第一話 《それが、私と彼の出会いであった》2/3
「おはようございますピセル神父」
「おや、おはようございますネイセン」
教会の中に入ると、僕は他の子供たちとは違って席には着かず、直接この教会を管理しているピセル神父の所にまで行って挨拶をする。
白い礼装を身に纏い、所々に白の混ざった茶色の髪とヒゲを生やしたその初老の神父様は、いつもの優しい笑顔を浮かべて僕の挨拶に応えてくれた。
この村の教会のピセル・リカードネス神父は、教会の教えの他にも、子供たちに文字の読み書きや簡単な算学なんかを教えてくれる。しかも無料でだ。
だから村の大人たちは、こぞって自分の子供を教会へと通わせようとする。
中には、「学問なんか必要ない」「そんなもの無くても生きていける」なんて大人も居て、教会にはお祈りぐらいにしか子供を連れて来ないような人も居るけど、そんな人たちは少数だ。
大多数の大人たちは、これからの世の中、最低限の字の読み書きと計算のしかたくらいは覚えるべきだと考えているし、僕だってそう思う。
だから、この時間の教会には村中の子供が集まるし、更にそんな子供たちに自分の赤ちゃんの面倒を見てもらおうとして、仕事の最中だけ赤ちゃんを預けに来る親も居る。
さっきこの教会に来て、直ぐに村へ戻って行った大人たちがそうだ。
つまり簡単に言ってしまえばこの教会は、人々の“信仰の象徴”であると同時に、子供たちの“学び舎”であり、忙しい大人たちにとっての“託児所”の代わりだったりする。
「最近姿を見かけなかったので心配しましたよ。また鍛冶のお手伝いですか?」
「あ、はい。すみません、マッヂスさんの手伝いが少し長引いてしまって…」
「そうでしたか。しかし、ここに来る子供の中ではアナタが一番熱心です。それはとても良いことですよ」
「ありがとうございます」
「日々の欠かさぬ学びは、必ずや未来のアナタの力になります。どうかこれからも続けていって下さいね」
「はい」
ピセル神父が教えてくれる内容は色々だけど、年齢が高い子も低い子も一緒になって同じ事を教わる。
どうせ教えるんなら、教える内容ごとに解る人と解らない人とでくべつして、それから教えた方が効率が良い筈だけど……なにせ教える側の人がピセル神父一人しか居ないんだ。
効率は良くは無いけど、そうやって教えていかないと時間が幾ら有っても足りない。
――でも実は、僕だけは他の子たちとちょっと事情が違う。
「あの…それでピセル神父、実はまた…」
「フフ、分っていますよネイセン。好きなだけ“読んで”お行きなさい」
言いよどむ僕の考えなんか簡単に見通して、小さく笑いながらそう許可を出してくれるピセル神父。
「あ、はい! ありがとうございます!」
「構いませんよ。君の知識量はもう他の子たちとは比較になりませんからね。既に知っている事柄を延々と聞かされるのは、流石のアナタでも酷でしょう」
「あ…えと……はい、前に危うく居眠りしそうになりました」
「フフ、正直なことは良いことです」
本当なら、僕も他の子たちと一緒にピセル神父の話を聞いたほうが良いのだけど、ピセル神父が子供たちに教える内容は、あくまでも“最低限”の事だけだ。そして僕は、もうずっと前からその“最低限”の内容を完全に理解し終わっていた。
大抵の子供は、その時点でピセル神父から学ぶのを止めてしまい、後はそれぞれ家の仕事を手伝ったり、親が忙しい間この教会に来て他の子供の子守なんかをするのだけど――僕からしたら、その程度の知識じゃまだ全然足らない。
僕とハイスの夢を実現させるためには、僕はもっと……もっともっと多くの事を学ばなくちゃいけないんだ!
