カズオ・タニグチ
リチャードが生まれた南カリフォルニアは当時急速に発展していたロサンゼルス、サンディエゴ、サンフランシスコといった大都市を有し、人口の増加に伴い医療機関の充実、医師の増加が求められていた。リチャードがロマリンダ大学で医学を専攻することになったきっかけはまさに、そういった需要に応え、医師として州に貢献したいと思ったからだった。カリフォルニアは合衆国で一番大きな州だから、外国から学びに来ている学生も多かった。カズオ・タニグチも日本から留学に来ている学生だった。
丸顔でいつも眼鏡をかけているカズオは、あまり口数が多くはなかったが真面目な学生で、敬虔なクリスチャンでもあった。彼は進んだ医療技術を習得し、祖国に還元するためにアメリカに来ていた。韓国の併合、満州国の建国、急速に中国での利権を拡大している日本を、リチャードは快く思っていなかった。であるからカズオに最初会った時も、眼鏡の奥にひっそりと覗く彼の目の細さを、侮辱の気持ちでもって一瞥した。リチャードの肩ほどしかない背の高さ、長い胴と短い手足も、自らが生まれ持った血筋に優越感を抱くのに十分だった。
リチャードはポールという背の高い同級生と仲が良かった。ポールは男前で口が上手かったから、いつもガールフレンドと一緒にいた。ポールは表面上、気さくで良い男だったが、強い酒で女を酔わせていたずらをするようなこともあり、あまり素行は良くなかった。
ある日、リチャードとポールは同じ学部の女学生二人を誘って地下の酒場で酒を飲んだ。女学生の内の一人がユリコ・マツオカという日本から来ている学生で、ポールは最初から彼女に目をつけていた。「ジャップの野郎は嫌いだが、女は特別だ。どんな物が付いているか、一度確かめるのも良いだろう?」それがポールの口癖だった。リチャードは積極的に彼に加担しようとは思えなかったが、だからといって日本人の女に同情する気もなかった。
ここで飲む物は任せてくれと、ポールは甘くて飲みやすく、アルコール度数の高い酒ばかりを二人の女に飲ませた。どこからどうやって引っ張り出してきたのか、次から次に出てくるポールの話に二人の女学生は引き込まれ、お代わりを頼むまでの時間が目に見えて短縮された。五杯も飲むと二人の女は千鳥足になってしまい、当初の目的通りにポールはミス・マツオカの肩を抱きながら先に店を出て行った。リチャードはもう一人の決して美しいとは言えない白人女を成り行き上仕方なく連れて歩くことになった。白人女は、彼女の実家で飼っている肉牛の筋肉が逞しいことを、通行人が顔をしかめて振り返るほどの大声で延々と語り続けた。元からほんの少しも興味がなかったので、リチャードは彼女をタクシーにほとんど押し込んで家に帰し、また夜のビジーストリートを目的もなく歩いた。すれ違う男たちは何故だか軍隊に身を置いているらしい服装の者が多く、リチャードはその顔を見る度に唾を吐きかけてやりたい衝動にかられた。リチャードが最も嫌う職業が軍人だった。危険に身を晒しているという自己陶酔からか、軍人以外の人間の前で必要以上に横柄になる態度が気にくわなかった。
適当に目についたバーで安酒をあおり、無駄に時間を費やしていると、もうとっくに深夜だというのに何やら騒がしい声がしたのでリチャードは表の通りに出た。なんとそこには人ごみに囲まれて対峙するポールとカズオ・タニグチがいた。二人は汚い言葉を投げながら罵倒し合い、今にも格闘を始めんとしている。周りを囲むがらの悪い者たちがさかんに煽り、ほとんどの者が「やっちまえ!」とか「ジャップを殺せ!」とかポールを味方している。六フィートを優に超えるポールと五フィートと少しのカズオ・タニグチが向かい合えば、周りが応援しなくとも勝負の結果は決まりきっているように思えた。
「何故ミス・マツオカを傷つけた!」
「彼女の方から誘ってきたんだ」
「ふざけるな! 日本では結婚前の女子は貞操を守るんだ!」
「ここはアメリカだぞ! 黄色い猿が!」
カズオ・タニグチは“黄色い猿”という台詞が許せなかったのか、勢いをつけてポールの方向に踏み込んだ。ギャラリーが拳を突き上げて「やれ!」「いいぞ!」と叫ぶ。ポールが狙いを定めて右の拳を突き出す。カズオ・タニグチはポールの拳を俊敏な動作でもってかわし、拳が空を切ってのけぞったポールの懐に入ると、姿勢を低くして腰の上に器用に彼の大きな身体を乗せ、回転させて投げ飛ばした。背中から石の地面に叩きつけられたポールは、声も出せないのか顎を大きく突き出して息だけを荒く何回も吐いた。
「今度、彼女に同じことをしてみろ。二度と女を抱けないようにしてやるからな!」
カズオ・タニグチはそれだけ言い残して革靴を打ち付ける音を響かせながら去っていった。あれほど興奮していたギャラリーは体温が一度も二度も急激に下がったのか、どうでもいい捨て台詞を口々につぶやきながら散らばっていった。物静かな姿しか知らないカズオ・タニグチの、感情を沸騰させる様をリチャードはすぐにそのまま受け入れることができなかった。涼しさが多く含まれるようになった九月の夜風に、上着の半袖から出たままの肌を吹かれ続け、リチャードは身振るいを一つした。
翌日、まだ痛むのか背中を丸めながら登校したポールに会い、リチャードは昨日の顛末を聞いて驚愕と言うよりはあやうく噴き出しそうになった。
「ミス・マツオカのアパートに行って、ベッドに押し倒したら股間を思いっきり蹴り上げられたんだ。更に彼女は日本のカタナを抜こうとするんで、俺は股間を押さえながら慌ててアパートの外に出て、カズオ・タニグチにばったり会ってしまった」
「災難だなあ。お前」
「人ごとだと思って……」
リチャードとポールがそんな会話をしながらキャンパス内を歩いていると、向かいからカズオ・タニグチとミス・マツオカが並んで近付いてくるのに気付いた。ポールは咄嗟に身体を横に向け進行方向を変えようとしたが、リチャードは彼の太い腕をつかんで元の位置に強引に引き戻した。
「やあ。クラスメイト」
カズオ・タニグチはポールに向けて右の掌を差し出した。ポールは視点をどこに定めれば良いのか戸惑っている風だったが、リチャードが膝で軽く小突くとその掌を取った。二人はお互いの掌をつかみ、二回強く上下に振った。ポールははにかんでいるのかしかめっ面をしているのかすぐには分からない表情をしていたが、カズオ・タニグチは歯並びの良い前歯を覗かせながら明らかに笑顔と分かる顔を見せていた。リチャードはその時初めて、日本人に対し人間として接することができるような気がした。