8-1
再び車中の人となってぼんやり景色を眺めていたら「あれ、この辺り何だか見覚えあるなあ」なんて、シートから体を起こした私に柚木が告げる。
「間もなく……あと10分少々で学校に到着しますよ」
道理で見覚えがある筈だ。ほぼ毎日のように――時々はサボったりもしたけれど――使っていた最寄駅がもうすぐそこに見えている。我が家から電車を乗り継ぐこと1時間、さらに駅から中々来ないバスを待って15分。4年間通い続けた大学への通学路。前方に見えてきた無機質なコンクリートの校舎が何だか無性に懐かしい。生前はあんなにサボりたくて仕方がなかったというのに。
柚木は正面の車寄せから構内の駐車場へと進路をとる。駐車場の入り口にはプレハブの警備室があって、この車が近づいてきたのに気付いた初老の警備員が胡散臭そうに近寄ってきた。
「お約束は?」
柚木が半分ほど下げた窓越しに警備員が声をかけてきて、運転手の顔を見た瞬間隠そうともしないで盛大に眉根を寄せた。まあ、確かにいくら中身は中年でも外見が中学生なのだから驚くのは無理もない。にしたって遠慮なく柚木や車内をじろじろと眺めまわす視線はかなり不快だ。けれど私は揉め事を避けるべく呼吸を止め静かに俯いたままでいた。
「いえ、約束ではなく」
一方警備員の少々不快な対応に表情も変えず、というよりもにっこりと笑顔を浮かべたままの柚木が何やら胸ポケットからカードを取り出した。不審そうな顔で受け取ったカードに視線をやった瞬間、警備員がピシリと硬直する。
「で、それなんだったの?」
駐車場の一番手前のスペースに素晴らしい手際で車を入れた柚木に聞くと彼は愉快そうに笑った。
「学長の名前で発行された来校証です。次回からは私の顔パスで通れると思いますよ」
「ああ、道理で警備のおっちゃん固まってた訳だ」
正式なお客にあんな不躾な態度をとったことが知れれば危ないのは彼の首である。
「さてさて、ちょうどいい時間だねえ。行くとしますか」
「は。では私は姿を消しますが、姫様もどうぞお気をつけて」
「息はしない。無闇に動かない。紋様を迂闊に見せない」
「結構です。柚木、時間になったら車を」
「かしこまりました。近くにおりますので」
プロらしく頷いた柚木は車を降りると、ドアを開ける為にこちら側へ回ってくる。
「では、姫君、お先に失礼致します」
柚木がドアを開いた瞬間、手前にいた善の姿が掻き消えた。まるで透明の雪があっという間に善を覆い隠してしまったかのように。試しに今まで善がいたところに手を伸ばしてみたが私は空しく宙を掴んだ。
『ご安心を。お側におります』
耳元で囁かれた声に私は吃驚して飛び上がりそうになる。慌てて声のした方を見たが勿論そこには誰もいない。――よし、考えるのはひとまず後にしよう。そうしよう。私はひとつ溜息をついて、それからぴたりと呼吸を止めると車から降りた。
我が懐かしの学び舎は、記憶にあるよりもほんの少し楽しげな雰囲気に満ちていた。無い物ねだりというやつなのだろうか。人間は何時だって過ぎ去ったもの、失ってしまったものを愛おしむ不思議な習性がある。私の中に残っている人間的な部分もやっぱりご多分に漏れずということらしい。
時折私の横を気付かずに通り過ぎて行く友人や後輩の姿を眺めながら生前の私が心の中で呟く。あいつとも、あの子とも、もっと話しておけばよかったかな。そういえばくだらないことだけど、話したかったこと、いくつかあったな。些か感傷的になった私はしかし溜め息を飲み込み教室へと向かう。
今日の講義「創作実習」は幸いにして発言がほとんど必要のない講義だ。テスト代わりの作品はもう提出済で、あとは講義に出席しその日の課題をこなすだけ。ただそれだけのことに死んでから幸せを感じる私は、人間は、随分と馬鹿な生き物だ。
90分後、先生が呆気なく講義の終わりを告げると同時に課題を提出し、そっと教室を出た。恐らく先生は私がいなくなったことに気付いてもいないはずだ。こんな風にして講義を受ける為に学校に来るのはやはり馬鹿らしいことだろうか。――まあ、馬鹿らしくてもいいか。そう思い直し私は息を漏らさないよう口元だけを笑みの形にした。