「出来る事なら、私が直接アナタに教えて上げられれば良いのですが…これは私の不徳の致すところですね」
「い、いえそんな! 僕こそ神父様にはお世話になりっぱなしで…貴重な本を読ませてもらってるだけでも本当に有り難いですよ!」
申し訳なさそうな顔をするピセル神父に僕は慌てて首を振る。
「……本当にアナタは、年齢のわりに礼儀を心得ていますね」
「え、そ、そうですか?」
確かに、ピセル神父が僕に直々に学問を説いてくれるというなら、僕にとってそれほど有り難いことは無い。でも、僕一人のためにそこまでして貰うのは流石に迷惑だろう。
ピセル神父が学問を説いてくれるのはお日さまが真上に上がるお昼までだけど、別にそれだけが神父さまのお仕事という訳じゃない。
神父さま本来のお仕事だって簡単じゃないだろうし、むしろ僕は、忙しくても毎日欠かさず村の子供に学問を教えてくれるピセル神父が、とても立派で凄い人に見える。
なので、直接ピセル神父から教えを請うことは出来ないけど、その代わりピセル神父は、僕に奥の部屋にある自分の書籍を閲覧する許可をくれた。
紙で出来た本は貴重品で、読めば読むほど劣化が進むし、大切に保管しておかないと直ぐに虫が食ったり湿気でゴワゴワに成ったりしてしまう。そうなれば、書き記された知識が全部“おじゃん”だ。
そんな貴重な本を読むことを、ピセル神父は快く承知してくれた……本当に、凄い人だと思う。
「じゃ、じゃあさっそく」
そのままピセル神父の横を通って奥の部屋へ――
「おっと、お待ちなさいネイセン」
むぅ……向かおうとした処で捕まってしまった。やっぱりそう上手くは行かないらしい。
「本を読む前に、皆さんと一緒に朝のお祈りを済ませましょう。此処はあくまで“教会”なのですから」
「…はい」
実の所、僕はこのお祈りが余り好きじゃない。
いや、神さまに感謝するのが大切なのは分るし、お祈りが僕たちの生活に必要なことも理解できるんだけど、僕としてはこの目を瞑って手を合わせている数分が何とも勿体無く感じるんだよね。
食卓でのお祈りと違って、教会でのお祈りはもっと本格的で形式張った長いやつだ。僕には、その時間が勿体無い。
折角ここまで来たんだ。早く本の続きを読みたいという思いを押さえ込むのに苦労する。
神さまだって、毎朝毎朝こんな長いお祈りを国中の人たちから聞かされたら、うんざりしちゃうんじゃないだろうか?
まぁ、ここでごねても無駄なことは既に思い知って――と、いうか思い知らされて――いるので、僕も素直に長椅子に座り、他の子と一緒にお祈りに参加する事にする。
ピセル神父は凄い人だけど、同時に頑固な人でもあるんだ……。
「ンッ、はぁ~~…」
読みかけの本を机に置いて、固まってきた背中と肩をほぐすために伸びをする。
長いお祈りが終わってからやって来たこの部屋は、ピセル神父の書斎だ。さっきまで居た礼拝堂の開放的な雰囲気とは違って、閉鎖的なこの空間には埃っぽく甘い本の匂いが充満している。僕にとって本の匂いは、油の次に好きな匂いだ。
気分転換に部屋の中を見回すと、壁際に並べられた大きな本棚が真っ先に目に付く。
本棚は二つ有って、そのどれもに色々な本がぎっしりと詰め込まれている。背表紙が新しい物も有ればボロボロに成っている物まで有って、全部で確か七十冊くらいは有ったはずだけど……幾つだっけ?
