5-1
目を閉じる前と寸分違わず薄暗いままの部屋で目を覚ました。生前のような温もりこそないけれど、眠りのとろりとした残滓に意識を揺蕩わせながらごろりと柔らかなベッドの上で寝返りを打つ。さて、私はどのくらい眠っていたのだろう。厚いカーテンの向こうではもう日が昇っているだろうか。随分としっかり眠っていたような気もするが――ともかく体を起こして時間を確認するとしよう。私は眠気を払うようにひとつ深呼吸をして――。
「……睡蓮?」
ぱっと上半身を起こしたところで、昨晩から全く変わらない体勢で椅子にかけていた睡蓮と目が合った。ただしその男らしい魅力に溢れた顔には分かりやすく「不機嫌です」と書き記されている。
「どうしたの」
「何でもない」
嘘つけ、だ。問いかけに間髪を容れず答えた睡蓮に心中盛大なツッコミを入れてやった。
「そんな顔して何言ってるの。何でもあるでしょ」
顔一杯にはっきりと不機嫌を張りつけておいて何でもないと言うのなら、彼は一度感情表現の仕方を勉強し直した方がいい。もっとも睡蓮自身、自分が今どんな表情をしているのか自覚してはいるのだろう。ぐ、と小さく唸った彼はやがて観念したのか片手で顔を覆って盛大に溜息をついた。
「悪い。別に大した事じゃない。ただ……咽返りそうなだけだ、殿下の匂いで」
「は? 十季の、におい?」
「ちょっとした悪戯のつもりだったんだが……殿下がそこまで反応するとは予想外だったな。全く、驚かされる」
顔を手のひらで覆ったまま、指の隙間からぶつぶつと呟きを漏らす睡蓮。彼の心は依然として不機嫌の底に沈んでいて――別に彼が1人で不機嫌になっているだけなら私だってそこまで気にしないのだけれど、困ったことに今や私と睡蓮の間には血の絆が生じている――結果、彼の不機嫌が目に見えない靄みたく私にまで纏わりついてくるようで酷く落ち着かない。
血を捧げ、捧げられ――その弊害に早くもうんざりしてしまいそうだ。第一私を守るとその口で大仰に誓ったのだから、横暴だろうがなんだろうが、もう終始楽しい気持ちでいてくれと言いたい。ただし、その為には私もある程度努力をすべきではあるのだろう。折角のすっきりした目覚めをこれ以上不機嫌で台無しにするのも勿体ない。私は深く溜息をつくと睡蓮の不機嫌の理由を解き明かすべく〝努力〟を始めることにした。
「睡蓮。ねえ、どうしたの? 私が何かした? 何かしたなら言って。あなたが不機嫌だと私まで眉間に皺が寄っちゃうんだから」
なるべく柔らかい声で語りかけながら睡蓮の顔を覆う骨ばった大きな手をそっと剥がし、彼の眉間に寄っていた皺を指でなぞる。すると睡蓮は困ったように笑って、眉間で遊んでいた私の指先を軽く握った。
「……すまん。悪かった」
「いいけど、そもそも十季の匂いってどういうことなの?」
幾分和らいだ不機嫌の靄にほっとしながら問えば、睡蓮は握ったままの指先をくすぐるように撫でながらからかいの混じった視線を私に向けてくる。
「昨夜〝箱庭〟で殿下に会っただろう」
「夢だけど夢じゃなかった夢の中でならね」
「それを“箱庭”と呼ぶ。血縁だけの閉ざされた領域だ。……そこで、何があった?」
何が、とは。その言葉を理解すると同時に含むような睡蓮の表情の理由に思い当たって、絶句した。私が人間だったなら見事なまでに赤面しているところだ。睡蓮の指す〝何が〟それ即ち箱庭での出来事――十季の唇、瞳、指、牙、そして血。瞬時に甦ったのは生前の所謂〝行為〟を超越した快楽の記憶。そんな私を見透かしたように睡蓮が苦笑した。
「殿下は俺の悪戯に気付いただろ? で、驚いたことに仕返しをしてきたのさ。それが、匂い」
「私から十季の匂いがするって言うの?」
試しに髪を一房すくって匂いを確かめてみたものの、仄かな花のような香りがふわりと鼻をくすぐるばかりだった。さらに言うなら、そこに微か睡蓮の匂いが混じってすらいるというのに。けれど睡蓮は真顔で首を振った。
「咽返るくらいに」
嫌そうな顔できっぱりと言い切るのだ。きっと嘘ではないのだろう。ともかく、睡蓮は再びじわりと滲んだ不機嫌を振り払うようにへにゃっと眉を下げた。
「ま、結果として俺は殿下の匂いの中で一晩を過ごす羽目になった訳だ」
「それが、不機嫌の理由?」