私が卒業する為に受ける必要のある講義は3つだけ。今日、水曜日3限「創作実習」と、2年の時に取りこぼした金曜日2限「文芸論」に3限「絵本史」だ。つまり今日と今週の金曜日に2コマ、あとはテストの為に1日か2日来るだけで私の学校生活は終了ということ。今日なんてたった90分の為だけに善も柚木も付き合わせてしまった。でも、あとちょっとだけの我儘だから心置きなく迷惑をかけてしまえと開き直っている部分もある。
1人きり、のんびりと敷地内を歩いているとまだ少し距離のある車寄せから駐車場へと見覚えのある車が吸い込まれて行った。遠目にも緊張している警備員が丁重に、そして柚木の言った通り顔パスで車を通している。それを忍び笑いながら駐車場へ足を踏み入れると、運転席から降りてきた柚木が私の為にドアを開けてにっこりと迎えてくれた。
「お戻りなさいませ」
声を出せないので唇だけで礼を言うと、柚木は嬉しそうに顔をほころばせる。その様はそれはそれは可愛らしい――ので、この際彼が36歳の中年であるという事実は今後忘れることにしよう。さてと頭を振って妙な思考を振り払い、さっさと車へ乗り込もうとした私だったが――。
『ッ!? 姫様……ッ!』
善の切迫した声を聞きながら、私は突如車内から伸びてきた2本の腕に囚われた。あまりにも急な出来事に瞬時にパニックに襲われる。けれど、ちょっと待って。これが車外での出来事であれば大問題だが、2本の腕は車内から伸ばされたのだ。ならば一先ず問題はない――筈だ。引き寄せられた勢いに吃驚して思わず目を瞑ってしまったものの、どうせ羽衣辺りだろう。でも、そんな考えはすぐに本能に否定された。違う。これは羽衣の気配じゃない。そう、私の血の中で呼応するこれは、この血の主は。
「十季!?」
『え、で、殿下!?』
私の声と姿を消したままの善の声が綺麗にかぶって、駐車場と冬の晴れ空に響き渡る。一方、問題を引き起こした元凶は全く悪いとは思っていないだろう素敵な笑顔を浮かべているのだから頭が痛い。
人々の注目を振り切らんと、あくまでもスムーズに発進した車内にて。さてどうしたものかと私は90分ちょっと振りに溜め息をひとつ。
「十季、あの、ね……?」
「どうした、木蓮」
意を決して口を開いてみれば耳をくすぐるのは何とも心地よい声。はてさて、何処から突っ込みを入れたものだろう。一先ずは「急にどうしたの?」からか。
それとも「羽衣が来るって聞いてたのに」か。
ああ、そういえば「全然気配がしなかったから分からなかった」というのもある。彼が近くにいれば血が知らせてくるはずなのに、あの時は手を伸ばされて初めて気がついた。一体どういう仕組みなのだろう。他にもまだ突っ込みどころはいくつもある――が、差し当たって。
「とりあえず、この体勢を……」
どうにかしてもらうところから始めようか。後部席のシートに2人、十季の膝の上に横抱きにされた見ようによって〝お姫様だっこ〟な体勢は如何なものかと。しかし、この美しい吸血鬼は一筋縄ではいかなかった。
「……嫌?」
邪気のない顔で小首を傾げられれば、まさか「うん、ちょっと、微妙」と正直に言える筈もない。あまつさえ「じゃあこうしよう」と軽々抱え直された私の体はあっという間に十季の足の間に収められてしまう始末。お姫様だっこは無事脱したものの、今度は世の乙女が一度は憧れるという〝後ろからぎゅっ〟である。そんなことをこの美しい男にされて、私だって勿論。
「嫌じゃ、ないですとも」
むしろ「大変におよろしい」ですとも。こういう時に赤面しないですむのが吸血鬼の便利なところだと内心赤面物のやり取りに狼狽えながら思う。
「ならば、問題ないな」
耳にそっと唇を寄せて十季が楽しそうに笑った。たったこれだけのことでそんなに楽しそうにしてくれるなら、まあこの恥ずかしさも我慢しようかななんて思えてしまう。私はすっかりこの柔らかな拘束から逃れることを諦め十季の胸に体を預けた。
「それで、今日は急にどうしたの?」
その問いに、私の体を受け止めた十季は機嫌良く答える。
「久しぶりの学校だろう。どうだったか聞こうと思って」
「……それだけ? 仕事、とかあるんだよね?」
「白翁に任せてきた」
「……それは」
果たして大丈夫なのだろうか。首を傾げながらもそういえば十季と顔をあわせるのはほぼ1日振りなのかと気付く。夢の中で会ったのはノーカウントだ。