気になって前に数えたけど、正確な数は忘れちゃったよ……。
貴重な本をこんなに沢山持っているピセル神父は、ひょっとしたらお金持ちなのかな? 何て思ったけど、この中でピセル神父が自分で購入した分はほんの少しで、後は全部貰い物や教会への寄付等で集めた物らしい。
……まあ最初から、あの神父さまがそう儲かっているようには思えなかったけどね。
そんな事情はどうあれ、僕にとってここは正に宝の山だ。
基本的にはやっぱり教会関連の本が多いけど、他にも歴史や算学、語学に法律に哲学なんてのも有る。
知識なんてものは、間違ってさえいなければ幾ら覚えたって無駄にはならない。
今は無関係に思えても、きっといつかは僕とハイスの夢をかなえる手助けになってくれる筈だ。
「…よし」
一息ついた後、読みかけの本に再び視線を戻す。
長い間この書斎に通っているうちに、僕はここに有る本のもう殆どを読み終えていた。未だに読んでいない本も、残す所あと僅かだ。
まだ読み書きを覚えたばかりの頃は、一冊の本を読み終えるまで随分と時間が掛かったけど、今じゃその頃の倍や三倍以上の速度で読むことが出来るようになった。もしかしたら今日にも、念願だったこの部屋の書籍、その全てを読破することが出来るかもしれない。
――カラーン――カラーン
「あれ?」
本を読むのを再開すると、直に鐘楼の鐘が鳴った。
よく見ると、窓から机の上に差し込んでいた日の光が、いつの間にか消えてしまっている。どうやら正午に成ったらしい。
本を読むのに夢中になっていて気が付かなかった……。
窓の外を見ると、多くの子供たちが教会を出て村の方へ帰っていくのが見えた。皆、昼食を食べに家に帰るんだろう。
僕はシーネェに渡されたお弁当が有るから家には帰らなず、午後もここで本の続きを読むつもりだ。でも、流石にここでお弁当を食べる訳にはいかない。
昼食はハイスと一緒に食べる約束もしているし、早いところハイスがいつも訓練をしている森に急ごう。
じゃないと、お腹を空かせたハイスに遅いと文句を言われてしまう。
――もっともハイスのことだから、彼のお弁当は既に空っぽになっているだろうけどね……。
本の途中に栞を挟み、ピセル神父に挨拶だけして教会横の森へと向かう。
今朝ハイスが森へ入っていった場所から真っ直ぐ進むと、ちょっとだけ開けた場所に出る。ハイスは、いつもそこで剣の腕を磨いている。
森に入り、お腹ほどまでの高さの草をガサガサと掻き分けながら前へと進む。
ちょっと大変だけど、この先に有る広場には余り他の人に来てもらいたくない。
いつも僕やハイスが通っているから獣道のようになっていて多少は通り易いし、別に無理してこの辺りの草を刈ろうとは思っていない。
しばらく進んでいると視界が開け、同時に目的の広場に辿り着いた。
そしてそこに、僕の探している人物が居た。
「おーい、ハ――」
ハイスの名前を呼ぼうとして、僕は途中で言葉を切った。
何だろう? ハイスの様子が少しおかしい……。
いつもなら、名前を呼ばなくたって直ぐに僕が来たことに気が付く筈なのに、今日のハイスは僕のことを見ようとせず、身体もピクリとすら動かす気配が無い。
「……」
僕に背中を向けて立っているハイスの右手には短剣が握られていて、それを右肩に担ぐように構えていた。
ハイスの目の前には木が一本生えていて、どうやらその木を斜めに斬ろうとしているっぽいけど……無理じゃないのか?
目の前の木は結構太めだし、ハイスが持っているのは剣じゃなくて短剣だ。
大人だって難しい立ち木の切断を、あんな刀身の短く軽い刃物で出来る筈がな――
「フッ!!」
ヅガンッ!
「…………へ?」
一瞬……だった。
ハイスが短く鋭い息を吐き出したと思った次の瞬間、もう右肩に有った短剣は左下へと振り抜かれた後だった。
……ズ…ズズズ…
すると、短剣を振り抜いたままの姿勢で動かないハイスとは対照的に、本来なら動くはずの無い木の幹が、まるで思い出したように“断面”に沿ってその身を滑らせ――
ズズゥーーーン!!
