこうして対峙してみれば、私と珠皇、その吸血鬼としての格がはっきりと突き刺さる。
珠皇は純血だった先王の血縁。なら血の格において私も立場はイーブン。だが如何せん経験値が違い過ぎる。格下の吸血鬼ならば経験を血でカバーすることもできたけどイーブンの相手では分が悪い。だから、怖がって悪いか。もう何だか逆切れみたいになって私は珠皇を睨みつけた、が。
「そうか、怖いか」
てっきり嘲笑われるかと思ったのに、珠皇はまじまじと私を見て「ふむ」なんて小さく鼻を鳴らしただけだった。
「まあいい」
そして、珠皇は私を手招く。
「来い」
何の気負いもなくあっさりと私に背を向け東屋の奥へと戻っていくその背中を見つめて私は迷った。行くべきか、逃げるべきか。彼の背中に害意はないが、しかし――一瞬〝逃げる〟方へ傾いた気持ちを、つと振り返った珠皇の言葉が引き止めた。
「逃げるなら行け。……ここを出る術を知っているのならば好きにしろ」
言われてはたと気がついた。前回も私は迷い込んだようなもので、実は箱庭からどうやって現実へ戻ったのか記憶がない。十季の腕の中で気を失って、目を覚ましてみればベッドの中にいたのだから。ここを出る術。闇雲に出口を探すか、それとも珠皇について行くか。建設的なのは――やはり。私は小さく息を吸うと、覚悟を決めて東屋の中へと足を踏み入れた。
羽織ったローブの裾を音もなくさばいて、珠皇は東屋の隅、布張りの簡素な椅子に腰を下ろす。それからテーブル代わりらしいベンチの上に置かれた飲みかけのグラスへ手を伸ばし唇を湿らせた。その様子を何だか不思議な気分で眺めていたら珠皇にじろりと睨まれてしまった。
「座れ。見下ろされるのは性に合わん」
何とも横柄な言い様だがこちらとしても人を見下ろすのが性に合わないのはご同様だ。ここは素直に言葉に従うことにして、私は珠皇の向かいに腰を下ろした。
しかし本当に不思議なものだと思う。珠皇の姿を再び眺めながら私は内心苦笑していた。彼の名すらも憎んでいたというのに、こうして目の前にした今は好奇心すら持って相対している自分がいる。――そもそもイメージと少し、違っていたから。〝珠皇〟というのはもっと非情とか冷酷とか野心とか、そういった要素を煮詰めて人の形にしたような男なんだと思い込んでいた。だがこうして目の前にしてみれば全然そんなことはない。確かに高慢そうで意地も悪そうな顔をしているけれど、出会うなり目を血走らせて襲い掛かってもこなければ話だって通じる。
考えてみればそれも当たり前のことだ。ここは物語の世界のようだけれど確かに現実の延長線上にあるのだから。物語のように〝悪役〟が〝悪役然〟としていてくれる訳もなく、第一〝読者〟という傍観者がいない現実において彼は悪役ですらなくて。私や十季と敵対しているだけの、ただの吸血鬼。
「おい、貴様もやるか」
ぼんやりと自分の思考に潜水していた私の前に差し出されたクリスタルのデカンタとグラス。揺れる蝋燭の灯りにてらてらと光る魅惑的な蜂蜜色の液体を前に逡巡したのは束の間だった。――だって、吸血鬼は酔わないし。受け取ったグラスをとろりとした液体で満たし、鼻先を近づけてみればふわり香る甘さ。そろそろと口をつければブランデーの何とも言えない風味が口の中に広がる。
「美味しい……」
生前は学生らしく安酒中心の飲酒生活だったので比較する対象は少ない。が、そんな私ですら思わずそう呟いてしまうくらいに美味しかった。珠皇も私の反応を満足そうに眺め口の端を持ち上げる。
「私の城で作らせた酒だ。生前から酒に目がなくてな。残念ながら美観を損なうと米を育てるのは断念させられたが」
目を瞬かせる。いや、だけど――まさか米のくだりは冗談だろうか。ああ、駄目だ。本当にこうして話しているだけでどんどん分からなくなってくる。本当に今、目の前にいるこの男は私の敵なのだろうか。敵とは憎むべきものの筈だ。十季を襲い、私の命を狙い、柚木に怪我を負わせた元凶であるならば憎む理由はある。だけどこの男がその元凶なんだという確信がどんどん崩れていくようで。
「どうした、宵闇姫」
「戸惑って、いるんです」
「何に戸惑うことがある」
「あなたが、あんまりにも普通だから」
困り顔でそう呟けば、珠皇は愉快そうに鼻を鳴らした。
「角でも生えていると思ったか」
「生えてても驚かなかったと思いますけど」
「ふ、残念だったな。角どころか髭すら生えておらんぞ」
「そのようで……」
