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すぅっと意識が浮かび上がった瞬間「私、底なし沼にでも落ちたんだったっけか」なんてうっかり記憶を捏造しそうになった。身体が重くて、まるで全身泥に埋もれているみたいだ。もがこうという気すら起きない。けれど呼吸は正常にできている以上、ここは沼の底ではないらしい。
喉が酷く乾いていた。喉から胃の方まで内側に何かがぴったり貼りついて干からびているみたいな感覚がする。昨夜は寝る前に水を飲むのを忘れたんだったか。この喉の渇き方には少しばかり覚えがある。お酒を飲んだまま寝ると翌朝は大抵こうなるのだ。
幸い頭は痛くない。ただ身体が怠くて瞼を開けるのも億劫だ。もしかすると風邪を引いているのかもしれない。熱はないようだけれど代わりに少し寒気があって、自分の体が驚くくらいひんやりとしているような気もする。
うん、きっと風邪だ。どうにもついていない。それでも頭痛と吐き気がないだけ有難いと思うべきだろうか。私はぼんやりとした寝起きの思考でぐるぐるとそんなことを考えて、瞼を持ち上げる瞬間を先送りし続ける。
本音を言えばもう少し寝ていたい。風邪だろうが二日酔いだろうが上手く眠ってしまえばそれほど苦しまずに済む筈だ。けれど思考の片隅で比較的冷静な私が囁いている。喉の渇き具合から考えても、とりあえず何か飲んでおくべきだと。
まあ残念ながら私の記憶が正しければ、今我が家の冷蔵庫の中は空っぽで牛乳やお茶どころか買い置きのミネラルウォーターすら切らしていたような気がする。そうなると水道水、いやでも東京の水は大丈夫だ。十分に飲める。
しかしこの重い身体を引きずって、果たして台所まで辿りつくことができるだろうか。私は試しに重たい身体をもぞもぞと動かしてみて――途端、認識した感触にたじろいだ。素肌に直接、滑らかなシーツの感触。私の記憶によれば我が家のシーツは悲しいかな、もうちょっとゴワゴワだ。つまりこのベッドは私のものでない可能性が極めて高い。
さらに事態は深刻で、私は今、何故か裸のままでベッドの中にいるらしい。そう、私は裸で、下着すらつけていない。急速に思考が回転し始める。果たしてここは一体何処なのか。そして一体どんな理由で裸のままベッドに横たわっているのか。最早起きたくないなんて悠長に考えている場合じゃなかった。私は恐る恐る瞼を持ち上げてみる。
「は、い……?」
ぽろりと口から零れ落ちた感想は喉の渇きの所為で掠れている。それでも呟かずにはいられなかった。「何だ、この素敵空間」と。
まず視界に飛び込んできたのは高い天井。細工の施された木製らしき天井板や、落ち着いたデザインのシャンデリア。室内は薄暗かったが、それでもその美しい細工の陰影はしっかりと見える。
そろりと目線を横へ向ければ、漆喰壁に天井近くまである縦長の窓が等間隔に並んでいた。室内が薄暗いのはその窓にカーテンが引かれているからだ。分厚くかすかな光を持ってうねる生地はビロードだろうか。窓を覆う布地はぴたりと隙間なく閉じられていて外の様子は全く分からない。
天井の高さや広さからすると部屋自体かなりの広さがありそうだ。もしかすると私のアパートの部屋が丸々入ってもまだ余裕があるかもしれない。
私が横たわっているベッドも所謂キングサイズのようで、シーツのすべすべした感触から察するにシルクだろう。ゴワゴワの安売りシーツに慣らされた庶民の私からすると何だか落ち着かない感覚だ。
本当に、ここは一体何処なんだろう。暖かな羽毛のかけ布団にもぞもぞと潜り込み私はぎゅっと目を閉じた。そうして体を小さく丸めているうちに霞がかっていた記憶が少しずつ晴れてくる。
そうだ、結婚式。私は友人の結婚式の二次会からアパートへと帰る途中だった筈。酔って、泣きたくて、惨めだった夜道。藍色のドレスとコートを着ていた。そういえばあのドレスは一体何処へ行ってしまったのだろう。身につけていたセットのブラとショーツは買ったばかりだったのに。
おっと、思考が脱線した。ブラとショーツに関しては追々考えることにして、そう、結婚式からの帰路、私はアパートまであと少しの路地を歩いていた。それから――そうだ。私は見つけたんだった。路地の行く手にふたつの人影。思い出した途端、一気にフラッシュバックがきた。
きらめくナイフの銀色。醜悪な男の笑み。赤い血を流す傷口。振り上げられたナイフ。衝撃。痛み。噛み合った視線。
そうだ――私は十季と出会った。