最終的に、断たれた下の部分だけをその場に残し、大木は地響きを鳴らして地面の上に倒れ込んだ。
「……」
信じられないモノを見た気がした――いや、信じられないモノを見た。
開いた口が塞がらない――そもそも、口が開いていることにも気が付かない。
「……ふぅ~」
「ッ! ハイスッ!!」
「うおっ!?」
やがて、ゆっくりと構えを解くハイスを見た僕は、一目散に彼のもとへと駆け寄って行った。
「ビビッた~。驚かすなよネイセ――」
「ハイス! ハイスハイスーー!!」
「おい! ちょっ――!?」
「すごいよハイス! 今の何!? どうやったの!? そんな短剣でこんな木を斬り倒すなんて信じられないよ!!」
「分った! 分ったから少し落ちつ――」
「やっぱりハイスは天才だよ! 天賦の才ってやつだよ! ただの騎士なんかじゃなく騎士団の長にだってなれるよ!!」
「ああ、そいつは嬉しいが――」
「ずごいすごいすごい!! ハイスはすごい! 僕確信したよ!」
前々から、ハイスの剣の腕前はすごいとは思っていた。同年代の子たちは言うに及ばず、きっと大人とだって対等に渡り合えるって。
でも、それはあくまでこの村を基準にしたもので、ひょっとしたら村の外にはハイス位の人たちがゴロゴロいて、この村を出た僕たちは、そんな人たちにあっさりとやられてしまうんじゃないか――なんてことも思ったりした。
だけど、今の光景を目撃した瞬間、僕の中に有ったそんな不安は一遍に吹き飛んだ。僕は確信した――ハイスは強い!
どんなやつと戦っても僕を――僕達を、きっと勝利まで導いてくれる!
「おい、ネイセ――」
「絶対大丈夫! これでまた父さんの機兵が動けば、大会での僕らの優勝は間違いな――!!」
「だー! もう落ち着けーー!!」
ゴンッ!
「ふぎゃ!?」
脳天に、ゲンコツが、振ってきた。
「って~~……ハイスゥ?」
「落ち着いたか? お前が興奮するのも分らなくはないけどな、俺が剣を抜いてる時は危ないから急に近付くなっていつも言ってるだろうが!」
「うう…ごめんなさい」
怒られてしまった……。
――お昼のお弁当を食べ終わって一息。
「ごちそうさま」
「いや~美味かった!」
案の定、ハイスはお昼前に自分のお弁当を平らげていた。つまり、いつも僕に遅いと文句を言うのは、僕のお弁当の中身を分けてもらうことを見越してのことだ。
……まぁ、それは別に構わない。
シーネェは僕のお弁当をいつも多めに作るから、僕一人だけだとどうしても残してしまう。
何回言ってもシーネェはお弁当の中身を減らしてはくれないから、僕の代わりにハイスが食べてくれるなら、それはそれでありがたい。
勿体無いしね……。
本当に、なんでシーネェはお弁当を減らしてくれないんだろう?
「んっ、はぁ~~…」
隣でハイスがゴロリと横になる。お昼の強い日光を遮る木陰と、そこを通り抜ける風が気持ち良かった。
「それで、ハイス」
「ん~?」
「さっきの必殺技。アレってなに?」
「必殺技ってお前な……ま、最初から成功したらお前には報告するつもりだったからな。あ、でも他の奴には内緒だからな」
「うん、分かった」
「良し、じゃあ教えてやるよ。あれはな――」
――この村には、たまに行商の人が来る時がある。
近くの町や村に卸しているこの村特産の木工品を、直接この村まで買い付けに来るんだ――買っていくだけじゃなく、珍しい物を売ってくれたりもするけど。
そして、そんな行商の人たちは、自分の旅の安全を護るために“用心棒”を雇っていたりする。
この辺りは割りと治安が良いけど、それでもやっぱり行商の人が来る時は、一人か二人の用心棒がセットになってやって来る。そんな用心棒の中の一人に、ハイスはさっきの技を教わったらしい。
「以来ずっと練習しててな、さっき何となく出来るような気がしたから試してみたんだが……まさかホントに斬れるなんて思わなかったぜ」
そうは見えなかったけど、実は木を斬ったハイス本人が一番驚いていたようだ。
「でも不思議だな~。幾ら速く剣を振り下ろしたからって、その短剣で木が斬れちゃうなんて」
物理的に考えてあり得ないと思うんだけど。
「まぁ構えや身体の動かし方にもコツが有るけどな。俺に技を教えてくれた人が言うには、なんでも身体の中を流れる“気”だとか“エネルギー”だとか……」
「……“アストラル”のこと?」
「だっけか? それを外から吸って内から湧き出させる……様な、感じ…?」
「そ…それでよく成功したね」
「あー、言葉で説明するのが難しいんだよなぁ。お前なら頭良いから分るだろ?」
「いや、流石に分んないよそんなの」
話の内容が抽象的すぎる。むしろ、そんな認識だけでさっきの技を成功させたハイスがすご過ぎるんじゃないか?
