友
ポールはカズオ・タニグチに柔道を習った。柔道は重心が低く腰から下が短い東洋人の方が上達しやすい。しかしポールは生まれ持った抜群の運動神経で地道に技を磨いていった。得意技は“ハライゴシ”だとポールは得意気だった。「マイリマシタ」「オネガイシマス」ポールが覚えた最初の日本語はこの二つだった。
リチャードとポールはカズオ・タニグチのことを“カズ”と呼ぶようになった。リチャード、ポール、ポールのガールフレンド、カズとミス・マツオカは五人で付き合うようになった。ポールのガールフレンドは度々変わったし、リチャードは余りそういった相手を作らなかったから何とも妙な集まりではあったが、少なくともポールのガールフレンド以外の四人は少しも気にしなかった。リチャードは、カズの話してくれる“ニッコウ”に強い関心を抱いた。カズは日本の“トチギケン”という地方の生まれで、ニッコウは彼の故郷に近い場所にあるという。二百七十年平安な時代を保ったその最初のサムライを祀ってあるのがニッコウだとカズは言った。寺があり、神社があり、雪を抱く山があるニッコウを、リチャードは幾度となく頭の中で描いた。国全体の歴史が百五十年を少し超したばかりのアメリカに生まれたリチャードは、たった一つの時代が二百七十年もある日本という国家に対し、抽象的な魅力を感じたがそれを言葉で表現することはできなかった。リチャードは必ずニッコウに行くことを決めた。サムライの霊に手を合わせることで、抽象的だった魅力が具体的になる気がしたからだ。
カズとミス・マツオカが結婚したのは、リチャード達がカリフォルニア州の医師になって三年後のことだった。一九三七年の日中戦争勃発で日本は世界的に中国侵略を非難され、一九三九年初頭には日米通商航海条約が失効した。しかしリチャードは自分達だけが日米間の軋轢とは無縁の場所にいる気がしていた。戦争がすぐそこまで忍び寄ってきているようには少しも思えなかった。
カズとミス・マツオカの結婚パーティーは派手ではなかったが、二人を祝う友人の多さはカズとミス・マツオカの人柄を物語っていて、リチャードにとってもポールにとっても忘れられない一夜になった。普段は酒に対して自制できるリチャードは、飲むピッチを上げ過ぎ、酔いを覚ますためにパーティー会場の外で夜風に当たっていた。
「ディック。随分飲んだな?」
リチャードは友人の間でディックと呼ばれていた。
「ヘイ。カズ。はしゃぎ過ぎたよ」
目の前に人が見えているのに、その話している声が良く聞こえない体験は初めてだった。普段は余り飲まないウォッカを五杯も飲んだせいだと、うつろな脳でもってリチャードは思考した。
「来年、日本に帰ろうと思う」
カズが言った短めの一言が、現実の物なのか夢なのか、アルコールに程良く犯されたリチャードはすぐに判別できなかった。カズはリチャードの反応を待っているように、人通りが減ったウィークエンドのビジーストリートに敷かれた石畳を見つめていたが、おもむろに続けた。
「子供が大きくなるまでは、日本で育てたい。そしてまたアメリカに戻ってくるよ」
ミス・マツオカのお腹には、来年生まれてくる二人の子供がまだほんの小さい姿で生きていた。
「ニッコウを、案内してくれ」
「勿論。いいよ」
「俺は“アリガトウゴザイマス”と“ゴメンナサイ”しか言えない。君がいなかったら日本で迷子になってしまう」
「ああ。日光は秋か冬がいい。橙や赤に色づいた山々は美しいし、雪で白く染まった姿もまた良い」
リチャードがうんうんと大げさにうなずいていると、夜空を見上げていたカズが言った。
「見てみろよ。流れ星だ」
「え?」
「ほら。ああ、見えなくなった」
「どこだ? 星なんて出ているか?」
「飲み過ぎだぞ」
カズの言葉に応えるようにリチャードは、決して大きくはないが筋骨がたくましいカズの肩に腕をまわし、普段より高い声を出して笑った。酒臭い息にカズは多少腰を引く素振りを見せたが、しかしすぐに返答の代わりにリチャードの腰を腕で叩いた。
ポールに最初に伝えたら大騒ぎされると思ったのだろう。帰国することをカズが最初に自分に伝えた理由がリチャードには分かっていた。学生の頃に比べれば不定期ではあるが、ポールは相変わらずカズを師範として柔道を習っていた。
カズが日本に帰ってしまうことを知ると、ポールは気の毒になるくらい狼狽した。リチャードが間に入っても少しも効果がなく、ポールは大きな身体を揺すって泣き始めてしまった。ミス・マツオカ――カズのワイフになったのだからミセス・タニグチ、もしくはユリコが正しいが――はもらい泣きをし、カズは何かを堪えているのか、薄い唇を固く横一文字に閉じて微動だにしなかった。