「昨夜は傍にいられずすまなかったね」
「え?」
言葉の意味を計りかねて背後を見返ると、少し困った風な顔をした十季がいて。その見慣れない表情が何だかちょっと微笑ましい。
「その、新生して、目覚めたばかりなのに1人にしてしまっただろう」
「……ああ」
「私が新生したのは随分と昔で、もう当時のことなんて忘れていたから。慣れない場所で心細くはなかったか……?」
「それで、来てくれたの?」
聞けば、十季はそっと頷いて。確かに昨日は少々心細くもあり、結果として睡蓮とああいう事態になったりもしたのだけれど――それは言わずに私はありがとうと腰にまわされた十季の手をそっと握りしめる。
十季の手を握り微笑む私と、私を後ろからぎゅっとかしちゃって幸せそうな十季。当人ですら――十季はどうだか知らないが――気恥ずかしい状態なのだから周囲の気持ちは推して量るべし。が、そこは幼く見えても流石プロフェッショナルというべきか。運転手の責務を全うすべく意を決したように口を開いたのは柚木だった。
「善様」
小声で助手席の善を呼ぶ。が、残念ながらと言うべきかやっぱりと言うべきか返る答えはなかった。〝殿下〟のお出ましに固まってしまった善は柚木によって助手席にかなり手荒に詰め込まれたのだが、以降ただひたすらに置物と化しているのである。
まあ〝姫君〟の私との対面でああだったのだから、雲の上の〝殿下〟には固まっても致し方ないかもしれない。ただしそれだと困ってしまうのはその辺の吸血鬼よりも胆の座っているらしい柚木である。もう一度、さっきよりもはっきり善を呼ぶが反応を得られずにバックミラー越しにちらちらと私に視線を送ってきている。
「どうしたの、柚木」
「姫君に於かれましては寛大な御心を……」
「何その長ったらしい前置きは」
柚木の妙な口上に眉をしかめれば十季が「ああ」と合点したようだ。
「直答を許されていないからだ」
直答を許されていない――それはあれか、今は昔の如く「誰々様に申し上げます」「誰々様はかように仰せじゃ」の不毛なトライアングルのことか。阿呆臭い。
「そうなの?」
やや苛々しつつも問えばバックミラーの中で申し訳なさそうに柚木が頷く。さっきまではありがたみを感じるほどに気安く接してくれていた彼も十季の手前慎重にならざるを得ないのだろう。
「吸血鬼に従う人間……従者は許しがないと発言できないのが慣例でね」
私の眉間に、皺。機嫌が悪くなったのを感じたのだろう。十季が宥めるように付け足した。
「もっとも気にするのは余程古風か、格式張った者だけだ」
「儀礼は大事だと思うんだけどさ……」
私はごく最近まで人間だったもので、あまり古風が過ぎると窮屈だ。すると、苦笑しながら十季が言う。
「言っておくが、吸血鬼相手にも人間相手にも私はそんな格式張った慣習を強要したことはないよ」
そして、ぼそりとつまらなそうに付け足す。「相手が勝手に格式張るのだから、仕方ないだろう?」と。
「さて、柚木と言ったかな。聞いていただろう。以後、私への直答を許す」
「は、身に余る光栄」
「……ちなみに私に対してもそういう口聞いたら」
私がじと目で脅すと柚木は「ご無体な」とおどけて笑った。
「心得てますとも。その代わり不敬罪でお手打ちになりそうな時は助けて下さいね?」
「任せなさい。……ホント、善も柚木くらい順応性があればよかったんだけど」
「まあ、これが善様のいいところでもありますしねえ」
十季がそんなやり取りを微笑ましそうに見つめている。と、職務を思い出したらしい柚木が「あ」と声を上げた。
「そうでした。殿下、恐れながら申し上げます」
「どうした?」
「お車は直接、宵闇の血門へおつけしてよろしいでしょうか?」
「ああ、そうか。どうする、木蓮?」
「どうするって?」
「このまま真っ直ぐ帰る? それとも何か予定はある?」
予定。そういえば帰りに買い物でもと思っていたんだっけ。しかし、よく考えると少々軽率かと思い当たる。私は命を狙われている訳だし、そもそも学校へ行くのにもわざわざ善を護衛につけてもらっている身の上だ。あれ、そういえば十季は十季で狙われている――というかこの間殺されかけてもいる訳で。もしかすると敵にとって、今、だいぶ美味しい状況なんじゃないだろうか――?