「そっか…でも結局は成功するまで丸一年掛かったからな、俺もまだまだだよ」
「……それって遅いの? 早いの?」
「いや、分んねーけど」
「普通聞かない? どれくらいで出来るようになるとか」
「んなもんやる気の問題だろ。やる気のある奴は早く出来るし、無い奴はいつまでたっても出来ねーよ」
「それは…確かに」
「ネイセンだって、やる気があったから難しい本も読めるようになったんだろ。それと同じだよ」
「う~ん…?」
そう言うモノ……なんだろうか?
知識を学ぶことと、実際に体験して身体を鍛えることは、その根本からして全く違うような気がするんだけど……。
「さて、と。そろそろ行くかな」
そう言うと、ハイスが立ち上がった。
「おじさんの手伝い?」
「おう、俺ももう十四だからな。親父のやつ、俺にさっさと家業を継いでもらいたくて仕方ないらしいぜ。まったく…俺にその気はないっていうのによ…」
今までなら、ハイスはこの後も剣の訓練――又は昼寝のためにこの場所に残っていたんだけど、ここ最近は、お昼からハイスのお父さんの手伝いで山の方に行ってしまう。
因みに――ハイスのお父さんの仕事は樵だ。そして実は、この村一番の稼ぎ手だったりもする。
この村の人間は、だいたい十五歳位で親の後を継ぐ子供が多い。
もしも、今と変わらずに来年を迎えてしまえば、ハイスはおじさんの仕事を本格的に継いでしまうかもしれない。そうなったらきっと、僕たちの夢の実現は今よりもっと難しいものになってしまうだろう。
「……」
「そんなに心配そうな顔するなよ」
ポンと肩を叩かれる。
「男と男の“誓い”だろ? そう簡単に諦めるつもりなんて俺にはないぜ。だから、お前も諦めんなよ」
「……うん、そうだね…僕とハイスの誓いだもんね!」
ハイスにそう言われると、なんだか勇気が湧いて来る。
そうだ、ハイスがそう簡単に諦める性格じゃないなんてことは、僕が一番分かってる。
お互い親友で同士なんだ。ハイスならいつだって――どんな時だって、僕との誓いを果たしてくれるし、僕だってハイスとの誓いを果してみせる!
森から出て教会まで戻ってきた僕たちは、そこで互いを見送った。
僕は本の続きを読みに教会へ、ハイスはおじさんの仕事を手伝うために村向こうの山へと向かって行った。
「…よし、終わった」
――カラーン――カラーン
「あ…」
丁度本一冊を読み終わり、表紙を閉じた所で鐘楼の鐘が鳴った。外を見ると、もう夕暮れが近い。
当初、もしかしたら今日中にもこの部屋に有る全部の書籍を読破出来るかな。なんて期待していたんだけど――結局のところは、一冊だけ未読の本が残ってしまった。
……なんだろう?