「そう。姫さんも慣れてくれば分かる。マーキングみたいなもんでさ。自分以外の匂いが強いとどうにも落ち着かない気分になるもんだ」
そう言ってすっかり何時も通りのペースをとり戻したらしい睡蓮に私はよく理解できないながらも「ふーん」と曖昧な相槌を打った。まあ睡蓮の不機嫌はあらかた霧散したようだし、ひとまずはよしとしようか。
思考を切り替えて、さっと時計に視線を走らせる。サイドボードに置かれた小さな置時計の長針は天辺を、短針は6を少し過ぎた所だ。ということは私が眠ってからまだ3時間しか経っていないらしい。それでも体は十分な睡眠をとったように軽く意識もはっきりとしている。生前はいくら寝ても寝足りずにベッドの中に居座っていたというのに、吸血鬼の体は本当に優秀だ。
それじゃあ顔を洗って、目覚めの珈琲でも飲もうかな。そんなことを考えながらベッドを降りようとしたその時だ。扉の向こうから誰かが近づいてくる気配を感じた。それが誰かは尋ねるまでもない。少し意識を向けただけで私の中を巡る血が教えてくれる――羽衣だ。勿論予想は的中し、間もなく扉が軽やかなノックと同時に開かれた。
「おはよ、姫さん」
「ノックの意味がないじゃない……おはよう、羽衣」
「いいじゃん、どうせ分かるんだから」
羽衣はにっと笑って舌を出した、が、次の瞬間盛大に顔を顰める。
「十季臭い!」
言うなり、ぱっと窓のそばに移動してカーテンを引き、窓を大きく開け放つ。その警戒心のない行為に睡蓮が眉を顰めたが、結局文句は言わずに羽衣のしたいようにさせていた。私はと言えば窓から差し込んだ朝の光に、暗さに慣れた目を瞬かせている。
「何だってこんなに十季臭いのさ」
「殿下の執着心を読み違えた」
「はっ、阿呆だね」
「五月蠅い」
睡蓮と羽衣のやりとりを聞き流しながらベッドを抜け出し、そっと窓辺に寄ってみる。すると羽衣がさり気なく私のすぐ側に立った。つまり、こうしてただ外を眺めるのにも大いなる危険が付きまとっているということだろう。生前の暮らしとの違いに溜息が出そうだが「気にしない気にしない」と自分に言い聞かせる。状況が理解できないうちは用心に越したことはないし、ある程度の自由は羽衣と睡蓮に守ってもらえる筈。例えばこうして朝日を浴びて匂い立つ緑の香を胸に満たす、それぐらいの自由は。
「吸血鬼だけど、朝を美しいって思えるのね」
カーテンの向こう、窓外に広がっていたのは朝靄の晴れ始めた庭園。柔らかな朝日が靄を透かし不思議な光の波形を芝生に描き出す。木々を小さな鳥達が行き交い、時折戯れるように空中を舞っていた。葉から落ちた朝露が立てるパタパタという音。水を含んだ土の匂い。それは多分、生前も今も変わりない朝の一幕。
「吸血鬼は朝に焦がれる者も多い。勿論夜も美しいが、闇に慣れれば慣れるほどに」
遠い目をして羽衣が呟く。私はただ頷いた。何の変哲もない朝は、きっと昨日と同じにただ美しい。それを殊更美しいと感じるのは私が昨日と同じではないから。明日には、今日よりももっと美しい朝が待っているかもしれない。夜の闇に色濃く染まった分だけ、朝の光が眩く見えるように。
朝の光景は私の心をぎゅっと握りしめて離さない。もしもこの光景がずっと続くのならば私も動かずに何時までも見つめていられそうな気すらした。――分かっている。現実にはあり得ない話だ。朝はいずれ昼へと移り変わり、私には私の1日がある。名残を惜しむように美しい光景を目に焼き付け、私はくるりと朝に背を向けた。
「さて! 思ったより早起きしちゃったし、まずはシャワーを浴びるわ。それから学校まで少し吸血鬼のお勉強をするつもり。いい?」
「ああ、それじゃあ護衛は羽衣に任せて俺は一旦戻る。構わないか」
「分かった」
頷けば睡蓮はするすると流れるように近づいてきて、私の指先にそっと口付け扉を出て行った。反射的にその行為を受け入れていた自分に吃驚だ。姫君として扱われることに早くも身体が慣れ始めている。ほんの少し前までは平凡な灰色の大学生だったというのに私は一体どうなってしまったんだろう。数時間後、慣れ親しんだ筈のキャンパスを歩く私の姿がすでに上手く想像できない。
「シャワー、浴びないの?」
羽衣が首を傾げている。駄目だ。もうこうしてただ考えていても埒が明かないことは確かだ。私は頷いて、ひとまずシャワーで現実から目を反らすことを選択した。