「か、帰ろ帰ろ」
「ん? どうした。そんなに慌てなくてもいいだろう?」
「どうしたじゃないよ……。っていうか、そうだ。十季も1人で出てきちゃって大丈夫なの?」
もしも前みたく襲われたとしても私は足手まといにしかなれない。善はそもそも昼要員であって日が暮れてしまえば十人並み、柚木も常人以上だとはいえ人間だ。
「何だ、そんなことを心配していたのか。私もそこまで迂闊じゃないさ」
からからと笑った十季の掌が不意に私の目を覆う。ひやりとした感触に戸惑って身じろげば「木蓮」と彼は穏やかに私の名を呼んだ。
「……なに?」
「目を閉じて、集中してごらん。そうだな……耳をすませるときみたいに」
よく分からないが瞼を閉じ言われるままに耳をすませてみる。途端に鋭敏になった私の聴覚が次々に近くから音を拾い始めた。エンジンの音、車の振動、対向車のタイヤの音。そこへ降ってくる十季の声。
「もっと遠くの音を聴くつもりで」
遠く。言われるままに意識を遠くへ伸ばしていくと、不意に何かが耳に引っかかった、ような気がした。
「あ」
いる、と思った。これは気配のようなものだろうか。この車の数メートル先と、後ろ、それから左右。車を取り囲むように〝身内〟がいるのが分かる。
「見つけたな。いい子だ」
目を開けると十季が頭を撫でながら褒めてくれた。何だか小学生にでもなった気分だが悪くはない。
「そうだよね、護衛がいない訳ないよね……」
「天都と玉緒の隊がついてきている」
それにね、と私と視線を合わせ十季は続けた。
「木蓮と出会った時が〝ああ〟だったから心配させてしまうだろうけれど、あの時は本当に特別。羽衣が私領に戻っていて不在だった上、私が所用でこちらへ出てきた隙をつかれた。慣れ、というのは恐ろしいものだな。こちらでは決して争わないというのが不文律だったから、さして警戒していなかったんだよ」
だからあの日は目が覚めたような気分だった、と彼は笑う。
「銀が体を貫いて、初めて拙いと思った。完全に油断していたからね。だが私は同じことを二度と繰り返さない。つまり、もう二度と私が殺されかけるような事態にはならない」
と、十季の笑みに少しばかり黒いものが混じった。――それは空気をひやりとさせるような、そんな顔で。
「そもそも私を越える吸血鬼など、この国にはいないのだから」
意外と自信に満ち溢れていた十季には驚かされたものの、ふと善の言葉を思い出して納得した。「純血は我々と比べることもできないほど強大な力を持っているんです」つまり今、個体としての十季は朽ち果て最強。だからこそ、敵は私を使って十季の隙を作ろうとしているのか。なら、こうして十季と一緒にいる時は安全と思っていい。
「じゃあ……少しだけ、買い物してもいいかな?」
おずおずと言うと何が嬉しいのか、十季の顔がぱっと明るくなった。
「いいとも。何が欲しい?」
「ベルトポーチ」
「それだけ? 他に欲しい物はないの?」
無いと言えば一変寂しそうな雰囲気を醸し出す十季。――そんなに買い物好きなんだろうか。
「じゃあ、普段用の服も……」
「ああ、それなら丁度いい。木蓮の制服も少し意匠を変えて誂えさせようと思っていたんだ」
やたら上機嫌の十季が「柳田のところへ」と柚木に告げる。柚木はそれだけで何のことか分かるらしい。「承知しました」と頷いてそのまま車線を変更した。
「ね、柳田って?」
「宵闇烏御用達の仕立て屋だな。今の制服もあれのデザインだし、私の衣装も全て任せてある」
「もしかして私のクローゼットの中身も?」
あのひらひらしたレトロな服達を思い出して、やや引き攣る。デザインは非常に素晴らしいのだが、果たして無難な服を調達することはできるのか。叶うならば姫君稼業がオフの時くらい自分らしい服でいたいのだけれど。そんなことを考えて悶々とする私に「ふっ」なんて少し意地の悪い笑い方をする十季。
「まあ、着いてのお楽しみだな」
そんな彼の言葉を、今はとりあえず信じよう。