一冊だけ残ってしまったのが残念なような気もするけど、まだ読んでいない本が有ることにホッとしてる自分も居る……なんだが複雑な気持ちだ。
一冊だけなら粘って読んでいこうとも思ったけど、それで夕食に遅れたら怒った母さんからの小言とゲンコツをセットで貰うことになる。
それはやっぱり御免だから、今日はもう帰ることにしよう。
読み終わった本を棚に戻して書斎を出る。途中に会ったピセル神父にお礼を言うと、いつもの笑顔で「また何時でも来て構いませんよ」と言ってくれた。
教会を出て丘を下っていると、坂の下からランプを持った誰かがこっちにやって来るのが見えた。
距離があって顔は見えなかったけど、僕にはそれが誰なのか直ぐに分かった。
どうやら、また迎に来てくれたらしい。
「シーネェー!」
名前を呼び、シーネェに駆け寄る。
「ネイ~! 転ばないでよ~!」
「大丈夫だよー!」
坂の下でハラハラしている姉を余所に、無事シーネェの下に到着。
少し急いだせいでちょっと息が切れた。
「よかった~、転ばないで」
「フゥ、だから大丈夫だってば。ところで、迎えに来なくても良いって言ったよね僕」
「だって~お姉ちゃん心配なんだもん。もうこんなに暗いし…危なくない?」
「まだまだ全然明るいよ。それに、危ないのはシーネェも同じでしょ? こんな時間に、女の人の一人歩きは危ないんだよ」
「……ネイ」
だけど、僕の姉に関して言えばそんな心配は無用……かな?
「嬉しい~~!」
「へ!? うわっぷ!」
しまった! シーネェに前から抱きつかれた!
「ネイったらお姉ちゃんのこと心配してくれるんだ~!」
「モガッ! モゴモガ!」
こうなると、シーネェの乳せいでとまともに息が出来なくなる!!
必死になってシーネェの腕の中から抜け出そうとするけど、悲しいかな僕一人の力じゃシーネェには敵わない。
でもここで諦めたら、それこそ僕の命が危ない!
「モムー! モゴモゴー!!」
「ネイみたいな弟がいてお姉ちゃん幸せだな~」
「ムゥゥーー……ぶっはぁ!!」
懸命なる抵抗の結果、なんとか顔だけはシーネェの乳上部へ浮上することに成功した。
「シ、シーネェ…!」
「え? あっ! ご、ごめんごめん!!」
僕の様子に気付いたシーネェが慌てて僕を解放し、ようやく脱出。
教訓――シーネェには前から抱きつかれてはいけない。
最近なかったからすっかり油断してたよ……。
「ハァー…ハァー…し、死ぬかと思った」
「ごめんねネイ! お姉ちゃん嬉しくって…つい」
その“つい”で毎度死にかけるこっちの身にもなってほしいんだけど……。
「…怒ってる?」
「フゥゥーーー……いや、別に怒ってないよ」
「…ホントに?」
「本当に…シーネェの僕への“抱きつき癖”は無くならないって、もう諦めたからね」
「うん、それは無くならない!」
「もう、そんな胸張って断言しないでよ……ほら、いいかげん帰ろう。母さん待ちくたびれてるよ」
「そうね、ウチの母さん怒ると怖いし」
そう言って、差し出した僕の手を優しく掴んだシーネェと二人、夕暮れの道を我が家へと向けて歩き始める。
辺りの草むらからは虫の鳴き声が聞こへ、村に入ると周りの家からは、家族の団らんが聞こえてきた。
特に急ぐことも無く、ゆっくりと道を歩く僕たち――ふと、気になって隣の姉の顔を見上げると、シーネェは嬉しそうな笑顔を浮かべ、ただ静かに前だけを見詰めて歩いていた。
そんな顔を見ていると、何だか僕まで嬉しくなってくる。
まったく……これで僕への奇行さへ止めてくれれば、僕にとって文句無しの姉さんなんだけどなぁ。
「ねぇ、ネイ~」
「なに、シーネェ」
「帰ったら~…一緒にお風呂入ろっか?」
「やだ」
「……けち」
「けちじゃないよ」
――その後、無事夕食に間に合った僕らは母さんに怒られることも無く、食事を食べ終えた僕は、作業部屋の様子を確認してからお風呂に――“一人で”お風呂に入り、その日はちゃんと自分のベットで眠りに着いた。