本当に、残念とすら思う。もっと敵役らしかったなら、迷わなくってもよかったから。困り顔のままグラスに目を落とせば、しかし珠皇は容赦なく言い放った。
「だが、私が〝珠皇〟だ。宵闇の命をあと一歩のところで刈り損ね、そして今は貴様の命を狙っている男だ。この箱庭は謂わば夢の続き。出会ったのが現実であったなら貴様の首はとうに胴と離ればなれになっているだろうな」
「それならあなたの首も同じことでしょう」
表面上は淡々と言い返しながら、私の心の中にはすでに迷いが生まれてしまっていた。本当に彼が現実で私の首めがけて切りかかってきたとして、私もまた彼の首を狙えるだろうか。そこまで考えて、思い直した。狙えるかじゃない。狙わなくちゃいけないんだ。彼の首を飛ばさなければ、飛ぶのは私や仲間の首。
「……どうして、私とあなたに繋がりがあるんでしょう」
話題をそらしたくてぽつりと呟いた。珠皇はふんとひとつ鼻を鳴らして腕を組む。
「推測することしかできん。だが……あの日だろうな」
珠皇は意味ありげな視線で微笑んだ。
「あの日と言うと」
「勿論、貴様が私の邪魔をしたあの日だ」
「と言うと、私があなたに刺されたあの日ですね」
「貴様が勝手に刺されにきたのよ。まあ今となってはどちらでもいいが。ともあれ、恐らくはあの日に私の血が貴様の中に紛れたのだろうな。そんな話聞いたこともないが……遡って調べれば或いは前例があるかもしれん。が、調べたところで何の意味がある」
確かに繋がりがあったところであまりにも細く、問題があるとすればこうしてこの箱庭へ迷い込んでしまうくらいのものだろう。あるいは彼の感情の断片や彼の気配を読み取ることもできるかもしれないが、できたところで今の私の力では対して役に立たないのは間違いない。――それならばこんな繋がりなければよかったのに。
「貴様にとっては、不幸であったな」
「……何がです」
「こうして私の元へ迷い込んだことだ」
私の心など全て見透かして珠皇は笑った。だがきっと、本当に十季や彼には私の心なんて手に取るように分かるのだろう。私には想像のできない程に長い長い時間を過ごしている彼らならば。
「確かに、こうして会わなければ楽でした」
「だが会ってしまったものは仕方があるまい。精々、苦しめ。そして耐え切れなくなったなら……」
不意に声を潜め、珠皇はその手を私の方へ伸ばした。私が身じろぎせずにいたら、細い人差し指が私の首をすうっと横一文字になぞっていく。
「私の元へ来い。何時でもその首刈ってやろう」
言って珠皇が浮かべた笑みは、成程、確かにあの日の記憶に薄らと重なる酷薄さをたたえていた。出会ったのが〝ここ〟でなければ間違いなく珠皇は私の喉を切り裂いている。躊躇なく、造作もなく。それを確信させるような、冷たく美しい笑みだった。
「……そう、怯えるな」
珠皇がからかうように表情を緩め、喉の奥で愉快そうに笑う。その骨ばった指が離れていくのを見つめ私はそっと息を吐いた。珠皇の爪先が触れていったところが、ちりちりと熱い。
「言ったろう、殺しはせん」
「ここでは」
「そう、ここでは。しかし、いずれは」
そう遠くない未来、私たちは今度こそ互いの命を巡って争う日が来る。
「嫌だと言ったら?」
十季の隣に立って戦う覚悟はある。だが戦わない方法があればと心の中で思ってもいるのは確かだった。できることなら誰かを傷つけずにいられたらいいと。けれど、珠皇の答えは勿論分かっていた。
「構わない。貴様が逃げようと、宵闇が逃げようと、貴様ら以外の誰かがその首で帳尻を合わせることになるだけだ。だから貴様は逃げんよ……だろう?」
「私のことをよくご存じで」
渋い顔で呟けば、珠皇はにっと皮肉気に笑って頷いた。
「この私の前に飛び出し、この私の邪魔をし、さらには忌々しい宵闇の血縁となった貴様のことだ。念入りに調べさせたとも」
「でしょうね」
「ふ、貴様のことは宵闇のおまけに過ぎんと思っていたが……さて気が変わった」
珠皇がその薄い唇をゆっくりと撫でる――私の喉を這っていった爪先で。その仕草がいやに艶めかしくて、体の中でぞわりと何かが蠢く気配がした。
「宵闇姫、生き残れ」
グラスの中身を飲み干すと、珠皇は立ち上がり私を見下ろして笑った。
「そして再びまみえるのを、私は……心待ちにしている」
珠皇がランタンに向け手を翳した。青と、黄と、橙の灯りがふっと揺らいで掻き消えて、途端、東屋の中へ闇夜がなだれ込む。そして辺りは靄のような闇に染まり、珠皇も、そして私も暗闇に飲み込まれた。