私は傷を負った十季を咄嗟に庇って、生まれて初めてナイフで刺された。そして生まれて初めて死んだ――はずだった。だが不思議なことに私はまだ生きているらしい。と、安堵したのも束の間。
「う、わあああ……」
意識を失う前の記憶を追い出して私は堪らず呻く。何故って、あの死を覚悟した間際のやり取りはいざ命を取り留めてみると恥ずかしいことこの上ない。
「君の名をくれないか?」
あの時、彼はそう言った。それが一体どう意味だったのか。正気に返った今考えてみれば今一つよく分からない。だけどあの時は〝すとん〟と何かが分かった気がしたのだ。死ぬのなら、この男に私の名前をあげよう。この男の中においておいてもらおうと。
ついでに彼の体の感触を思い出してしまった私はベッドの中で悶絶した。目を閉じればどうやったって思い出してしまうあの白くて美しい肌。思ったよりもしっかりと鍛えられた、あの冷たい体。私の身体を支えてくれた、宥めてくれたあの腕。
シチュエーションがドラマチックだった上に、男の人に抱きしめられること自体本当に久しぶりだった。残念な事に「素敵だった」と悶絶する程度の記憶しかないけれど、次に会った時に色々とあらぬ想像をしてしまいそうだ。
「そっか……死ななかった、んだ」
ほっとしたような複雑な気持ちで溜息を吐く。ともあれこの場所の目星は付いた。十季の家か、少なくとも彼に関係した何処かであることは間違いないだろう。病院でないのが少し不思議な反面、あの時の状況を思えば何か理由がある可能性も大いに考えられる。
ところで、困ったことにさっきから喉の渇きがどんどん酷くなってきていた。身体は冷え切っているのに喉だけが熱をもったようにひりついて、耐え切れずかけ布団から顔を出し小さく喘ぐ。
よろよろと重い体を苦労して起こしては見たけれど、見渡せる範囲には冷蔵庫どころか流しも見当たらない。大きなふかふかの枕のひとつにボフッと身体を預け、私はハァと熱い息を吐いた。
さあ、どうしたものか。私の視線の先には重そうな木のドアがある。レトロな洋館風の部屋の造りに相応しい、古い映画に出てくるような両開きのドアだ。ここが何処かも分からぬまま勝手に部屋を出て歩き回るのは気が引けるけれど――一瞬の逡巡――結局喉の渇きに耐えかねて私は意を決しベッドから降りることにする。
重たい身体にシーツを巻きつけ、いざ。だが私の足先が磨き上げられた木の床につくよりも早く、ドアは想像通りの軋みを上げて向こう側から開かれた。
「う、おあ……!?」
瞬間、私は自身の体が起こした反応に驚愕することになる。誰かくる。そう認識した途端、私の体はベッドの上へ跳ね戻り獣のような威嚇の態勢をとろうとして――その急激な動きに重たくなった体が対応しきれず、結果私はコントのように見事にバランスを崩しベッドから転げ落ちた。
「い、たくはないけど……!」
何だろう、非常に恥ずかしい。慌てて起き上がり来訪者の姿を確認すれば、ドアの近くには少し驚いた表情を浮かべた小柄な女性が立っていた。その両手にポットとカップを載せた銀のお盆を持っているのを見て、きっと私の為に飲み物を運んできてくれたのだろうと分かる。
線の細い、優しそうで儚さの滲む顔立ち。年は少なくとも私よりいくらか上だろう。髪はふわりとしたシニヨンにして、白いブラウスに黒のロングスカート。控えめで、全体的に上品な雰囲気がある。――そして、その肌は記憶の中の十季と同じように白い。
「え……?」
瞬きの間に、女性が私の目の前に立っていた。一体何時の間にと思う隙すらない。瞬きをする前、彼女は間違いなくドアのところにいたはずだ。それが瞬きのわずかな一瞬で何故目の前に移動しているのだろう。
呆然と彼女を見上げた私だったが、今度は不意に訪れた浮遊感に息を飲む。何と――私よりも確実に小柄で華奢なその女性は、私のことを軽々と抱き上げていたのだ。
「は、え、なに……?」
そのまま静かにベッドの上へと下ろされて、私はもう目をぱちぱちと瞬かせることしかできない。そんな私に、類まれなる怪力を披露してみせた彼女は何故だか恥じ入るような微笑を浮かべてみせた。
「驚かせてしまってごめんなさい」
小さくて、か細い。なのに不思議と通って聞こえる声。優しい彼女の声音に警戒心はしゅるしゅるしぼんでいくが、それでも可笑しいものは可笑しい。
「ノックをすればよかったのよね。すっかり忘れてたわ」
申し訳なさそうに彼女は言うが、違う、そういう問題じゃなくて。私はつい突っ込みたい衝動に駆られたが、残念ながら思考のスピードにそれ以外の反応はまだ追いついていないらしい。だからちょっと間抜けな顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。そんな私に、何時の間にかベッドサイドのチェストに置かれていたお盆を示し彼女は小首を傾げた。
「目が覚めた時に、喉が渇いてると思って」
白湯を持ってきたのと微笑んだ彼女に私は勢いよく頷いた。警戒心に掻き消されていた喉の渇きが一気に押し寄せてくるのが分かる。
彼女が注いで手渡してくれたカップの中の白湯を一気に飲み干し、息をついた。けれど、なんでだろう。何かが貼りついたような感覚は消えたのに、喉は依然ちりちりと燃えて熱を孕んでいる。試しにもう一杯白湯を飲んでみたけれどやっぱり変化はなかった。
「喉が渇いた?」
ベッドサイドの椅子にかけた彼女の言葉に私は困惑した顔を向けた。それはまるで彼女がこの渇きの理由を知っているかのような口ぶりだったから。
「あのね、月並みだけれども……落ち着いて聞いてほしいの」
私は小さく頷いた。それを確認した彼女は少し困ったような表情で細い指を膝の上で組み、頭の中で言葉を整理するようにゆっくりと話し出す。
「まず、あなたに何が起こったのか……それは覚えている?」
覚えていると答えると、彼女は少しほっとしたようだった。
「それなら、ひとまずよかったと言うべきね。それじゃあ、あなたが助けた人のことも覚えているでしょう?」
「十季……さん?」
「ええ、ここはあの方の住まい。あなたが意識を失った後、あの方があなたを運んできたの。あなたはあの方を庇って死にかけた」
「でも、助かったんですね」
しかし、彼女は困ったような表情のまま小さく首を振った。
「いいえ、あなたは死んだの」
――聞き違えたのだろうか。私は耳を疑った。
「私は、死んだ?」
「ええ」
「それなら、ここは死後の世界ですか」
突飛だ。突飛過ぎる。自分の口から出た言葉なのに酷く可笑しい気持ちになった。なのに彼女は否定もせず、一層困ってしまったようだった。
「死後の世界、でないことは確か。ただ、じゃああなたが人として生きているかといったら……答えは“いいえ”なの」
「……人と、して?」
「ね、背中の傷の具合はどう?」
不意に聞かれ、戸惑いながら背中の感覚をたぐる。そして、気づいた。気がついてしまった。私の背中、十季を庇って深々と切り裂かれたそこには。
「傷が、ない」
彼女は頷き、私の手をそっと両手で包んだ。優しいその手は、私よりもさらにひやりとして冷たい。
「あなたはね、人としてあの夜に死んだの」
私は死んだ、人として。それじゃあ、ここにいる私は何なのだ。
「今のあなたは……吸血鬼なの」
月並みな表現だけど、時間が止まったみたいだった。彼女も私も身動きひとつせず静止したまま、私の思考だけが駆け巡っている。
展開が急過ぎた。けれど現実は何時でも私の望む速度で展開するとは限らない。それもまた確かだった。
「吸血鬼、ですか?」
「そう呼ぶのが一番分かりやすいと思うわ」
「物語に出てくるみたいな?」
「色々細かい部分は違うけれど……私達が人の血を飲んで生きているというのは本当」
私達は、人の血を飲んで、生きる。
言葉の意味がすぐには想像できず、彼女が、そして私が吸血鬼なのだという実感は一切ない。それ以上に目の前の女性が人の血を啜る姿が全く想像できなかった。
「あなたも、血を飲んでいるんですか」
声が震えた。縋るように彼女の目を見つめたが、彼女は目をそらすことなく、頷いた。
「ええ……そうよ」
呆然と言葉をなくした私を気遣うように彼女は言う。
「あなたがここへ運ばれてきたのは、もう7日以上前になるのだけれど。あの夜あなたが庇った人は……実は人ではなくて吸血鬼。勿論あなたを刺した方もね。あなたは吸血鬼を庇った所為で死にかけて……だから、あなたが庇った吸血鬼は決めたの。あなたが少しでも望んだなら、あなたを吸血鬼として生かそうって」
私が望んだなら。そうか、あの時の言葉は。
「私の名前は玉緒」
彼女、玉緒は言う。
「ねえ、あなたの名前は?」
私の名前は。反射的に答えようとした。けれど、その言葉は声にならなかった。言わないのではない。言えなかった。まるでその名前が封じられてしまったみたいに。そして、それは正しかった。
「気がついた? あなたの本当の名前はすで差し出された。直にあの方も目覚めるわ。そうしたら……あの方があなたに新しい名前を与える。それが言わば契約なの」
玉緒は私の手をそっと離し、立ち上がると分厚いカーテンに手をかける。
「その契約をもって、あなたは完全な吸血鬼になる」
宣告と共に引かれたカーテンの向こうには茜色の夕焼け。
眩い、光の世界が今にも終わろうとしていた。